005 至高の魔法使い
ダラス辺境領には領民が食材を買い求められる市場のようなところがない。それは、ここ十年の間だけでも幾度となく隣国との小競り合いがあったからであり、砦の護りに重きを置き、復興に向けての予算は後回しにされがちだからであった。
そして、このダラス辺境領の尽力もあり、二か国間で大きな戦に至っていないことを国が理解していない節がある。
私が王子妃教育を受けている中で、教師は淡々とダラス辺境を説明してくれたが、ローズ姉様の結婚式でダラス辺境領を訪れた私には「なぜそのように軽く扱われるのか」と国の体制に反発を覚えた。
最初、ローズ姉様にダラス辺境伯子息であるクレイブお義兄様との婚約の打診があった時、お父様は先方にお断りを入れる予定であった。
いつ、戦の最前線になるかも分からない領地へ娘を嫁がせるつもりはなかったという。しかし、ローズ姉様はクレイブお義兄様から〝剣の誓い〟を立てられたことで結婚には前向きだった。
そんな二人にお父様もとうとう折れて、二人は結婚して今は幸せに暮らしている──。
「おねえちゃん!」
小さな男の子の声で呼び止められ、一刹那、後ろを振り返る。
私の三歩ほど離れた場所に、年の頃は七歳から十歳かというくらいの焦げ茶色の髪にほどよく日焼けをした男の子がにこにこと笑みを浮かべて立っている。
ひゅっ、と息を呑む。
背筋が凍るような感覚。
(いつの間に、私の背後を取った──?)
不可解なのは、それだけではない。
彼は私を、おねえちゃんと呼んだ。
ローズマリーの手解きで、ルナリアの見た目は十人中、十人が男だと見紛うくらいには変貌を遂げている。服装も義兄のクレイブの物を見繕ってもらった。
(まさか、魔の者……?)
魔法を使える人間が減少しているとはいえ、異界から人間ではない者が出入りすることもある。
手のひらに、じとりと汗をかく。
「な……何かな?」
絞り出すように声にする。
はたと気づいた。彼の瞳には輝きがない。まるで瞳孔がすべてを覆ってしまったかのように。
それに気づいただけで金縛りに遭い、身体が硬直して動けなくなる。冷たく嫌な汗が全身を隈無く流れる。
(……この子は、一体──?)
「どんなくすりがひつようなの?」
先ほどから表情を崩さずに、張りつけた笑顔で私に問い掛ける。
「……声が、低くなる薬を」
「わかった! ぼくについてきて」
男の子は回れ右をして、私が歩いてきた道を戻り始めた。
(私が求めている物が薬だと知っている……! 何者!?)
左脇に差した剣がすぐ抜けるよう、右手は剣のグリップを握ったまま、警戒を一層強める。
男の子の後をついていき、ほどなく『薬草』の絵の木の看板の掛かったレンガと木と漆喰で造られた、優しい色合いの建物が見えた。
(さっき通った時には、こんな建物はなかった……)
「この家には〝にんしきそがい〟のまほうがかけてあるんだ」
建物の外観を眺めていると、男の子が私の思考を読んだかのように答える。
「認識……阻害?」
「そのへんにころがっている石ころみたく気にならないってことだよ」
道端の石ころを眺めながら男の子が説明すると、店の入り口前の階段を昇り、扉を開放し、扉の前に立った。
「いらっしゃい、君はぼくのご主人からおきゃくとみとめられたよ。さあ、中へどうぞ」
*
三段ある階段を上り、店の中に入るとカウンターの向こう側にいた人物と目が合う。
軽くウェーブした長い朱色の髪、見た目にも若く見え、髪色と同じ朱色の瞳が愛くるしいという言葉がピッタリな可愛らしい女性が私に声を掛ける。
(この人が〝至高〟──)
「いらっしゃい、客人。私の名はレアリーニ。お求めの物は声が低くなる薬だったな?」
「え? ええ……」
店まで案内をしてくれた男の子が口を出した。
「おねえちゃん、ぼくのご主人はわかく見えるけれどほんとうのねんれいは、にひゃ──」
男の子は突如黒い子猫に変化し、カウンターから出てきたレアリーニは黒猫の首を摘まみ上げる。
「……勝手に私の歳を喋るんじゃないわ! 下僕の分際で!」
レアリーニの声が先ほどまでとは打って変わりドスの利いた凄みのある声で、そのギャップに私の心臓は縮み上がる──。
レアリーニがカウンターテーブルに手のひらサイズのガラスの瓶をコトリと置く。中にはキラキラ輝く水色の丸い飴玉のようなものが瓶一杯に詰まっている。
「これが声を低くする薬。ひと瓶三十個入り三十日分、お代は十二万ディルもらおうか」
(……は?)
