第一話 モータル・マンティス・アーツ
20XX年。サンフランシスコ。愚龍軒という小さな町中華から、この物語ははじまる。
「おい親父。テレビのチャンネルを変えろ」
かつてジョージア州のクイズ王ミスター・スミスがこの番組だけで百万ドル稼いだという高額クイズ番組をつけていた店主。クイズの傾向を知り、いつか出場してアメリカンドリームを掴むつもりだったが、毎週最後観ることは叶わない。
客はこの曜日のこの時間、かならずチャンネルを変えたがる。
「またあれかい?」
「決まってんだろう!」
今日も工事現場での労働で汗を流した体育会ハゲ、ジャスティン・マレー(33)。ジャパニーズ・アニメーションキャラクターのタトゥーの入った逞しい腕でビールの栓を開け、チャンネルを変える。テレビが輝く。音が爆ぜる。
「ワイルド・レスリング・エンターテイメント! 今日はカリフォルニア州クレストゲートパークからお送りします」
リングを臨むアリーナの花道上、拳で激しく空を殴り、唾を撒きながら大演説するのは、サラサラの金髪に細身のオーダーメイドスーツ、新品のミルクよりも白い歯のイケメン。ああ、こいつは嫌いだぜ、と呟いたジャスティンは、顔をしかめながら次のセリフを諳んじてみせた。
「申し遅れました。私はWWE社王、或いはCE王! ザ・グレイテスト・ミスター・ライト! ビクトル・ビリオンベルサーチ!」
CE王が腕を広げると吹き出すパイロ! 黄金の紙吹雪! カクテル光線が踊り狂い、オーロラビジョンはワイルド・レスリング・エンターテイメントのネバーでエバーなレガシーを物凄い勢いでスクロールさせ、実際に放送が始まる度にワイルド・レスリング・エンターテイメントの株価もオーロラビジョンと同じくらい目まぐるしく急上昇する。
「それでは、今日の第一試合に入りましょう。……まず入場するのは、US王者“アメリカザリガニ人間”! マッカチン・モクスリー!」
ザリガニめいた真っ赤なタクティカルベストの格闘家が入場し、コーナーポストでパフォーマンス。会場を割る歓声! そして……そのパフォーマンスで振り上げられた左手は人間、そして右手はハサミだった。実際にキトサンの甲殻で構成された外骨格の……ザリガニ人間だったのだ。
「おぉーっと今日のお客様は超ラッキーだ! 坊や、今日のチケットはいくらで買ったんだい?」
ビクトルは花道近くで目を輝かせながらマッカチンにチャントを飛ばしていた純粋そうな歯抜けのハナタレ坊主にマイクを向け、今すぐハリウッドからオファーが来そうな眩しい笑顔で耳を傾けた。
「今日のチケットは抽選で当たったんだ! だからチケット代はかかっていないよ! 素敵な抽選制度をありがとう! ミスター・ビクトル!」
「HAHAHA! 私はただ、人の笑顔と本当の強さが見たいだけさ! 君は今日! 百万ドルの得をした! 何故なら第一試合で、US王者とベルトをかけて戦うのは……“ザ・リアル・スターズ・アンド・ストライブス”! WWEヘビーウェイトチャンピオンのジョニー・ジョックスだからさ!!!」
親父は耳を塞ぎ、リモコンを指さした。
「アイヤー、ちょっとテレビがうるさいよ! 音量落としてよ! 静かにするね、ジャスティン!」
「興奮せずにいられるか!? ジョニーはサンフランシスコの英雄だぞ!?」
「あいつは英雄じゃないね。クズだよ」
「ははぁん? さては親父……ナードだな? 確かにお前ら、勉強得意そうだもんな」
「訂正するね。アジア人でもブルース・リーだけは素早くてセクシーね」
パタタタタ、と店の前に独特の排気音。デリバリーのヴェスパが帰ってきたようだ。
「お疲れ、ルー。あともう一軒、配達行ってくれるかね?」
「押忍。合点承知です」
ルー・ミヤギ(18)。愚龍軒のアルバイト。ちょっとクールな可愛いジャパニーズガールだ。
「おいルー! バイトが終わったら一杯付き合えよ」
テレビ、ジャスティンと視線を滑らせたルーはキャップを目深にかぶり、すこしじめっとした視線を隠した。
「七時半にカンフーの稽古があるの。付き合えないわ」
「今日は休め」
「無理なものは無理です」
店の親父が手を叩き、酔ったジャスティンを引き離した。それにジャスティンも悪いやつじゃあない。すぐに引きさがり、テレビで試合に夢中だ。
「じゃあ次はチャイニーズ・ロースト・キャメルの配達ね。それが終わったら直帰でいいよ」
「押忍」
「道場、寄っていくんでしょ? これ、持って行くといいね。よく煮た鶏肉。味付けはしてないけど、柔らかい。体にも顎にもよくて食べやすい」
「すみません、師匠も助かります」
「早くよくなるといいね、師匠」
