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第三話 運命の風は扉を叩く


 ウィツエト遺跡の封鎖結界(ふうさけっかい)を復元し、モンスターの地上侵攻を止めたニーダル・ゲレーゲンハイトは、シャワーを浴びて詰め所の外へと出た。

 黒い長髪を森から吹く風になびかせるままに、訓練場の大石に腰掛けて、夜空を見上げる。

 星空を(さかな)に、褐色の酒を瓶から喉へと流し込むと、湯上りの身体に、焼けるような熱気が走った。

 そうして、しばらく時間が経つと、彼が羽織った赤いコートの内ポケットが振動を始めた。

 連絡用の水晶だ。そろそろ、エーエマリッヒ・シュターレンから通信が入ると思い、待機していたのだ。


「よぅ爺さん。元気に酔っ払ってるかい?」

「ふむ。馬鹿造、君はいつも元気そうだな。羨ましいぞ」


 水晶に映る老人も、手にグラスを持っていた。ベッドスタンドには、紅麦の蒸留酒と、薬草蜜酒が並んでいる。


「……いくら紅麦酒で割っても、それ甘すぎねーか」

「この風味が好きなのだよ。君こそモローの火酒とは、甘い性根に似つかわしくない」

「男なら火酒一択だろ」

「米麹酒、二百三十七本。米蒸留酒、百五十一本。麦酒・火酒他、九十八本。君が、これまで我が家で飲んだ酒瓶の数だが?」

「金持ちが細かいこと気にすんじゃねーよ」

「甘いのう。金持ちだから細かいことを気にするのだ」

「うおっ、なんか正論のような気がする」


 と、そんな馬鹿なやり取りをしながら、ニーダルはエーエマリッヒが憔悴(しょうすい)していることに気がついていた。

 灰色の混じった栗毛の髪や、いつも手入れをかかさぬ自慢の髭がつやを失い、昼ならば化粧で隠すのだろうクマが目の周りに浮いている。


「それで、仕事の方はどうだったんだ?」


 ニーダルが問いかけると、エーエマリッヒはグラスに酒ではなく、水を注いで一気にあおった。


「難航しているよ。そちらでは報道管制が敷かれているだろうが……。共和国のある工場が、基準値の6万倍以上の高濃度農薬が混入した食品を、王国へと輸出した」

「……6万倍って、それ冗談だろ。死ぬ……ぞ……」


 沈んだエーエマリッヒの言葉に、ニーダルの顔が凍りついた。湯と酒の熱気が一瞬で冷めてしまう。


「幸運だった。医師の手当てが良かったか、幸いにも被害者は一命をとりとめたのだが、その後が不味かった」


 続く老商人の言葉が何なのか、ニーダルは予想がついていた。


「工場と教団公安部が、いつものように王国へ責任を被せようとしたのだよ。我が国の管理体制には一切の非がなく、毒物は王国内で混入されたものだとね。件の農薬は王国内に存在せず、発見された有毒食品には、完全密封のものさえあったというのにだ」


 ニーダルは、口元を歪め、焼け付くような香りの酒を呷った。


「それがパラディース教団だろう」


 天より与えられた“徳”として、常に己だけを正義と位置づけ、決して非を認めない。自身が行った悪行の悉くを他者に転嫁し、意に沿わぬ者を力づくで葬り去る。理も論拠も関係ない。「唯一教団のみが是、他者(蛮族)は悪」この行きつめた選民思想こそ、教義の根幹であり、古来より他民族を討伐し、資源と労働力を奪いつくしてきた、西部連邦人民共和国の国風そのものなのだ。


「そう、それがパラディース教団だ。だからこそ、彼らは自国にとどまらず他国の報道機関にまで干渉を行い、幻想を見せ続けていた。平和・人権・友好・平等・安全。我が国が掲げるこの言葉に、実態が伴ったことなど、建国以来一度もない」


