018 男爵令嬢ミュリエッタ・レイヴァル 4
職員室に入るなり、部屋中の職員から一斉に私とお兄様に視線が集まる。
黒縁の眼鏡を掛け、白髪をオールバックにした老齢の小柄な男性職員が私の前に小走りでやってきた。
「ミュリエッタ・レイヴァル君だね。私は三学年の学年主任のガーゴイルだ。実力考査の結果、君はFクラスに決まったよ」
三学年主任のガーゴイル先生は、資料に目を落とし眼鏡のズレを直しながら、実に淡々と読み上げる。
私はお兄様が恐ろしくて、隣に立つお兄様の姿を見ることができない。
「ミュリエッタ……最下位のFクラスとは、一体どういうことなんだ……?」
お…お兄様の声が震えている……これはまずい。
「ふむ、ミュリエッタ君の兄君は常にAクラスで生徒会役員のフレデリック君だったか」
ガーゴイル先生がお兄様を見ながら眼鏡のズレをしきりに直す。
「お兄様……これには、深~い訳があって……」
「言い訳なら家に帰ってから存分に聞いてやろう!」
私にそう言い捨て、魔王と化したお兄様はドスドスと足音を立てて職員室から出ていった。
「ガーゴイル先生、彼女が例の新入生ですか?」
「おお、来たか! ミュリエッタ君、こちらが君のクラスの担任のマーカス先生だよ」
まるで先ほどまで実験していたかのような小汚ない風貌に無精ヒゲ、薄汚れた白衣を着た、上背のある男性が私の前に現れる。肩まで伸びた髪は横は纏めきれず、後ろ髪だけ括っているようである。
「マーカス・バニシュ、三年の落ちこぼれクラスの担任だ」
自分の受け持ちのクラスを〝落ちこぼれ〟だと言って貶める教師が担任だなんて、と思ったが、レベルに見合った担任が割り当てられるのだと思い至る。
「ミュリエッタ・レイヴァルです。マーカス先生、今日からよろしくお願いします」
「君は授業を受ける気はあるのか? 君のやる気を訊きたい」
「──は?」
やる気があるから入学したのに、この教師は何を言っているのだ?
「ガーゴイル先生から聞いたが、実力考査の解答用紙は白紙、自分の名前すら書かなかったらしいな」
「あ、それは……王立魔法学園の洗礼だと思って、妨害を阻止できなくて」
「妨害? 何のことだ?」
「解答用紙に答えを書いても、書いた文字だけが剥がれていっては消えてしまって……最後には自分の名前まで解答用紙から剥がされてしまったのです。皆さんはどのように妨害されずに試験を受けるのか、気になっていました」
私の話を聞いたガーゴイル先生とマーカス先生は白目を剥いて青い顔をしている。
何かおかしなことを言ったのだろうか?
「……我が学園には入学する生徒に嫌がらせをする不届き者がいるようだ。ミュリエッタ君、すまなかったね」
ガーゴイル先生が額に手を当てながら、申し訳なさそうに私に声を掛けてくれた。
ああ、よかった。書いた文字が剥がされる妨害は試験の度に起こる訳ではないのね。
「──では、彼女は実力考査の受け直しをさせて、本来の能力に見合ったクラスへ……」
「いいえ、折角マーカス先生と縁が出来たのですから、来年のクラス替えまではFクラスのままでお願いします」
マーカス先生の言葉を遮り、試験の受け直しをやんわりと拒否する。そう何度も試験なんて受けたくはないのが本音だ。
「では……私と教室まで案内がてら一緒に行こう」
「はいっ」
「この学園は王都オルラインの西側に位置しており、城塞の西門の役目も担っている。それは何故か? 学生と云えども、いつ何時も王都が脅威に見舞われた際に魔力を持つ学生たちは特に上空からの敵への抑止力になる。王都の上空には結界が張られてはいるが、万全でもないからな。ただ、西門はこの学園の学生と職員だけは出入り出来るが、普段は近づくな! わかったな!」
「わかりました」
職員棟の廊下が途切れ、渡り廊下が先に延びる。真っ直ぐに進もうとすると「そっちじゃない。こっちだ」とマーカス先生は右側に隣接する建物の出入り口へ入っていく。
「この建物が教室棟ですか?」
「違う。ここは技術棟で、廊下を通るだけだ」
暫く言葉もなく歩いていくと、技術棟から出るであろう扉に、大きく何か書かれている。
