55
着いたのは、何度か薬の配達でも訪れ、そして今は僕の実の父、江生が滞在しているあの大きな屋敷だった。
門の前をそのまま当たり前のように通り過ぎようとする桜太郎に「ここからは自分で歩けるから」と降ろしてもらう。しかし、門の前から足が動かない。走ったせいで地面に付いた足の裏が痛むからか、僕の気持ちがそうさせたのかは分からない。
「梅? 足が痛むだろう? 大丈夫か?」
「兄さん……、い、今この屋敷に住んでるの?」
僕は屋敷を一直線に見つめて聞いた。冷静に聞いたつもりだったが、声の震えは完全には抑制出来なかった。
「江生様には事情を話して、屋敷の隅の物置小屋を借りてる。お前のことを話したら、今回の事にも力を貸して頂けるそうだ」
「今回の事って? こ、江生様には迷惑を……かけたくない……。ねえ、やっぱり、兄さんの山小屋に帰ろう?」
桜太郎を見上げて僕は訴えたが、彼は目をひそめた。そして、屋敷の奥からこちらに近付く人影に目を向けた。僕もそれにつられて顔を向ける。
「桜生くん、あなた方のお家はもう危険でしょう? しばらくここに身を隠しなさい。おやおや、ほらその足を早く手当てしてもらいなさい」
姿を見せたのは、江生だった。その偉大さと高貴さはその場の空気を清らかになだめる。しかし、僕は反射的に一歩退いた。
今の僕には桜太郎だけでよかった。この世にいる他人とはもう関わりたくなかった。桜生として生きた人生は終わりにしたのだから。それが僕にとって当然だったし、僕の小さな社会だった。
僕は首を横に振りながら、もう一歩退いた。すると、後ろにいた桜太郎に背中がぶつかり、彼に肩を支えられる。
「お前を守るためなんだ」
桜太郎を首だけで後ろを見上げると、優しくも悲しそうな顔があった。
「藤華さんは、兄さんの命を狙ってるんだよ? 僕に兄さんを……こ、ころさ……せ……」
「梅、もういい。泡ってやつから話は聞いてるから、もうそんなこと話さなくていい」
僕に皆まで言わせたくない桜太郎は、言葉を遮った。見上げる僕に瞳を落とすと、桜太郎はゆっくり話し始めた。
「藤華は……俺の兄なんだ。……兄上にあったんだな。お前を巻き込んでしまって悪かった。でも、もう後のことは心配するな。江生様もいる。術師である俺の叔父上も協力して下さるから」
兄さんの兄上? 叔父上?
頭の整理が追いつかない。追いつかない上に、今までの疲労からなのか、僕は胸に痛みを感じ始めていた。
発作が……ッ。
呼吸も苦しくなる中、桜太郎から目が離せない。
「早く彼を中へ」
江生の声が聞こえて、桜太郎は再び僕を抱えようとする。しかし、僕は胸を押さえながらも桜太郎の手を振り払って、抵抗した。
「にい……さん、僕が……に、兄さん……と『呪い』……をとけ……ば、全部ッ、うッ……はぁ……全部解決する。……だ……から」
桜太郎は座り込む僕の背中に腕を回し、優しく撫でる。
「分かったから、もう、喋るな。
俺はお前といる。それで、お前と『呪い』を必ず解く。それから、早く山小屋に帰りたいんだろう?」
僕は大きく頷いた。桜太郎が全てを理解して分かってくれたことに安心した。
安心すると同時に意識が遠のき、体の力が抜けた。
次に目が覚めた時、夜目に慣れて目に入ったのは、立派な高い天井。そして、心地よい香が鼻を掠めた。
はっ、として半身を起こすと、着なれない高価な絹の襦袢を着せられていることに気付く。広い部屋には誰も居ない様子で、一人寝かされていたようだ。
そうだ! 兄さん? 兄さんは?