ルーはよく煮た鶏肉の入ったタッパーとチャイーズ・ロースト・キャメルの紙パックを受け取ってヴェスパに跨った。パタタタタとマヌケに鳴る排気音。調子はあまりよくなさそうだ。ヘルメットをかぶっていても聞こえる、街頭テレビやあちこちの家のテレビの音。どこもWWEだ。行きかう人たちは早く家に帰ってWWEで最強生物を見たい人か、そんなものには興味がないか。この曜日、この時間帯は最強生物への興味だけが街を定義する。だからルーは楽だった。幸いにも最強生物に興味がないどころか、WWEは嫌いだった。それでも人々は、地元の英雄ジョニー・ジョックスの勇姿を見るためにデリバリーを頼む。ヴェスパに跨っていれば少なくとも画面を観ることはない。
「コニチハー。愚龍軒の配達です」
「置いとけ!! 代金はポストの中だ!」
お客はテレビの前から一歩も離れたくないらしい。今日の第一試合はジョニー・ジョックスの王座戦。試合も盛り上がっていることだろう。ルーはポストの中のお金を数えた。少しばかり多いようだが、律儀にポーチからお釣りを取り出して入れておいた。師匠ならそうする。
今日のバイトは終わりだ。ルーはヴェスパを東に走らせ、一軒の古びた寺院に愛車を停めた。すぐに祭壇に長い線香を何本か供え、タッパーを持って東の部屋に向かった。
「師匠。来ました。ルーです」
「おぉ、ルーか。今日も来てくれたのか」
部屋から聞こえてきたのはむせ返るようなダンディズムを感じさせる柔らかく落ち着いたローバリトンボイス。姿を見せない寺院の主は、その色気のある声に病んだノイズを混じらせていた。
「師匠。バイト先の親父が、師匠の体に良さそうだとよく煮た肉を作ってくれました。噛めばほくほくに崩れて顎にも消化にも良いそうです」
「すまんな。置いておいてくれ」
「わかりました。では、今日も自習します」
ルーは誰もいない道場で髪を結い、道着に着替えて精神統一した。そして雑巾がけし、ハタキで埃を払い、誰も使わないヌンチャクやサイを磨いた。
「……」
道場の名札には、師範代の欄にジョニー・ジョックスとある。ルーは一般門下生、それどころか体験入学の段階だ。
だが、もうこの道場の名札は二十枚以上機能していない。機能しているのは道場主である師匠、そして体験入学の一般門下生ルーだけだ。
「アトァッ!」
まずは基本の正拳突きのルーティーン。そして、あの日師匠が見せてくれたような木人との模擬戦闘。フェイントを入れても誰も引っかからない。道場には誰もいない。
「ヒャー!」
訂正。誰もいなかった、だ。
軽薄な叫び声は、一触即発の戦場に鳴る嚆矢となる! 寺院の門のすぐ横にあった錆びたバケツが蹴り上げられ、ジャラジャラとしたチェーンや鋲のアクセサリーが物騒に鳴る。チンピラだ。ヒャー、ヒャハー、ヒャッハーと叫ぶ無法者たち。無法者にもディストピアにも、BPMを高めるリズムは必要なのだ。
「やめてください」
帯をぐっと締め、覚悟を決めてルーは道場から飛び出した。目の前には無法者五人。モヒカン、ダブルモヒカン、スキンヘッド、パンク辮髪……そしてWWE非公認のジョニー・ジョックスのキャップだ。まずはモヒカンが口火を切った。
「ジョニー・ジョックスが昔通ってた道場ってここだろう?」
「はい」
「ここで修行したら強くなれるのか?」
「はい」
「ジェニファーのケツを撫でてもビンタされないくらいに?」
「多分」
「だけどジョニー・ジョックスはカンフーなんかやめてWWEに入門したから強くなったって言ってたぜ」
「……」
握る拳に力が入る。みき、と腕に強く血管が浮かぶ。
「プランA。ジョニーの古巣を襲ってジョニーを怒らせ、ブチのめして俺が最強生物。プランB。ジョニーと同じカンフーを習って俺が最強生物。最強生物になればジェニファーのケツを撫でるのも怖くねぇ。ジェニファーのケツを撫でてジェニファーにビンタされることも、ジョエルに殴られることもねぇ」
「強くなりたい動機は不純で構わない。ただ不純なまま強くなってはいけません。鍛えるなら礼節を。そしてここでは師匠がルールです。師匠に従ってもらいます」
「その師匠とやらは?」
「体調がすぐれません。入門したいなら挨拶を。ただしスプーンの上の生卵のように丁寧に静かに接してください」
「まずお前は?」
「門下生のルーです」
「お前で確かめるとするぜ。これでも俺はストリートでそれなりに強い」
「そうでしょうね」
「わかるか? さすがカンフー使いだな」
「いえ、ここ最近ここに来る人たちはみんなそう言います。ジョニー・ジョックスがああだとか、自分はそれなりに強いとか。先に言っておきますが、わたしは強くはありません」
「だろうな。俺が確かめてぇのはお前のケツがジェニファーのケツより触り心地がいいかだぜ!」
モヒカン突撃! フットワークは隙だらけ、重心移動も関節で力が殺されて伝わっていない。素人だった。そしてルーは……。
「ヒャガッ!」
「アトェッ!?」
モヒカンの腕の太さを見て腰が引けてしまっていた。ガードには成功したが、肉が熱を持ち、骨が戦慄く。そう。幼少期からカンフー映画の真似事をし、二年前にこの道場に入門したルーは……。相手のいない状態でのシャドーカンフーしか出来ない素人、それも体格も大きくなく十分に一般的な女の子と言える!