 教団は、知られてはならなかったのだ。

 真実を知れば知るほどに、幻想はひび割れて、パラデイース教団の、真の姿が浮き彫りになる。

 虚言と情報統制によって塗りつぶされた前兆は、これまでにもおそらく多々あっただろう。それでも教団は、信じやすい、「悪意ある虚構の嘘すらも好意的に解釈してしまう」国々を騙し通すことができた。だが、少なくとも王国において、命すら奪う嘘を平然と突き通す外道を衆目にさらした今回の事件は、パラディース教団という幻想を映す鏡へと投じられた一石となるだろう。


「ジジイ、貿易への影響は?」

「前年度に比べ、先月の共和国から王国への輸出は全体で2割近く落ち込んだ。生鮮食品輸出の落ち込みが顕著で、およそ30%が減少した。慌てふためいた教団は、”王国の食生活は共和国食品無しに成り立たない”といったプロパガンダを王国で流して、兵糧攻めとばかりに食品輸出を停止したが。……まったくの逆効果だったよ。王国の共和国製品離れは一層加速している、今月はおそらく前年比40%減少は避けられないだろう。流通網が整った王国では、国産の生鮮野菜が普通に売られているのだからね」


 どれほど安値であろうと、毒物に銭を出すモノ好きがいるものか、自嘲気味にエーエマリッヒは呟いた。


「そればかりか、問題を聞きつけた諸国が”安全”を看板に掲げて、ここぞとばかりに王国へと売り込みをかけはじめた。王国内で流通が成り立つということは、自国製品のブランドイメージを保証する、ひとつのステイタスとなるからな」


 エーエマリッヒの言葉に、ニーダルはなるほどと頷いた。

 かつて、王国と浮遊大陸アメリアとの間で病牛の取引が問題となった時も、アメリア側はなんとか強引に押し切ろうとし、失敗するとどうにか関係を持ち直そうと努力をはじめた。「王国で売れるか、売れないか」は、それなりに他国にあたえる指標となるのだ。その時は、共和国も「安全で安価な共和国産肉類を」と営業に回ったはずだ。こういった事態となっては、皮肉の効いた笑い噺にしかならないが。


「で、ジジイのところもとばっちりを受けたわけだ。いちおう、対策はしてきたんだろう」


 ニーダルが知る限り、水晶に映る軍閥の主は、いつかこういった事態が起こりうることを確信していた気がする。


「当然だろう。わしは逆に好機だと考えているぞ。教団上層部は理解していないが、信用というものは純金よりも価値を持つ場合もあるゆえな。

 なに、付き合いは新参者よりも長い。ここからがわしの腕の見せどころよ」

「商人だねえ」


 この柔軟性こそが、ベーレンドルフとヴァイデンヒュラーの二大軍閥に挟まれたシュターレン閥を生き延びさせたのだと、ニーダルは得心し、エーエマリッヒに敬意を払っていた。

 無論、事実はそれだけではない。ニーダル・ゲレーゲンハイトという希代の遺跡荒らしによってもたらされた、膨大な数の契約神器と魔術武器による精兵こそ、シュターレン軍閥を支えるもうひとつの要だった。かつて軍事力を持たなかったネメオルヒス国は共和国によって蹂躙され、住人は苛烈な支配によって塗炭の苦しみを味わい続けた。一方、軍事力に秀でたベトアーナ国は浮遊大陸アメリアの軍事干渉を力づくではねのけ、懲罰戦争という名目で侵略した共和国軍も追い返した。結果、長きに渡る半鎖国状態を余儀なくされたが、近年は王国との距離が近づき、かの国の援助もあって目覚しい経済隆盛をとげているという。平和は、常に機敏な外交戦略と軍事力によって守られるのだ。


「それよりも」


 エーエマリッヒはグラスを置いて、ニーダルを見据えた。


「感謝する。よく領民達を守ってくれた」

「おいおい、薬草酒にあたったか」


 ニーダルは、大仰におどけて流そうとする。


「ふむ。少々、甘みが過ぎたようだ」


 エーエマリッヒもまた、彼に合わせた。

 笑い出す。他人行儀は必要ない。二人は、そういった関係だった。


「……二日後に、ドクトル・ヤーコブの使いと名乗る者が接触してくるだろう。そやつに人形達を引き渡せ」

「感謝するぜ。じじい」

「馬鹿造には、火酒は強すぎるのではないか? 珍しい言葉が聞こえたが」

「ほっとけ」


 通信は終わり、水晶に映る紅いコートを着た青年の姿が消えて、エーエマリッヒ・シュターレンは、グラスに蒸留酒と薬草酒を注いだ。薬草酒に含まれる蜜の甘い匂いが鼻をくすぐる。


