第一話 プロローグ/再会
復興暦一一一三年/共和国歴一〇〇七年 若葉の月(3月)14日目午前。
ミズガルズ大陸中東海地方アースラ国の首都、空港近くにある公園を、季節外れの紅いコートを着た黒髪の青年が歩いていた。
目が良く見えていないのか、足を痛めているのか、あるいはその両方か、杖を片手にふらふらと覚束ない足取りで空港を目指して歩いて行く。
あまり清掃されていないのだろう。放置された金属片につま先を引っかけて、盛大に転んだ。
笑うものはいない。手を差し伸べるものもいない。人々のざわめきが何一つ聞こえない。
「……」
ここでようやく青年は違和感に気付いた。視覚と四肢の感覚に続いて、聴覚まで異常を起こしたかと諦めていたが、どうやら本当に人がいないらしい。
わずかに肌で感じる嗅ぎ慣れた臭い。血と鉄と魔術が醸し出す、戦場の気配。周囲一帯を、人払いの魔法陣が遮断しているようだ。
杖を取ろうと手を伸ばし、這うように進む青年の前に、小柄な少女の影が立ちふさがった。
「酷い有様ですね。ニーダル・ゲレーゲンハイト。マスターは忠告したはずです。これ以上、禁呪を振るえば、命の保証はない――と。それが第三位を四人も相手に戦闘した挙句、生物兵器と海賊を相手に連戦、縁もゆかりもない子供の家を探して転移魔術の大盤振る舞い。貴方、死にたいのですか? そうですね?」
「笑ってたんだよ。あいつら。親子でわんわん泣いて。……ありがとうって。だったら、いいじゃねえか。細かいことは気にすんな」
まるで赤子がそうするように、三本脚になって、ひどく時間をかけて、ふらつきながらニーダルは立つ。なんという不様さかと、少女の影は不快という感情を演算する。
「帰る場所があるのは、いいこった。お前もそう思うだろう? ノーラ・ドナク・アーガナスト」
「肯定します。そして、否定します。私は第二位級契約神器ミーミル。ノーラの名は、我が盟約者たる”紫の賢者”、紫崎由貴乃様のみが呼ぶべき名。地を這う馬の骨ごときに、許した覚えはありません」
アサガオをあしらった赤紫の小袖をまとい、白い草履を履いた童女は、頬こそ染めぬものの、明確な怒りの感情を露わにした。ニーダルは流すように微笑んで、言葉を続けた。
「そりゃ悪かった。ところで、ノーラちゃん。杖どこいったかな。転んじまって、近くにあると思うんだけどよ」
ノーラは応えなかった。返答の代わりに細い指で魔術文字を綴り、円形の魔法陣を中空に呼び出す。
「ニーダル・ゲレーゲンハイト。貴方は先ほど言いましたね。帰る場所があることはいいことだ、と。 ならば、どうして帰らないのですか? 貴方の娘は、イスカ・ライプニッツ・ゲレーゲンハイトは、貴方に逢うことを心待ちにしているのに」
ニーダルは、溢れそうになる言葉を、喉に押し込み、胸の中へ呑み込んだ。言ってはいけない。今はその時でない。もうすぐ、もうすぐ帰れるのだから、その時までは。
「俺は、出来の悪い親父だからな」
憎まれても、押し通さなければならない。それが、覚悟――。
「肯定します。マスターからの伝言です。”拝啓。愚か者の後輩へ。あれから考えてみたんだが、キミの考えは正しい。正しいけど間違ってる。だから、愚かなキミと、賢いわたし。どちらの答えが相応しいか決めようと思う”」
「は?」
ニーダルは見えていない黒い眼を見開いて、ノーラを凝視した。この娘は、この娘のパートナーはいったい何を言ってるのかと。
「”抵抗は無駄だ。賛同しても拒否しても、力づくで連れてゆくから。じゃ、またあとでね。かしこ”……以上になります」
伝言を終えると同時に、童女が円形の魔法陣から取り出したのは、直径20cmを越える口径の長大な砲塔の前身部だった。
「ま、待て。賛同しても拒否してもっておかしいだろぅっ」
「知らないのですか? 我が西部連邦人民共和国における交渉とは、常に”既成事実と脅迫”です」
「理不尽だろぉおお!」
「世界の潮流とはそういうものです。ショウダウン!」
ノーラが告げた直後、赤い砲撃が、ニーダルをぶち抜いた。
七つの鍵の物語 ― 温 泉 ―
