第17話 レーギャルンの柩
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「”世界殺しの魔剣”と、それを封じる”柩”ですって。いったい何を言ってるのかわかりませんが?」
灰色熊のぬいぐるみ、ベルゲルミルは、ビーチテーブルに載った果物入りのジュースをチューチューと飲み干すと、デッキチェアに寝そべった紫の賢者から目をそらすようにぷいと横を向いた。
ニーダル・ゲレーゲンハイトは、この紫崎由貴乃に骨抜きにされて「先輩なら大丈夫」と寝言をほざいていたが、イスカの母親として、またパートナーとして、ベルゲルミルはとても彼女を信用することができなかった。
誤解や行違いはあったろう。だが、紫の賢者は保護を頼まれたイスカの姉兄達を餌に使い、ニーダルを呼び寄せた上で意思を奪いさり、都合のいい操り人形に変えて、彼の肉体とレヴァティンを掌中に収めようとしたのだ。旧友だか学校の先達だか知らないが、どう見たって鬼畜の所業ではないか?
昨夜、今すぐ此処を出るべきだと主張したベルゲルミルだが、座布団を枕にしいて畳に寝転がり、酒瓶を片手に呑んだくれたニーダルは反対した。
『いや、先輩は昔からドSだからな』
『それで納得できるかぁああ』
『確かにやり過ぎるところはある。敵に回せば恐ろしいし、味方にすれば迷惑ばっかりかけられる。いつ裏切られるかわからないところもあるし、演劇部の予算も三割が先輩の紅茶と菓子代に消えた。公演を見に来てくれた女の子をお茶に誘おうとしたら、目の前でかっさらわれたことなんてしょっちゅうだ』
『だったら!』
『でも、美人だし、チョープロポーションいいし。あの冷たい視線で見られたい、あのたわわな胸にうずもれたい、あのキュートなお尻を撫でさすりたい。そう思ったら、そんな些細なことはどうでもいいじゃないか。よっしゃあ! 盛り上がってきた。ちょっと夜這いに行ってくらあっ』
『もうお前は死ね。むしろ私が殺す』
『ベル。やりすぎ。だめええええ』
と、毎度のように頭に噛みつかれ、だくだく流血しながら夜這いに駆けるニーダルを、イスカがすがりついて止めるという惨劇が行われた。
ベルゲルミルは苦虫を噛み潰したような顔で歯を噛み合わせた。前々から実感していたが、あいつ女が絡むと駄目だ。本当に駄目だ。多少あったカッコイイところとか理知的なところが、全面エロ色に染まってものの役に立ちはしない。
「ふむ。まわりくどい言い方だったかな? ノーラ、彼女にお代わりを」
「はい。マスター」
空のグラスを盆に載せてさくさく砂浜を歩いてゆく浴衣姿のノーラを、チューブトップビキニを着た紫崎由貴乃はまぶしそうに見送って、デッキチェアから半身を起こした。
「千年前、神焉戦争で残された通信記録には、神剣の勇者側にも黒衣の魔女側にも、レヴァティンの呪詛についての記述は一切なかった」
由貴乃が切り出した言葉に、ベルゲルミルは眉をひそめた。警戒を怠ってはならないと、そう胸の奥で噛み締める。
「むろん、検閲、消却された可能性を否定しないが、彼が複数の戦場を渡り歩いた以上、神剣の勇者はレヴァティンをコントロールする手段を有していたと推測可能だ。私が欲しいのはソレだよ。ニーダル・ゲレーゲンハイトという人格を抹消することなく、レヴァティンの災いを葬り去ることができるなら、貴方にも、貴方のマスターにとっても悪くない話だと思うが?」
紫の賢者の提案に裏がないか、灰色熊のぬいぐるみはつぶらな瞳を見開き、丸っこい鼻をひくつかせて思案した。信用はできないし、納得もしていない。しかし、イスカの安全を鑑みるなら、参考程度に話を続けるのも悪くないかと考えを改めた。
「レーギャルンの箱。原初神話において開戦まで災厄の枝を封じ込めた柩ですか。ええ。オリジナルの、第一位級契約神器レーヴァティンにはそういった安全機構が準備されていたかもしれませんね。ですが、レプリカ・レーヴァティンは、救世主を騙る無能が創り出した出来損ないの劣化模造品です。残念ながら、そのようななものを創れる才能は最初からあの愚者にはなかった」
