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ずっと、懐に入れて持ち歩いている。
いつ渡そうか。やはり渡すべきではないのか。
絢にきっと似合うだろう、それを。
そして、彼女はきっと喜んでくれるだろう、それを。
しかし、僕は絢に僕を思い出させる物を残したくないとも思う。が、絢との別れの寂しさがその判断を鈍らせた。
君を想った12年間の証に。
12年間僕の心の温もりだった君へ感謝を込めて。
そんな気持ちが溢れてしまう。
今朝は、朝から津結の学校に向かう絢を送って行き、そのまま僕は船着場に向かう予定だ。
もうすぐ、うちに絢がやって来る時間だ。
そう、今は朝餉の後のゆったりとした家族団欒の時間を過ごしている。そして、北の大事な人たちとの別れの時も刻一刻と迫っていた。
胸を突き上げるような苦しみ。心が彼女と別れたくないと叫ぶ。
思わず、その物を潜ませた懐を着物の上からぎゅっと掴んで、胸の内側の苦痛を握り潰そうと足掻くが、そんなこと出来る訳もない。
「桜生さん? 胸が痛みますか?」
痛む。胸が痛む。違う意味で胸が痛い。苦しい。
「……」
父の大きな手を肩に置かれ、顔を覗き込まれた僕は、はっと我に返った。
僕は何を悩んでいるのだろう。冷静に考えたら分かることではないか。
絢に贈り物なんてすべきではないことくらい。
「だ、大丈夫。ゴホッ、ゴホッ」
「それなら、良いのですが……」
それでも父は医師の目を遣って僕の顔色を疑いにかかる。僕はその疑いを晴らすために前屈みになっていた体を起こし、そして、もう一方からの視線の先、母には明るく話題を振った。
「母さん、煮物、すっごく美味しかったよ! 作ってくれて、ありがとう」
「まあ、嬉しい」
母は、胸の前で両手を握り合わせて可愛らしく喜びを表す。
……たぶん、こういう素直に感情を体で表す母の可愛らしい仕草に和路医師(父)も江生様も心奪われたのだろう、と思う。……ほら、現に横にいる父は既にそんな母の表情に見惚れているではないか。
思わずふふふっ、と笑いが漏れた。
父は僕の視線に気付くと、耳を赤らめた挙句、軽く咳払いをして誤魔化そうとする。
「……桜生さん、由さんの煮物を食べられて良かったですね」
父は食後のお茶を片手に持つと、ずずっと一口啜って、平常な心を保とうとしたらしい。まるでずっと家族だったようなこの穏やかな空気……居心地いいな、とまた一つ僕の理性を鈍らせる要素が増える。
そして、昨晩の父の拳を振り下ろした態度からすると、あの時の気持ちを押し殺した上での会話なのだと父の胸の内を察すると、無理をさせている父に申し訳なかった。
「うん。ゴホッ、ゴホッ」
こうやって、穏やかに進められている父との親子ごっこに付き合わせるのは仕方のない事だ。何より母のために。
「たくさん作ったから、持って帰って欲しいけど……最近の暑さじゃ無理そうね」
そんな僕と父の笑顔の裏に潜む気持ちなど、全く想像していないであろう母は、楽しそうに僕に笑いかける。
「母さん、また帰った時に作ってよ」
「そうね。そうしましょう」
そんな会話をしながら、今朝も母の顔色は良さそうだと安堵する。一方で、母の顔を眺めている間も横からの父の視線を感じる。が、その視線に目は向けられない。
———また、帰ったときに……。
そう僕が母に嘘をついたことを父に咎められている視線だったからだ。
朝餉の片付いた食卓で、親子三人での束の間の団欒。そして、それは母のための団欒。
「ねえ、母さん……、母さんが元気そうで安心した」
「ふふっ、それはね、父さんのおかげよ」
母は、和路医師(父)に目を向けると、少し照れながら、にこりと微笑む。そうやって微笑まれると父も母には弱い。先程の父の眉間の皺を一瞬で消してしまった。
「桜生も今朝は少し気分も良さそうね。緑助さんのことだから、無理はさせないだろうけれど、やっぱり、体を大事にね」
「うん」と答える僕に、母はゆっくり膝を滑らせて近寄り、そして僕を抱き寄せる。
「こんなに大きくなってしまって……」
「……」
まだまだ大きくなるよ、とは言えなかった。未来に期待を持たせるような発言は、隣の父の視線が痛い。それに流石の僕も、これ以上母に嘘をつくのは嫌だった。