そんな女の子が、少なくともファッションとしてでも筋肉を備え、街ではケンカもするであろうチンピラを相手に、それも五人を相手に勝てるはずもなかった。
しかし彼女は何と言った? 「最近ここによく来る人たち」。つまりこの道場は何度も襲われている。それでも道場はチンピラのたまり場になっていない。
「ルーよ!」
力強いとは言えないが、さっきよりは幾分力んだローバリトン。師匠だ。師匠が助けに来てくれたのだ。道場の玄関までなんとか師匠がやってきて、ルーを呼んだ。その姿に、チンピラたちは息を飲んだ。
「師匠……。わたしが不甲斐ないばかりに……」
「ルーよ。もう道場はよいだろう。畳もうじゃあないか。固有資産税もかかるしな」
「嫌です! 師匠……。力を貸してください」
「……少しだけだよ」
師匠から緑のオーラが線香じみて吹き出し、ルーの眉間へと流れていく。ルーの脳内で危険に吹き出すドーパミン! 肉への欲を煽り、抑えられないトキメキ! 鼓動のBPMが急上昇し、爛々とした危険な目で師匠を見た。
「ありがとうございます、師匠……。そんな優しい師匠のことが、わたしは大好きです」
「うむ」
チンピラたちは何が起きたかわからなかった。今まで酒やタバコ、いろんなドラッグをやってきたが、あの女の子程にラリったことはないだろう。或いはカンフーのやりすぎによるパンチドランカーか?
何故なら、女の子が師匠と呼んで泣きつき、それに応えたのはたった三インチのカマキリだったのだ。
「俺もラリってるのか?」
モヒカンは自らの頭を少し叩いて正気を確かめてみた。あのカマキリ、渋い声で英語を話していなかったか? まさかジョニー・ジョックスは……。師匠が喋るカマキリになってしまったからこの道場をやめたのか!?
そんなことを考える時点で自分はラリっているとわかっている自覚があった。
「師匠の一番弟子! ルー・ミヤギが相手よ!」
少なくとも可愛いジャパニーズガールの目や息遣い、テンションはアッパードラッグじみた何かキまった人物のそれだった。
そして両手で奇妙な構えをとり、ゆらゆらと体を幻惑的に揺らす。モヒカンは幻を消そうと殴りかかった。刹那、頭が感じる空気抵抗。ぞりぞりぞりと頭皮を這う何かの感覚。そして、一気に解き放たれて前のめりに倒れた。はらはらと、青に染めた自分の髪が降ってきた。触ると髪型はスキンヘッドになっていた。鋭利な刃物で剃られたように。
「……」
振り返ると石灯篭と竹が一直線に切り揃えられている。そして、それはすべてジャパニーズガールのチョップの軌道上にあった。斬撃が飛んだのだ。
「それは……?」
「学びたければ、教えてやる」
モヒカンは土下座した。許しを請いたかったのか、礼を尽くしたのかは自分でもわからなかった。
「この格闘技は、師匠が故郷で学んだカマキリのカンフー、蟷螂拳。それをさらに実戦格闘技まで昇華させたその名は……」
20XX年。
大富豪にして天才プロモーターのビクトル・ビリオンベルサーチは、怪しげな呪術師と手を組んで世界各地の格闘家やその有望な弟子を動物に変えた。
そして最強生物を知りたいという願いから、自らの格闘技団体ワイルド・レスリング・エンターテイメントに出場させ、元の体に戻すことを景品に戦わせる。
師匠が呪われ、カマキリにされてしまったこの少女、ルー・ミヤギ。
師匠に恋する彼女は、師匠からカマキリオーラを分けてもらうことでカマキリ憑依状態となり、精神へのカマキリ侵食と引き換えに師匠の編み出した超実戦蟷螂拳を使用可能となる。
その新たな格闘技の名は!
「MMA。モータル・マンティス・アーツ!」
第1話 モータル・マンティス・アーツ




