023 初めての護衛任務 2
ティアナの部屋への入室を促され、足を踏み入れると部屋の奥に執務机が置かれているのが真っ先に目につく。
だが、机の上には書類の類いは一切見当たらない。今日の分をすでに片付けてしまったのか、それとも最初から政務を任されていないのか──。
「ルシウス、そこに掛けなさい」
応接セットのソファへ掛けるようにティアナから勧められ、ティアナが座るのを見て、遠慮なく腰を下ろす。
「……失礼致します」
途端に侍女たちが慌ただしくお茶とお菓子の用意に奔走し、間もなくテーブルにはお茶とお菓子が並べられた。目の前に出されたお茶を嗜んでいる間、向かいに座ったティアナが私のことをじっと見つめている。〝穴が空くほど〟というのは、こういうことを言うのだろう。
「綺麗ね」
カップから口を離し、ティアナの顔を見ると綻んだ顔を私に向けている。
「顔が綺麗なだけじゃないのね。所作も洗練されていて、まるでわたくしが幼い頃に習った行儀作法の講師を見てるみたい……」
(───しまった! つい、ルナリアの時の王子妃教育の癖が……!!)
「ええ、仰る通り……実は私の母は行儀作法の講師をしていて、飲み方ひとつとっても事細かに厳しく躾られました」
嘘を重ねるのは忍びない。だけど、こうでも言わないと追及されそうな雰囲気だ。
「まあ! 息子であっても容赦のないお母様でしたのね」
うふふ、と笑顔を浮かべられ、こちらも釣られて引きつった笑いになる。ティアナは部屋に控えていた侍女たちを部屋から出るよう促し、人払いをした。
「ルシウス……わたくしは他国から嫁いできた身。この王宮にはグェンダールから連れてきた二人の侍女しか味方がいないのよ」
すっくとソファから立ち上がったティアナは私の隣に移動し、ソファに腰を据え、上体を私の方へ向ける。
「ねえ、ルシウス……あなたにも、わたくしの味方になって欲しいの───」
瞳を潤ませたティアナは、じりじりと私との間を詰め寄り、顔を近づける。
「お、王太子妃殿下……?」
「ルシウス、わたくしのことは〝ティアナ〟って呼んで?」
頬を赤く染めたティアナが半ば強引に私をソファの座面に押し倒し、私の身体の上に跨がり、覗き込むかのように尚も顔を近づける。
外敵に睨まれた獲物の如く、絡みとられ纏わりつくような気持ち悪さをティアナに対して感じてしまっている。いつの間にか全身に大量の冷たい汗をかいている。身体の末端から頭の先へ向かって、ぞわりとした感覚が走り抜け、身の毛がよだつ。口の中の唾液を飲み込もうとしても、喉が上手く動かない。
相手は自分と同じ女性なのに、底知れぬ恐怖に襲われる。
(私の、大切な、初めてが……!)
「……ティアナ妃殿下! お止めください!」
王族に手を上げることは許されない。言葉だけで制するのも限界だ。
「堅苦しい敬称なんて要らないわ、ルシウス」
「や、止めてください! ティアナ妃殿下!!」
ティアナの唇が、私の唇に触れる寸前まで近づく。
(───もうダメ……!!)
───バンッ!!
人払いをされた筈である、この部屋の扉が大きな音をたてて開け放たれた。
ティアナと私がほぼ同時に扉へ視線を移すと、扉の前にはジルフォード王太子殿下──ジル──とオリバー隊長こと私のお兄様の二人が険しい顔つきで仁王立ちし、その背後にはティアナの侍女たちの姿も見える。
「───ティアナーー!!」
ジルの凄まじい怒号が部屋全体の空気をびりびりと震わせたかに思えた。
ティアナの肩がビクリと跳ね、私から離れるように飛び上がる。そして、ティアナは身を竦めた。ティアナの顔が一瞬にして血の気が引いて真っ青になっているであろうことは火を見るより明らかであった。
(助かった───!)
最後に見た時と何も変わっていない懐かしいジルの顔と姿に安堵し、涙がこみ上げそうになる。ジルは私にとっては救いであるとも等しい。
ツカツカと靴音を鳴らしながら、ジルが足早にソファに駆け寄るなりティアナに向けて手厳しい言葉を放つ。
「ティアナ……! そなたの行動が王家の品位を貶めているのだと何度言ったら分かるんだ!」
「なっ、何よ! ルシウスはわたくしの味方になってくれると仰ったわ!」
(言ってません! 勝手に肯定したことにしないでください!)