「甘いよな」


 ウィツエト遺跡の封鎖結界が解かれたことは、すでに報告が入っていた。下手人は、メルダー・マリオネッテか、彼らを消そうとしたヴァイデンヒュラー閥工作員のどちらかだろう。いずれにしても、ニーダルが人形達を処分しておけば、この事件は起こらなかった。もし領民達から一人でも犠牲者が出ていれば、エーエマリッヒは躊躇(ちゅうちょ)無くニーダルに命じただろう。「全員を殺せ」――と。彼は、迅速な対処で領民達を守り、そしてメルダーマリオネッテを守ったのだ。


「ニーダル。共和国は、人間一人の重さなど考えぬぞ。誰かが元凶を断たねばならない。この国を正しく作り変えねばならない。それでも、お前は、革命に賛同しないのだな」


――

――――


 ニーダル・ゲレーゲンハイトは、詰め所へと戻った。

 酒蔵から火酒を数本持ち出して、寝床である宿直室へと向かう。

 ドアを開けようとすると、警戒して隙間に挟んであった髪の毛が落ちていた。


(まったくあいつらときたら……)


 こんな日くらいは寝かせてくれ、と、ニーダルは苦笑いする。

 以前、扉を開けたときは、仕掛け矢が飛んできた。その前は、クローゼットから襲撃された。

 慎重に気配を伺い、糸などがないことを確認して、開け放つ。


「おい、悪戯なら明日にしてくれ。もうてめえらが俺を襲う理由は」


 ニーダルは、言葉の途中で絶句した。彼の手に握られた酒瓶が、ごんという音を鳴らして、床に落ちる。


「こんばんは」


 ベッドの上で、二つにわけた黒褐色のおさげ髪が揺れて、翡翠色の瞳と桜色の唇が柔らかに微笑む。

 薄絹をまとった身体からは、壊れそうに小さな白い手足が伸びていた。

 ロゼット・クリュガーは、まるで招くように手を差し伸べた。



 沈黙が流れた。

 男は無言でクローゼットから毛布を引き出し、ベッドへ向かった。

 少女は、媚びた視線で彼を迎えようとして。


「ふぎゃ。な、何をしますの。そんならんぼうなっ」

「乱暴にしてるんだっ」


 ロゼットは、ニーダルに毛布で簀巻きにされて、ぽいと部屋から放り出された。


「お や す み」

「ま、待ちなさい。それがレディに対するたいどですかっ」

「れ で ぃ ?」

「わざわざ区切らないでください。何か文句でもあるんですの!」

「ロゼット・クリュガー。君が淑女を名乗るには、ひとつ足りないものがある」


 ニーダルは、拾った酒瓶を教鞭のように振り回し、胸をそらして断言した。


「な、なんですの?」


 教養だろうか? 気品だろうか? やはりこのやり方は、はしたなかっただろうか? ロゼットは、毛布で簀巻きにされたまま彼の答えを待ち――。


「それは、貞操帯だ」

「そこで下ネタに走りますかっ」

「何を言う! あれも立派な貴族文化だぞ。人類の歴史は、色と情欲と変態が重なって出来ているのだ。ビバ、エロ!」

「かってなことをっ」


 ロゼットは思わずむきになって床を蹴り、ニーダルの顔面に強烈なドロップキックを決めてしまったりした。


「ふっ。いいキックだ。この俺のマゾヒスティックなハートは、モエにモエてビンビンさ。じゃ、おやすみ」


 鼻血をダラーと出しながら、ニーダルは親指一つ立てて、ドアを閉めた。


「こらっ。話くらいきいてくれたって、いいじゃないですか。はくじょーもの~~」

「だったら、別の格好に着替えて来い」


 かくして、ロゼットは宿直室から追い出され、二〇コーツ後。ドアが叩かれた。


「ニーダル・ゲレーゲンハイト、少しお話が」

「はいはい。で、こんな夜遅くに、何の」


 男は、ドアを開けて、言葉を最後まで紡ぐことができなかった。

 少女の小さな肢体を包むのは、黒い皮で作られたボンテージ。ご丁寧に、貞操帯のイミテーションまでつけている。


「さすがにホンモノはよういできませんでしたけど」

「お や す み」

「こら~っ、話がちがうじゃありませんの!」

「いや、いくら何でもその格好はないだろ? 俺にその手の趣味はねーよ」

「さっきマゾだっていったくせにっ」

「幻聴だっ。ともかく、もう一度やり直し」

「注文の多い方ですわね!」


 その後もドアを巡るロゼットとの来訪は続いた。

 ロゼットは、大きなスリットの開いたドレスから、変に丈が短い体操服みたい何か、バニーガール、猫耳、果ては犬のきぐるみまで次々と着替えては直室に出向き、そのたびに駄目だしを受けた。結局、最後に折れたのは、ニーダルのほうだった。


「普段着で来いっ」

「最初からそれが趣味ならそう言ってくださいっ」


 ロゼットは、詰め所の倉庫にあった男物を仕立て直したシャツを着て、ローブを裂いて縫い直したスカートを履き、ようやく寝室に入ることができた。


「何が趣味かっ。だいたい、あのコスプレ衣装はどこから手に入れたんだ!」

11エルフがぬいましたわ。彼女、おさいほうが趣味ですもの」

「なんて才能だっ」


 両手を広げて、天を仰いだのがニーダルの隙だった。

 ロゼットは床を思い切り蹴って突進し、ニーダルの鳩尾に、背に隠し持ったナイフの柄を叩き込んだ。

 ニーダルはとっさに後方に跳躍し、急所への直撃を外したが避け切れなかった。ベッド脇で咳き込んだところを、ロゼットに押し倒され、馬乗りになった彼女に首筋へとナイフをあてられる。


