シノブトイサミ その一
秋の日の昼下がり、所は東京、瀬田谷区の閑静な住宅街、絵に描いたような平穏な日常。
その裏通りの一角、人目につきづらい袋小路となった場所で、そんな平穏をちょっとだけ乱す光景が繰り広げられていた。
派手な原色の特攻服、いわゆるヤンキーとか族とか呼ばれる少年少女が身に着けるアレ、今どきはほとんど見かける事も少なくなったアレ、それぞれに異なる色の、そのアレに身を包んだ三人の少女が一人の少年を取り囲んでいる。
「だぁからよー、手荒なマネわぁ、しねーつってんだろ!」
と、深紫の特攻服を着た少女が言う。
「素直によぉ、名前と学校をぉ、言やぁいーんだよ」
と、翠緑の特攻服を着た少女が続ける。
二人の少し後ろでは、群青の特攻服を着たもう一人の少女がスマートフォンで誰かに連絡している。
「あ、ハイ、見つけました、多分コイツです」
三人の少女にぐいぐいと詰められているのが本編の主人公、姓は真田、名は大輔、どこかの高校の制服と思しきブレザーを身に着け、高校生としてはまあそんなもんかなという体格で、容姿は可もなく不可もなく、といったところだ。
カバンを体の前に両手で抱え込んでいるあたり、ちょっと見にはビビっているようにも見える。しかし多少なりとも観察眼のあるものが見れば、困惑した表情を浮かべる顔の、その目の奥には、この状況を面白がっているような光が浮かんでいるのを見て取るはずだ。
大輔が口を開き、何かを言いかけたその時、背にした袋小路の行き止まりの壁の、その上の方から声がかかる。
「お困りのようですね」
凛とした涼やかな声に、大輔は振り向く。
行き止まりの塀の上には、すっくと立つ、どこかの高校の制服を着た少女がいた。手には90センチほどの棒状の何かを入れた袋を持っている。
少女の名前は犬塚信。
信は塀から飛び降り、特攻服の三人と大輔の間に軽やかに降り立つ。
つややかな黒髪、前髪は少し古風な形で切りそろえられ、長い後髪は少し高めの位置でポニーテールにまとめられている。塀の上にいた時でもそれとわかったが、こうして眼の前に立たれると、見とれてしまう程の美少女と言って良かった。
信は大輔に向かって笑顔を向ける。
「お助けいたします」
異常な現れ方をした制服の少女に気圧され、後退っていた特攻服の三人だったが、気を取り直したのか口々に脅し文句を口にしながら向かってくる。
「んだオメーはコラ!」
先頭にいた深紫の特攻服の少女が掴みかかろうとしたその瞬間、信は袋に入ったままの棒状の何かで、相手の顎をかすめるような一撃を入れた。
それほど強い打撃とも見えなかったが、紫の特攻服の少女はその場にストンと尻もちをつき、気を失う。
後ろにいた残りの二人は、何が起きたのかもよく理解できていなかった。
その二人に、信は流れるような足運びで近づくと、一瞬の間にそれぞれへ一撃を入れ失神させる。
「さあ」
呆気に取られていた大輔に向き直った信は、笑顔で手を差し伸べた。
それでも動こうとしない大輔に、今度は少し厳しい表情で声をかける。
「死にたくなければ私と一緒に来て!すぐに!」
大輔は信に手を引かれ、袋小路から通りへ出た。
と、そこへ遠くから口々に何事かを叫びつつ、新たな特攻服の少女の集団が怒涛の勢いで駆けてくる。
「まてやゴルァ!」
「逃げんなオルァ!」
「殺すぞコラ!」
「殺すとか言うなバカ!」
信が大輔に声をかける。
「走って!」
そう言うやいなや、追ってくる集団と反対の方向へと駆け出す。大輔もまた、必死の形相で後について駆け出した。
大輔と信が逃げ去ってから少し時をおいて、ここは再び同じ袋小路。
意識を取り戻した三人の特攻服の少女達が、近くの壁にもたれかかるように座らされている。
その前にしゃがみ込み、事情を聞いている大柄な少女がいた。こちらは真紅の特攻服を着ている。
真紅の特攻服少女の名は三好伊三美、歳の頃は十七、八歳ぐらい、身長は180センチ程と、その年代の女子としてはかなり大柄だ。髪は金髪に染めている。
整った顔立ちではあったが、キツめのヤンキーメイクがそれをいささか残念な感じにしてしまっている。
「……なるほどね」
「すいません、ホントにあっという間で」
と、最初に気絶させられた深紫の特攻服の少女が詫びる。
「気にすんな、すぐに医者に送ってやっから、それまでは動くんじゃねーぞ」
伊三美は、立ち上がると張りのある声で連絡係のメンバーに告げる。
「おい!!全員に伝えろ!見つけても絶対に手は出すな!すぐにアタシを呼べってな!!」
チームの副リーダー各と思しき黒髪の少女が伊三美に問いかける。
「やられた者は全員軽傷です、慎重すぎるのでは?」
間を置かずに伊三美が答える。
「だからやべーんだよ」
