第18話 遠き夢跡
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ベルゲルミルは席を立ち、砂浜を後にした。煩悶するぬいぐるみの後姿は、砂浜に残す小さな足跡以上に儚くおぼろげに見えた。
アサガオの浴衣を着た少女、ノーラは彼女と入れ替わるように、飲むもののいなくなったジュースをビーチテーブルに置いて、主の傍に跪いた。
「あの卑劣な裏切り者が策を弄する程度には有能だったという、マスターのお考えは私にもわかります。それでも肯定は……難しいものです」
「ノーラは 可愛いなあ」
由貴乃はノーラを抱き寄せて、耳に息を吹きかけた。ノーラは豊満な胸に埋もれて数分の間じたばたしていたが、顔を真っ赤にしてどうにか主の抱擁から逃れでた。
「なぜベルゲルミルに、レーギャルンの箱という存在を伝えたのですか? 今後ニーダル・ゲレーゲンハイトの身柄を押さえる上で、貴重な手札になったと推測します」
「ふむ。認識させておきたかったのさ。イスカ・ライプニッツの母親に、ニーダル・ゲレーゲンハイトのおかれている状況を。今後彼女たちが見つけ出すならそれで良し、そうでなくとも牽制にはなるだろう」
「……牽制ですか?」
「わたしが一番読み誤ったのは、イスカ・ライプニッツだった」
ニーダルとの戦闘中、ミズキが執拗に足止めし、レイジも支援に向かっていると通信を受けた時は、二人とも手を抜いているのかと邪推したものだが――。
録画した戦闘記録を見て、由貴乃もまた考えを改めた。おそらくは、由貴乃と交わした30分の約束を守る為と、ロゼット・クリュガーの回復を待つ時間稼ぎを兼ねた上での選択だったのだろうが、もし彼らの抗戦がなければ、より早いタイミングで戦線が崩壊していたかもしれない。
だが、由貴乃の懸念は、ノーラにとって理解しがたかったようだ。
「空中艦隊を前に狙撃手一人。恐れるほどの相手ではないと判断しますが」
「……純粋に殺すだけなら、ニーダルより怖いよ。何より方向性が危うい」
紫崎由貴乃はノーラの耳たぶに口付けながら、柔らかな頬を両の手で支えて瞳を覗き込んだ。
「なあ、ノーラ。死を覚悟して死地に踏み入るのと、死を望んで死地に踏み入るのではまるで意味が違うだろう? 自壊すら躊躇わずに戦闘を継続し、必要とあらば最強の武器すら迷いなく手放す。……あの子は、奉げたがっているのさ」
由貴乃は、ノーラを抱き寄せながら、情報の整理を続ける。
ニーダル・ゲレーゲンハイトは、イスカ・ライプニッツ・ゲレーゲンハイトを育てる上で、最初から矛盾を抱えていた。
真に養娘の平穏を願うなら戦いから遠ざけるべきだ。イスカだけを引き取って、安全な場所へ避難させればいい。
それが出来なかった理由は二つ。ひとつは彼自身がレヴァティンに飲まれ、イスカを害する可能性があったこと。もうひとつは、ロゼット達を、……イスカの姉兄を助けようとしたこと。
この二つのハードルを越える為に、彼は娘に戦うすべを教えるしかなかった。ニーダルは自分が焔に飲まれても殺しうる武器をイスカに与え、自分が居なくなっても傍にいられるベルゲルミルを見出した。
此処までは、由貴乃が想定した範囲内だ。ニーダル・ゲレーゲンハイトが、高城悠生という仮面で演技するならば、そのように振舞うだろうと読んでいた。想定から外れていたのは、むしろ彼の養女たる――。
「ノーラ、あの子の一人称を聞いたことがあるかい?」
「……否定します」
振り返り見れば、あの子は一度も”自分”を指す言葉を口にしなかった。
「最初は変わってるな、程度にしか思わなかったが、あの子なりに思うところがあるんだろう」
メルダーマリオネッテは教団のための使い捨ての道具箱だった。ロゼットやレイジは自我が芽生えて、その生き方と決別し、自分の道を探し始めた。けれど、イスカは、愛されて、愛することを望み、植えつけられた歪みを朱色に花開かせたのか。
