011 欠けた記憶と光の輪 1
◇ ◇ ◇
バートン様の部屋のシャワー室を借り、身体を清潔にしてシャワー室から出てくると、バートン様はすでに職場へ出勤された後であり、走り書きのメモと部屋の鍵だけが残されていた。
『部屋を出る時は施錠し、
鍵は管理人室へ預けること バートン』
綺麗な筆跡にバートン様の人柄のよさがそのまま滲み出ている。普段から面倒見がよい上司なのだとよく分かる。昨日の食事の席でも、私への気遣いが見てとれた。
このまま黙って帰るのも気が引け、一宿一飯のお礼に部屋を掃除してあげよう、と思い付く。
メモ書きに書かれていた管理人室で掃除用具を借りに一階まで下り、管理人室へ出向くと、ある人物に出くわすことになるとは思わず───。
「……あれ? 君は」
「───!」
黒を基調とした隊長服に、肩章は青。
肩にかかる金色の髪の毛、緑柱石の瞳。私が昔から恋焦がれた人──ローレンス・フロンターレ──がそこにいた。
咄嗟に回れ右でローレンから逃げるように元来た通路を戻り、階段を一気に駆け上がる。すると、ローレンが私の後を追って駆け上がってくるのか、階下から私のものではない靴音が響く。
「待って、君……!」
ローレンの呼び掛けを無視し、ひたすら最上階を目指す私。
最上階に到達すると、再度バートン様の部屋に逃げ込んで呼吸を整え、その場をやり過ごす。
扉越しに通路を足早に駆けるローレンの足音と乱れた呼吸音が近づいては遠ざかる。
(ごめんなさい……今はまだ、あなたに逢えない──)
通路の足音は次第に遠ざかり、カツンカツンと階段を下りる音に変わり、足音は聞こえなくなった。心臓はまだドキドキとしていて、動揺が治まらない。
(ローレンは、なぜ男の姿の私を追い掛けてきたのかしら……?)
はたと気づく。
入寮者ではない人間、つまりは〝不審者〟と思われた可能性に思い至り、自分の軽はずみな行動に頭を抱えた。
(お礼に部屋の掃除とか考えないで、さっさと退散するべきだったのね……でも、それじゃ余りにも無礼だわ)
その時、お腹がぐ~う、と鳴り響く。
朝食をとることをすっかり忘れていた私は、まずは腹ごしらえをしてからどうするかを考えることにし、部屋の内鍵を解錠すると扉の取っ手に手を掛けた。
──瞬間、カッ!!っと私の身体が目映い閃光に包まれた。
私の意識は、そこで突如途絶えてしまう。
*
カァン! カン! カン!
爽やかな風が肌を撫でる。
よく晴れた日の昼下がり、デルカモンド家の別邸の拓けた庭で、あどけない顔のお兄様とローレンが木剣で打ち込み稽古をしている。少し離れた木陰で、幼い私が青々とした芝生の上に座り、二人の様子を見守る。
幼い頃、私の八つ上のお兄様と幼馴染みのローレンが剣術のお師匠様に稽古をつけてもらっている姿をよく見ていた。
私も一緒に剣を習いたいと、子どもの我が儘で一緒に教えてもらっていたわ……懐かしい。
これは私が五歳か六歳の頃かしら……?
「うん、ルナリアは小さいながらも筋がいい」
「ほんとう? おししょーさま!」
「奥義の皆伝はオリバーでもローレンスでもなければ、ルナリアかもしれんなあ! わっはっは!」
「師匠! 剣に魔力を纏わせればそれくらい俺だって──」
「僕もです! 魔力を込めればオリバーにも──」
「馬鹿者! 普段から魔力に頼れば、万が一にも魔力切れになった時に何者も護ることは出来ん!」
オリバー兄様とローレンの二人がお師匠様に叱責される。
「アスターはオリバーやルナリアよりも魔力が多い。魔法騎士になってもいいだろう」
「わあ! アスターにいさま、まほーきしになるの?」
(アスター……兄様……?)
「ルナやオリバー兄様がお師匠様のような剣術士を目指すなら、ぼくは魔法騎士になるよ!」
「言ったな、アスター!」
笑い声が飛び交い、楽しそうな剣術の練習風景から一変して、瞬時に私が絶叫に近い声で泣き叫んでいる場面に切り変わる。
何処かわからない真っ暗な部屋に、小さな私とアスター兄様の二人きり。
「うわあああああーーーん!!」
「ルナ! 大丈夫だよ、ぼくがついてるから」
二人ともまだ幼いのに、アスター兄様は私を抱きしめ、必死で宥める。
「あのやかましいガキを黙らせろ!!」
部屋の外から聞こえる野太い男の声に、小さな私は震え上がる。
(これは何? 一体何が起こっているの?)
