第25話 政変
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若葉の月(3月)16日午前。
ナナオがロゼットに告白し、ニーダルがイスカと家族休みを満喫していた頃、紫崎由貴乃は寝室で惰眠をむさぼっていた。
心地よい疲れと火照りが、彼女の豊満な肉体と、情熱的な心を満たしていた。
まどろみに身を委ねて、どれほどの時間が経っただろうか?
第三位級契約神器ミーミルの化身であるノーラが、寝室のドアを叩く音が聞こえた。
「マスター。水と果物をお持ちしました」
「さんきゅ。ノーラ」
浴衣を羽織ったおかっぱ髪の少女、ノーラが色とりどりの新鮮なフルーツがのった皿と蒼い硝子製の水差しをテーブルへ運ぶ音を聞きながら、由貴乃は枕に顔を押しつけてうつらうつらと思索を廻らせた。
「そういや、昨日は王国の選挙だったっけ。どうなった?」
「親共和国政党、友愛党が勝利しました。ローズ首相は退陣、連立与党であった保繕党と、宗明党も下野し、友愛党を中心とした新政権が成立します」
「ローズ首相も無念だろう。すべてが正しかったとは言えないけど、サブプライム危機後に世界経済が炎上する中で、よく今まで持ちこたえたものだ」
決して安定した政権とはいえなかった。
マスコミの大半が敵に回り、野党は国会で代案なき政策中傷やクイズ大会に明け暮れ、果ては親共和国派の保繕党議員に後ろから攻撃される。そんな状況で、バリアフリーを中心とした投資誘導や、補助金を駆使した雇用確保政策で、穴が空いたバケツのような王国経済をどうにかこうにか持たせていたのだ。
もしも無益どころか、共和国やナラール・ナロール国を利する友愛党の邪魔がなければ、あるいは景気回復すら可能だったかもしれない。
しかし、それも終わったことだ。友愛党政権によって、彼の努力は水泡と帰して、王国経済は奈落へと沈むだろう。由貴乃もまた、共和国企業の一角として、せいぜい甘い利益を吸わせてもらうだけのことだ。
「また西部連邦人民共和国でも、現教主派および前教主派の枢機卿が暗殺され、次期教主候補がウド・シュバーツヴルツェル枢機卿に内定しました。友愛党は手土産に、彼が近日王国を訪問する際に、聖王と引き合わせたいと打診してきました。ウド枢機卿は受けるとのことです」
ベッドの布団に包まっていた由貴乃は、この言葉を聴いた瞬間、クローゼットへ駆け寄るとまたたく間に服を着替えて身だしなみを整え、ノーラが注いだグラスの水を一息にあおった。
「ノーラ、プランDへ移行する。必要な人員を随時脱出させろ。当面の活動拠点を中東海へ移し、このホテルを合流地とする。共和国は……放棄だ」
☆
同日。――正午過ぎ。
イスカを引き取ると言い出した由貴乃に、ニーダルは戸惑いを隠せなかった。
「何があった?」
イスカは、当人たちの意志はどうあれ、ヴァイデンヒュラー閥にとっては保有する殺戮人形の一体であり、軍閥の共同所有物だ。いかに由貴乃が魔術顧問の地位にあると言え、勝手に所属を変える権限は無いはずだ。
「昨夜、ガートランド聖王国で保繕・宗明党政権が倒れ、友愛党政権の成立が確定した」
「なるほど、荒れそうだ」
「タイミングが最悪だ。勝ってはならない時に勝ってしまった。友愛党の新政権閣僚候補には誰一人、政治家と呼べるものはいない」
時間の流れから隔絶され、青白く染まった喫茶店を興味深く見回しながら、ニーダルは隣席に座った由貴乃の言葉に耳を傾けた。
(ローズ前首相の尽力には敬意を払うが、王国のマスコミはどこの独裁国家だ? とばかりに偏向して、友愛党支持一色だった。あのざまでは、保繕党の敗北は見えていただろう。先輩だって読んでいただろうに)
男たるもの、どんな時でも余裕を持って華麗かつ優雅に振舞わねばならない。
ニーダルは、異常な風景の中でもたじろがずに、カップに入ったブラックコーヒーを、香りを楽しみながら口に含み……。