顔面蒼白の私は必死になって頭を横に振る。
「……〝ルシウス〟?」
ジルの視線がティアナから外れ、私の姿を捉える。すると、私の顔を見たジルの表情がたちまち強張り、無言になった。
「わたくし、生憎こちらの新人騎士のルシウスを大変気に入ってしまいましたの。ジルフォード様、あなたがこの先もわたくしに何の施しもして頂けないのでしたら、ルシウスをわたくしの愛人にすることを許容して貰いますわ!」
ティアナはこの時とばかりに、私を愛人にする、と公言してしまった。
「……なっ!?」
油断していた私は、騎士の隊服の襟元を両手でティアナに掴まれ、ぐいと上体だけを引き上げられる。瞬く間に私の唇はティアナの唇と重なっていた。
「おい、ルシウス! ルシウス!?」
「ティアナ! いい加減に離れろ!」
傍に駆けつけたお兄様とジルによって、私とティアナは立ち所に引き離された。
ティアナに唇を奪われた私の脳は思考を遮断し、身体は活動を止めて卒倒してしまったため、この辺りからの記憶はぷつりと途切れてしまったのだった───。
*
ゆっくりと意識が浮上し、見知らぬ天井の模様に私は慌てて身体を起こす。
「───ここは……?」
「……ああ、気がついたか。ここは俺の執務室だ」
声がする方へ身体を向ける。誰の声なのかは分かっているけれど、反射のように執務机の椅子に腰掛けた声の主の顔を確認し、改めて驚愕する。
私は寝かされていたソファから素早く立ち、腰を折って礼をした。
「ジルフォード王太子殿下……! お初にお目に掛かります。一介の騎士である私を介抱頂き、深謝申し上げます」
「……」
ジルは何故か口を結んだまま、私の顔だけを眉ひとつ動かさずに凝視する。
「あの……ジルフォード王太子殿下? どうかなさいましたか?」
怪訝な顔の私を気にする素振りもなく、ひたすら見つめられ、私はいたたまれなくなってきていた。息が詰まるかと思うほどに長く感じられた沈黙が終わり、やっとジルの口から出たのは謝罪の言葉だった。
「リ……ん゛ん! 妻が申し訳ないことをした。好いてもいない相手から無体をされれば誰だって不快になる。どうか、このとおり赦して欲しい」
ジルは椅子から立ち上がり、その場で私に頭を下げた。
「──い、いけません! 王族が簡単に頭を下げるなど! 況してや私は貴族でもない平民です! 王太子殿下に頭を下げられる謂れはありません!!」
血の気が引く思いになりながらジルからの謝罪を拒絶する私に、ジルが食い下がる。
「しかし、それではそなたの気が晴れないであろう。俺の妻からの口づけで気を失うくらいだ。妻は美男子の唇を奪ったと大喜びしていたがな」
ティアナの行いに呆れながら、ジルは嘆息した。
もしも私が本当は女なのだと知られたら、王族侮辱罪が適応されるのだろうか。
「本当に、そこまで気を掛けて頂かなくとも大丈夫です」
力なく笑う私の気持ちにジルが気づくことはない。
「──殿下、私から発言してもよろしいでしょうか?」
ジルではなく、長年聞き慣れたお兄様の声が部屋の中に響き、声がした方向へ振り返る。すると、部屋の扉の脇に、お兄様とジルの側近のコーディアスが並んで立っていた。声ひとつ立てずに最初から部屋に控えていたのだと知り、自分の発言におかしなところが無かったか、急に恥ずかしくも不安になる。
「何だ? 発言を許可する」
「ありがとうございます。ルシウスは新人なので護衛のための研修が済んでおりません。騎士団の規則により、王太子妃殿下の護衛に就かせることは出来かねます!」
「オリバー、俺はティアナの我が儘を通すつもりはない」
「……それを聞いて安堵致しました」
「研修期間の修了後、ルシウスは俺の専属護衛になってもらう」
「は? ……はああ!?」「殿下!?」
(今、この人、なんて言った!?)
お兄様とコーディアスが揃って目を剥く。当事者である私が一番驚いたのだけれど。
「殿下! ルシウスは専属にするほどの経験値はまだありません! どうかお考え直しください!」
「そうですよ! 経験の浅い護衛では万が一の時に殿下の命が危険に晒されてしまいます!」
二人が揃ってジルに猛抗議する。
「ちょっとやそっとくらいなら大丈夫だ。この装身具のおかげで魔法攻撃はすべて無効になるし、一度だけなら物理攻撃も撥ね除ける」
そう言って、ジルは薄く笑いながら右耳の紅い宝石の付いたピアスを触った。
私がエリクフォードの婚約者として王宮を出入りしていた時には、すでにジルは片耳に紅いピアスを着けていたと記憶している。
(初めて知ったわ、あのピアスにそれほどの力を秘めていたなんて)
「……過信は禁物ですよ、殿下。ピアスが壊れてしまっては元も子もありませんから」
コーディアスがやれやれといった呈で主君の危機感のなさに呆れかえる。
そこでジルがハッと何かに気づき、突如として表情がぱっと明るくなった。
「───オリバー、いい案がある! 来週末に王家主催の狩猟大会があるだろう? その日は両陛下も出席されるからオリバーも当然出席だ。腕に覚えのある貴族や騎士ら出場者枠にルシウスを参加させて、ルシウスの実力が如何ほどのものか、そこで見極めればいいじゃないか」
良い提案を出したとジルはご満悦の様子だ。
毎年この時期に開催される狩猟大会に、エリクフォードの婚約者だった頃の私は必ず出席をしていた。ただ、大会が終わるまで王族や上級貴族の夫人たちと卓を囲んでお茶をしていた覚えしかなく、優勝候補のカイデル老公爵とグランシス侯爵の一騎討ちがここ数年は常態化している。
「たまにはカイデル老公爵とグランシス侯爵以外の者たちが活躍してもいいだろう? ルシウスが大会の台風の目になれば面白い。ところで、ルシウスは馬上での狩猟は経験済みなのか?」
そう、狩猟大会に参加するために、一番肝心なことの確認が抜けている。
「馬には乗れますが……今までに弓矢を手にしたことがありません!」
その場でキッパリと言い切ると、ジルとコーディアスの両名が途端に石化し、眉根を寄せたお兄様の顔には〝それ見たことか〟と書かれているのであった。