1
復興歴1113年/共和国歴1007年、若葉の月(3月)14日目正午。
中東海地方、ディミオン首長国連邦中心都市ドーム。観光と金融の中心地と呼ばれ、一大栄華を誇ったはずの都市は、黄昏を迎えていた。
建設途中で放置され傾いたビルや、路上へ置き去りにされた外国人労働者の人形駆動車が、そこかしこで目についた。
初めてこの国に降り立ったロゼットは、二つに結わえた黒褐色の髪を風にさらして周囲を伺い、煌びやかなビルの群れと対照的な崩壊の気配に息を飲んだ。
「世界不況とは聞きましたけど、まさかここまでなんて」
5(フェンフト)。――否。今はアンズと名を変えた少女が、ショートの紅茶髪を揺らして、空港の敷地からスキップを踏んで飛び出してくる。
「1(アインス)~~。教えてあげよっか。お師様から聞いたんだけどね。元々以前のケイキはジッタイのない泡のようなものだったんだってさ。それを支えていたのが返す当てのない、ううん、取り立てる見込みのないサブプライムローンなのね」
アンズの説明に、ロゼットは記憶を掘り返した。
サブプライムローン。低所得者向けローンの看板を掲げた、通常の住宅ローンの審査には通らないような信用度の低い人向けのローンのことだ。5(フェンフト)――アンズの言う通り、債務履行の不安定なこれらのローンは返済が遅滞され、あるいは不履行に終わることになった。
「で、お師様曰く、問題だったのは、不動産のローンによる売買そのものが、債務担保証券として、金融機関や投資家の間で取引されちゃったんだって。そうやって何度もタンポやショウケン化を繰り返すうちに、どこに紛れたかわからなくなっちゃった。とうとう、キンユウ商品全部の信用がなくなってキンユウ界は火の車♭ で、えええと」
「たしか、ナロール国の中央銀行がなんとか兄弟って投資銀行を買い取るはずが、土壇場で手のひらを返して、倒産したのよね」
中央銀行の重鎮は、元手タダで十分な宣伝効果を得た、なんて下衆なことを言っていたはずだ。その後のことを考えもせずに。間抜けにも程がある。
その倒産を皮切りに、浮遊大陸アメリアは勿論、妖精大陸や中東海地方に至るまで、各国の金融企業や複合大企業が軒並み吹き飛んだ。
引き金を引いたナロール国は、無関係な隣国に対し、「|国際通貨基金(I M F)へ支援するなんておかしい。我が国だけを助けるべきだ」と、倫理観を疑う寝言をほざいたそうだが、当たり前のように無視されたらしい。
その隣国、ガートランド王国は、氷漬けになっていたアメリア国債等を駆使し、国際通貨基金を通じて多額の融資を行うことで、妖精大陸・ミッドガルド大陸諸国の破たんを防ぎ、転覆寸前の世界経済の穴に栓をした。
同時に収縮した経済を刺激するため、投資を呼ぶためのバリアフリー工事の減税や、リストラを止める緊急雇用助成金の枠拡大、給付金の支給など有効需要を生むいくつかの政策を実行にうつすことで、どうにか景気の悪化に歯止めをかけたらしいのだが。
「そうそう、その倒産をきっかけに、キンユウ界や世界企業がぜーんぶ大火事になっちゃったから、買い占めたり値段を釣りあげてた資源の価格が暴落しちゃったわけよ~」
かくして、魔法石という燃料資源の裏付けで栄華を誇っていた、このドームの町にも斜陽が訪れたらしい。
「ひとつの泡がはじけて、こうなるの? 経済っておそろしいのね」
殺すこと、殺されることだけを考えていた自分たち殺戮人形にとって、あまりに未知の世界だ。
「大丈夫だって。ピンチはチャンスの裏返しなんだから。これから行くホテルも、お師様が二束三文でかき集めた負債と引き換えに、無理やりぶんどったんだよ」
……今、アンズの口から何か恐ろしい言葉が聞こえなかっただろうか? ロゼットの額から、一滴の汗が落ちる。
「紫の賢者。貴方のお師様って……」
