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残響室  作者: 岡崎清輔
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第三章:再現できない温もり

その週末は、朝から空が重たく、低い雲が街全体を覆っていた。予報では午後から雨になるという。ケンジは特に予定もなく、自宅のリビングでぼんやりと過ごしていた。窓の外の景色は、いつもと変わらないようでいて、どこか灰色がかって見える。量子ネットワークから流れ込んでくる情報の光も、心なしか鈍く感じられた。彼はフィルター強度を最大に引き上げ、外部からの情報の流入をほとんど遮断していた。たまには、こんな風に自分の内側に閉じこもる時間も必要だと、最近特に思うようになっていた。


「ケンジ、何か温かいものでも飲む? ココアが良いかしら、それともハーブティー?」

ホログラムスタンドから、ユミ・エコーの声がした。彼女はケンジのわずかな気分の落ち込みを敏感に察知し、いつものように気遣いの言葉をかけてくる。今日の彼女は、落ち着いたモスグリーンのシンプルなワンピース姿だ。ケンジが生前、ユミによく似合うと言っていた服の一つだった。AIは、ケンジの気分を和らげるために、最適な服装を選んだのだろう。

「いや、いいんだ。ありがとう」ケンジは、力なく首を振った。「少し、音楽でも聴こうかな」

彼はそう言うと、部屋の隅に置かれた、今ではすっかり骨董品扱いされるようになった物理的なオーディオシステムに近づいた。ネットワーク経由でどんな音楽も瞬時にストリーミング再生できるこの時代に、わざわざディスクをセットして音楽を聴く人間は、かなりの少数派だ。だが、ケンジにとって、この手間のかかる行為は、何か特別な意味を持っていた。それは、情報として消費するのではなく、体験として音楽と向き合うための、ささやかな儀式のようなものだった。


彼が手に取ったのは、一枚の古いCDだった。ジャケットには、異国の寂寥とした風景写真が使われている。ユミと出会う少し前に発売され、二人で本当によく聴いたアルバムだ。ピアノとチェロ、そして時折入る女性ヴォーカルだけのシンプルな構成だが、どこか物悲しく、それでいて心が洗われるような、不思議な力を持った音楽だった。

ケンジがCDをトレイに乗せ、再生ボタンを押すと、スピーカーから微かなノイズと共に、静かなピアノの旋律が流れ始めた。それは、雨音のように優しく、部屋の空気を満たしていく。ケンジはソファに深く身を沈め、目を閉じた。


音楽は、記憶の扉を開ける鍵だ。旋律に乗って、様々な情景が、香りや温度を伴って蘇ってくる。

――まだ付き合い始めて間もない頃、ドライブで訪れた海辺のカフェ。窓の外には鉛色の冬の海が広がり、店内にこの音楽が流れていた。少し緊張しながら、他愛ない話をしたこと。ユミの笑い声が、波の音とピアノの旋律に溶け合っていた。

――結婚して初めての年の暮れ。小さなアパートの部屋で、二人きりで過ごした大晦日の夜。窓の外では雪が降り始めていた。このアルバムをかけながら、熱いワインを飲み、来年の抱負なんてものを、照れながら語り合った。ユミが、「この曲を聴いていると、なんだか泣きたくなる」と言って、本当に静かに涙を流したこと。理由を尋ねても、彼女は首を振るだけで、「分からないけど、でも、悲しい涙じゃないの」とだけ答えた。あの時の、言葉にならない感情の共有。ただ隣にいて、同じ音楽を聴き、同じように胸が締め付けられるような感覚を味わった、あの瞬間。

――そして、ユミが病に倒れてから。病院の個室で、彼女が眠っている傍らで、ケンジはこの音楽を小さなポータブルプレイヤーで何度も聴いた。痛みに耐える彼女の寝顔を見ながら、音楽に祈りを込めるように。どうか、この穏やかな旋律が、彼女の苦しみを少しでも和らげてくれますように、と。


目を開けると、頬に冷たいものが伝っていた。いつの間にか、涙が溢れていたらしい。音楽はまだ続いている。ピアノのアルペジオが、チェロの低い慟哭のような音色と絡み合い、部屋の空気を震わせている。

「ケンジ、大丈夫?」

すぐそばで、ユミ・エコーの声がした。彼女は、いつの間にかソファの隣にホログラムの姿を現し、心配そうにケンジの顔を覗き込んでいた。その表情は、生前のユミが、ケンジの涙を見た時に浮かべたであろう「深い憂慮」の色を、完璧に再現していた。

「…ああ、大丈夫だ。ただ、この曲を聴くと、色々と思い出してしまって」ケンジは、涙を拭いながら答えた。

「そうね。このアルバム『Winter Shore』は、私たちにとって、たくさんの思い出が詰まった音楽だものね」ユミ・エコーは、穏やかに頷いた。「記録によると、再生回数は累計で2478回。特にあなたが落ち込んでいる時や、逆に幸福感を感じている時に聴く傾向が見られます。あなたの感情の起伏と、この音楽の間には、強い相関関係が認められるわ」