「おはようございます!」
開け放たれた玄関から絢のよく通る元気な声が聞こえて来た。それを合図に腰を上げた父が玄関に向かう。
「絢さん、おはようごさいます。おや、拓郎さんまで。おはようございます」
「おはようございます」
「おはようございます。先生」
玄関先が一気に賑やかになり、居間に残った母と僕はそれをBGMのように耳に聞き流していく。
「母さん……、そろそろ行くね」
言いながら、僕は母から体を離す。
「緑助さんに宜しく伝えてね」
母は僕の頭に片手をそっと乗せると、数回撫で、最後にその掌を僕の頬に添わす。
「母さんも体に気を付けて……」
他愛の無い、いつもの別れの挨拶をお互いに交わすと、二人は腰を上げた。玄関に向かう廊下で、後ろについて歩く母を振り返ることもせず、お互い無言で玄関へゆっくり歩みを進めた。ゴホッ、ゴホッと長引いている咳をしながら、これ以上母にどう声をかけて良いものかと、俯きながら思案しているうちに玄関先の絢に声をかけられる。
「桜生、由さん、おはようございます。……桜生ッ! なんて顔してるの!?」
「おはよう、絢ちゃん」
「お、おはよう。僕、何か変な顔してた? ゴホッ」
母に続いて絢に挨拶を返すが、考え事をしていたのが、顔に出ていたらしい。いや、母にかける言葉を考えていただけではない、絢とどんな顔でどんな言葉で別れたらいいのか、そして……。考えたいのに頭が回ってくれないことで余計に浮かない顔をしていたのかもしれない。
「朝からそんな深刻な顔、見せないでッ!」
昨日から絢や和路医師(父)からの手厳しい言葉が心にグサグサくる。最期なのに、絢も父も、もう少し優しくしてくれても良いと思う。
「ごめん」とさらに顔を下に向けそうになった僕に、ついに笑いを我慢しきれず、ぷっと吹き出した拓郎が口を開く。
「絢も桜生に真子みたいな事言うんだな。ふふふッ。桜生も困ってるじゃないか。まあ、桜生の場合は言い返さないから、平和に事が治まりそうではあるけどな」
どう返して良いものかと、頭を二、三回掻きながら引き攣る顔を必死に繕い、苦笑いでその場をしのぐ。
「あ、由先生、今日もお稽古、宜しくお願いします」
「こちらこそよろしくね。絹ちゃんも早く正式に森戸屋の一員にしてもらわなくちゃね。もう充分所作も身についてきているし」
「ね」と母は拓郎に視線を送り、顔を傾けた。その歳とはかけ離れた、少女のような無邪気な笑顔で、結婚になかなか踏み切れない彼に圧をかける。
そうだ、と僕も母の作ってくれたこの会話の流れに乗ろうと思い立つ。
「あの……僕も、拓郎兄さんと絹さんの婚礼を楽しみにしてるよ。きっと、幸せになってね」
拓郎と絹は、どちらからともなく顔を見合わせると、にやける顔を抑えるに抑えきれないのか、お互いに頬を赤らめ合う。
拓郎が「……そうだな」と答え、若干の男らしさを見せつつ、しかし遠慮がちに答えた。
誰もがそんな二人の微笑ましい雰囲気を分かち合っているうちに、出発の時間が来てしまったようだ。
「さ、そろそろ行こう」
そう言った絢が僕の手を取る。僕はそこにいる面々の顔を一人ひとり眺め直した。この別れの瞬間は何度経験しても慣れない。胸が張り裂けそうになる。また、会えると思ってもそうなのだ。
しかし、今回に限っては、涙も流れ出してしまいそうになる。が、決して泣かない、と口をぎゅっと貼り合わせ、歯を食いしばる。
……行ってきます
口にすると、涙腺が崩壊しそうだった。代わりに深く腰を曲げ、ただ皆んなの幸せを願い、背を向けた。
そんな僕の様子を隣で見守ってくれていた絢が、代わりに「行ってきます」と告げ、繋いだ僕の手をそっと彼女へ引き寄せた。そうやって二人で肩を触れ合わせることで、彼女は僕を慰めてくれた。
津結までの徒歩の道のりで、二人の他愛もない会話は、途切れ途切れになりながらも続いた。途中で咳き込む僕を気遣ったり、ふらつく僕の手を引いてくれる絢に僕は男として示しがつかないもどかしさも感じた。感じたが、もう彼女に何かしてあげる事も、時間もなかった。
出来るとしたら、これを渡すことぐらいかと、胸に手を当てる。しかし、この場に及んでも依然迷いがあった。
