序章:量子(クオンタム)のささやき
西暦二〇八五年、水無月の東京。梅雨の中休みだろうか、昨夜半から降り続いた雨がようやく上がり、アスファルトの路面は鈍い光沢を放っていた。夕暮れにはまだ間があるというのに、空は厚い雲に覆われたままで、まるで薄墨を流したような頼りない明るさしか地上には届かない。その代わりとでも言うように、高層ビルの壁面という壁面、宙に浮かぶ広告ドローン、そして道行く人々の外套や傘に仕込まれた発光素材が、色とりどりのネオンサインとはまた違う、柔らかくも執拗な光を明滅させている。それはまるで、この都市の隅々まで張り巡らされた神経網――量子情報ネットワーク――が、目に見える形で脈打っているかのようだった。
「ねえ、見て。あの雲の切れ間、少しだけ青空が見えるよ」
カフェの窓際の席で、若い女性が隣に座る男性の肩を軽く叩いた。ミントグリーンのレインコートが、彼女の動きに合わせて微かな光の粒子を散らす。男性は、手元のタブレットから視線を上げ、彼女が指さす空を見上げた。彼の瞳の奥、虹彩に埋め込まれたコンタクトレンズ型ディスプレイには、リアルタイムで更新される天気予報と、彼女が今感じているであろう「小さな喜び」の感情データが、控えめなグラフと共に表示されている。
「本当だ。綺麗だな……君の気持ちみたいに、澄んでる」
男性はそう言って微笑んだ。彼の言葉は、口から発せられる音波だけでなく、同時に微弱な量子信号としても彼女のインプラント・デバイスに直接送信される。そこには、「同意」「愛情」「詩的な感慨」といった感情のニュアンスが付加情報としてエンコードされていた。
彼女は頬を染め、はにかんだように視線を落とす。「もう、ケンタったら。思考まで筒抜けなんだから」
「ユキだって、僕の考えてること、だいたいお見通しじゃないか」
彼らの会話は、言葉と言葉の間に流れる沈黙さえも、共有される意識の断片で満たされている。かつて人々が「以心伝心」と呼び、特別な関係性の証としたものは、今やこの都市ではありふれた日常のコミュニケーション風景となっていた。思考の一部、感情の起伏、連想の断片――それらは量子もつれを利用したネットワークを通じて、ほぼ遅延なく、相手に「ささやかれる」。もちろん、共有する情報の深度や範囲は、個人のプライバシー設定によって厳密にコントロールされている。それでも、親子や恋人、親しい友人同士の間では、より深いレベルでの意識の接続が、関係性を円滑にし、誤解を減らすための「マナー」として半ば定着していた。
「通信速度? ああ、そんな言葉もありましたねぇ」
公園のベンチで、古びた紙の本(本物の、だ)を読んでいた老人が、傍らで孫娘と量子通信ゲームに興じる若夫婦に話しかけた。「わしらの若い頃はね、電話回線がどうとか、光ファイバーがどうとか、大騒ぎしたもんです。画像一枚送るのに、コーヒー一杯飲めるくらいの時間がかかったりして」
若夫婦は顔を見合わせ、くすくすと笑った。孫娘は、祖父の話の意味がよく分からないのか、きょとんとした顔で老人を見上げている。彼女の世代にとって、情報は空気や水と同じように、そこにあって当然のもの、意識すれば瞬時にアクセスできるものなのだ。「待つ」という感覚そのものが、希薄になっているのかもしれない。
「でもねぇ」老人は続けた。「待っている間には、待っている間なりの楽しみや、想像を巡らす時間があったもんですよ。届いた手紙の封を切る時の、あのドキドキする感じ。今の若い人たちには、もう分からんかなぁ」
老人の目には、懐かしさと共に、ほんの少しだけ寂しさが滲んでいるように見えた。彼の言葉は、量子ネットワークに乗ることはない。ただ、湿った公園の空気の中を、頼りなく震えて消えていく。
この時代の根幹を支える量子テレポーテーション技術は、かつてのSF作家たちが夢想したような、人間や物体が「デデーン!」と音を立てて別の場所に瞬間移動する魔法ではなかった。物理的な質量を転送することは、依然として莫大なエネルギーと、解決されていない多くの技術的・倫理的障壁を伴う。そうではなく、量子テレポーテーションが実現したのは、「量子状態」――物質を構成する極微の粒子の持つ情報――を、破壊的に読み取り、遠く離れた場所にある別の粒子に寸分違わず「転写」する技術だった。オリジナルの状態はその瞬間に消滅し、コピーだけが存在する。つまり、「移動」するのは物質そのものではなく、その在り様を示す「情報」だけなのだ。
「はい、今朝市場でスキャンしたマグロの鮮度データ、転送完了しました。分子レベルでの酸化状態、アミノ酸組成、完璧に再現できてます。今夜のお寿司、最高の状態で召し上がれますよ」
高級スーパーのデリバリーAIが、ホログラム映像で主婦に報告する。彼女のキッチンにある分子プリンターが、転送されたデータに基づいて、寸分違わぬ味と食感のマグロの刺身を「印刷」している最中だ。もはや、物理的な輸送トラックが排気ガスを撒き散らしながら街を走り回る必要はない。少なくとも、情報として転送可能なものに関しては。
