第九話 願い、みんなで
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あの日、あの寝室で、造反を誘われたとき、レイジは紫の賢者とひとつの約束を交わした。
「紫の賢者、ニーダルさんの心を奪うには、どれだけかかりますか」
「2…いや、30分もあれば楽勝だろうね」
「その30分の時間は、おれ達が稼ぎます。”絶対の正義”の増援はいりません」
紫の賢者は、ヴァイデンヒュラー閥の魔術顧問で、軍閥のエリート私兵”絶対の正義”の中でも上位に君臨していた。
彼女の腹心達から、契約神器の使い手を招くことだってできたから、弟妹達の命を守るためには、それだけは避けなきゃいけなかった。
だから30分は、絶対に足止めしなきゃいけない。レイジはあたしが守る、そう決めたんだから。
「25分。もうちょっと、欲しかったなあ」
ミズキは、残弾の尽きた愛銃を霜の浮いた廊下において、瞳を閉じた。
メルダーマリオネッテの狙撃手担当。イスカ・ライプニッツ・ゲレーゲンハイトと撃ち合えるのは、自分だけだと自負していた。
だから、アカシア達と一緒に他の妹達を抑えてくれというお願いに逆らって、イスカの足止めを担った。
戦場における狙撃の役割は、必ずしも必殺ではない。行軍を遅滞させることもまた、重要な任務。
でも。
「……勝てないね」
蜂蜜色の髪の末妹が、灰色熊のヌイグルミと背丈ほどもある長銃を抱いて、砕けた棺桶型のゴーレムの残骸の中を歩いてくる。
「ううん。ミズキお姉ちゃんの勝ち。……ベルがいたから」
契約神器の保有者、盟約者と呼ばれる存在は、常に神器の加護によって守られている。
対神器用の魔術がほぼ失われてしまった現代、通常の物理・魔術手段で対抗するには、最弱の第六位級神器を相手にしてさえも十倍近い戦力を必要とした。
紫の賢者からミーミルの力の一部を分け与えられた長銃があったといえ、ただ一人でイスカと互角に渡り合ったミズキの手腕は、神懸かったものだと言っていい。
「ふふ、嬉しいね。でも、勝負は勝負だよ。アンタの勝」
「お姉ちゃんっ」
イスカはミズキの言葉を遮るように飛び出して、盾の魔術文字を綴る。
前方の階段から、雨あられと飛来する矢。ミズキの銃弾同様に、紫の賢者の、第二位級契約神器ミーミルの助力を受けているのか、一部は盾を貫通し、イスカの腕をかすめ、ミズキの胸や足にも突き刺さった。
「……っ」
息はある。けれど、極度の緊張に加えて新たな深手を負い、ミズキはぷっつりと糸が切れたかのように倒れてしまった。
何かがおかしかった。いまの斉射は明らかにイスカを狙ったものではない。
「この凍てついた世界、まるで亡霊の女王じゃないか」
嘲るような声が階段の陰から響いてくる。
石弓を手に姿を現した別働隊に銃を向け、イスカは問いかけた。
「アカシア。なんでミズキお姉ちゃんをねらったの……?」
「武器を捨てて投降しろ。さもなければ、その人形を壊す」
イスカは銃の引き金に指をかけた。石弓を射るより、銃を撃つほうが早い。
けれど、今込めている弾丸は制圧用の広域拡散弾ではなく、無力化に焦点を置いた氷結弾だ。
アカシアは倒せても、その後ろにいる9名の矢がミズキの命を奪うだろう。
「イスカ。いけませんっ」
ベルゲルミルが止めるが、イスカはアンチマテリアルライフルを、灰色熊のぬいぐるみと一緒に床に置いた。
二本の銃剣、投石布、炸薬。すべての武装を解除して、両手を挙げて、アカシアの方へゆっくりと近づいてゆく。
「フンッ」
アカシアは抵抗を放棄したイスカの顔を、ナイフの柄で殴りつけた。
頬が切れて、上体が沈んだところに、みずおちに抉るような一撃。
「いいざまじゃないかっ。たとえ盟約者でも、武器を手放せばこのていどっ」
めった殴りだ。倒れることなく立ち尽くすイスカを、アカシア達は数人がかりでなぶりものにした。
氷が張った床に叩きつけられ、まるで石ころのように顔を蹴られ、お腹を踏みにじる。
痣の刻まれた頬と、切れた唇からふたすじの血が流れた。
「気にくわないんだよ、NO.20(ツヴァンツイヒ)。浮ついてるNO.1(ロゼット)も、男を股でくわえこんで娘ぶってるお前も」
イスカは答えない。ただ氷海の水底のように蒼い目で、アカシアを見上げている。
「ああ、それとも、お前抱かれていないのか? ケッサクだな。神話通りじゃないか。神も巨人もケダモノさえも、あらゆる女と情けを通じたダテ男に、ただひとり相手にされなかった忌み子。ハンパな死と破壊をまきちらすお前は、あの男にも愛されちゃいない、できそこないの屑人形だ」
アカシアはイスカのあごを蹴りつける。衝撃で首から掛けていた銀色のオルゴールボールが飛んで床に跳ねた。
「だめっ」
踏みつけようとするも、イスカの左手が早い。
アカシアは、庇う彼女の小さな手のひらを軍靴で踏みにじり、禍々しい象形のナイフを白い腕に突き刺した。
悲鳴を飲み込んだようだが、溢れ出す真っ赤な鮮血とともにイスカの喉から苦しげな息がもれる。
「我々メルダーマリオネッテは、偉大なるパラディース教団の理想実現のために造られた。
邪悪な王国をほろぼし、イシディアの蛮族どもをおいはらい、浮遊大陸や妖精大陸からこの世界のはけんを取りもどすのだ。
あらゆる神々をこえる唯一無二の威光。教団を信じることでのみ、人々は争いや貧困をのりこえることができる。
なのにっ、なぜお前達はちっぽけな感情で、主の意思をないがしろにする?
