第14話 海上決戦
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時果ての夢と名付けられた舞台は次なる幕を開き、主演たる紫崎由貴乃は巨大な大蛇を伴って空高く舞った。
ニーダル・ゲレーゲンハイトは、大穴のあいた天井から蒼穹を見上げ、呆れたように呟いた。
「でかっ。あんな首輪をはめようとしていたのか、我が先輩ながら恐ろしい」
焔がちらちらとゆらめき、荒れ果てた小さな部室のレプリカに、燃え上がる漆黒の空と灼熱の大地を映し出す。
「良いのか?」
焦熱の世界で、焔の柱となったレヴァティンはニーダルに問いかける。
「おそらく、あの首輪を受け入れれば、あの女に任せれば、恒久的に我らを封じることも可能だろう」
己が身と心を侵す呪いから解放され、愛娘や彼女の姉兄と平穏に暮らすことが出来る。それは紛れもない一つの幸せのカタチ。
「イスカ達は自分の足で歩くことを選んだんだ。娘の道を切り開いてやるのが親父ってもんだろ」
だが、その選択を、ニーダルは選ばない。娘達の、ノーラの幸せは、自分や紫の賢者が決めるのではなく、彼女達自身が選び、勝ち取ると信じるがゆえに。そして。
「それに先輩には悪いが、先約済みだ。誓いは果たさなきゃ、な」
焔は嬉しそうに、寂しそうに揺らめいた。
「ああ、お前は怨敵ケヴィン・エンフォードを討ち、我らは彼の契約神器ギャラルホルンを破壊する。それがかつてのお前との……」
ニーダルは手を伸ばし、火柱の頂部をわしゃわしゃと撫でて、アチチとたたらを踏んだ。
手に息を吹きかけつつ、言葉を続ける。
「おいおい、忘れるなよ。俺は、この魂壊れるまで、一緒に行こうって、お前に誓っただろう?」
それは、懐かしい祝祭日に結んだ、もうひとつの遠い約束。
ハハハと、啼くように哂うように、焔は揺らめいた。
「馬鹿だよ、宿主。ほんとうに心の底から大馬鹿者だ」
夜が燃え尽きる。むせ返るような火花と溶岩の中で火柱が解け、九重の箱が開かれた。ニーダルは息を吹きかけながら手を差し入れて、箱の中から紅く黒く燃える剣を掴み取る。
封じられた剣は再び引き抜かれた。けれど、焔、レヴァティンは知っている。剣は、再び彼という箱にくくられたのだ、と。
己と宿主は相容れまい。
レヴァティンは争いを憎む。”すべての神器と人間を抹殺”しても、”争いを根絶すること”を願う。
それを為さなければ、重ねられた怒りと怨みと悲しみは癒されないから。犠牲になったモノ達が浮かばれないから。世界が再び神焉の黄昏へと沈んでしまうから。たとえ己の進む道が、創造主の願いとは外れ、依代たる存在の意思に反していたとしても。
宿主は人間を愛することをやめるまい。身を焼き尽くすほどの憎悪に焦がれても、絶望と悲しみに心を凍てつかせても、それでもなお、己が信じる人間の良性を肯定し、神器もまた人間とともに歩くものと認めるだろう。
ゆえに平行線。ニーダル・ゲレーゲンハイトとシステム・レヴァティンは決して相容れることなく、共に進むことができる。
笑止。と焔は笑う。そんな存在など在りはしない。いずれ宿主は焔に飲まれ、レヴァティンと同化する。だが、それまでは。
「すべてを焼き滅ぼそう。輝く新世界は灰から生まれる」
「喪失はただの虚無だ。俺はイスカの、オジョーのいる世界を守る」
「相容れないな」
「だからこそっ」
「「ともに、往こうっ!」」
不死鳥のように、焔の翼をはためかせて、ニーダル・ゲレーゲンハイトとレヴァティンは飛翔した。
――
―――
「安全とは幻想に過ぎない、安全とは自然界に存在せず、また人類が体験する事も無いのだ。……ないならば、造るしかないだろう?」
紫崎由貴乃は風をきり、雲の上を長大な蛇に乗って泳いでいた。
「ノーラ。幼い時の親っていうのはさ、絶対なんだよね。親が自分を愛しているって疑わないし、間違ったことを教えるとも思ってない」
幼子は、触れられるだけ、歩けるだけの小さな世界を、愛情に満ちていると、自分は必ず満たされるのだと信じたいから。
「特にメルダー・マリオネッテの子達は自我が希薄だった。股を開けとでも教えれば、ていのいい性処理道具が出来ただろうに、ね」
由貴乃が傍らに抱いたおかっぱの少女、ノーラは能面のような顔をゆがめて、憎悪を吐き捨てた。
「オロカだからです」
「そう、あいつは馬鹿だ。だから貧乏くじもひくし、大切なものを守るために勝てない勝負にだって挑む。そして、馬鹿だからヘコんでも折れることを知らない」
紫の賢者は、ノーラの首筋にあごをのせて、自らの豊かな胸に手をあてて嘆息した。
「イスカ達にヨゼフィーヌが破れた理由がわかったよ。あいつの背中を見てきたんだ。簡単に諦めるはずもない」