「じゅ、十二万……ディル?」
「使用する材料が希少性の高いもので、王都の冒険者ギルドに採取を依頼をしておるが、これがなかなかに集まらんのだ」
提示された額は出せないこともない。これまでに侯爵令嬢として蓄えていた分を崩せばいいだけだ。だが、それは自身が貴族であったから親からのお小遣いを享受できていただけであって、貴族でなくなった自分は目減りしていく貯蓄に戦々恐々しながらこれから自力で稼がなければならない。
この薬を使用するのはこの一回限りではなく、もっと継続的なものだ。
そもそもパン一個が十ディルくらいで、平民の四人家族であればひと月の生活費を五千ディルで充分に賄える。
〝声を低くするため〟だけに、十二万ディルを失うのは余りにも馬鹿げている。それこそ貴族の遊興としか思えない。
ルナリアは薬の購入を諦めることにした。
「折角こちらへ案内頂きましたが、先立つものがない故、購入を見送らせて──」
「まあ待て」
下げていた頭を上げると、レアリーニは面白いおもちゃを見つけた子どものように瞳が輝いている。
「お前は男に見られたいのだろう? ならば薬ではなく、私の作った魔道具を着けるのはどうだ?」
「……魔道具……とは?」
緊張から口の中が乾いてきたと感じて、唾液をごくりと飲む。
レアリーニはカウンター越しに私に向けてにんまりすると、紺色のベルベットをカウンターテーブルに広げ、金色の太めと細めの腕輪を一本ずつ並べた。
「この腕輪の魔石には私の魔法が込めてある。装着した者の性別が、他人からは逆に見えるという具合に。ただ、私が作った魔道具を身に着けている者には効力が相殺されてしまうがな」
「……これ、試すことはできますか?」
「どちらか好きな方を手首に嵌めてみればいい」
それでは、とルナリアは巾が太めの腕輪を選んで左手に着けてみる。
レアリーニは私の手首に腕輪が装着されるのを見届けると、先ほど〝下僕〟と呼んでいた黒猫を指で指した。途端に黒猫は私をここまで案内してくれた男の子の姿にポンと変化した。
「ご主人、ひどいです!」
姿が戻るや否や、男の子はレアリーニに突っ掛かる。
「お前が私の歳をベラベラと喋るからだ! ところでクラウディオ、お前が連れてきた客は男と女、どちらだったか覚えているか?」
レアリーニは男の子を「クラウディオ」と呼んだ。ルナリアは心の中で『クラウディオ、クラウディオ……』と何度も繰り返し復唱する。
(──あ~~!! やっとあの男の子の名前が分かったわ……!)
なんとなく心のつかえが取れたように感じる。
「ぼくがここへつれてきたのは、おねえちゃ……あれ? おにいちゃんだったの?」
クラウディオはルナリアの顔を見てハッキリと答えた。
ルナリアは瞬間的にレアリーニの顔を見ると、レアリーニは『当然』とでも言うかの如く自信満々な表情をルナリアに披露する。
その顔がどうにも『この家から出ていけ』と言った兄の顔と被って見え、ルナリアは一瞬にして不快感を顔に出した。
「効果は実感できました。買います! おいくらですか?」
「五千ディルでいい。魔石が壊れなければ効果は半永久的だ」
(半永久的!! なんて素敵なお言葉なの!!)
持っていた斜め掛けポーチから巾着を取り出し、五千ディル分の貨幣をレアリーニに手渡す。
「五千ディル、確かに受け取った」
帰ろうとする私の顔を、レアリーニは尚もじっと見つめる。そして、こう言った。
「もしも金が足りなくて困ることがあれば、私の依頼を受けてくれないか? 報酬は満足いく額だと約束しよう」
先ほど貯蓄しているお金が目減りするばかりと嘆いたばかりなのに、レアリーニは私の心が読めるのかとさえ驚愕する。
さすがは〝至高〟だ。
すっかり気を良くした私は、レアリーニとクラウディオに笑顔で手を振り、店を後にした。