お前達のいう愛情だの家族だの絆だのなんて、パラディースの教えの前にはゴミみたいなものだろうっ」
「それ、ちが」
「紫の賢者は仰ってくれた。パラディースの未来のために、この私が必要だと。私はあの方の手、あの方の指、あの方の武器となる。だから、紫の賢者は与えてくれた。このマスティマを!」
「~~っ」
えぐり込む。ミーミルによって魔力付与を施された赤紫の刃は、ベルゲルミルの加護を引き裂いて、肉を断ち、骨を削る。
もしもこの場にニーダルが居れば、ぶん殴ったあとに、『先輩。その命名は雑多な上に、趣味悪すぎだ』と指摘したかもしれない。けれど、彼女の父親はここには居らず……。
「そこまでです。イスカから、離れなさい」
活路を拓こうとしたのは、彼女の母親役である灰色熊のぬいぐるみだった。
「あるじがあるじなら、神器も神器か。守るべきあるじよりも、壊れかけのニンギョウを優先するのか」
「アカシア。アナタには、わからない」
イスカがアカシア達の一方的な私刑を受けている間に、ベルゲルミルはミズキの止血を済ませ、彼女に矢よけの術をかけていた。
ああそうだ。優先するとも。たとえハラワタが煮えくりかえろうと、娘の願いだ。姉の命を救いたいという願いを拒絶などできるものか。
「私はイスカの母親です」
可哀想な子、と、ベルゲルミルはアカシアを、見つめる。
赤銅色の髪とそばかすの浮いた頬、盲信に濁った灰色の猫目。薬物と魔術によって不自然なほどに鍛えられた肉体は、研ぎすぎて折れそうな剃刀を思わせた。
与えられるべき愛を与えられず、温もりをくれる家族も、支えてくれる絆もなく。それらすべてを奪い、本来の故国を滅ぼした血濡れの独裁軍事国家に忠誠を尽くすその姿。
他には何も知らないから。教えられなかったから。そう、生きるしかなかったから。
(ヨゼフィーヌ。父親への道ならぬ恋に迷い、女にも、母親にも、師にもなりきれなかった貴女)
アカシア達別働隊は、ヴァイデンヒュラー軍閥の計画責任者であったドクトル・ヤーコブでなく、ベーレンドルフ軍閥のスパイであるヨゼフィーヌ・Ⅳ・ギーゼギングによって調整された。
ベルゲルミルにとって、自分を罠にかけて遠ざけ、その隙にイスカを拉致しようとしたヨゼフィーヌに、怒りがないといえば嘘になる。
けれど、ヨゼフィーヌにも彼女なりの正義があったことを、ベルゲルミルは知っている。
家族のために、父親の願いのために全力を尽くした。立場上、相容れない敵だったとはいえ、彼女の意思は感じ入るし、命を懸けてまっとうしたことを尊敬もする。
ベルゲルミルもまた、創造主である母のために戦っているのだから。違いがあるとすれば、娘を得たこと、そして。
(……私は、本当にどうしようもないバカと出会ってしまったから)
実の娘であるヨゼフィーヌをドウグとして使い捨てたルートガー・ギーゼギングと、ドウグとして贈られたイスカを養女として慈しんだニーダル。二人が相容れなかったことは、ベルゲルミルにも容易に想像がつく。
だからこそ、メルダーマリオネッテの救出戦で、囮役だけのはずだったニーダルは、ルートガー率いるベーレンドルフ軍閥の本隊と衝突するという無茶を敢行し、結果としてロゼット達は、本隊の支援を受けられなかったヨゼフィーヌを、紫の賢者の到着を待たずして、独力で討つという殊勲をあげた。
(ヨゼフィーヌ・Ⅳ・ギーゼギング…!)
