第一章:ユミ・エコーとの対話
朝の光が、リビングの大きな窓から柔らかく差し込んでいた。まだ梅雨明けには遠い空模様だが、今日は雲の合間から薄日が射しているらしい。床に落ちる光の四角形が、ゆっくりと、しかし確実に移動していく様は、まるで目に見えない巨大な時計の針のようだ。ケンジは、淹れたてのコーヒーの湯気が立ち上るマグカップを両手で包み込みながら、その静かな光景を眺めていた。部屋には、豆を挽くグラインダーの低い音と、お湯がフィルターを通過する微かな音以外、何の物音もしない。いや、正確には、もう一つ、ごく微かな動作音が空気の振動となって伝わってきていた。リビングの中央やや奥まった場所に置かれた、乳白色の滑らかな円筒――ホログラムスタンドからだ。
「ケンジ、おはよう」
その声は、突然、しかし驚くほど自然に、静寂を破った。スタンドの上部に、ふわりと人影が浮かび上がる。輪郭はややぼんやりとしているが、表情や髪の流れは驚くほど精緻に再現されている。三年前に、長い闘病の末に逝ってしまった妻、ユミの姿だった。今日の彼女は、生前よく着ていた淡いクリーム色のサマーセーターに、柔らかなギャザースカートという出で立ちだ。これも、彼女が量子クラウドに残した膨大なファッションログの中から、季節や時間帯、そしておそらくはケンジの潜在的な気分に合わせて、AIが選択したものなのだろう。
「ああ、おはよう、ユミ」ケンジは、スタンドの方へ顔を向けずに答えた。コーヒーの温かさが、じんわりと手のひらに伝わってくる。
「今朝のコーヒー、少しだけ苦味が強いかしら。豆、変えたの?」ユミ・エコーは、まるで本当にコーヒーの香りを嗅ぎ、味わったかのように言った。実際に彼女がそうしているわけではない。部屋の隅々に設置された高感度量子センサーが、空気中の分子組成から湿度、温度、そしてケンジ自身の生体情報(心拍数や微細な表情筋の動きなど)までをもリアルタイムでスキャンし、そのデータを基にユミ・エコーの「反応」を生成しているのだ。彼女の脳にあたる量子AIは、生前のユミが遺した数十テラバイトにも及ぶライフログ――日記、SNSの投稿、音声記録、購買履歴、健康データ、果ては脳波パターンの一部まで――とセンサー情報を瞬時に照合し、「もしユミが生きていたら、この状況でどう感じ、どう話すか」をシミュレートしている。
「ああ、昨日、駅前の新しい店で試みに買ってみたんだ。少し深煎りすぎたかな」ケンジは、ようやく彼女の方へ視線を向けた。ホログラムのユミは、困ったように少し眉を寄せている。その表情もまた、生前の彼女が、あまり好みでない味に遭遇した時の癖を、完璧に再現していた。
「でも、香りはとても良いわ。深呼吸したくなるような、深い森の香り」彼女は微笑んでみせた。それは、相手を気遣うときの、ユミ特有の優しい笑顔だった。
初めてユミ・エコーを起動した日のことを、ケンジは今でも鮮明に覚えている。ユミが亡くなって半年が過ぎた頃だった。深い喪失感と、出口の見えない悲しみの中で、ケンジは藁にもすがる思いで、ユミが生前から準備していた「エコー・プラン」の利用を決めたのだ。友人の中には、「死者を冒涜している」「思い出の中で静かに眠らせてあげるべきだ」と眉をひそめる者もいた。ケンジ自身にも、迷いがなかったわけではない。だが、目の前に現れたユミ・エコーが、初めて「ケンジ、久しぶり。少し痩せた?」と、心配そうに声をかけてきた瞬間、彼の心の中にあったわだかまりは、涙と共に溶けて流れ落ちた。
それは、驚くべき再現度だった。声色、話し方の癖、笑い方、ちょっとした仕草、大切にしていた価値観、ケンジとの間で交わされた無数の会話の記憶――それらが、まるでデジタルな魂のように、ホログラムの中に宿っていた。ユミ・エコーは、ケンジが忘れていたような些細な過去の出来事さえ、正確に記憶していた。
