第五話 対決
5
すべての始まりは、交通事故だった。
学校からの帰り道、いつもの交差点を、紫崎由貴乃は演劇部の後輩達と歩いていて。
覚えているのは、黒いトラックの巨体と、白いライト、重く、鈍いブレーキ音。
有り得ないことだった。
カーブミラーは確認していたし、排気音も聞こえず、道路の振動もなく、気配すら感じられない。
そんな車にはねられるなど。
次に目を覚ませば、どこともしれない遺跡の中――。
血のような文様が埋め尽くす、奇怪な部屋の中央で――。
由貴乃は、巨大なガラス筒にもたれかかるようにして、眠っていた。
最初は夢かと思ったものだ。
明らかに現実離れした場所で、むしゃぶりつきたくなる美少女が、硝子缶の中に裸でぷかぷか浮いていたのだから。
興味本位で触れると、瞬く間にクモの巣状のひびわれが走り、水と一緒に美少女は腕の中に落ちてきた。
「おねえちゃん……」
すがりつく彼女の手を、優しく握り締めた。それが、由貴乃とミーミルの出会いだった。
襲い来る遺跡の怪物を、目覚めた少女は事も無く殲滅し、二人は地上へ逃れ出た。
傍目から見れば幸運だったのだろうと、由貴乃自身思っている。「姉を探す」という契約を交わし、盟約者となった彼女が引いたカードは、紛れも無い最強の鬼札だったのだから。
第二位級契約神器ミーミル。北欧神話――この世界で原初神話と呼ばれる伝説において、智恵を司る巨人の名前。
そして、千年前に起こった神焉戦争で、黒衣の魔女と呼ばれる魔術師の旗艦の核として、あまたの国と軍勢を焼き滅ぼしたアーティファクトでもある。
一軍を消し飛ばす絶大な武力を後ろ盾に、由貴乃は共和国ヴァイデンヒュラー軍閥に取り入り、瞬く間に栄達を重ねて幹部の座へと台頭した。
神器を保持する盟約者を優遇する西部連邦人民共和国の政治機構と、金で職や位階が売買される政府パラディース教団の腐敗が、彼女の目的を果たす為に都合が良かったのだ。
由貴乃は、才能とは裏腹に血縁や環境から不遇の立場に追いやられていた有為の人材を集め、敵対するものや自身に危害を加えようとする相手を、容赦なくミーミルとともに粛清した。
事実上、由貴乃とミーミルに叶いうる敵は、共和国内にはほぼいなかったと言っていい。
可能性があったのは、ヴァイデンヒュラー軍閥の私設兵団「絶対の正義」の最高幹部が数人と、ライバルであるベーレンドルフ軍閥直轄部隊「無限の自由」総帥パプティスト・クロイツェルや、ネメオルヒス解放闘争の英雄レオンハルト・モルゲンシュテルン等数名。そして、弱小軍閥の長、エーエマリッヒ・シュターレンに、一時期共和国を席巻した新興軍閥「赤い導家士」首魁…。このうち、「赤い導家士」は、ほどなくして瓦解し、前線を退いていたレオンハルトもまた、昨年ネメオルヒスの地で夭折した。
由貴乃は、この世界で見つけた頼れる仲間と軍財閥を運営する傍ら、この世界に飛ばされてきただろう旧友を必死で捜索した。
一人はすぐ見つかった。王国公安部と繋がりをもち、”地球市民”を名乗って、ナラール・ナロール地方から南海諸国を資本論片手に漫遊する逃がし屋。――赤枝基一郎。
次に見つけたのは、イシディア法王国の騎士として、共和国がけしかけたテロリストや怪物を片端から斬り散らす女剣客。――苅谷近衛。
他の部員達も、近年になって、だいたいのアタリをつけることができた。
けれど、おそらくは難を逃れたであろう高城円と、寸前で妹を庇ってひかれた演劇部部長、高城悠生の姿だけは、どこにも見出すことができなかった。
……当たり前だ。人の良さだけが取り得だった少年が、極悪非道の強姦魔で、幼女を奴隷として飼育するくされペドフィリアに堕落しているなんて、いったい誰が想像出来るだろうか?