「ロゼットは言ったよ。実を残したい、共に生きたいと。けれど、イスカは違う。あの子はきっと消費されたいのさ」
ドクトル・ヤーコブが作り上げようとした殺戮人形で、純粋な意味で完成品に近かったのは彼女だろう。
蟲毒のように少数民族の孤児達を殺し合わせ、生き残った20名の原石。その中に最年少で紛れ込んだのは、生来の才覚ゆえだ。
由貴乃が必要充分とあてがった戦闘ゴーレムを一蹴し、遊軍に配置した盟約者すら殺せる武器を与えたアカシアをも契約神器に頼ることなく打ち伏せた。
高すぎる適性あればこそ、ニーダルはイスカに枷をはめた。何重にも重ねて、人殺しの為のお人形が、人間に戻れるように今も抗い続けている。
「わたしを己が命と引き換えにでも葬ろうなんて思い詰めた日には、あの子は躊躇なく実行するよ。そんな理由であいつに恨まれるのは真っ平御免だ。敵ではないと牽制しておくに越したことはない」
「養父の為に、ですか。意思なき支配者の道具から、人間らしく振舞うように躾けられて、当の本人は戦死を望んでいる? マスター。私には……彼女が酷く不合理な存在と観察します」
「ノーラ。わたしの世界にある古い神話だがね。その伝承によれば、人間だけが知恵を得る実を口にしたそうだ」
理性を司る大脳新皮質は、いわゆる下等生物ほど小さく、高等生物ほど大きくなる傾向があり、人類の場合、中脳、間脳などを覆うほどの大きさを占めている。
逆に言えば、生命は本来、”非理性的”なものであり、貪欲なものなのだ。
草も虫も獣も生きる為に、他者を喰らい、邪魔者を排除し、生活圏を広げてゆく。
自由とは一定の力で守られた領域でしか保障されないし、平等を実現する為には相応の力で支えられた社会機構が必要となる。
”長きに渡る中立を維持した”スイスは国民皆兵で精強な軍隊を保持し、
”軍隊のいない国”コスタリカは重火器で武装した軍隊水準の警察と米軍が常駐し、
”福祉に厚い”ノルウェー等の北欧諸国は芳醇な地下資源に恵まれながらも外国人への生活保護等には大変厳しく、
”国家破産寸前で消費税増税が不可避な国”の某政党重鎮は、高速道路無料化やら医療改革やら実現不能な絵に描いた餅と有りもしない埋蔵金を詐欺のように喧伝した挙句、潤沢な政府資産を一切売却もせず、どんぶり勘定の特別会計予算を精査することもなく、必要もないのに隣国に五兆円もの借金保証人になり、挙句バブル絶賛崩壊中の某国国債百億ドルを購入すると口約束して、増税に勤しむ始末だった。
”国民ひとりあたり、~円の借金”とマスコミはわめきたてるものの、日本の国債を買い支えているのは、9割以上が日本人で、外国人の保有比率は1割以下に過ぎない。「日本国民ひとりあたり、~円の借金を、日本国民から借りている」、こんなおかしな論理はないだろう。「国民ひとりあたり~円を政府に対し、貸している」と、いうべきだろう。
つまるところ「スイスやコスタリカは軍隊のない平和な国」「北欧を見習った福祉国家を」「日本破産w」等とテレビで煽っている論者は、物知らずな真性の脳味噌お花畑か、”侵略目的の”団体から利益の供与を受けて歪めた情報を意図的に発信しているスポークスマンに過ぎない。
紫崎由貴乃が赤枝基一郎を認めているのは、彼が自ら掲げる「愛と平和」が武力でしか守れないと覚悟しているからだ。同時に武力革命もまた肯定しているがゆえ、他の演劇部員からの賛同は得られなかったようだが、彼女は後輩の潔さを買っていた。
生きることは戦うこと。生きることは奪うこと。生きることは殺すこと。
「善悪の判別がつくからこそ、本能が呼びさます闘争は苛烈なものになる。しかし」
同時に、生命とは『生きて命を伝えるモノ』だ。
その有り様は、種によって変わるだろうが、子を残し、集団を維持し、次代へと託してゆくのが生物のサガだろう。
もしも、ひたすら命を奪い続けるだけの命が、生まれて死ぬまで殺す事だけを目的とした生命があるとするなら…。
