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隠れキリシタンの処刑の島にして聖地・中江ノ島

作者: 尾妻 和宥

 長崎県平戸市に属する中江ノ島(なかのえしま)は、平戸島北西岸の沖合2kmに浮かぶちっぽけな無人島だ。

 中江ノ島では禁教時代初期に平戸藩によるキリシタン処刑が行われた記録があり、また現在の生月いきつきの、隠れキリシタンにとって聖水を採取する『お水取り』の聖地として『サンジュワン様』などと形容されている。


 慶長18(1613)年、徳川幕府が全国に禁教令を出す。

 翌年、キリシタンは国外追放となるが、その後何人もの宣教師が国内への潜入と布教を開始。 

 カミロ・コンスタンツォ神父もその一人で、元和8(1622)年に平戸・生月で布教を行ったのち、五島に渡ったところで五島藩の役人に捕らえられ、9月15日、平戸瀬戸に面した田平側の岬で火あぶりの刑に処された。


 神父は柱に縛りつけられながらも日本語、ポルトガル語、フランドル語で説教し、火がつけられても説教をやめず、聖歌を唄いながら絶命。 

 このカミロ神父の布教に協力した多くの信徒も処刑されたが、その多くは生月出身者だった。




 神父を泊めたヨハネ坂本左衛門と、船を用意したダミヤン出口は、翌年5月27日にこの中江ノ島で処刑されたが、ダミヤンなど船中で漕ぎ手を手伝い、賛美歌を唄いながらを漕いだという。

 また6月3日には船頭で堺目出身のヨアキム川窪庫兵衛が、6月8日にはヨハネ次郎右衛門が同島で処刑された。


 次郎右衛門は棄教の印に異教の札を呑むことを拒み、中江ノ島に渡る船の中で、「ここから天国は、そう遠くない」と発言した。 


 さらに寛永元(1624)年3月5日には、ダミヤン出口とヨハネ坂本の家族たちが、中江ノ島の『地獄』という場所で殺されたが、坂本の年長の子供たち3人は一緒に昇天できるよう、たわらにつめられた状態で縛ってもらい、首に袋を被せられて海に投げ込まれた。




 隠れキリシタン信仰の中でも中江ノ島は、上述した『サンジュワン様』の他に、『お中江様』『お迎え様』『御三体様』と呼ばれ、御神体に匹敵する最高の信仰対象とされ、聖水を取る『お水取り』の行事が行われている。

 

 島の断崖には岩の割れ目があり、祈り(オラショ)を唱えると、乾燥したときでも水が染み出てくるとされている。それを聖水として使うわけである。


 伝承では、どれだけ日照りでも聖水は枯れない、オラショを上げると聖水があふれる、隠れキリシタン以外の人が訪れても聖水は湧かない、聖水は腐らない、採取した聖水は目減りしない、などと伝わる。


 平戸市生月町博物館『島の館』の資料によれば、昭和初期、『黒瀬の辻』と呼ばれる丘の上に 『ガルパス様の松』なる大松が生えていたという。

 その根元には古い積石墓があり、これこそガスパル様の墓と言われ、隠れキリシタンにとって特別な場所となっていた。


 松は戦後の松枯れで倒れたが、信徒はそれを材料に十字架を作り配布。『黒瀬』は十字架、クルスの訛りからきており、かつてそこには大十字架が立っていたことから由来するのではないか、とする説もある。





        了

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