「……どういうつもりですの?」

「何が?」

「こうなるまでワタシ達をころさなかったことです。工作員なんて、血祭りにあげるのがふつうでしょう?」


 ニーダルが遺跡から帰るまでに、ロゼットが想像したこと。あれは、本来ならば、そうであるはずの現実だった。

 シュターレン閥の施設に連行され、全員の息の根が止まるまで、精神と肉体を壊される。それが、本来メルダーマリオネッテを待っていたはずの末路。

 にも関わらず、彼はロゼット達を捕らえながら、拷問にかけるわけでもなく、武器をとりあげるまでもなく、ただ自分を襲うに任せていた。

 こんなこと、酔狂というには、程がある奇行だ。


「……」


 案の定、ニーダルは答えなかった。そして、ロゼットはもう半分答えにたどり着いていた。

 ニーダル・ゲレーゲンハイトという男は、甘いのだ。私情を切り捨てられず、ささいな感情に振り回される。

 ならば、ツケコマナクチャイケナイ。ダッテ、ソウイウ道具トシテ、自分達ハツクラレタノダカラ。


「ニーダル。あなたは、いつまで小さなシュターレン閥の用心棒なんてやってますの?」


 ロゼットのナイフが、ニーダルのコートのボタンを弾く。


「あなたは強い。あなたはもっと羽ばたけるし、もっと多くのものを手に入れられる」


 ロゼットのナイフが、ニーダルのシャツを切り裂く。


「ワタシ達と一緒にヴァイデンヒュラー閥に行きませんか? そうすれば」


 ロゼットのナイフが、ニーダルの胸を薄く裂いて、血がにじんだ。少女は、舌を伸ばして、ぴちゃぴちゃとなめとった。

 彼女の桜色の唇が朱に染まり、頬と顎に赤い雫が飛び散る。


「ワタシ達だって、あなたの自由にできる」


 血の混じった唾をひきながら、ロゼットはニーダルに唇を重ね――。


「いひゃいいひゃいっ」


 ――る寸前に、無骨な指で両の頬をふにっとつねられた。


「伸びるな、これ。餅みたいだ」

「な、な、なにをするんですか」


 目じりに涙を浮かべ、真っ赤になってロゼットは怒る。


「そうゆうのは、大きくなってから好きあった相手とやれ」


 ニーダルは押さえつけられたまま、視線を外して、ベッドの方向を見た。


「あ、あいじょうなんてなくったって、できます」

「阿呆。愛情があるからいちゃいちゃするのが楽しいんだろうが」


 ニーダルの言い方に、ロゼットはかっと血が昇るのを感じた。そんなものは知らない。そんなものはわからない。なぜならメルダーマリオネッテは――。


「怪我すんなよ」


 中途半端に突きつけられたままのナイフを、ニーダルは歯で咥えて奪い取った。

 そのまま腰を浮かし、自分の両脚をロゼットの脇に差し込んでひっかけると、勢いよくベッドの方へ放り投げた。


「ええっ」


 ロゼットは信じられなかった。こんな技は、見たことも聞いたこともなかった。

 布団にからまったままベッドからも転がり落ちて、彼女が立ち上がったときには、胸を朱に染めたニーダルが眼前に立っていた。


「っ」


 とっさに服の乱れを直し、両手で胸を抱くように、ロゼットは薄い絨毯の上でちぢこまった。

