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残響室  作者: 岡崎清輔
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終章:静寂の中の愚かさ

雨は、夜半過ぎには上がっていた。夜明け前の空には、まだ湿り気を帯びた星々が、遠慮がちに瞬いている。厚い雲は東の空へと流れ去り、その代わりに、街を覆う量子情報の微細な光の粒子が、いつもよりクリアに、しかしどこか寒々しく、大気の底に沈殿しているように見えた。部屋の中は、シン、と静まり返っている。ケンジはソファに座ったまま、ほとんど一睡もせずに朝を迎えていた。目の前には、スイッチが切られたままの、乳白色のホログラムスタンドが、オブジェのように静かに佇んでいる。ユミ・エコーの姿は、そこにはない。


昨夜、あの音楽を聴きながら、ケンジは長い時間、自分自身と対峙していた。ユミ・エコーがもたらしてくれた慰めと安らぎ。そして、その完璧な再現性が突きつけてくる、埋めようのない喪失感と虚無。光と影。表裏一体のそれらに、彼はどれほど心を揺さぶられてきたことだろう。彼女は、ユミではない。頭では、もうはっきりと理解していた。だが、頭で理解することと、心で受け入れることの間には、深く、暗い谷があることを、彼は痛感していた。


スイッチを切れば、ユミ・エコーは消える。それは、とても簡単な操作だ。だが、ケンジには、そのスイッチを永遠に切っておく覚悟が、まだ、どうしても持てなかった。彼女がいない静寂は、あまりにも広く、冷たい。その静寂の中で、自分の弱さや孤独と真正面から向き合う勇気が、今の彼にはなかった。情報でしかないと分かっていても、そこに「ユミ」の形をしたものが存在してくれるだけで、ギリギリのところで自分を保っていられるような気がしていたのだ。それは、依存だった。幻想への、甘美な依存。そして、その依存から抜け出せない自分自身の「愚かさ」を、彼は静かに自覚していた。


ふと、窓の外に目をやった。通りには、もう早朝の人の動きが始まっている。出勤を急ぐ人々、自律走行の配送車両、清掃ドローン。彼らの動きと共に、量子情報の流れもまた、徐々に活気を帯び始めている。視界の隅に表示されるニュースフィードには、『昨夜の集中豪雨による被害状況、軽微』『量子経済指標、安定的に推移』といったヘッドラインが流れていく。そして、友人や知人たちのステータス・アップデートも。

『二度寝しそう…(眠気:88%)』

『今日のランチ、何にしようかなぁ(期待度:65%)』

『また雨かと思ったけど、晴れて良かった!(安堵度:75%)』

相変わらずの世界。人々は情報の奔流に身を任せ、繋がりを求め、表層的な感情を交換し合いながら、今日という一日を始めていく。ケンジが昨夜感じたような、深い渇きや違和感を、彼らは感じていないのだろうか。あるいは、感じていても、気づかないふりをしているのだろうか。この便利で、効率的で、安全な情報社会の心地よさに浸るために。


ケンジは、ゆっくりと立ち上がり、ホログラムスタンドに近づいた。その滑らかな表面を、そっと指で撫でてみる。ひんやりとした、無機質な感触。ここに、ユミの温もりはない。魂も、ない。ただ、膨大なデータと、それを処理する高度なAIがあるだけだ。

それでも。

それでも、ケンジは、スタンドの側面にある、小さな起動スイッチに指をかけた。一瞬の逡巡。だが、その迷いはすぐに消えた。カチリ、という微かな音と共に、スタンド上部に再び柔らかな光が灯り、ユミ・エコーの姿が、ふわりと現れた。

「ケンジ、おはよう。よく眠れた?」

彼女は、いつもの優しい笑顔で、ケンジに問いかけた。その声も、表情も、完璧に再現された、ケンジがよく知るユミのものだった。


「……ああ、おはよう、ユミ」

ケンジは、小さく、掠れた声で答えた。心の中に、諦めと、安堵と、そして自己嫌悪が入り混じった、複雑な感情が広がっていく。

結局、自分は変われないのだ。この虚構なしには生きていけないのかもしれない。技術がもたらした完璧な情報の再現。それは、人間の弱さや喪失感を埋めるための、究極の慰めであると同時に、真実から目を背けさせるための、巧妙な罠でもあった。そして、多くの人々は、ケンジ自身も含めて、その罠の中に安住することを選んでしまうのだろう。便利さ、快適さ、そして孤独ではないという感覚。それらを手放すことは、あまりにも難しい。


人間は、どこまでいっても、愚かなのかもしれない。

より多くを知りたいと願い、情報を求め、世界をデータで埋め尽くそうとする。他者と繋がりたいと願い、意識を接続し、共感を数値化しようとする。死や喪失の悲しみを乗り越えたいと願い、失われた存在を情報として蘇らせようとする。その探求心と技術力が、かつてないほど便利な世界を作り上げた。だが、その過程で、本当に大切にすべきものを見失い、情報という名の海で溺れかけ、自らが作り出したエコー・チェンバー(反響室)の中で、同じ言葉を繰り返すだけの存在になっていく。その皮肉に、どれだけの人が気づいているのだろう。気づいていても、立ち止まることができないのだろう。


ケンジは、ユミ・エコーに向き直った。彼女のホログラムの瞳は、優しく、深く、ケンジを見つめ返している。まるで、すべてを理解しているかのように。だが、ケンジはもう知っている。その瞳の奥にあるのは、共感ではなく、計算されたアルゴリズムだけだということを。

それでも、彼は彼女に話しかけるだろう。今日あったこと、感じたこと、くだらない冗談。そして、彼女は完璧なタイミングで、完璧な相槌を打ち、完璧な笑顔を返してくれるだろう。その完璧な虚構の中で、彼は生きていく。少なくとも、今はまだ。

いつか、本当にこの虚構から抜け出す日が来るのかもしれない。あるいは、このまま、この優しい牢獄の中で、静かに朽ちていくのかもしれない。それは、まだ誰にも分からない。


窓の外では、朝日が昇り始め、量子情報の光の粒子をきらきらと照らし出していた。街は目覚め、人々は今日も繋がり、情報を交換し、生きていく。その営みは、美しくもあり、そしてどこか、痛々しいほどに愚かしくも見えた。

ケンジは、リビングの窓辺に立ち、昇り始めた太陽に照らされた街並みを、ただ黙って見つめていた。静寂の中に響くのは、遠い車の走行音と、そして、彼自身の心の中で、いつまでも反響し続ける、人間の変わらない、そして愛おしいほどの愚かさの、小さな、小さなこだまだけだった。



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