「無能、か。本当にそうだろうか?」
紫の賢者の疑問を、ベルゲルミルは、ビーチの歓声を聞きながら否定した。潮の香りは苦手だが、悪くない気分だった。年相応に浜辺で楽しそうに遊ぶ子供達の姿は、ニーダルが、ベルゲルミルが求めてやまなかったものだから。
「当事者である私が見てきたのです。それが、一千年前の真実です」
「当事者でなければわからないことがある。だが、後世の目でしか見えないこともある。極端過ぎるのだよ。勝者たる国々は黒衣の魔女を邪悪だ卑劣だ淫婦だと書き連ね、彼女に味方した神器の生き残りは口を揃えてアレを勇者などおこがましいとこきおろす。歴史の真実は視点によって変わってしまう」
ベルゲルミルのつぶらな瞳と、由貴乃の細めた眼が互いを映し、視線は絡み合って見えない火花を散らす。
「綴り方が変わるだけでしょう? あったことは変わらない。なかったことも変わらない。歴史という轍はただ刻まれてゆくだけのものです」
「……わたしとて、ここで間をとってなどと考えるほど愚かではないよ。なにせ、この世界にも火のないところに水煙、ありもしない数字や事件をであっちあげて、0を十万百万と膨れあがらせ、わずかでも間を取れば万々歳という国や政権が存在するからな」
「否定はしませんよ」
人も色々だが、国も色々だ。教科書に書けばそれが史実となり、過去はいくらでも改ざんできる、そのように考えるような突き抜けて愚かな国は、確かに存在するのだから。
「そこでわたしは考える。一次資料にあたり、それも確実な根拠のあるものだけを並べて考察すれば、真相には至らずとも面白い思考実験にはなるだろう、と。そのために少々危うい橋を渡って、王国の国会図書館や、浮遊大陸アメリア、ルーシア、妖精大陸諸国の博物館、共和国シュターレン家の私書館他からいくつかの古書を写して失敬した」
なんということを! と思わず喉元まで込みあげた叫びを、ベルゲルミルは飲み込んだ。非難しても意味がない。眼前の女は、法律も道徳も飾り程度にしか思っていないのだから。
「それを調べた限り、黒衣の魔女は」
紫崎由貴乃は、ベルゲルミルに微笑みかけるように――。
「天才だ」
あっさりといい放った。
「各地に存在する小勢力をまとめあげ、大国相手に戦い抜いた指導者としての器。わずかな手勢で連戦連勝を重ねた将軍としての才覚。短期間でミーミルやキミのような第二位級に到達する契約神器を四つも創り出した技術者としての手腕。すべてが飛びぬけている。わたしとて及ぶ気はしないよ。敵に回したくないし、戦うには相応の準備と代償を払うことになるだろう」
(勝てない。と言わないところが、この女の矜持で、また恐ろしいところでしょうか……)
ベルゲルミルは目を閉じて浅く息をついた。由貴乃もまた、ミーミルの助力があったとしても、短期間で母親の残した遺失技術を再現してのけた怪物だ。もしも、千年前に彼女が居れば、どこの陣営に属したとても、あるいは歴史に変化を与えたかもしれない。
「一方の神剣の勇者だが、敢えて英雄とは呼ばない。だが勇者と呼ぶに足る傑物だった」
続けられた仇敵の評価を聞いて、買いかぶりだったかもしれないと、ベルゲルミルは肩を落とした。どれほど才能に恵まれようと、情報の真贋すら見抜けぬ程度の器だとすれば、あるいは、そこにつけいる隙があるかもしれない。
「だから思考実験だというのです。貴方は知らないでしょうが、母様はあの間抜けを相手に二度戦い、どちらも完膚なきまでに勝利しています」
「知っている。二度も母艦を中破に追い込まれ、上官や戦友を失ったようだな」
「そう、何が勇者か。ただの汚らしい負け犬。たまたま三度目に情けにつけこんで勝利したからといって、どこに誉があるというのです?」
もはや遥か遠い過去。しかし、ベルゲルミルは実際に見て、肌で感じたのだ。威風堂々とした母親と、武器すらもたず逃げ惑うだけの仇敵の姿。二人の格の違いは、今もなお、鮮明に思い出せる。
「では聞くぞ。ベルゲルミル。ノーラが記憶をブラックボックス化している以上、わたしも推測することしかできないが、千年前、黒衣の魔女に勝てる者はいたのか?」
