第22話 世界の確率
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「おれたちがニーダルさんと出会わなかった世界。おれたちの姉が恋に溺れることもなく、腐敗した教団上層部の歯車であることを貫き通した世界。もしも、そんな世界があったら、どうなったと思う?」
医務室のベッドに腰掛けたレイジの質問に、アカシアは血の気のひいた真っ青な顔で、ぼうと立ち尽くしてしまった。
ナナオは、何度も深く息を吸って吐き、迷いながらも返答を続けた。
「ろくな結末にはならないだろう。メルダー・マリオネッテは、教団によって都合のいいドウグとしてつかいつぶされる。……レイジ兄とミズキ姉をのぞいて、だけど」
「どうして、おれとミズキだけ例外なんだ?」
レイジが眉をひそめて、意外だとばかりに問い返したが、ナナオにとっては、悩むまでもないことだった。
記憶を掘りおこせば、他の兄弟が自我すら曖昧だった洗脳時代においてさえ、レイジとミズキ、2番と3番はお互いを庇いあっていたからだ。
ひょっとしたら、当時のナナオが気づかなかっただけで、水面下で脱走や反逆すら企てていたかもしれない。
「僕たちが、俺たちが洗脳から目覚めたのは、人間になろうと決めたのは、ニーダルさんと出会ったからだ。でも、レイジ兄とミズキ姉は、その前から正気だったろう?」
「買いかぶりすぎだぜ。たまたまおれたちは、薬の効き目がうすかっただけだよ」
どうだか、と、か細い声で疑問の声を上げ、引き継いだのはアカシアだった。
「仮に、もしそんな世界があったとしても、それがレイジの行動にどうつながるんだ?」
「おれはイシディアで、ある男に会って、奴が見た景色の一部を見た」
「何を見たんだ?」
「限りなく近くて遠い世界だよ。その世界は、神焉戦争によって滅んだ」
おい、と、ナナオはジト目でレイジを睨みつけた。何をいきなり突拍子もないことを言い出すのだ、この馬鹿兄は。
「本っ当に、昔の病気を再発してないだろうな」
「だったら、お前たちにも見せてやるよ」
レイジは、虚ろな瞳で三日月のように唇をつりあげると、空中に指で魔法陣を描いた。
まるで血のように赤黒い香水の入った硝子瓶が落ちてきて、レイジは栓を抜いた。
――
―――
空は断末魔のように荒れ狂い、視界は吹雪で真っ白に染まっていた。
大地は深い雪によって埋め尽くされ、もはや魔法の助力なしには動くことすらままならない。
腰まで伸ばした黒髪を、結わえて編みこんだドレッドロックスヘアの青年が、熱を意味する魔術文字を左手で刻み、絶望を絞り出すように右手で愛刀を振っている。
青年と共に闘うのは、無数の魔術道具と契約神器で武装した万を超える大軍だ。何百体もの青銅巨人が大地を揺るがし、熱線を放つ弓や、巨大火球を発射する大砲が敵軍へと一斉砲火を浴びせかける。
敵軍! それは、地平線を埋め尽くすほどの死者の軍勢だった。骨だけになったもの、肉体の一部が溶け崩れたもの、それらは失った血肉の換わりに氷雪を埋め込んで動く、魂なき屍人の群れだった。
アンデッドの数も脅威だったが、それ以上に異常だったのが、戦場に叩きつけられる吹雪だった。
天から降り注ぐ雪は熱線や火球を触れるだけで消し飛ばし、雹をまとった風は付与された、保温や身体能力向上の魔法を打ち消してゆく。
契約神器を含む味方のあらゆる魔法が、この吹雪の中では無力化されるのだ。青銅巨人はたちまちのうちにくず鉄の寄せ集めと化して、弓や大砲の射手たちは武器を捨てて背後の都市へ向かって逃げ出した。
督戦隊らしい後方の部隊が、臆病な逃亡者に向かって魔法の雷を浴びせかけるものの、無駄だ。彼らの魔法もまた、雪によって消失した。