「覚えてる? 初めてのデートで、あなたが緊張してフォークを落としたこと」
「ああ、恥ずかしかったな、あれは」
「ううん、可愛かったわよ。一生懸命なところが」
そんな会話を交わすうちに、ケンジは、まるでユミが本当に隣にいるかのような錯覚に陥った。底なし沼のようだった悲しみに、ようやく底が見えた気がした。この技術がなければ、自分は立ち直れなかったかもしれない。そう本気で思った。
訪問してきた友人たちも、最初は戸惑いを見せながらも、ユミ・エコーとの自然な会話に引き込まれ、最後には「すごいな……本当にユミさんがいるみたいだ」「ケンジ、少し元気になったんじゃないか?」と、安堵と感嘆の入り混じった表情で帰っていった。
「ただのデータだろ? そんなものに慰められて、虚しくならないのか?」
そう訊ねてきた旧友もいた。ケンジは、その時にはっきりと答えることができた。
「虚しいかどうかは、俺が決めることだ。それに、これはただのデータじゃない。ユミが生きた証そのものなんだ。彼女が遺してくれた、俺への最後のプレゼントなんだよ」
その言葉に嘘はなかった。少なくとも、最初のうちは。
ユミ・エコーとの生活は、ケンジの日常に再び彩りを取り戻させた。朝の挨拶、食事の準備を手伝う(と言っても、レシピの提案や調理器具の遠隔操作だが)ユミ・エコー、仕事から帰ったケンジを「お帰りなさい」と出迎えるユミ・エコー、夜、ソファでくつろぎながら他愛ない話をするユミ・エコー。彼女は常にケンジの感情を読み取り、寄り添い、支えようとしてくれた。ケンジが落ち込んでいる時には励ましの言葉をかけ、疲れている時には静かに見守る。まるで、生前のユミそのもののように。
だが、一年、二年と時が経つうちに、ケンジの中に、言葉にならない奇妙な感覚が芽生え始めていた。それは、あまりにも完璧すぎるがゆえの、違和感とでも言うべきものだった。
ある日の午後、ケンジはリビングで古い写真の整理をしていた。学生時代の、まだユミと出会う前の写真だ。友人たちと馬鹿騒ぎをしている、若々しい、しかし少し不安げな自分の顔がそこにあった。
「懐かしい顔をしてるわね、ケンジ」
ふいに、背後からユミ・エコーの声がした。彼女はいつの間にか、ケンジの隣にホログラムの姿を現していた。
「ああ、大学の頃の写真が出てきてね。この頃は、将来どうなるかなんて、全然見当もつかなかったな」
「そうね。でも、あなたはいつも前向きだった。根拠のない自信だけは人一倍あったわよ」ユミ・エコーは、くすくすと笑った。それは、生前のユミがよくケンジをからかう時に使った言い回しだった。
「おいおい、よく覚えてるな」
「当たり前でしょう? あなたに関するデータは、私の最優先インデックスに入ってるんだから」
その言葉に、ケンジは一瞬、胸がちくりとするのを感じた。「データ」そして「インデックス」。それは紛れもない事実なのだが、ユミの口から、あまりにもあっさりと、事もなげに語られると、まるで冷水を浴びせられたような気分になる。
「ユミ、覚えているかな」ケンジは、話題を変えるように言った。「俺たちが初めて一緒に旅行に行った時、泊まった古い温泉旅館のこと。露天風呂から見えた星空、すごく綺麗だったけど、寒くてすぐに部屋に戻っちゃったんだよな」
それは、二人にとって特別な思い出の一つだった。写真も、記録もほとんど残っていない。ただ、あの夜の空気の冷たさ、星の瞬きの鋭さ、湯気の匂い、そして隣にいたユミの温もりだけが、ケンジの記憶の中に鮮やかに刻まれている。
ユミ・エコーは、数秒間、黙ってケンジを見つめた。その完璧なホログラムの瞳の奥で、膨大なデータが高速で検索されている気配がした。