桜太郎が近くにいないことに気付くと、酷く不安に襲われる。慌てて立ち上がろうとすると、体のあちこちに鈍痛が走る。洞窟内の牢屋で悪夢で暴れたツケが今頃回ってきたようだ。その鈍痛に耐えながら、なんとか障子を開けて縁側に出る。左右に首を振って周りを見渡すが、静まり返った屋敷の中は人の気配さえ感じられず、夜の静けさが辺りを包んでいた。
「兄さんッ……、兄さんッ!」
叫んだ声が、冬の夜の暗闇に吸い込まれてしまうようだった。消えていった自分の虚しい声に絶望していると、縁の外の端から足音が聞こえた気がした。
「梅か?」
暗くて姿を確認できずとも、そこに立っているのが桜太郎だと分かる。それに「梅」と名を呼んで傍に寄ってきてくれるのは、ここでは桜太郎しかいない。
僕は裸足のまま桜太郎に駆け寄り、抱きついた。
桜太郎の胸の中にいると、先程までの底知れぬ不安が消えていく。
「良かった……。一人、置いて行かれたと思った」
顔を擦り寄せた僕に桜太郎は「ふふっ」と鼻で笑った。
「お前と『呪い』を解くと約束したし、一人にはしない。……だが……、流石にこの小汚い俺がこの屋敷で寝泊まりは出来ないだろう?」
桜太郎は、僕の頭を撫でながら肩を抱き寄せてくれる。
「じゃあ、僕も兄さんと一緒に外に……」
「だめだ! せめてその体の傷が癒えるまではだめだ」
「僕の体なんてもう治らなくてもいい。兄さんの傍がいい」
その時、先程まで寝かされていた部屋の隣の部屋の障子がゆっくり開くと、そこから出てきた人物が声を掛ける。
「良いではないですか? 桜生くんが安心できる環境で守ってやっては?」
「江生様……」
桜太郎は、彼に一礼すると、江生は首を縦に深く振って頷いた。
「ありがとうございます」
「あ、ありがとうございます」
桜太郎が江生に対して丁寧に対応しているのに習い、僕も頭を下げてお礼を言う。
「今夜も冷えますね。二人とも暖かくして休んで下さい」
江生はそう言うと、神の如く美しい笑みを見せた後、颯爽と部屋に戻って行った。その後ろ姿を眺めていると、実の父であるはずなのに、江生の他人行儀な態度を寂しいとさえ感じてしまう。しかし、「さあ、行こう」と桜太郎に肩を押されるとその寂しさも後を引くことは無かった。
「お前は本当に頑固者だな」
敷地内の物置小屋に入ると、二人で火鉢に当たり暖を取った。
「ねえ、兄さん。……お願いだから無茶しないでね」
僕は火鉢の中を見つめながら言った。
「お前に言われる筋合いはないな」
桜太郎と藤華との間に何があるのかは分からないが、ここに着いてから桜太郎に対してずっと胸騒ぎを感じていた。だから、僕は余計に桜太郎の傍を離れたくなかった。二人の間に生死を懸けるほどの因縁がある。しかし、それを知りたくもあり、一方で知りたくなかった。桜太郎が死に急いでいるのではないか……理由は分からなくても何故かそう感じた。
僕は思わず隣にいる桜太郎の袖をギュッと引っ張った。
「……」
そんな気持ちを正直に話せる筈もなく、僕は無言で彼を見つめる。そして、僕の願いを口にした。
「兄さん、兄さんの幸せを絶対に諦めないでね。お願い……」
僕はもう永くないから、桜太郎兄さんの将来を見届けることは出来ないだろう。でも、これを約束してくれないと僕も死ぬに死に切れない。
「俺のことなんて心配する必要はない。今はお前の体の方が大事だ」
僕はそんなことない、と首を横に振る。
僕のことなんていらない。
こんな日陰の僕のことなんてもういい。
兄さんは日向に出るべきだ。
「うちの妹は本当に頑固者だ」
桜太郎は僕の長い髪を何ゆっくり優しく度か撫でた。
「頑固者で、それでいて……可愛いい、俺の妹だ」
「ふふっ」と鼻で笑い、優しく微笑むと桜太郎は「さあもう少し寝よう」と言い、狭い空間にやっと敷かれた一組の布団を顎で示した。
しかし、一日中寝ていたためか、体の痛みからなのか、布団に横になっても僕は目が冴えてしばらく眠れないでいた。ふと、左に寝返りを打つ。左にいた桜太郎の顔を見ると、彼の目も開いたままだった。彼は何かを思い詰めたように、じっと天井を見つめている。
「兄さん?」
起きている自分に気付いて欲しかったのだろう、僕は幼い子供のように桜太郎に声を掛けた。「……ん?」と桜太郎はこちらに頭を傾けた。
「眠れないのか?」
「うん。……な、何を考えてたの?」
そんな事聞くつもりはなかったのに、冬のツンと静まり返った空気に何か物足りなさを感じ、思わず言葉を発してしまった。
「ん〜。昔のことを思い出してた」
「昔のこと?」
「そう。それからお前とのこと」
そう言われて、僕も初めて桜太郎に出会った日のことを思い出した。
「あの日……お前が発現した日から、お前と俺は離れられない運命にあったのかもしれないな。今はそう思う。
お前にやったその染め紐、元々藤華兄上が身につけていた物なんだ」
桜太郎は僕の方をチラリと見ると、桜太郎は頭の下で腕を組み、天井に顔を向けたまま話し出した。
確かに、この世界での僕たちの始まりは、あの日だったかも知れない。しかし、この運命はずっとずっと前、前世から始まっている。術を使えるぐらいだから、桜太郎もそれぐらい分かっているだろうに。
「あ、藤華兄上と言っても母違いの兄弟なんだ」
知らない事実を次々に知らされ、目を丸くしている僕に、桜太郎は穏やかな表情でまたこちらをチラリと見た。
「その染め紐は俺の父が藤華のために作った物だっだんだ」
僕は自分の右手首を見た。少し焼け焦げたような跡があり、色褪せた桃色の染め紐。
桜太郎は、今まで誰にも話せなかっただろう、自分の生い立ちを、いつになく饒舌に話し出し、そして恐らく彼と彼の家族の事を全て話してくれた。
彼の話を聞いているうちに、桜太郎はずっとこのことを聞いてくれる相手を探していたのかもしれないと思った。
「兄さん、話してくれてありがとう。将来、もし兄さんにとって大事な女性が現れたら、今みたいに兄さんの過去のことを話してあげてね。その人もきっと嬉しいと思うから」
全てを聞き終わった後、僕は何様のつもりなのか、桜太郎にそう伝えた。僕がいなくなった後、きっと彼が幸せな家庭を持てますようにと、祈らずにはいられなかった。
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