 だが、ニーダルは、ただ手を差し出しただけだった。


「ほらよ、とっとと起きろ。でもって寝ちまえ。お前達の上の方と話がついた。ドクトルなんちゃらの使いが迎えに来るとさ。明後日にはヴァイデンヒュラーに帰れるさ」


 ニーダルの言葉は、想像もしなかった言葉だった。

 喜ぶべきはずの事実。何よりも望んだはずの結果。――そして、この穏やかな詰め所での日々の終わり。

 ロゼットの胸中で膨れ上がったのは、歓びではなく、不可解な激情だった。


「どうしてっ。さんざん、犯してきたんでしょう? はずかしめてきたんでしょう? ワタシはあなたを殺そうとした。あなたを傷つけた。どうしてワタシをおそわないのっ」

「だから、俺はらぶらぶいちゃいちゃするのが好きなの。何吹き込まれたかしらんが、俺はこれまで女を口説いたり、デートに誘ったことはあっても、乱暴した覚えはないぞ?」


 薄々は気づいていた。作戦の前に聞かされた、ニーダルが数々の女性を陵辱してきた強姦魔だという報告は、きっとでたらめだ。この男には、無理だと、わかっていた――。


「ワタシには魅力がない? たりないのはむね? それともおしり?」

「年齢」

「うそつきっ」


 ロゼットはニーダルに掴みかかった。今度はニーダルも倒れなかった。それでも少女はただがむしゃらに、握った拳を男へ叩き付けた。


「にくいのなら、そういってよ。人形のあいてなんてできないって、そういってよ」

「ロゼット。ロゼット・クリュガー」


 ニーダルは、ロゼットを抱きあげて、胸の中に抱きしめた。

 鉄錆びの匂い。むせるような、血の味とぬくもりを感じた。

 彼は、少女が着たシャツの袖を二の腕までめくった。そこには、昼の戦いで付いた浅い傷が、まだ残っていた。

 親指で撫でられると、ロゼットはわずかな痛みを感じ、赤い血がにじんだ。


「もう一度言うぞ。お前達は、人間だ。俺と同じ人間だ。古き支配が、お前達に人形であることを強いるなら、それこそが誤りだ。もしも、お前が望むなら」


 ニーダルの黒い瞳が、ロゼットを映す。

 黒褐色のおさげがみ、困惑に揺れる翡翠色の瞳。白い小枝のような体躯を包むのは、クレナイの……


「いいえ。ニーダル・ゲレーゲンハイト。ワタシは、ワタシ達は人形です。だからこうやって、ゆうわくしにきましたの」


 ロゼットは、ニーダルが言葉を繋げる前に、そっと離れた。

 白いシャツは、返り血でべっとりと濡れていた。


「おやすみなさいませ。ニーダル・ゲレーゲンハイト」


 礼を示し、ロゼットは宿直室を出た。

 廊下を走る。食堂を走り抜ける。玄関を出て、庭の井戸へと走った。

 水をかぶる。両の瞳が酷く熱い。自分が泣いていることが信じられなかった。


「ワタシは、人形だ。ヴァイデンヒュラーのためにある人形だ。歯車はまよわない。うたがわない。こんな気持ちでくるしむこともない。そうですの。そうでなければっ。ワタシはっ……この手はっ……」


 どれだけの血を流しただろう? どれだけの命を散らしただろう? 食事を取り、眠るよりも、命を奪うことが日常だったのだ。

