第21話 ヘヴンリー・ブルー
「ロゼット。僕は、俺は、アンタが好きだ!」
ナナオは、ホテルの中庭に呼び出したロゼットに対して、一世一代の告白をした。
「今まで僕を、俺たち兄弟を、凛として導いてくれたロゼットを、僕は男として愛している。二ーダルさんには、助けられた恩がある。それでも、俺は、君のことが好きだ。他の誰にも渡したくない」
ナナオの真剣な瞳を見ればわかる。彼は一途にロゼットを敬い、同時に欲していた、
しかし、その瞬間、ロゼットの胸を貫いたのは、激痛だった。
(ああ、これが、あのひとがワタシに抱いた感情ですの)
大切に思いながら、決して異性として見ていない。想いが隔絶しているのだ。
(ワタシは強い人が好きだから。優しい人が好きだから。もう少しだけ待ってほしい。――駄目!)
刹那、湧きあがった曖昧な解答を、ロゼットは己への憤怒という激情で焼き尽くした。
ナナオは魂を振り絞って想いを告げたのだ。口先だけの言葉で誤魔化すなんて、そんな不誠実なことはできなかった。
「ワタシも貴方が大好きですわ、ナナオ。貴方はとても大切なワタシの弟。ありがとう。貴方の気持ちは嬉しい。それでもワタシはあのひとを」
「ロゼット!」
ロゼットの答えに割り込むように、ナナオは叫んだ。言わせたくなかった。振り向いてほしかった。冷静も合理も計算もかなぐり捨てて、ただ血のたぎるまま、心のままに、オモイを言の葉にのせた。
「ロゼットだって、気づいているはずだ。ニーダルさんは、危うい。諦めの悪いあの人が、自分が失われることだけは受け入れているんだ。だから、愛しているのに、娘のイスカからも離れようとした。ニーダルさんが、紫の賢者にああも心を許すのは、きっと自分が死んでも、絶対に幸せになると信じているからだ。わかるだろう、あのひとはロゼットを受け入れない。ロゼットの想いは報われないっ」
ロゼットは、ナナオの慟哭を心静かに受け止めていた。
たぶん、メルダー・マリオネッテの誰もがうっすらと気づき、決して口に出せなかった言葉を、わが身を斬るような嗚咽と共に絞り出している。
「ええ。ワタシも、もう一度会って気づきましたの。あの人はワタシ達と同じだった。誰よりも人間らしく見えたあのひとは、その実、誰よりも人間らしくあろうと努めていたんです」
ニーダル・ゲレーゲンハイトは、最後の最後で、親しい者達を遠ざける。養女のイスカすらもだ。
それは、きっと自身を純粋なヒトではなく、呪詛に憑かれたヒトナラザルモノとして、覚悟しているからに他ならない。
おそらく例外は、イスカが聞き出した、ムラサキ、アカエダ、カリヤ、クロード、ソラ、ミドリという名前の、かつての友人達だ。紫の賢者をはじめとするこの六人だけは、己が狂っても、死んでも、必ずや屍を乗り越えて行くと確信しているから、ニーダル・ゲレーゲンハイトは心を許すのだろう。
自分達は人形で、あの人は憑代。彼もまた、ヒトにあらざるという弱みを抱えながらも、強く誇り高く、己の道を切り開いてきた。
「そんな彼だから、好きになった。だから、ワタシは、ニーダル・ゲレーゲンハイトを愛しています。彼と実を残したいの。わかって、ナナオ」
「本当は、わかってたんだ。弟か。そうだよな、僕たちは戦友で、家族だ。ああ、僕は、俺は、きっと、姉さんから、その言葉を聞きたかっただけなんだ――」
ロゼットは、中庭を去った。ナナオはうなだれたまま、一歩も歩き出すことが出来なかった。
「容赦ないよ、姉さん」
ニーダル・ゲレーゲンハイトは、ロゼット・クリュガーを娘の姉としか見ていない。
いずれ炎に呑まれる運命を受け入れて、決して隣に立つこと許すまい。
「運命か。馬鹿馬鹿しい。そんなものが、ロゼット・クリュガーを、僕の、俺の最愛の女を、姉を止められるものか」
ロゼットは手を伸ばし続けるだろう。夢見た未来を勝ち取るために、槌を振るい続けるだろう。
ナナオは、抗えなかった。立ち上がれなかった。己が姉の弟であることに、家族であることに納得してしまった。
姉も、自分もただ恋をして、走り続けただけ。
恋が破れようとも、ロゼットは望みを胸に走り続けることを選び、ナナオは足を止めた。
それだけのことなのだ――。
「おい、ナナオ。しっかりしろ!」
どれだけ立ち尽くしていたのだろう。
気がつけば、赤銅色の髪の少女、アカシアが鋭い双眸でナナオを睨みつけ、折れよとばかりに強く腕を掴んでいた。
「ここに座れ。ほら、コーヒー!」
ナナオは、アカシアに手を引かれるまま、椰子とレインツリーが陰を作った、白いベンチに座らされた。