紫崎由貴乃は知っている。あの後輩は決して強くはない。幾度だって地に這いつくばって、でも、幾度だって立ち上がってきた。
そして、賢しいがゆえにヨゼフィーヌは、彼の強さを受け継いだ、あの子達の成長に気づかなかったのか。……あるいは、気づいていて、なお自らの心に殉じたのか。
「やろうか。ノーラ。決着をつけよう」
「はい。マスター」
待ち受けるのは海上。ここでなら、存分に戦える。
☆
大蛇は悠々と高空という海を泳ぎながら、鱗の隙間から無数の小さな羽竜を吐き出した。
標的、ニーダル・ゲレーゲンハイトを食らうため、数百もの敵性飛行隊が雲霞のごとく迫りくる。
「敵は旅団規模。どうする宿主?」
「戦法は正攻法。正面から突撃する」
奇手奇策は通じない。
チェス、将棋、リバーシ、ポーカー、麻雀。どのテーブルゲームでも、彼女の勝ち星は他の部員の追随を許さなかった。けれど、先輩だって無敵だったわけではない。
先輩が対応できるのは、知っていることだけだ。対戦相手の経験、思考、戦術、癖、そういったものを把握した上で、最適の対抗策を準備して、有利な流れを創り出す。
ニーダルだけではその流れに逆らえないだろう。だからこそ、先輩が知らないレヴァティンが切り札となる。
「長くは燃やせないぞ」
「野球が面白いのはァ9回裏、サッカーならぁロスタイム! 並ぁみ居る敵を突っ切ってダンクやトライを決める。これこそロマンってやつだろぉ!」
「宿主もたいがいに雑多だ」
加速する。ニーダルは擦れ違いざまに炎翼でワイバーンを焼き尽くし、三日月十文字槍で首を跳ね飛ばす。
「イィィイヤッホウゥ!!」
雄たけびをあげて、赤い閃光が矢のようにウロボロスへ向けて直進し、大輪の花火が咲く。
遠目からは美しくさえ見える破砕の光景を、紫の賢者と契約神器の意思たるノーラは、尾を食らう蛇の頭部で見守っていた。
「第一大隊から第二大隊まで突破されました。マスター!」
「制御術式に改善の余地があるね。第三大隊と第四大隊を迂回させろ。ウロボロスを中軍に押し出して、他大隊は背後に廻せ。鶴翼の陣で受ける」
「は、はい!」
由貴乃の指示を受けて、ノーラは戸惑いながらも羽竜の群れを統率し、ウロボロスを中心底にVの字形の陣形を敷いた。
紫崎の賢者にも愛らしい少女の疑問は伝わっていた。システム・レーヴァティンの弱点は、継戦能力だ。比類なき戦闘力と引き換えに、使い手は加速度的に消耗して自壊する。ただ勝利するだけならば方円陣、○の字形の陣形を敷き、消耗箇所を車掛で補充するのが最も確実だ。しかし、それでは由貴乃にとって意味がない――。
「当然、乗ってくるのだろう。後輩!」
「その誘い、乗らせてもらうっ」
ニーダル・ゲレーゲンハイトは、背後から雪崩れ込んでくる羽竜の群れから逃れるように急上昇し不意に失速した。
翼を広げ、横滑りを繰り返しながら落下、乱戦状態で追いすがってきたワイバーンの群れを片端から火球を放って撃ち落す。
独力では不完全だった木の葉落としを、レヴァティンの助力を得て成し遂げ、重力を得て再び加速する。
道は開けた。あとは、進むのみ――!
「なっ」
開かれた扉は、両翼から迂回してきたらしい、百機もの羽竜によって再び閉ざされようとしていた。
そして、魔力の集中を終えたのか、小山ほどあるウロボロスの顎、口腔に禍々しい光が灯っている。
「後輩。お前はお人よしで、単純だ」
前方に待ち受けるはウロボロスの主砲、左右後方から迫りくるは再編されたワイバーン。ここに勝機は尽きた。否、最初からそんなものは、有りはしなかった。紫の賢者はわずかな心の痛みとともに、唇に笑みをかたちづくる。レイジの二心、ロゼットの奮戦、イスカの孝行。すべては、彼らが慕う後輩の敗北によって泡と消える。
「お前たちは、わたしのものだ……」
「宿主、もうこれ以上は……」
「は、はは」
相棒たる翼が、抑止を呼びかける。
すでに時間は限界、身体も精神も悲鳴をあげている。
もういくらも戦えず、敵手は健在。万策は尽きた。
「こいつはさすがに」
脳裏を弱音が過ぎった瞬間、ニーダル・ゲレーゲンハイトは、ふと懐かしい叫びを思い出した。
『諦めた大人がガキの前に立つんじゃない!』
名前すら知らない、白い人形を駆る少年――。
彼は町を護ろうとニーダル・ゲレーゲンハイトに挑み、勝利した。
そう。勝ったのは彼だ。契約を交わした乗機を、友を、町人を、襲い来る敵の手から守り抜いたのだから。
「だよなあ、レヴァティンっ。オトナってのはよ、ガキがでかくなるから大人ってんだよなあ!」
イスカは、ロゼットは、彼女の兄弟達は、決して屈することなく道を拓いたのだ。
父親役たる自分が、どうして諦めることができようか!