「極秘情報だが、我らが共和国に忠実な犬畜生は、朝貢のつもりか、ウド・シュバーツヴルツェル枢機卿を聖王に引き合わせると申し出てきた」
……おもいきり噴き出した。
「ま、待て待て。聖王陛下は療養中だぞ。今から申請したってシュバーツヴルツェルの訪問にゃ間に合わない。そもそも、海外要人との面会は憲法上に規定された国事行為じゃなくて公的行為だ。いくら与党でも介入なんてできるはずがない。国の象徴を政治利用するつもりか!?」
「先例や伝統を尊重できるだけの頭があれば、友愛党の議員などやっていまい。そんなこと、かつて王国にいたお前もよく知っていることだろう」
ぐうの音も出なかった。友愛党は、わざわざ政策勉強会に共和国からオブザーバー、という名目の指示役を定期的に招くほどに、共和国利権に溺れていたことをニーダルは知っていたからだ。
「だからこそ、パラディース教団は友愛党を良い手ゴマとして、今まで餌づけしてきたんだろうが……」
由貴乃が喫茶店まで出向いてきた理由を、ニーダルはようやく理解した。
ニーダルとて、民主主義が最良な政治形態であっても、あらゆる状況において最善の政治形態だと主張するつもりはない。たとえば、政治改革を進めるだけならば、議会政治に基づく民主制より専制君主による独裁制の方が優れているだろう。
しかし、逆に言うならば、議会政治に基づく民主制よりも専制君主による独裁制の方が、”はるかにドラスティックかつ破滅的な速度で、政治を改悪して国家そのものを腐敗させる”のだ。
「よりにもよってウド・シュバーツヴルツェルだと? あいつは、自分が神焉戦争時代の殺戮者、覇王ゲオルクの再来と公言してはばからないような男だぞ!」
「その通りだ、高城。無能な味方は、時に、有能な敵よりも恐ろしい。友愛党は、最悪のタイミングでやらかしてくれた。先代教主マルティン・ヴァイデンヒュラーと、現教主アブラハム・ベーレンドルフはかつて聖王と会見しているから、箔付けのつもりだろう」
ベーレンドルフ閥の推す次期教主候補は、国内外の経済政策に通じ、人格面でもある程度の評価を得ていた。ヴァイデンヒュラー閥が押す候補とて、ある程度の人物だった。
しかし、ウド・シュバーツヴルツェルの評判は最悪だった。彼は、教団の中でも、もっとも過激かつ猟奇的な派閥に属していたからだ。
(王国の政変がとんだカタチで飛び火した)
ニーダルには、由貴乃からの報告だけでは、どちらが先に会見を持ちかけたか判別がつかなかった。
とはいえ、もしも保繕党政権が続いていれば、そんな特例会見は実現しなかっただろう。良くも悪くも立憲民主主義国家における政治家の集まりだからだ。
一方で独裁国家の指導を受けた友愛党は、歪んだ顕示欲から国王すらあごで扱えると暴挙に走り、シュバーツヴルツェルもまた、聖王家すら思いのままだと知らしめるために、このような特例会見を引き起こしたのだろう。
これは、由貴乃が『やらかした』と指摘した通り、最低の悪手だ。
友愛党は、民主主義にのっとった政治手法ではなく、独裁的手法で国を導くと宣言したも同然だ。
この1回で終わりはすまい。行政を司る内閣府でありながら、法律を蔑ろにして特例に特例を重ねるに違いない。いつか政権を追われるその日まで。
そして、他国にまで己が野心を露にするウド・シュバーツヴルツェルもまた、共和国内で対話と協調を実現できるはずもない。
「ゆえに、わたしは抜ける。共和国に肩入れするのもここまでだ。これ以上旨味もなさそうだしな。お前の娘は、わたしが保護しよう」
由貴乃は席を立ち、そっと寄り添った。ニーダルもまた啄むような甘いキスを彼女と交わす。
時の止まった二人だけの空間で、由貴乃は蕩けるような甘い顔で、ニーダルの耳元に囁いた。
「だから、帰って来い。わたしの元に」