「!!」
紫の賢者が指摘は、雷のようにベルゲルミルを打ちのめした。それは、想像もしなかった、否、母を慕う彼女だからこそ、目を背けていた盲点であったがために。
「それは、母様は最強で、だから…」
黒衣の魔女に劣る神剣の勇者は、無能でなければいけない、のだ……。
「古今無双の天才が、因果律に干渉する第一位契約神器ガングニールを、己が手足のごとく操っていたのだ。千年前のあまたの英雄が挑んで散っていった稀代の名将に二度敗れたからといって、神剣の勇者が無能だという証明にはならんよ。そもそも彼は黒衣の魔女との一度目の遭遇戦において、己が契約神器すら所持していなかった。二度目の白妖精大陸戦においても、レヴァティンを得て間もないか、契約を交わす前だったはずだ。そんな圧倒的不利な状況で、生き延びたことを賞賛こそすれ、罵倒するのは筋違いだ」
「英雄に負けた者を勇者と呼ぶなら、どんな下賎で臆病な狗だって勇者になれますよ」
搾り出したベルゲルミルの反論もまた正しいだろう。だが、この一件に限っていえば弱々しい詭弁に過ぎない。なぜなら――。
「負けただけなら、な」
勝っている。勝っているのだ。最後の戦い。どんな番狂わせが生じたのかはわからない。神剣の勇者は竹馬の友を失いながら抵抗を続け、ベルゲルミルの姉ユミルもまた再起不能に近い損壊を負ったものの、妹ミーミルを下した。そして、あの戦場で最後に立っていたものは母様ではなく――。
「神剣の勇者は、最後の戦いで黒衣の魔女に勝利した」
紫の賢者は背を震わせるベルゲルミルだけでなく、歴史そのものに投げかけるように断言した。
「わたしは”ミーミル”の力を知っている。”ノーラ”の真摯さを知っている。黒衣の魔女とガングニールの畏ろしさにも、わずかなりと触れた。レヴァティンという呪詛を残したことを許す気はないが、その上でなお、彼女達を退けた彼を無能だなどと認めない。それは、ノーラへの、黒衣の魔女への……、ベルゲルミル、キミ達への侮辱だ!」
轍はすでに時の砂に埋もれ、真相は闇の中だ。世界の命運を左右する一戦である以上、人質をとったとか、毒を盛ったとか、もっと卑劣な手段を使って相対した可能性もある。――しかし、と、この仮定に紫崎由貴乃は反駁する。
(因果律操作という類稀な能力をもった黒衣の魔女にそのような工作が通じるとは思えない。何より神剣の勇者が残した軌跡を追う限り、彼は義姉である黒衣の魔女へ崇拝にも近い敬意を払っていた。だから、卑怯千万な手管でもって彼女を討ち果たしたという仮説は、赤枝キイチロウが女子を陵辱するとか、高城ユウキが幼子を人質にとるとか、そういった次元で有り得ない)
仮に教唆したものがいたとしても、きっと怒髪天をついて逆襲されたことだろう。そもそも最終決戦において”神剣の勇者”が”黒衣の魔女”に降った時点で詰みなのだ。彼には義姉と戦うだけの気概と覚悟、そして――。
(シュターレン家の古書を信じるならば、神剣の勇者は、未契約の状態で覇王ゲオルク・シュヴァイツアーと戦って退けている。それだけの武才があれば、支援次第では勝利を掴むことも不可能ではない)
彼にもまた、負けられない強さが、あったのだろう。
「私は、認めません」
ベルゲルミルは、魂を吐き出すように、告げた。
後世の目だ。結果論に基づく、勝者の目だ。紫崎由貴乃は知らない。あの日々を、染み付いた焔の匂いと、枯れ果てた涙の味を。そんなものを、そんな答えを受け入れろと?
あの時、姉ユミルが敵側に助力しなければ、勇者を騙る無能の無駄な足掻きがなければ、きっと世界はこんな血塗られたものじゃない、争いがない素晴らしい理想郷に変わっていた。そして。
(私はきっと、イスカやあの馬鹿と出会うこともなくて……!)
ベルゲルミルの心が軋む。今ならばわかる。ただ戦うだけの道具ではなく、夢と理想を追う戦士でもなく、母親として娘と接してきた今なら、ユミルや仇敵達がなぜ自分達と戦ったのか、その理由がわかってしまうから。
かつて望んだ理想。戦争のない平和な世界を創造し、歴史を創り変える。それは――本当に正しかったのか?
「失礼します」