もはや戦闘どころではなかった。恐慌状態に陥って退却しようとする兵と、阻もうとする兵による、見苦しい殺し合いが都市外郭で始まった。
混沌の渦中、視点の主であるドレッドロックスヘアの青年は、レイジが使った倭刀に似た異形の剣と、袈裟懸けを中心とした円を描くような独特の剣術を用いて、次々と死者を葬ってゆく。
彼だけでなく、一騎当千の益荒男たちが、大都市への侵入を阻もうと、まるでひとすじの流星のように、屍の軍勢を斬り散らし、撃ち砕いて進撃した。
数多の屍をちりに還して、勇者達はついに軍勢を指揮する統率者の下へとたどり着いた。災厄の中心、風雪の獄を生み出す呪われた中枢には――、獣とも機械とも神像とも判別のつかない何かがあった。
それで、終わり。
吹雪で閉ざされた視界の中、何か影のようなものが、片腕を振り上げただけで、勇士たちの半数が肉体を腐らせて死んだ。残る半数は、全身から真っ赤な血のつららを噴き出して死んだ。
ドレッドロックスヘアの青年もまた、意識を失ったのか、視界が闇に閉ざされた。
惨劇から、どうやって助かったのか? 目覚めて死体の山から這い出した青年の前に、もはや正体不明の魔神はいなかった。
凍りついた屍人と化して襲い来る、先ほどまでの戦友たちを斬り伏せながら、消失する熱の魔術を何度となくかけ直して、青年は都市へ向かって後退した。
しかし、街は、もはや生者ではなく、死者が破壊の限りを尽くす幽鬼の都となっていた。
青年の眼前で、そびえたつ世界最大級のランドマーク、環球金融中心ビルが、まるで氷細工がとけ散るように崩れ落ちた。
不夜城と呼ばれるほどの栄華を誇った西部連邦人民共和国随一の商業都市シャンファは、こうして滅んだ。
―――
――
レイジが見せた夢から醒めて、アカシアは涙を零していた。
「よ、よくできた幻覚じゃないか。あのシャンファが、こうもあっけなく」
そして、ナナオもまた目を赤く染めて、怒りに震えていた。
「レイジ兄。動画化してアメリアに売り込んだらどうだい? こんなこと起こりえるはずがない」
一方、二人の激情を間近で受けるレイジは、枯れ果てたように淡白だった。
「本当にそう思うのか、ナナオ? たとえば、紫の賢者が第二位級契約神器ミーミルの力を完全に引き出せば、アレに近いことを出来るだろう?」
無限に再生する式神兵と羽竜は、規模こそ違え、幻夢で見た死の軍勢と同種のものだった。
「そ、それは」
「け、けど、レイジっ。紫の賢者様には、あんな風に魔法を無効化する力なんてない」
「ナナオは知っているし、アカシアも先の戦いで見ただろう? 炎と氷雪の違いはあっても、ニーダルさんなら同じことが出来る」
ナナオとアカシアは口を噤む。
そうだ。レイジの見せた幻覚が恐ろしいのは、手段が夢ではなく実在するからに他ならない。
「じゃあ、レイジは、あの怪物は、紫の賢者様と紅い道化師を、かけあわせた力を使えるとでもいいたいのか?」
「それ以上らしいぞ? おれに今の記憶を見せた男の話じゃ、あの正体不明の影は、第一位級契約神器……七つの鍵の大半を集めて契約を交わした正真正銘の死神だとよ」
医務室の空気は、今度こそ凍りついた。
複数の第一位級契約神器を使いこなした盟約者など、神話の時代にもいやしない。
「アレは、空間 、特に一定範囲の天候を支配する能力と、レヴァティン以上の魔法消失能力で、アメリア艦隊を中心とした討伐軍を単機で撃滅。大陸間弾道弾による遠隔攻撃と飛行ゴーレムの空爆を完全に無力化した上で、8つの浮遊大陸をほとんど間を置かずに沈めたそうだ。人類は、またたく間に人口の八割を失って、あとはジリ貧で滅んだらしい」
短期間で、世界中の国々の大半が滅び、人口が二割まで減少すれば、その影響はどれほどのものか。
だが、ナナオは追いすがった。今見た光景が、荒唐無稽な幻に過ぎないと証明したかった。