*
またしても視界の一面が真っ白になり、重い瞼がうっすらと上がると、模様のない無地の天井が視界に入る。
「……気がついたか? ルナリア嬢」
バートン様の心配そうな顔が、天井の模様を遮る。
咄嗟に身体を起こそうとすると、黒い騎士服姿のバートン様に止められた。
「床で倒れていたんだ。頭を打っているみたいだから、もう暫く寝台で横になってろ。それと、腹が減っているだろう? 君の食事を持ってくるから少し待っていてくれないか」
「ありがとう……ございます」
「気にすんな」
私に優しく微笑み、大きな手がくしゃっと私の頭を撫でていく。
(やっぱり、とても優しい……)
バートン様が椅子から立ち上がり、部屋から出ていくと、静まり返った部屋が戻ってくる。
そういえば、バートン様が黒い騎士服に着けていた肩章は赤だった。赤ということは、お兄様と同じ隊長職……知らなかったとはいえ、随分と無礼な行いをしてしまったかもしれない───。
ふと、先ほどまで夢で見ていた内容を思い出す。
アスター兄様、と幼い私が呼んでいたわ。
どうして私、自分のきょうだいのことを忘れているの?
まるで、アスター兄様に関する部分だけ、すっぽりと記憶から抜け落ちてしまっているかのように……。
コンコンコン、と扉がノックされる。
「はい、どうぞ」
少し身体を起こしてから返事をして、バートン様が戻ってくるには余りにも早すぎると気づいた時には、すでに扉は大きく開け放たれていた。
入口に立っていたのは、宮廷魔術師団のカルロ・ハーデルヴァイドであった。
「ルナリア様……! やっと、やっと見つけましたよ!」
私が第二王子の婚約者だった頃から、カルロ様は少し……いや、異常とも思えるくらいには私への恋慕は犇々と感じていたが……とにかく重い……!
カルロ様は扉を閉めずに私の傍らに素早く駆けつけると寝台に身体を乗り上げ、私の両手をがっしりと掴む。
「ひ……っ!」
「ルナリア様! どうか私と結婚してくださいっ!!」
真剣な面持ちのカルロ様から逃げられずにいて困惑する私だったが、カルロ様の背後で黒い影が揺らめくことに気づく。
「──あ」
「──え?」
カルロ様が後ろへ振り向いた瞬間に、鬼神になったバートン様の右フックがカルロ様の顔面にクリティカルヒットした。カルロ様は鼻血を出しながら勢い余って寝台から吹っ飛び、先ほどまでバートン様が座っていた椅子を薙ぎ倒し、盛大にテーブルに叩きつけられると、白目を剥いて失神してしまっていた。
「他人の部屋の寝台で何してやがる! クソ魔術師!!」
鬼神バートン様の後ろには、すっかり縮み上がったハンクスさんが食事の盆を持ったまま立ち尽くす。
「ハンクス! そこの魔術師を外へ棄ててこい!!」
「──りょ、了解っス」
「何なら、そこの窓から棄ててもいいぞ」
「ここ五階っスよ!?」
「こいつは死なん! 気にするな」
「……隊長、それはさすがに死ぬっス」
バートン様とハンクスさんは普段からこんな会話なのかしら?
内容はとても不穏だけれど、昨日の食事の席でも、とても信頼し合っていると感じたわ。
そして羨ましい、とも。私にはそういった心から打ち解けあえる人は居ないから、単純に憧れる。
バートン様が倒れたテーブルと椅子を元に戻すと、ハンクスさんが食事を載せた盆をテーブルの上に置いてくれた。
ハンクスさんが失神したままのカルロ様を肩に担いで部屋から出ていったのを見届けると、バートン様が「こっちに座って食べるか?」と声を掛けてくださる。
「……はい。では、そちらで」
寝台から降りて歩いても、ふらつくことはなかった。
「少し早いが俺も昼休憩だ。俺の分の食事もその盆に含まれている」
「どおりで……」
どの料理も皿に山盛りに入っていて、私ひとりで食べ切ることが出来ない量だったからだ。
「ナイフはないが、フォークとスプーンは持ってきた。昨日の今日だからな」
「ありがとうございます」
クスっと小さく笑って礼を告げる。
「ところで、ルナリア嬢はなぜ床で倒れていたんだ? 昨夜のアルコールがまだ残っていたのか?」
「──いいえ、実は部屋を出ようと取っ手に手を掛けた瞬間に目映い閃光に目が眩んで……」
「閃光?」
「ええ、わたくしの身体を覆い尽くすくらいのものでした」
私はバートン様に、先ほど自身に起こった不可思議な出来事を説明する。