そもそもそんなモノは”生きていてはいけない”のだ。
「闘争を駆り立てるのと同様に、踏みとどまるのもまた人の理性です。……あのエロ魔は、呪詛に喰われながらもマスターの命を奪いませんでした。それだけは評価に値します」
「ああ。ニーダル・ゲレーゲンハイトは、高城悠生の形質を多く受け継いでいる。わたしも、今更、テセウスの船というパラドックスを問う気はない」
ゆく河の流れは絶えずとも、同じ水は二度と流れない。
古い細胞は新陳代謝によって次々と新しい細胞と入れ替わる。
ならば、ニーダル・ゲレーゲンハイトもまた、高城悠生の成長した姿と認めるべきだろう。
ほんのわずかな違和感が、どうしても胸の中でうずくが、それはやはり感傷なのだろうと由貴乃は諦観する。
「イスカ・ライプニッツの自壊衝動は、やはり殺戮人形計画の後遺症なのでしょうか?」
「根本の原因のひとつはそれだ。だが、アカシアのように薬物と洗脳で植えつけられた、というなら時間や医者に任せればいいのだろうが」
というか、たぶん、ニーダルもベルゲルミルも、そう信じている気がする。
「あの子は、半分以上、自覚して選んでるぞ」
養父母が望まずとも、彼女は巌のような信念で根を張り、枝を伸ばすだろう。
凍てつく吹雪の中で、ソメイヨシノの桜花が如く武の華を開かせて。
こんなにも美しくなりました。こんなにも強くなりました。だからパパどうか花枝を摘んで?
「戦うことでしか恩返しができない。と思い込んだのだろうな。血の繋がりもない癖に、揃いも揃って厄介な親娘だ」
由貴乃は、戦闘に積極的でなかった後輩が、覚悟を決めた台詞を思い出す。
『悪い、先輩。戦う理由が出来ちまった』
ノーラに言っても反発するだけだろうが、娘達の我侭を叶えるために命を張ったのだろう?
『私は認めません』
創造主への愛情、失った戦友たちの遺志があるから、今ある家族との絆で板ばさみになっているのだろう?
イスカ・ライプニッツの頑固さは、紛れもなく彼女が養父母の背中から学んだもの。
けれど、父の為に散りたいなんて願い、受け入れられるはずがない。
あいつは呪われてなお、人間を押し通すから。
父より先に逝く娘なんてあるかと、拳骨で怒られるのがオチだ。
だからイスカもまた、叶えられることの無い願いに向けて走っている。
「わたしはお前と一緒に居たい」
「私もです。マスター」
深い接吻を交わす。
永劫をともに過ごしたいというのが、由貴乃とノーラの渇望ならば、あの親子は逆だろう。未来を見据え、布石を打ち、しかしながら一番の望みの果てを、その先の生を考えちゃいないのだ。
「時よとまれお前は美しい」
至高の刹那を味わうために死後の魂をメフィストに投げたファウスト博士同様に、現世の全てを放棄して終着へとひた走っている。
(逃すものか。そんな果実は、お前に与えない。飲み込んでやる。必ず、いつか、わたし達は永遠を手に入れる!)
「……」
「……」
ニーダル・ゲレーゲンハイトとロゼット・クリュガーがパラソルの下で発見したのは。
ビーチチェアの上で、互いに胸をもみ、舌をからませている、なまめかしい水着姿の二人だった。
男子組は前かがみになって悶絶しているし、女子組は顔を真っ赤にして腰を抜かしている。
人目もはばからず、ナニやってるんだこいつらは
「試合が終わったから報告に来たら。これ、どうしますの?」
「任せろ。先輩のセクハラには慣れているからな」
あやふやな記憶だが、ナンパでの成功率は紫>>こえられない壁>赤+白だった気がする。
ゆえに、チャチャの入れ方も万全だ。出る杭は打たれる。一人だけ釣果を誇るなんて羨まし過ぎる。
こういう時は――
「混ぜて♪」
「OK!」
「嫌ァアアアアアア!!!」
サムズアップで歓迎した紫の賢者とは裏腹に、正気に返ったノーラの砲撃が情け容赦なくニーダルをぶち抜いた。