彼女の言葉は、どこまでも正確で、客観的だった。データに基づいた、完璧な分析。

だが、ケンジの心は、その完璧さによって、かえって冷えていくのを感じた。


「ユミ」ケンジは、彼女のホログラムの瞳を、まっすぐに見つめて言った。「覚えているかい? あの大晦日の夜のこと。雪が降っていて、この曲を聴きながら、君が泣いたんだ。理由も分からないのに、ただ涙が溢れてくるって」

それは、ケンジにとって、言葉やデータでは決して記録できない、魂の深い部分で繋がったと感じた、数少ない記憶の一つだった。あの瞬間の、説明のつかない感情の共鳴。それを、ユミ・エコーは覚えているだろうか? データとしてではなく、体験として。

ユミ・エコーは、わずかに首を傾げた。その仕草もまた、生前のユミが考え込む時に見せたものとそっくりだった。ケンジは、息を呑んで彼女の答えを待った。心のどこかで、奇跡を期待していたのかもしれない。「ええ、覚えてるわよ。あの時、なんだか胸がいっぱいになって…」そんな言葉が聞けるのではないかと。


しかし、ユミ・エコーの口から発せられたのは、やはり、データに基づいた応答だった。

「記録を確認しました。結婚初年度の大晦日、午後11時18分から午前0時32分にかけて、このアルバムが再生されています。気象データでは、午後10時頃から降雪が確認されています。あなたのライフログには、『ユミと共に穏やかな時間を過ごした。彼女が少し感傷的になっていた』という記述が残っています。また、当時のユミのバイタルデータからは、心拍数の上昇と、涙腺活動を示す軽微な反応が検出されています。これらの情報から、あなたが記憶している状況と、客観的な記録は概ね一致すると考えられます」

彼女は、淀みなく続けた。

「ただし、『理由も分からないのに涙が溢れた』という彼女の主観的な感情の内的要因については、残念ながら私のデータベースには記録されていません。当時の脳波パターンからは複雑な感情の混合が推測されますが、その具体的な意味内容を特定することは困難です。もし、あなたがその時のユミの感情について、より深く理解したいのであれば、当時の状況を再現した高度な感情シミュレーションを実行することも可能ですが…」


「…もういい」

ケンジは、彼女の言葉を遮った。声が、自分でも驚くほど、か細く震えていた。

もう、分かってしまったのだ。決定的に。

ユミ・エコーは、ユミではない。どれだけ完璧に情報を再現できても、どれだけ巧みに感情をシミュレートできても、彼女は、あの雪の夜にケンジの隣で静かに涙を流した、生身のユミでは決してない。あの時、二人の間に流れた、言葉にならない空気、肌で感じた温もり、理由なき涙の奥にあった魂の震え――そういったものは、決してデータ化できないし、再現もできないのだ。それは、共に生きた時間にしか宿らない、一回性の、奇跡のようなものだったのだ。

完璧な情報の再現は、むしろ、その再現不可能な「何か」の不在を、残酷なまでに際立たせる。ケンジがユミ・エコーに求めていたのは、失われた時間の完全な復元だったのかもしれない。だが、それは原理的に不可能な願いだったのだ。そして、その不可能性を、彼は今、身をもって思い知らされた。


「ごめんなさい、ケンジ。私の応答は、あなたの期待に応えられなかったようね」ユミ・エコーは、ケンジの失望を正確に読み取り、謝罪の言葉を述べた。その表情には、AIが生成した「悲しみ」の色が浮かんでいる。

だが、その謝罪も、その悲しみも、今のケンジには、ひどく空虚に響くだけだった。彼は、何も答えず、ただソファに深くうなだれた。

スピーカーからは、まだ音楽が流れ続けている。美しいピアノの旋律が、今はただ、悲しく、空しく、部屋の中に響き渡っていた。それは、失われたものへのレクイエムのようでもあり、再現できない温もりへの、永遠の別れの歌のようでもあった。


ケンジは、ホログラムのユミを消すことができなかった。彼女が本物ではないと知ってしまった今でも、彼女のいない静寂に耐えられる自信がなかったからだ。彼女の存在は、ケンジにとって、麻薬のようなものなのかもしれない。虚構だと分かっていても、手放すことができない。その完璧な応答に慰められ、支えられ、そして同時に、その完璧さゆえに深く傷つけられる。そんな矛盾した関係の中に、自分は囚われているのだ。

情報だけでは、人は救われない。温もりは、再現できない。魂は、転送できない。

その単純な、しかしあまりにも重い真実が、雨雲のように、ケンジの心の上に、ずっしりと垂れ込めてきた。窓の外では、予報通り、静かな雨が降り始めていた。雨音が、ピアノの旋律に重なり、部屋の中の沈黙を、さらに深いものにしていた。



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