吼える。翼をはためかせ、我武者羅に加速――。
心のどこかで、否、肉体のどこかでニーダルではない誰かが囁いた。
赤枝。君のアイデア、借りるから。
「ははは。はははははっ。あーっはっはっは!」
哄笑を、赤黒い閃光と獣に似た翼が飲み込んでゆく――。
ウロボロスの主砲は、海原の一部を蒸発させてクレーターをつくりあげ、津波すら引き起こした。
ノーラは撃墜を確信し、索敵行動に移る。
「主砲発射確認。姿勢制御。……標的、健在!?」
少女の絶叫は、悲鳴にも似ていた。
彼女は知っている。どれほどの砲撃を受けようとも沈まなかった船を、貫き徹された信念と愛情を。
千年の昔、ミーミルを撃ち破った二人のように、ニーダル・ゲレーゲンハイトは槍を手に、統率の乱れた羽竜を蹴りながら迫ってきた。
「レヴァティンで、ワイバーンへの接続を切って、あれらを踏み台に八艘飛びで逃れたのか。攻撃を最大の防御に変える。舞台でのアポトーシスと言い、読みきれなかったはずだね。あれはタカシロじゃない、アカエダが得意な発想だ」
由貴乃は、柳眉をひそめ、しかし、なぜか満足そうに微笑んだ。
ムラサキ・ユキノは、タカシロ・ユウキにも、アカエダ・キイチロウにも、遅れを取ることはない。けれど、二人が組んだなら――。
「ほんと、男の子って、やっかいだ」
喧嘩したり、仲直りしたり、いがみあったり、手をとりあったり、足引っ張り合ったり、学びあったり。単純な癖にまぶしくて。
「更に速度を増します。さきほどまでの三倍! マスターっ!?」
震えるノーラの小さな体躯を、由貴乃は豊満な胸で包み込むように抱きしめた。
「好きだねえ。夢想主義者でもないくせに。ああ、違う。漢のロマンだっけ? 裸エプロンなんて油がはねたら火傷してしまうだろう?」
「マスター? なにをおっしゃってるの、ですか」
「ノーラ、愛してる」
白くほそい指が、魔術文字を綴る。転移の術式――。
ここに至って、ノーラ・ドナク・アーガナストは理解した。
主が、ミーミルの本体たるソラカケノフネを使わなかったのは、わざわざ時果ての夢という舞台や、ウロボロスという手段を用意したのは。――己の敗北すら見越して、ノーラだけは死なさないよう予め仕組んでいたのだと。
「どうしてどうして!? 死なせてください。お姉ちゃんのいない世界なんてイヤ。マスターと一緒に死にたいんです!」
泣きじゃくるノーラを、ホテルまで送り届ける。
数日をともに過ごして理解した。メルダー・マリオネッテの少年少女たちは、信用できる。だいたい、手を伸ばさなきゃ何もつかめない、なんて言葉をノーラにかけた娘たちだ。由貴乃が死んでも悪いようにはすまい。
「キミの命も心もわたしのものだよ、ノーラ。たとえキミが死を望んでも、わたしがキミを死なせやしない」
ウロボロスは尾を振り回し、対空機銃やリアクティブアーマーで反撃したが、すでにニーダルは尾にしがみついていた。
頭部にたどり着くまで長い時間はかかるまい。そして、舞台で明らかになったように、単独戦において紅い道化師は紫の賢者を凌駕する。
「王佐の才は覇者の器足りえず、か」
足利直義、石田三成、西郷隆盛、彼らは参謀として無類の才覚を発揮したが、大将としては相対者に及ばなかった。
「いや、もっと単純なことじゃないか。いい女ってのは、好いた男には――」
それが紫崎由貴乃の信念であるがゆえに。
だとすれば、この敗北はニーダル・ゲレーゲンハイトに後輩を見出したときに決まっていた。
待ち望んでいた彼が、槍を手に走ってくる。
ウロボロスの長い距離を、自分だけを求めて、この命を終わらせるために。
ならば、このとき、彼が瞳に映すのは、かつての恋人でも養娘でもない、紫崎由貴乃だ。
「――勝てないものさ」
貫きやすいように両手を広げ、抱きしめるように身を投げて。
「先輩、ただいま」
由貴乃は、槍を手放した後輩によって抱きとめられた。
「お前はさ、部長なんだから」
バイトとか、事情あるのはわかるけど。
「小言はあとだ。お帰り。タカシロ」
女は懐かしい男の匂いを、めいいっぱい吸って、温もりに身を委ねた。