由貴乃がニーダル・ゲレーゲンハイトという男に興味を抱いたのは、同じヴァイデンヒュラー軍閥の一員であり、同好の趣味人でもあった暗殺者養成機関の長、ドクトル・ヤーコブとの会話からだった。
玩具のつもりで貢いだ少女を、真面目に戦士として鍛え、貴重なアーティファクトまで与えた馬鹿がいる――。彼から聞かされたニーダルの情報は、由貴乃の想像していた人物像とかけ離れていた。何よりも、そういうことをやりそうな、根っからのお人好しを、紫崎由貴乃は知っていた。
敵としては要注意人物だったこともあり、所有する情報網の総力を尽くして調べ上げた。そうして、由貴乃は巷に流布された彼の悪行のほとんどが捏造であることを知り、同時に、真の絶望を知ることになった。
ニーダル・ゲレーゲンハイト。シュターレン軍閥の工作員にして、遺跡探索者。…彼は、最悪の禁呪、レヴァティンに捧げられた生贄だったのだから。
☆
龍神の間と記された戸を開けて、浴衣姿のニーダルは思わず息を呑んだ。
その部屋は、地上階にある部屋に比べ、ずっと小さかった。奥には、照明器具と音響機材が押し込まれ、中ほどにはTVとビデオデッキ、ゲーム機が備え付けられている。
本棚は、脚本と一緒に政治・経済・哲学・オカルト・軍事・刀剣物・銃火器・占い・恋愛小説といった書籍が溢れていて、ひどく混沌としている。
コタツの掛け布団をはいだちゃぶ台の前で、紫の賢者は深紫の法衣に身を包み、悠々と茶を飲んでいた。
「ようこそ、ニーダル・ゲレーゲンハイト。どうした? 掛けたまえ。座布団の使い方はわかるだろう? それとも珈琲の方が好みかい?」
「……」
「わたしに会いに来たのだろう? 風呂場まで。見たいのなら見せてあげたのに」
それにキミは、一度見ているだろう、と紫の賢者は笑う。
「バカヤロウ。覗くところに浪漫があるんじゃぁないか!」
「確かに。覗きだからこそ得られる甘美な背徳感は捨てがたいな」
ニーダルはちゃぶ台を隔てて、紫の賢者の正面に胡坐で座った。
「変わった趣味なんだな。もっとこう、ギンギラギンな部屋を想像していた」
「わたしにとっては、黄金よりも大切な場所だ。たとえイミテーションでもね」
ニーダルの視力は、未だ完全には戻っていない。ぼやけた紫の賢者の顔が、少しだけ悲しそうに見えた。
茶を口に含む。まずは、礼を言うべきだろう。イスカの兄姉達を保護するよう、頼み込んだのは自分だ。
頭を下げようとしたニーダルの機先を制するように、紫の賢者は口を開いた。
「率直に言おう。ニーダル。わたしのモノになれ」
「おいおい。無茶言うなよ……」
ニーダルは、公的にはエーエマリッヒ・シュターレンの客分だ。クソジジイ、バカゾウ、と呼び合う仲でも、深い義理がある。
ヴァイデンヒュラー軍閥への乗り換えなんて裏切りをできるはずもなかった。
「そうか。ならば、ここに集ったキミの娘と彼女の姉兄、ことごとく殺して見せようか」
紫の賢者とニーダルの黒い瞳が、互いの瞳を映し、火花を散らす。
「そう、きたかよ」
絶対の正義の一員を信用できるのか? クソジジイの忠告を思い出す。
「キミこそ、いつまで、エーエマリッヒ・シュターレンの幻想につきあうつもりだ? 民主化して三十五民族の協調がなりたつと、本気で信じているのか」
「ああ、信じているぜ」
人には異なる価値観があり、国には異なる文化がある。だからこそ、互いに手を取り合って、高みへ昇ってゆける。そう信じなければ、共和国にも、世界にもあまりに救いが無い。
「夢だな。そもそも共和国は真実の重みに耐えられんよ。ネメオルヒス騒乱で、キミは何人かの民間人を救ったようだが……。あの後、三百人以上の僧侶や民間人が秘密警察によって暴行を受け、拷問によって殺害された。パラディース教の独裁が終われば、今まで封じてきたこういった事実が表ざたになる。そうさ。今まで正義の味方ぶって平和の国、理想の国と掲げてていた連中が、共和国の正体が最低最悪の悪らつな非道国家だと知るわけだ。共和国の民も。他国にいる友好論者や”自称”平和主義者たちも、自分たちの為して来た行為が、平和への希求でも、友好への一歩でもなく、ただの邪悪への加担と虐殺の幇助だと知ることに、耐えられるのか?」
「そいつは」
否定できない。少なくとも、現共和国政権パラディース教団の行為は、善しと受けとめられるものではない。ゆえにこそ、ニーダルは、ベーレンドルフ閥にもヴァイデンヒュラー閥にも属さなかった。