「ま、待て、レイジ兄。ミッドガルド大陸には、まだイシディアやガートランド王国が残ってるだろうが!」
「イシディアは、テロリスト集団、赤い導家士によって深刻な被害を出して、まともに戦える状況じゃなかったと聞いた」
ナナオの知る限り、赤い導家士とは、こちらの世界では、拡大期にマラヤディヴァという国で致命的な打撃を受けた上に、共和国でニーダルに首魁を討たれ、ついにはイシディアの地で残党が潰えたという、いわくつきのテロリスト集団だ。
あるいは、異なる歴史の流れでは、より強大な勢力として猛威を振るったのかもしれない。
「王国は、残された数少ない第二位級契約神器と契約した女の子を、”救世の聖女”とかもちあげて、神輿にかついで、一時的には優勢に立ったらしい。ところが、その子のパトロンだった王国与党が、こちらの世界でいう親共和国派の野党『友愛党』で、能力までこちらと似たり寄ったりだったんだと。あわれ聖女様は、奮戦甲斐なく見捨てられて敗北し、無惨な最期をとげた」
アカシアは目を伏せた。
彼女は、かつてのロゼット同様に、自身をドウグであると認識していた。
だが、このホテルでの経験で、彼女も変わりつつあるのだろう。
「まてマテ待てっ。レイジ兄、友愛党といったら、サギまがいの預託商法とデタラメな決算で倒産した牧場の広告塔をやってたり、他国首脳との党首会談でありもしない発言をでっち上げた挙句に”そんな事実はない”と、”公式に”他国政府から否定されるような、めちゃくちゃな幹部の集まりだろう? なぜ王国民はそんな政党を与党に選んだ?」
「おれに聞かれても知るか。共和国のプロパガンダに騙されたのか、マスコミの暴走か、一回やらせててみようと最悪の政党に政権を任せたら、最悪の事態になって、取り返しのつかないまま破局へと突っ走ったのか。そんなこと、聞いただけのおれたちに判別がつくものか。下手をすれば、その世界の王国人だって、理由がわからなかったんじゃないのか?」
ナナオは、思わず息を呑んだ。
共和国がプロパガンダに多額の資金を投じているのは、いまさら言うまでもない事実だ。
この世界の、ローズ首相率いる現王国与党『保繕党』だって、支持基盤は磐石とはとても言えなかった。
「友愛党は、与党になるや、生活困窮者にだけ優先的に認めていた難民の就労資格を、一律可能に見直すような、おろかな政策を繰り返した」
己が懐に入る利権目的に、国民の血税を、安全を、生贄に捧げ続けた。
「で、とうとう国民にそっぽむかれて、己が票ほしさに外国人の地方参政権を認めて、挙句の果てに国政参政権まで貢いでしまった。王国議会は、ナラール人、ナロール人、共和国人にのっとられて闇鍋の末路。特定民族だけを過剰に優遇する悪法を次々に通したことから、ぶちきれた王国人と難民として流入した他国民が協力して蜂起。血で血を洗う内戦に突入だ。どうにもならんだろ」
ナナオは、拳を固く握り、奥歯をかみ締めた。
「その世界の王国人は、共和国に侵略、制圧された国がどんな末路を迎えたのか学ぼうともしなかったのか?」
「神焉戦争が起きなければ、風向きも変わったかもしれないが」
だが、それは可能性の話だ。限りなく近く、遠い別の世界は、最悪の選択を選んだまま、あの詳細不明な怪物によって滅ぼされてしまったのだろうか?
うつむいていたアカシアが、顔をあげると、くいいるようにレイジの目を見つめた。
「レイジ、やっぱり、おかしいよ。今見た光景が、別の世界で本当にあったことだとしても、たどった歴史が違うなら、結果も同じとは限らない。教えてくれ、あの怪物を作ったのはどこの国だ? どんな組織が関わったんだ? レイジは何を怖れて、何のために私達と一緒に紫の賢者様に仕えようとしたんだ?」