「『下位クラス以外は立入禁止』?」
「下位クラスとは、DEFクラスのことを指す」
「では、ABCクラスのことは?」
「上位クラスだ。余計な火種を撒かないように上位クラスと下位クラスの教室棟は分かれている」
マーカス先生が扉を開けた先は、またしても渡り廊下だった。左へ折れ、マーカス先生の進む先には『下位クラス教室棟』と表記されている。先生は迷うことなく下位クラス教室棟の扉を開けて入っていった。後を追うと、マーカス先生は階段の前の広い空間で立ち止まって私を待ってくれている。
「一階は談話室と食堂だ。食堂は職員も使用することがある。この廊下の奥は正面玄関と玄関ホールになっているから、普段は正面玄関から出入りすること。この教室棟の高さは七階建てで、一年生は七階、二年生は六階、三年生は五階といった具合だ。階段と手洗い場は校舎の端と端の各階にある。三年生は五階まで階段で、と言いたいところだが、生憎私は腰を痛めていて階段の昇降は勘弁して欲しい。そこで──」
足元をすうっと指で示された。床には魔術陣が描かれている。よく見れば魔術陣には各々学年と階数が書かれていた。
「もしかして、転移できるのですか?」
「そうだ。前々から要望していたのだが、先月、魔法省が漸く設置してくれた。但し、魔力のない者には使えないそうだ」
さすがは王立の魔法学園だ。転移魔法が簡単に発動できる珍しい魔術陣を使わせてくれるなんて。
大きさは三人まで入れるくらい。私とマーカス先生が同時に魔術陣の中に足を踏み入れ、約一秒静止したのち、目の前の景色が瞬時に歪む。
(何これ、気持ち悪い……立っているのがつらい……)
「もう着いたぞ。大丈夫か?」
「ちょっと……大丈夫……どころでは──」
生まれて初めての転移魔法の体感に、思わず床に座りこんでしまう。足元がガクガクと震えて覚束ない。
「魔力量が少ないのだな。慣れたら幾分かはましにはなるだろう。ほら、ここがFクラスの教室だ」
先生に手を引っ張り上げられ、助け起こされる。
始業前の廊下は、三クラス分の騒々しいざわめきが耳に届く。
「教室は百二十人が一度に座れる広さだが、今年の三年生のひとクラスは五十人ほどだ。Fクラスは君を加えて五十二人になる」
マーカス先生は教室のドアを乱暴に開け放つ。すると、教室の中の話し声が止み、立ち歩いていた者は慌てて着席する。
先生に続いて教室に入っていくと、ひそひそとした話し声がくすくすと嘲笑に変わる。
『自分の名前も書かなかったって……』
『字が書けないから白紙だったのでしょう?』
『そんなことを言ったら可哀想よ』
(実力考査の白紙答案のことを、何故知っているのだろう……?)
「──静かに! 今日からこのクラスに新しく加わることになった、ミュリエッタ・レイヴァル君だ。皆、仲良くしてやってくれ」
「ミュリエッタ・レイヴァルでしゅ──」
(私ったら、噛んでしまったわ……!)
ひと呼吸の静寂が訪れたのち、教室中にどっと笑いが沸き起こる。
「『でしゅ』だって!」
「名前も書けない赤ちゃんなんでしゅか~?」
自分の発言を茶化され、恥ずかしさで顔が赤くなる。くるりとクラスメイトたちに背を向け、白いチョークを手にすると黒板に〝ミュリエッタ・レイヴァル〟と書き、下に旧王国言語で〝フレデリック・レイヴァルは私の兄です〟と書く。途端に教室中が騒がしくなった。
『おい、下の段はなんて書いたんだ?』
『……旧言語!?』
マーカス先生が感心したように、ほう、と漏らす。
チョークを置き、クラスメイトたちの方へ身体の向きを変える。
「私のお祖父様の若い頃のセルディア王国統一前は現在の主要言語と旧言語が入り乱れた時代であり、私は幼い頃に二つの言語をお祖父様に習いました。決して名前が書けない訳ではありません」
にこりと微笑んでクラスメイトたちに応酬する。
「ははっ、揶揄った者は素直に謝るように! ミュリエッタ君は好きな席に着きなさい」
「はい」
「──では、授業を始める」
私が空いている席に鞄を置き、椅子に腰を下ろすと、マーカス先生は黒板を綺麗に消し去り、教科書の文章を読み上げ始めた。