「えぐいひとだよ。たとえどれだけ生真面目に政治に取り組んでも、いくつもの国の国家破産を防いでも、地に落ちた景気をどうにか下支えして回復まで持ち込んでも、ただ文句言って必要な政策の邪魔をしたり、’秘書が’企業を恐喝して献金を強制したり、’秘書が’個人献金を装って脱税したり、すべて’秘書のせい’にして’秘書が行方不明’になっちゃったりするほうが高く評価される場合もあるのが世の中だ。だったら利口に生きたほうが得だ。それこそが賢い生き方だよって」
「ず、ずいぶんと生々しいたとえを持ち出す方ですわね……」
本当にそうだろうか。それが賢いのだろうか。納得がいかない。……そう思うのは、7(ズィーベン)や12(セバルツ)達同様に、あの人に感化されたせいか。
そのやり方では、先に必ず破滅が待っている気がする。サブプライムローンを利用した者たちのように。
(でも、悪い人には見えなかったのですわ)
ロゼットは、翡翠色の瞳を閉じて、この数日間の出来ごとを思い返した。
20(ツヴァンツイヒ)こと、イスカ・ライプニッツ・ゲレーゲンハイトを連れ去ろうとしたヨゼフィーヌ・Ⅳ・ギーゼキング教官を倒した後、ロゼットたちメルダー・マリオネッテは、遺跡から這い出てきたらしいモンスターの群れに襲われた。教官の部下だった別チームと共闘し、どうにか逃れようとしたところを、”紫の賢者”に救われたのだ。
本名不明。年齢不詳。第二位級契約神器ミーミルの盟約者であり、共和国ヴァイデンヒュラー軍閥の魔術顧問を務める若き才女。
彼女は、空中戦艦ソラカケノフネの砲撃で怪物の群れを一掃し、20(ツヴァンツイヒ)を除くメルダー・マリオネッテ全員の所有権が、前責任者ドクトル・ヤーコブから自分に移ったことを告げた。
「お人形で戦争ごっこなんて、そもそもオトコノコの発想なのさ。お人形を買ったら、これでしょ。着 せ 替 え 遊 び ☆」
紫の賢者の鶴の一声によって、丸二日間。女の子だけのファッションショーだかコスプレ大会だかよくわからない宴が催された。
ロゼットだって年頃だ。着飾ったり、お化粧に興味がなかったわけじゃない。11(エルフ)は「神が、神が、降りてきたわ!」とかよくわからない歓喜の叫びをあげて服を仕立てていたし、20(ツヴァンツイヒ)……イスカも、ヒラヒラした服が着れてご満悦のようだった。雑用を命じられた7(ズィーベン)や12(セバルツ)達、少年組には悪いと思うが、楽しかった。けれど、気に入った服を着た子を見るたび、寝室へ持ち帰ろうとする紫の賢者を止めるのには閉口した。
『かわいい~~。お姉さんとステキなこと、しましょうね』
『え、え?』
『待ちなさい。ついて行ってはダメぇええ』
5(フェンフト)から聞いていた。だからある程度覚悟はしていた。でも、本当に骨の髄まで百合嗜好だなんて思わなかった!
『こんなとき、ベルさんがいたら、こんなことにはなりませんのに』
つっこみ役とトラブルシューターの手が足りない。イスカの契約神器の意識を宿した灰色熊のぬいぐるみベルゲルミルは、ヨゼフィーヌ・Ⅳ・ギーゼキング教官の計略で今は共和国の空の下にいるはずだ。
それでも、馬鹿騒ぎは痛快で、まるであの七日間のようで……。着せ替えが一通り終わった昨夜、「ゆかた」という紫の賢者の故郷の服を選ぶよう勧められた。
『皆、行きわたったね。じゃあ、今日からそこに描かれた華が、キミ達の名前だ。3はミズキ。6はフジ。10はアヤメ。11(エルフ)はエンジュ。12はネム……』
聞いたことも無い異国の……異世界の華。でも、ナンバーじゃない己の名前を、メルダー・マリオネッテは得た。ちなみに少年組は。
『男はどーでもいーや。ニ郎四郎七郎以下略で』
『あんまりだ!!』
本当は冗談で、ちゃんと名前も考えていたそうだけど。7(ズィーベン)はナナオ、12(セバルツ)はトウジという名前をもらっていた。
そして、ロゼットが選んだ浴衣に書かれていた花は、桜。ソメイヨシノ…。
『1(アインス)。キミはどうする?』
メルダー・マリオネッテの中にも、数名だが自分の名前を覚えていた者がいる。彼らが自分の名前を取り戻すことを、紫の賢者は拒まなかった。
『キミの選んだ花は、もっとも艶やかで多くの人を魅了し、散る花だ。実も残せず、それゆえに咲き誇る姿は儚く、鮮やかで美しいとされている。選びたまえ。キミは、どちらの名前を選ぶ?』