「すべての邪悪を王国や他国に転嫁している方が、そういった支持者達にとっても、共和国にとっても、よっぽど都合がいいだろう? 貧困、疫病、大量破壊兵器による汚染、垂れ流す公害、すべては共和国の、パラディース教徒の身から出た錆ではなく、パラディース教徒が富を独占しているからでもない。他の先進諸国の王国のせいだと納得させる方が支配しやすいじゃないか?」
「それは、パラディース教徒の理屈だ!」
「だが、それを信じたいと、信じさせようとする輩は、いくらでもいる」
紫の賢者の断ち切るような言葉に、ニーダルは歯噛みする。
確かに価値観の多様性を認めるならば、こういった原理主義もまた力をもち、時に他の価値観を食い散らす。価値観とは、必ずしも合理性に基づくものではなく、時には感情や宗教が、その根幹となり得るのだから。
「覚えておき給え。愚かなる後輩よ。たとえ目の前に奈落が待ち受けていようと、甘言に乗るのが人の弱さだ。ゆえに悪徳は、美徳を踏みしだいて栄えよう。
我々はお前達から多くの物を奪ってやろう。多くの者を辱めてやろう。多くの存在を食いつぶしてやろう! なぜなら我々にはその資格があるから。天より与えられているから。――そういった価値観に従えば、自らが為す行為はすべて善となり、批判する他者こそ、許されない邪悪となる。
教育とは事実を教えることではなく、幻想を教えることに過ぎない。事実など知らない事実などいらない。幻想のみにすがる民族や国家の存在が、わたしの論拠の裏づけとなるだろう。彼らにとっては遺された資料証拠よりも、嘘八百を並べ立てた教科書やドラマこそが信仰の拠所となる」
「ナラールとナロールのことを言うなら、それは極論だ!」
確かにそういった奇怪な国は存在する。だが、一の例をもって全を論ずるのは――。
「はっ。我らが共和国と何が違うというのだ。他国を侵略し、史書を焼き捨て、文字を潰し、口伝の語り部を殺し、正しい、あるべき歴史観へと転向させる。ゆえにわたしは手段としてパラディース教を肯定しよう。捏造にて王国という仮想敵をつくりだし、すべての悪を転嫁させることで、正義の使徒を担おう。
あまたの少数民族と大多数の主要民族の血と汗と引き換えに、数パーセントのパラディース教徒が富と権力を占有しよう。
王国、イシディア、南部諸国、中東海地方、すべての人民を”パラディース教にとって邪悪な政権”から解放し、『共同体』の名の元に大陸をひとつにしよう。
正義と平和の両立。これこそまさに理想の国家形態じゃないか? 素晴らしき平和の国、たたえよ西部連邦人民共和国の御名を!」
「その裏でテロルを煽り、民族浄化を進め、大量殺戮兵器の実験や暴徒鎮圧の名目で虐殺を繰り返してか。共和国のどこに正義や平和なんてものがある!」
「ああ、だって、血を流すのはわたし達じゃない」
「っ」
ニーダルは奥歯を噛み締めた。
激情が沸きあがり、終焉の炎が彼女と己を飲み干そうと歓喜の声をあげるのを、強烈な自我をもって押しとどめた。
怒っても無駄だ。と心の中で誰かが訴えている。
幻想や解釈でなく事実にあたれ。
己の目で見て、己の頭で考えろ。編集され、演出された情報のみを見て、知恵者であると悦にひたるのは、何も学ばぬ愚か者に他ならない。そう自分たちに叩き込んだのは、他でもない目の前の女だ。
彼女はかつて言っていた。わたしを盲信なんてするなよ、と。
思い出せ。彼女の何を信じ、何を嘘だと見極めるのか、それは自分自身に他ならない。
読みきれ。紫の賢者の意図を。彼女の”今”の発言は、ある面で正しいだろう。パラディース教高官は満面の笑顔で肯定するはずだ。だが、そんな西部連邦人民共和国のあり方は、選別者のみに正しくとも、致命的に間違ってる。
「正しいと信じたものが間違っていたり、間違っていると破棄したものが正しいことはままある。だからこそ、人は学び、進んでゆく。甘言に乗るのが人の弱さというならば、学ぶことが出来るのが人の強さだ。弱い? それがどうした! いつまでも弱いままだと思うのは傲慢だ」
「傲慢? 違う、真理だよ。弱者が努力で強者になれるわけないだろう。それは最初から、そういう強者だったというだけの話だ。人の役割は生まれた時から決まっている!」
「運命論か。ばかばかしい」
「覚悟と言い換えてもらおうか。凡俗は、自らの限界に絶望し、努力を放棄し、他者をのろい、逃避を続けながら、あの時別の選択をすれば良かったと夢想にふける。わたしは違う。繰り返しのテープのように何度生をやり直そうと、わたしはわたしであることを、わたし自身の自由な意志で選ぶだろう。――キミはどうだ。やり直したいことがあるのかい?」
ないわけがない。
愛するものを、大切な仲間を、すべてを失ったあの日、あの時をやり直せたら、と、幾度願ったことだろう。