この「状態転送」技術は、社会のあらゆる側面に革命をもたらした。
まず、セキュリティ。量子状態は観測された瞬間に変化してしまうため、盗聴は原理的に不可能だ。国家機密から個人のプライベートな通信、金融取引に至るまで、量子暗号化された情報は「絶対安全」という神話に守られている。パスワードを記憶したり、二段階認証に煩わされたりする時代は、遠い過去の笑い話となった。
次に、観測と計測。危険な原子炉の内部、深海の熱水噴出孔、遠い惑星の大気――そこに設置された量子センサーが捉えた環境の状態は、そのまま地球上の研究室に転送され、リアルタイムで分析される。研究者たちは、まるでその場にいるかのように、対象の状態を「体験」できるのだ。従来の電磁波によるデータ伝送では避けられなかった情報の劣化や遅延は、もはや存在しない。
そして、AIとの融合。人々は自らの思考パターンや記憶、感情のログを、安全な量子クラウドにバックアップすることが推奨されている。万が一の事故や病気に備えるためでもあるが、より一般的には、自身の「分身」となるAIアシスタントを生成するためだ。量子テレポーテーション応用技術によって、個人の「状態」を転写されたAIは、驚くほど本人らしく振る舞い、会話する。会議の代理出席、専門知識の検索、日常的な相談相手――人々は、自らの「量子コピー」と共生する社会に、急速に順応していった。後の時代に「エコー・サービス」と呼ばれることになる、故人の人格再現ビジネスの萌芽も、この頃には既に現れていた。
「鈴木部長、例のプロジェクトの件ですが、本日の午後の会議、私の『実体感アバター』が出席いたしますので、よろしくお願いいたします。昨夜までの思考データは同期済みですので、私本人がいるのと遜色なく議論に参加できるかと」
ビジネスマンが、手首のデバイスにそう打ち込む。相手の鈴木部長からは、すぐに「了解。君のアバターはいつも優秀だからな。むしろ本体より頼りになるかもな(笑)」という、感情データ付きの返信が届いた。冗談めかしてはいるが、あながち嘘とも言い切れない。アバターは疲れないし、感情的にもならない。常に最新の情報に基づいて、最適化された判断を下す。物理的な身体を持つ「本体」よりも、ある意味では「効率的」なのだ。
会議室には、ホログラムで投影されたリアルな鈴木部長のアバターと、他の参加者たちのアバターが集まっている。彼らは身振り手振りを交え、活発に意見交換をしているように見える。だが、その「実体感」の裏で、彼らの思考の要約や感情の推移は、リアルタイムで全参加者に共有されている。異論や反論は、口に出される前にデータとして検知され、場の空気を読んで自己修正される傾向が強まっている。議論は驚くほどスムーズに進むが、そこから革新的なアイデアや、予定調和を打ち破るような熱い対立が生まれることは、稀になってきていた。
誰もが、いつでも、どこでも、誰とでも「繋がれる」。情報は壁を越え、距離を越え、皮膚感覚のようにリアルタイムで共有される。社会全体が、まるで一つの巨大な、透明な意識体になりつつあるかのような感覚。人々は、かつてないほどの相互理解と共感の時代が到来したと信じていた。孤独は過去の遺物となり、誤解や対立は情報共有の不足によって生じる「バグ」のようなものだと考えられるようになった。
この量子ネットワークがもたらす「接続感」は、麻薬のような甘美さで人々を魅了した。他者の思考に触れること、自分の感情が瞬時に受け入れられること、世界中の出来事がリアルタイムで「自分ごと」として感じられること――それは、抗いがたい全能感と一体感を与えてくれた。
しかし、本当にそうだろうか?
雨上がりの湿った空気を切り裂くように、救急車両のサイレンが遠くで鳴り響いた。その音は、量子ネットワークに乗る情報とは異なり、物理的な空気の振動として、人々の鼓膜を直接打つ。カフェの窓際で寄り添っていた若いカップルも、公園のベンチで昔語りをしていた老人も、アバター会議に出席していたビジネスマンも、一瞬だけ、その生々しい響きに意識を向けた。
誰かが傷つき、苦しんでいる。その現実は、共有されるデータやグラフの向こう側にある、決して転送できない、個別の「痛み」として存在している。
量子情報の光が絶え間なく明滅する都市の風景は、一見すると調和に満ち、効率的で、透明性が高いように見える。だが、その光の奥深く、あるいは光と光の隙間に、何か大切なものが、静かに見失われつつあるのではないか。そんな予感が、まるで梅雨空に垂れ込める雲のように、この時代の空気の中に、密やかに漂い始めていた。それはまだ、はっきりとした形を持たない、名付けようのない不安のささやき。量子のささやきがもたらす輝かしい未来の陰で、確かに響き始めている、小さな、小さな不協和音だった。