納得が行っていないという表情の副リーダーに、伊三美は続ける。
「あの三人、確か街田の朱花烈徒だっけ?そん中でもけっこうやる方だろ?」
「だと、聞いています」
「お前らん中に、あの三人を相手に一人で挑んで、何の怪我もさせずに、一瞬で動けなくさせる……なんてことができるヤツ、いるか?」
副リーダー各の少女は、はっとして深くうなずく。
「まあ軽いっつても脳震盪だ、あの三人、来るって言っても絶対に連れて来んな、引きずっても病院に連れてけよ」
「はい」
伊三美は不敵な笑みを浮かべ、一人つぶやく。
「ちょろい仕事かと思いきや、そういうワケでもなさそうだな……面白くなってきやがった」
先ほどの袋小路から少し離れた場所に大きな公園があった。夕暮れも迫り、人気のないその一角に大輔と信はいた。
座り込んで肩で息をしている大輔の傍らに信が立ち、油断なく周囲に目を配っている。
「どうやら、うまく撒けたようですね」
「初めて、です、こんなに、必死で、走ったのは」
大輔は荒い呼吸の合間にようやく言葉を紡ぎ出す。
「でも、良かったのですか?」
信の言葉に、何が?と問いかけるような表情を大輔は返す。
信は真田の前にしゃがみ込み、いたずらっぽく笑いかけながら、言った。
「見ず知らずの小娘の言う事を、簡単に信じて」
「ああ、それは」
大輔は深く一呼吸して、言った。
「わかるんです、昔から、なんとなく、悪い人かどうか」
「では私も?」
大輔は、うなずき返しながら、
「根拠はないけど、不思議とよく当たるんです」
大輔はもう一呼吸置くと来た方を振り返りつつ、
「ついでに言えばさっきの人たちも、めっちゃ圧が強くて多少ビビりましたけど、命の危険を感じるほどの悪い人たちとは」
「ですよね」
とすかさず信が答える。
「え、だって、『死にたくなければ』って」
信は無邪気な笑顔を浮かべると言った。
「いちど言ってみたかったんです、映画で見たセリフ」
信はそこでふと真顔になり、
「とはいえ、あなたの身に何らかの危険が迫っている事は間違いないです、真田大輔さん」
と告げた。
「何で僕の名を……」
信は懐から、俗に桜の代紋と呼ばれるバッジの付いた身分証を取り出す。余談だが、過去の慣習から警察手帳と呼ばれる事もあるそれは、現在は手帳としての機能は備えていない。
これまでの年相応の喋り方とはうってかわった硬い声で信は名乗った。
「警視庁八犬士、犬塚信、警視正です」
身分証をしまい込むと信は続けた。
「あなたを保護し、八犬士本部までお連れするよう命令を受け、参上しました」
「八犬士!?」
「ご存知、ありませんか?」
半ば狐につままれた、とでもいった表情を見せる大輔に、喋り方を戻した信が問いかける。
「ええと、一応は日本史で習いました、あと、現代でも密かに活動してるって言う話も……でも、都市伝説みたいなもんかと、っていうかその若さで……」
信が片手をあげ、大輔の話を途中で遮る、そして立ち上がると、遠くを見詰めるかのように目を細める。
「危険が、近づいて来たみたいです」
信は手を引いて大輔を立たせると、土埃の付いたズボンを手早く払い、乱れた服装を整えてやる。
「私がおびき寄せて、ここから少し離れた場所で片付けます、その間、あなたはあそこへ」
信が指差すその先には、公園の公衆トイレがあった。
公園から少し離れた人気のない路上、疾風の如く欠けて来た信は突然立ち止まり、つぶやくように言う。
「さて、この辺にしましょうか」
信は、振り向き、微笑むと声をかけた。
「そろそろ出ていらしてはどうですか?」
女が1人、曲がり角から姿を現す。歳の頃は二十代、体型はやや小柄だが、鍛えた人間に特有の空気を身にまとっていた。
「少し目標から離れれば、姿を現すかと思いましたが、ずっとこちらをつけてくるとは」
「つきまとっている面倒そうなヤツを先に片付けちまおうかと思ってね、『達射人先射馬 擒賊先擒王(人を射んとすれば先ず馬を射よ、敵を擒えんとすれば先ず王を擒えよ)』ってわけさ」
と、女は答えた。
「三十六計で説くところの第十八計、擒賊擒王ですね、ところで弓はお持ちでないようですが」
と、信が応じる。
「虎が馬を食うのに、弓はいらないよ」
「時には馬に蹴り殺される間抜けな虎も居ると聞きますが」
涼し気な顔で煽り返す信の言葉を受け、女の表情が険しくなる。
「言うね、お嬢さん、あたしは陳、得物を出しなよ、その袋に入れてるやつをさ」
「それでは、お言葉に甘えて」
信は手にしていた袋から中身を取り出した。おそらくは赤樫らしき木で作られた、90センチ程の長さで、断面は円形の棒である。袋を丁寧にたたむと制服のポケットに収めた。
陳は、いささか拍子抜けした表情を浮かべる。