 薬物と欲望に穢された肉体と精神。この血塗れの姿こそ、自分に相応しい。


「風邪をひくぞ。アインス」

「ないてるの? けがをしたの?」


 わかめみたいに伸びた髪の人影と、月光に照らされ輝く蜂蜜色の髪の少女が、心配そうに玄関口からかけてきた。


「ううん。この血は、違いますのよ。20ツヴァンツイヒ


 ロゼットは、ズィーベンが投げたタオルを受け取り、濡れた髪と身体を拭いた。


「ふられたか」


 殺しそこなったか、とは、ズィーベンは尋ねなかった。


「いいえ。ワタシからふりましたのよ。あんな見る目のない男、こちらからおことわりですわ」

「そうか……」

「彼を殺す必要も、なくなりました。明後日、むかえのものが来るそうです。ワタシ達は、ヴァイデンヒュラーへ帰ることができます」


 ズィーベンも、20ツヴァンツイヒも、はっと息を呑んで、無言でうつむいた。


「でも、にんむはまだおわってません。20ツヴァンツイヒ、あなたがさいごの一人。殺さなくていいけれど、ゆうわくしてきなさい」

「ン」

 20ツヴァンツイヒは頷いて、決意したように詰め所の小屋へ戻っていった。


ズィーベン……。ワタシは、人形だから、ゆうわくすることしかできなかった。でも、もしも人間だったなら、愛することや、求めることもできたのかしら?」


 ロゼットの問いに、少年は長い髪で視線を隠した。


アインス。僕達は、みんな少数民族だ。この国では、どうあっても人形としてしか生きられない」


 パラディース教徒を中心とする主要民族と違い、他の少数民族には人間としてまともに生きる権利など与えられない。

 子供は学校に通うことを許されず、大人には賃金もろくに払われない過酷な重労働が待っている。

 結婚は他民族との婚姻を国家によって強制され、出産も一人に限定される。孕めば中絶を強いられたり、暴力で強制的に流されたりする。そして、それでもなお、生まれてしまった望まれない子供は、捨てられるか、売られるのだ。


「そうね。生まれたときから、ワタシ達は人形だった」


 あの時、ニーダルは何と続けようとしただろう? 頼み込めば、メルダーマリオネッテ全員が「殺された」ことにして、逃れることもできたかもしれない。

 でも、結末は同じ。いや、現在以上の悲惨な生活が待っているだけだ。人形に戻らなくちゃいけない。正義を果たさなければならない。研究所で、同じ境遇の同胞との戦いを強制され、殺して、殺して、殺しつくして、ロゼット達は生き延びてきたのだ。今更運命から逃れられるものか。この詰め所での日々は、人形が夢見た、人間として生きた儚い夢だった……。


「もどりましょう。ワタシ達自身にもどるための、じゅんびをはじめなければ」

「ああ」


 玄関を開く前に、ふいにズィーベンは立ち止まった。


アインス。僕は、ここまで僕達をひきいてきたあんたを尊敬している。

 ぎむでもすりこみでもない。この俺の――たしかな感情だ」

「ありがとう」


 そして、ドアは開かれ、――閉じられた。


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