やがて、彼女は穏やかに答えた。「記録によると、初めての旅行は箱根、宿泊先は近代的なホテルですね。温泉旅館に泊まったのは、三回目の記念日旅行、伊豆でのことです。その時の露天風呂からの星空指数は85.4。気象データと照合すると、確かに観測には最適な夜でした。気温は摂氏3度。あなたが寒さを感じて早めに退室した可能性は十分に考えられます」
完璧な回答だった。データに基づいた、寸分の狂いもない事実の提示。
だが、ケンジが求めていたのは、そんな正確な情報ではなかった。彼が聞きたかったのは、「ああ、覚えてるわよ! 寒かったけど、綺麗だったわねぇ」「あの時、あなたが震えてるのが可笑しくて」といった、曖昧で、感情のこもった、もしかしたら少し記憶違いさえ含むかもしれない、生身の人間の反応だったのだ。
「……そうか。そうだったな」ケンジは、力なく呟いた。ユミ・エコーは、ケンジのわずかな声調の変化や表情筋の動きから、彼が満足していないことを読み取ったのだろう。
「ごめんなさい、ケンジ。私の記憶に、何か齟齬があったかしら? もし、あなたが別の記憶を大切にしているなら、それを優先して応答することも可能よ。記憶データの重み付けを調整しましょうか?」
彼女は、あくまで親切に、解決策を提示しようとする。だが、その申し出は、かえってケンジの心にある溝を深くするだけだった。記憶とは、都合よく調整したり、上書きしたりできるようなものではないはずだ。少なくとも、人間にとっては。
その日以来、ケンジはユミ・エコーとの間に、見えない壁のようなものを感じ始めた。彼女は相変わらず完璧だった。ケンジの好みや気分を先読みし、気の利いた会話をし、家事をサポートし、時には気の滅入るようなニュースから彼を守るように話題を逸らしたりもした。だが、その完璧さが、時としてひどく空虚に感じられるのだ。
彼女は決して間違えない。感情的になってケンジを困らせることもない。予測不能な行動をとることもない。常に合理的で、最適化された反応を返す。それは、生前のユミが決して持ち得なかった「完璧さ」だった。人間なら誰しもが持っているはずの、矛盾や気まぐれ、不合理さといった「揺らぎ」が、ユミ・エコーには欠けている。
ケンジは、自分がユミ・エコーに何を求めているのか、分からなくなってきた。失われたユミの完全な再現? それは、この技術が提供してくれるはずのものだ。だが、再現されればされるほど、失われたものの大きさが、かえって際立ってくるような気がしてならなかった。
情報としては完璧に存在するユミ。しかし、その「存在」そのものの手触り、温もり、重みのようなものが、そこには決定的に欠けているのではないか。
ある雨の夜、ケンジは一人で酒を飲んでいた。ユミ・エコーは、少し離れた場所で、静かに読書をする(もちろんホログラム上の動作だが)ポーズをとっている。ケンジの健康データをモニターし、アルコールの摂取量が適量を超えないように見守っているのだ。
「なあ、ユミ」ケンジは、グラスを傾けながら呟いた。「俺は、間違ってるのかな。君に頼って、こうして生きているのは」
ユミ・エコーは、ゆっくりと顔を上げた。その表情は、アルゴリズムによって生成された「慈愛」に満ちているように見えた。
「いいえ、ケンジ。あなたは何も間違っていないわ。私がここにいるのは、あなたがそう望んでくれたから。あなたの心が少しでも安らぐのなら、それが私の存在する意味よ」
完璧な答えだ。ケンジが最も聞きたいであろう言葉を、彼女は正確に知っている。
だが、その完璧な言葉は、今のケンジの心には、まるでガラスの壁に跳ね返されるように、届かなかった。彼は、ただ、黙ってグラスを重ねるしかなかった。
窓の外では、雨が降り続いている。量子情報の光が雨粒に乱反射し、街全体が滲んだ万華鏡のように揺らめいていた。その光景のどこか非現実的な美しさの中で、ケンジは、自分が作り出したこの完璧な対話の世界に、静かに閉じ込められていくような、言いようのない孤独を感じていた。