『ワタシは、鮮やかでなくていいです。いつか、あの人の為に、あの人の傍で咲いて、実を残したいから。だから、ワタシはロゼット。ロゼット・クリュガーです』
『そうか。ならばそれでいい。ロゼット』
「5(フェンフト)、アンズ。紫の賢者は、どこかあの人に似ている気がします」
「1(アインス)。ロゼットはキオク美化しすぎだよ。賢いお師様と馬鹿丸出しの変態さんだよ。正反対だって。似てるのは、女好きってことくらいかな」
そういったことを話しているうちに、目的のホテルに着いていた。
ひたすらに広い。プールと温泉設備が左右両端に二つずつついて、庭が丘と公園と遊戯施設を兼用して、今も工事中だ。ホテルの棟に入るのには、まだしばらくかかるだろう。
入国に関する雑処理の為、アンズと一緒に残ったロゼットだが、これなら歩くより転移魔術を使った方が早かったと少しだけ後悔した。
バックパックを背負いなおして走り、玄関を潜ろうとした二人だが、後方からサイレンを鳴らして人形駆動車が走ってきた。
医師と看護士が慌ただしく担架を降ろし、ホテルに運び込む。
「血圧、心拍数ともに低下、治癒術符を追加!」
「信じられん。砲撃を受けて生存なんて。絶対に生かすんだ」
……
………
ここ、ホテルだろ。病院じゃないだろ。なんで救急車が患者を運び込むんだ。
疑問で首を傾げた5(フェンフト)、アンズだが、風変わりな師のことだから、金持ち向けの病院も併設したのかもしれない、と納得する。
「ア、ロゼット。気にせずに入ろうか」
「いまのひと」
ロゼットの様子がおかしい。まるで魂でも抜かれたかのように、呆然と立ち尽くしている。
このままでは通行の邪魔と、彼女の手を掴んで硝子の扉を潜ろうとしたアンズだが、直後にまるで乱闘するような轟音が響き、一瞬躊躇する。
ひたひたひたと、何者かがドアの前に近づいてくる。
男は全身に包帯を巻き、白い布地を血の色に染めて、今にも倒れそうな体を杖に預け、ミイラかゾンビさながらに歩いてくる。
「アインス! 武器を出してっ」
警戒するアンズ、5(フェンフト)の声も届いていないようだ。ドアが開く――。
「そこの美しいお嬢さん。ここがどこか教えてくれないだろうか? 実は道に迷ってしまったんだ」
ロゼットの頬に血が昇る。会えた。やっと逢えた。ずっとずっと逢いたかった人に。
「良ければ、食事でも一緒にどうだい? 幸いここにはレストランもあるようだし」
アンズは思った。重傷を負ってなお、ナンパじみた台詞を吐く。この馬鹿さ加減は、まるであの変態さんのようだ……と。
ロゼットは至福に包まれた。再会の喜びで胸がいっぱいになった。そればかりじゃない。口説かれている。このワタシが彼に……。
あれ、でも、と、しかし彼女は違和感に気付いてしまった。彼の言葉はまるで初対面の相手を口説き落とすかのようで。
ひょっとして忘れられてる?
一年を共に親娘として過ごし、その後も何度か接触していたらしい20(ツヴァンツイヒ)とは違う。わずかに七日だけ。
この想いはワタシだけのもの。感謝と思慕が混じり合った一方的な情念。恋に恋していると言われても仕方ない。
それでも逢いたかった。ずっと思ってた。それが、それが。……一方的に忘れられた。
「いやあああああああっ」
「……この声、オジョー?」
ニーダルが疑問の声を上げた時、すでにひねりかぶって唸りをあげたロゼットの平手打ちが、光の魔術を帯びて彼の頬を捉えていた。
吹き飛ぶ彼が、最後に目にしたのは、成長した懐かしい娘の姉の姿。
(おおきく、なったなあ、胸は全然だけど)
「これで、もう悔いは…って、俺は何で急に死亡フラグ立ててるんだ。納得いかねえええええ」
そんな悲鳴をあげながら、ニーダルは向かい側の硝子窓と壁をぶち破り、意識を手放した。
暗転する視界の中で、彼は、ものすごーく嬉しそうに邪悪な笑みを浮かべる懐かしい先輩を見た気がした。
(…先輩って、誰だよ?)
ズガン!!
ニーダルの疑問は、結ばれることなく、闇の中へと解け消えた。