「なんだいそれ、麺棒かい」
「棒ですが、麺棒ではありません、『半棒』と呼ばれる物です」
「馬鹿にしてるのかい」
「いえ、まったく」
一般的には、我が国の棒術では六尺(180センチ)前後の物を“棒”と呼び、その半分、三尺(90センチ)程度の物を“半棒”と呼ぶ事が多い、犬塚信が手にした棒、それは赤樫製の半棒であった。
「そうかい、なら加減はしないよ」
陳は懐から何かを取り出し、両手に装着する。
陳が両手に装着した武器はバグ・ナク、ヒンディー語で『虎の爪』を意味する鋼鉄製の爪である。
その鋭利な爪による攻撃は、ひとたび体に当たれば並行して走る4本の傷を作り出し、治療を困難なものにする。
数メートルの間合いを置いて、両者は対峙した。両手を顔の高さに上げ、軽く前に重心をかける構えを取る陳に対し、信はほぼ無構えに近い、右手に半棒を軽く握り、両手は下げたまま、軽く体を斜に構えただけだ。
一方で公園の公衆トイレの中、男子用の手洗い場で大輔が顔を洗っていた。冷たい水で顔を冷やし、ハンカチでひとしきり顔を拭き終えると気分もだいぶ落ち着いてきた。
と、見つめた鏡には自分の背後に迫る見知らぬ女の姿があった。
驚いて振り向く間もなく、そのまま抱きすくめられる。
「見ぃつけた」
と、女は大輔の耳元へささやく。
洗面所の鏡を通して女の姿が目に入った。黒い髪、切れ長の目、体のラインにぴったり合った黒い革のジャンプスーツを着ている。
「真田……大輔ね、私は楊」
大輔は逃れようとするが、きつく抱きしめられ身動きできない、再びその耳元へ女がささやく。
「騒がないで、このまま私と来て、大人しくすれば何も危害は加えない、でも抵抗するなら……」
女は真田の耳に口をよせ、耳たぶを甘噛みする。
「……痛くするよ」
大輔は恐怖を覚える一方で、背中に当たる柔らかい感触に健康な肉体の男子高校生としてはまあありがちな反応が起こりつつあることを自覚し、自分で自分が可笑しくなる。
と、大輔のその目が鏡に映った自分と楊の姿のその向こうに、もう一つ新たな人影を見て取った。
意を決し、言葉を発する。
「あー、唔該、先生、而家幾點?」
楊は思わず吹き出した。
「今何時か知ってどうするの、それに女に向かって『先生』はないわ」
大輔の表情から怯えが消えていた、いや、それどころか、慎重に観察すればその目の奥には狡猾とも言える光が宿っていることを見て取れたはずだ。
「時間を知りたかった訳ではなくて、今の質問の目的は二つ……」
二人の背後では真紅の特攻服の少女、三好伊三美が鋭い眼光で大きく拳を振りかぶっていた。
そして、そのまま全力で楊の頭部めがけて拳を振り下ろす。
が、大輔を拘束していた楊は間一髪でそれに気づき、紙一重で避けた。
勢い余った伊三美の拳は陶器製の洗面台に命中し、洗面台は粉々に砕け散る。
楊が避けた拍子に解放された大輔は、少し残念そうな表情でつぶやく。
「……一つは失敗みたいです」
伊三美が大輔に声をかける。
「他愛ない質問で気をそらす、悪くねえな、ただ、相手が引っかかる前にネタばらしはいただけねえけどな」
楊は、体制を整えながら呆れ顔で伊三美に言う。
「公共の場で知らない人に全力で殴りかかる、非常識にも程があるね」
「ああん?男子トイレで少年を拐かそうとしてたオメーに言われたくねえわ!」
伊三美は爽やかな表情で大輔に語りかける。
「アタシは三好伊三美!アンタの名前は?」
伊三美の、場にそぐわないひどく爽やかな問いかけに、大輔は思わず答えてしまう。
「あ、真田、大輔、です」
伊三美がにっこり笑う。
「当たりか、どうやら間に合ったみてーだな」
伊三美は楊の方を向き、右手の指二本、人差し指と中指を立て、手の甲側を相手に向けて突き出す。英国式に見れば侮辱のサインだ。
「さてと、そこの痴女!オメーに二つ、選択肢をやる!」
伊三美は突き出した手の中指を折り、人差し指だけを立てる。
「一つめは、おとなしくここを立ち去る、そうすりゃこっちもこれ以上の手出しはしねー」
伊三美は次に人差し指を折り、中指だけを立てた。英国人でなくとも通じる、明確に相手を侮辱するサインだ。
「二つめ、アタシに表が裏かもわからね―ぐらいにボコボコにされて、泣きながら命乞いをする、だ」
楊の表情がみるみる険悪になる。
「三つ目が足りないね、自分が強いと勘違いしてるアバズレ女を返り討ちにして、その坊やを連れて悠然と引き上げる、ね」
「面白え……いくぜ!」
伊三美は拳で、楊は貫手で、両者は同時に攻撃を繰り出した。互いに相手の攻撃を紙一重でかわし、そのまま猛スピードでの打撃の応酬が始まる。
伊三美と楊は、互いに激しい打撃を交わしながら、外へと飛び出してゆく。