手渡された陶磁器のカップに入ったコーヒーを飲み干して、熱さと苦味に目が覚める。
中庭に植えられた色とりどりの花と、草葉が生み出す緑の匂いを、ナナオはようやく感じ取ることができた。
「アカシア。ありがとう。ちょっと楽になった」
「あ、ありがとうとか、言うなっ」
「へ?」
アカシアは、わずかに染まった頬を隠すように、ナナオから顔を背けた。
「ナナオは、わ、私にへらず口を叩かなきゃ、らしくないんだ。元気を出せ。女なんて、人間の半分がそうなんだ。もっといい女とくっついて、見返してやれ。お前が振った弟は、こんなにもいい女を捕まえましたって、見せつけてやるんだ」
「そうだね。やっと歩きだせる気がする」
繋いだままのナナオの手を、アカシアは包み込むように握りしめる。
「ロゼット・クリュガー。節穴女め、男を見る目だけは、私の勝ちだ」
彼女の細い煙のように小さな言葉は、残念ながらナナオの耳に届かなかった。
大量の荷物を両手に抱えたレイジが、玄関に繋がる通路で、何か不審な行動を取っているのが見えたからだ。
「なんのサインだ? レイジ、まさかあのクソ兄、逃げる気か!」
ナナオは一目散に廊下へ飛び込むと、端に転がった瓶詰を拾おうとかがんだレイジの顔を、力いっぱい殴りつけた。
「この、屑兄がぁあっ」
「な、何をするんだぁっ?」
ナナオが、なぜか無抵抗なレイジに向かって何度も拳を叩きつけるのを、アカシアは必死になってとめた。
「八つ当たりはよくない。逃げるって何のことだ? レイジは、ただ買い出しから戻っただけだ」
「買い出し?」
袋に詰められた大量の食料と飲み物が、レイジの両手から音をたてて滑り落ちた。
☆
慌てて医務室に駆け込み、治療を施した後、ナナオはレイジに頭を下げた。
「すまない。レイジ兄。僕が悪かった」
「ナナオにはおれを殴る理由があるし、おれにはナナオに殴られる理由がある。だから、いい」
レイジは医務室のベッドに腰掛けて、言葉とは裏腹に、ふてくされたようにそっぽを向いた。
「レイジ兄。俺にはアンタの考えがわからない。アカシアがヨゼフィーヌ教官への恩義の為に、僕と、俺たちと戦ったのはわかる」
ナナオに視線を向けられて、アカシアは無言で瞳を閉じた。彼女は、苛烈だが義理堅いのだ。
戦場で、レイジはナナオを誘った。人間ではなく、ドウグとして望まれ、ドウグとして育てられ、ドウグであることを強いられたおれ達の手で共和国を変え、世界を変えよう、と。
それが、どうしても、ナナオの胸にしこりとなって残っている。あれには、別の隠された意味があったのではないか?
「俺と戦ったときの言葉、あれは半分レイジの本心だったんだろうが、もう半分がどうしてもしっくりこないんだ。また以前のビョーキが再発して、フフフ、おれは混沌と創生を司る堕天使、創造は破壊から生まれるのだぁ! とか、電波吹かれたほうが、まだ納得できるくらいだ」
「え、レイジって、以前は、そんなこと言ってたんだ?」
アカシアの、素っ頓狂な問いかけに、レイジはベッドから一度立ち上がり――。
「フフフ、愚かな弟よ」
――その場で、土下座した。
「やめてくれナナオ。その口撃はパンチよりもおれに効く」
効くんだ……と、アカシアは呆れたように呟いた。
「なんか、もう、私たちは負けるべくして負けた気がする」
「レイジは、割とゆかいな兄貴だぞ? 一時なんて、見てるほうが恥ずかしくなる服を着て」
「この話はやめよう。ハイ、やめやめっ!」
やめることになった。
「アカシアも、ナナオも、今さら異世界の存在は疑わないだろう?」
「紫の賢者様と、紅い道化師が、ココとは異なる世界から来たのだろう?」
「他にも、イスカが何年か前に友達になったしゃべる虎の女の子とか、マラヤディヴァ国で勇名を馳せた将軍が、ニーダルさんたちとはまた違った世界から来た、らしいな」
ナナオとアカシアの返答に、レイジは首肯して、輝きの消えた、暗い瞳で決定的な問いかけを呟いた。
「だったら、限りなく近くて遠い世界を信じるか?」
レイジの質問に、奇妙な重圧を受けて、ナナオとアカシアが口を噤む。
「おれたちがニーダルさんと出会わなかった世界。おれたちの姉が恋に溺れることもなく、腐敗した教団上層部の歯車であることを貫き通した世界。もしも、そんな世界があったら、どうなったと思う?」
アカシアは、うつむいて両の手を強く握り締め、答えられなかった。
ナナオは、窓の外、晴れ渡る空を仰いだ。白い雲に彩られた南国の青い空は、まるで書割のように、現実味のない夢幻のように映って見えた。