切り開こう。イスカの母親として、ロゼット達の引率者として、そして、この娘、アカシア達と関わってしまった大人として。貴女の代わりにこの娘達の未来を――!
「我が身は」
ベルゲルミルは、切り札ともいえる呪文の詠唱を始める。ニーダルの近くでは絶対に使いたくなかった手段だが、もはや札を選ぶ余裕はない。けれど、彼女の決断は思いもよらぬかたちで遮られた。
「待って……、ベル。ミズキお姉ちゃんを、エンジュお姉ちゃんのところまでつれてって」
「イスカ……?」
「いたいけど、悲しいけど、わかるんだ。これは兄妹げんか。ちょっとだけ、たのしいよ」
ベルゲルミルから、アカシアに圧し掛かられ、うつ伏せに倒れたイスカの顔を伺うことは出来ない。
けれど、声でわかる。彼女がどんな強い瞳でいるのかを。これは子供の喧嘩だ。だから、母親は手を出すな、と。
イスカの、メルダーマリオネッテの母親役として、成すべき事があるだろう、と。
胸を裂くほどの葛藤を、ベルゲルミルは飲み込んだ。
「わかりました。あとで一緒に夕御飯を食べましょう」
「ン!」
ベルゲルミルは、床に刺さった二本の銃剣を投じた。アカシアは、飛来する銃剣に脅威を見出したか避けようと飛び退き、壁に当たった銃剣は弾かれて、まるで自ら飛び込むようにイスカの手の中に収まった。
見えずとも背を見ればわかる。きっと、血と泥に汚れた愛娘の顔は朗らかだろう。
「追えっ、逃がすなっ」
アカシアの指示に従い、3名の少女達がナイフを手に、石弓の支援を背に襲いかかる。
「いくら契約神器でも」
「壊れかけの人形をかばって」
「そんなちっぽけな身体で」
指摘されずとも理解している。灰色熊のぬいぐるみという現し身は、観測手としてイスカの補助に特化したもの。
この身が戦闘に向かぬのなら、向いた肉体を用意すればいい。
「我が身は滅びをこえしもの。死の洪水をも乗り越えて、次代を見つめるもの。――我が名はベルゲルミル」
飛び込んできた少女達は、信じられないものを見たといわんばかりに、ぬいぐるみから伸びた細腕と、振るわれた箒によって次々に壁へと叩きつけられた。
気絶したミズキの襟首を掴み、ベルゲルミルは一目散に戦場から離脱する。けれど、時すでに遅く、10名の新しい別働隊の増援が逆側の階段から飛び出してきた。
「あれ、誰?」
「お、おかしいよ。ここ戦場なのに、エプロンドレス、ってゆうか、メイド服?」
闖入した少女達が目撃したのは、亜麻色の髪をなびかせた小柄な体躯の女性だ。外見こそ主にも似ているが、纏う雰囲気はひどく勝気で、何より地味で堅物な女中服に包まれた胸とお尻は、服の上からでもわかるくらい、とても豊かだった。
気絶したミズキを左手で吊り下げ、右手に箒を持った詳細不明の女、ベルゲルミルは、足を止めることなく少女達の方へと突進する。
「不思議ではないでしょう? お仕着せの女中服は、家事労働の正装」
ぬいぐるみが水や埃で汚れちゃいけないと、あやしい手つきでチクチク縫っていたニーダルを思い出し、ベルゲルミルは懐かしさに微笑んだ。結局、ニーダルお手製のエプロンは縫い目が甘く、ベルゲルミル自身の手で縫い直しやつぎあてが必要だったけれど、それでも結局一年使い通した。あの服は、今も大切に鞄の中に仕舞いこんである。
「退きなさい。あなた達とは潜り抜けてきた戦場の数が違います」
「よくわからないけど、あのオバサンをハイジョするよっ」
プツン、と、何かが切れたような気がした。足元に箒を投げつけて釘付けにし、ベルゲルミルは神がかった速度で失礼な小娘の背後に回りこみ、お尻を連続で引っぱたいた。
「私は、オネエサン、です」
「……はい。おいくつですか?」
問われて初めて気がついた。そういえば、いくつになるのだろう?
「1000と18歳?」
「オバアサン?」
プツンッ、と、ベルゲルミルの中で、太い何かが切れたような気がした。
「お説教が必要ですね。少し、頭冷やそうか…」
「めちゃりふじんっ!?」
「なにこの魔王っ!?」