「あるのだろう。ニーダル? わたしは、キミの願いを受け入れよう。 二人で七つの鍵を掴み、キミとわたしと、わたしたちが愛する者すべてで、新世界のリーヴ(アダム)とリーヴスラシル(イブ)になろう。永遠を手に入れ、枯れることのない桜の下、老いることもない楽園で、思うままに快楽をむさぼろうじゃないか」
そして、願いながら知っていた。自分のエゴのために、彼女を、彼らを、再び縛り付けることはできないと。異なる意思を持つものもいるだろう。彼らの願い彼女らの祈りを否定なんてできない。けれど、ニーダルもまたこの意思を否定させない。
「必要ない。俺の望みは、あいつらの仇をうつことだけ。そして、俺とあいつの約束は、七つの鍵全てを破壊し、神焉戦争の再来を防ぐことだ。押し付けられる楽園に興味はない。人はエデンを追われてこそ人だ。俺は閉ざされた永劫よりも、あいつの思い出とともに荒野へ行こう」
ニーダルの瞳にも、言葉にも迷いは無く――。だからこそ、紫崎由貴乃は許せなかった。
あいつ、あいつと喧しい。とっくの昔に屍となったレイチェル・ストレンジャーがそんなにも大事か。
その感情は嫉妬に似ていた。近衛も美鳥も空も、赤枝も蔵人も、わたしも忘れられたというのに、ニーダル・ゲレーゲンハイトを名乗る亡霊は、いつまでも過去の女にこだわる振りをしている。
「もう一度言おうか。わたしのモノになれ」
紫の賢者の誘いに、ニーダルはにぶいいたみを感じた。
かつて彼も欲したことがある。一人の女のココロとカラダを己がものにしたいと。
大切な女といつでも、大切な仲間といつまでも。そんな夢を見たことがある。
「昔、ある女に誓った。死が二人を分かつまで共に歩こう、と」
その女は死んでいる、と、由貴乃は言えなかった。
彼女は生きているのだ。10年を経てなお、彼の心で。たとえその心が、精巧なイミテーションであったとしても。
「かけがえのないものは戻ってこない。永遠に続くものはなく、だからこそ、幸いは美しく貴重だ」
魔術と呼ばれるこの世界の技術で創り上げた、偽りの残照。
西陽が射そうとも、壊れかけた扇風機が回ろうとも、この部室には大切なものが欠けている。
「ああ正論だとも。男の美学だか知らないが、吐き気がするほど滑稽だ」
許せない。わたしたちの楽園を引き裂いたこの世界が。
許せない。かつてわたしたちに現在と未来を見せた男が、過去の為だけに生きる亡霊に乗っ取られていることが。
許せない。偽者が本物のように振舞えば振舞うほど、心は切り裂かれて悲鳴をあげる。
「ふざけるなよ、レヴァティン。バカシロユーキの顔で、声で、お前がそれをわたしに押し付けるのか? 女の意地を舐めるなよっ。ノーラ!」
「はい。マスター」
かけがえの無いパートナーである、赤紫の小袖を着た少女が、由貴乃の傍らに寄り添う。
わたしはわたしの宿命を肯定しよう。
世界を越え幾度の輪廻がめぐり来ても、いまここにある瞬間がかくあることを望む。確然たる正義の刃もて、漠然たる運命を切り裂こう。
永劫回帰が機械仕掛けの歯車ではなく、自由意志によって招来される世界の根源と信じるがため――。
「わたしは誓う。我らが愛しき日々の痕跡を永劫へと滅びさせはしない。時よとまれ。お前は美しい」
第二位契約神器ミーミル――「時果ての夢」――開演
「女と殴りあう趣味はないんだがな。イスカやオジョー達に危害を加えるってんなら、話は別だっ! ア ク セ ス」
ニーダルの手が中空に文字を刻み、背より――
「い?」
何も起きなかった。滅びの炎は、翼として具現化することなく、ニーダルは指先ひとつ動かすことができなくなった。
「使わせんよ。言っただろう。時を止めたと。神話にて旧世界の幕を引いた剣――。デウスエクスマキナを、副将軍の印籠や、遊び人の桜吹雪を、黙って待つ馬鹿がどこにいる? 愚かな偽者の後輩。切り札は、引かせる前に絶つまでだ。その肉体、返してもらう!」
紫の賢者が文字を魔術文字を綴り、何かを掌中に転移させた。
首輪、だ。あれはヤバイ。あれはマズイ。とニーダルの全身が総毛立った。
けれど、肝心の肉体はぴくりとも動かない。
『紫の賢者にゃ、悪癖があってな。あの人は、石橋を叩いて渡るどころか、爆弾で吹き飛ばして新しい鉄橋をかけるんだ』
ナナオ達にしゃべった自分の言葉を思い出す。
決めたが最後、やり過ぎるほどに入念な準備を、徹底的にやってしまうのが先輩のやり方……。
レヴァテイン――「終わりの太刀・始まりの焔」の残滓――その対策を考えていないと、どうして思ったのか。
(しくじった……!)