津結村に入ると、まず姉と春次郎が経営する店で饅頭を受け取った。今朝出来上がったばかりの饅頭の包みは、手に乗せられるとほのかな温もりを感じ、その温もりが心までを温かくしてくれる。
やがて、絢の通う学校の前に着いた。他生徒が次々と校門をくぐっていく。
いつものように、ここで「さようなら」と別れるべきなんだろう。しかし、今回はどうしても絢と二人きりで静かに別れを告げたかった。
校門の前で僕は絢の腕を掴み、校門横の林の茂みの陰まで絢を引っ張り、連れ込んだ。
「桜生ッ! どうしたの? ……遅刻しちゃう」
口を開いた絢の唇に僕の人差し指を当てて、静かにと暗に示す。絢の泳ぐ目を見ると、彼女が不安がっているのだと気付く。
僕は小さな桃色の桜の髪飾りを手に握り、襟元から取り出そうとした。
渡すなら今日しかない。今しかない。今を逃したら、恐らく絢に贈り物をする機会は、もう無いだろう。彼女に最初で最後の贈り物。僕はそれを絢に渡すことを、やっと決心した。
彼女の頭のどこに挿してやろうかと思案しながら、彼女を観察し、ここならと、耳の後ろを覗き込む。
次の瞬間、僕は息を呑んだ。
———-そして、断念した。
なぜ気付かなかったのだろう。こともあろうに、彼女の耳の後ろには、小さな桜の髪飾りが既に飾られていた。それは、僕が握っている物の色違いの紫色の髪飾り。
僕は絢に気付かれないように、手に掴んだ物をそのまま元の懐へと戻した。
「桜生?」
「いや……、その桜の髪飾り、よく似合ってるね」
「あ、これ?」と絢は髪飾りの上からそっと指先で触れてみる。
「これね、もらったんだ、父さんに……」
「……そっか」
そうか、きっと、バチが当たったんだ。あまりに欲を出しすぎたから。余分な幸せに近付こうとしたから。
こんな物、最初から僕が絢に渡せるはずなかったのに。そういう運命だったのだろう。
そのおかげで、僕は理性を取り戻した。悲しみと寂しさを胸の奥に仕舞い込んだ。せめてと、思わず口付けしてしまいそうな、彼女の唇にそっと親指で触れた後、彼女から体を背けた。
そのまま数歩進み、絢から離れようとした。が、後ろから聞こえた声にピタリと歩みを止める。
「……桜生、また会えるよね」
何と返せば良いのだろう。
恐らく、もう永遠にお別れだと勘づいている彼女に何が言えるだろう。
もう、振り返って絢の顔を見ることは許されない。自分のけじめのために。
「ゴホッ、ゴホッ……」
「桜生……、待ってるよ」
絢はなぜ僕を困らせるんだろう。嘘でも、うん、と返事がほしいのだろうか。またね、と答えてほしいのだろうか。
なぜだ? なぜ……?
いや……ああ、そうか。
もしかして……そうなのかもしれない。
嘘でも、彼女はその言葉を求めている……。ただ。今。この瞬間。安心するために。笑顔で別れるために。
そして、僕は、意を決して絢に振り返った。
と、同時に決意が揺るがないよう、理性を保てるよう、体の正面を彼女に向けたまま、一歩一歩後ろに後退りをする。
「絢、絢、絢……あやっ!」
最後には叫ぶように、彼女の名を呼ぶ。
「桜生ッ!」
その場に止まる絢との距離が少しずつ広がって行く。お互いに引き攣りそうな顔を必死で笑顔に整えようとしていた。
「絢! またねッ!」
腕を伸ばし、大きく左右に振る。あちらも同じように返してくれる。
「桜生ッ! きっと……きっと、またね!」
「またね」の掛け合いを何度も繰り返した。やがて、いつの間にか林を抜けていた僕の視界から絢の姿が消えると、僕は林に背を向け、船着場まで無心で走った。走れていなかったけど、走った。
もう、涙を流していいだろうか。
我慢しなくていいだろうか。
なるべく早く舟に飛び乗ってしまいたい僕は、心身に鞭を打ち走った。
そう思いながら、前へ進んでいると、急に視界を遮られる。
!?
ドンっ
涙で視界がぼやけて前が見えてなかったのか、人らしきにぶつかり道の真ん中に倒れてしまった。
はぁー、はぁー、……ゴホッ、ゴホッ、ゴホッ……、切れた息に加え、咳き込んでいると、ぶつかった相手から声をかけられる。
「ふらふらした奴がいると思ったら……お前か」
「……」
見上げた先に居たのは、桜太郎だった。
北への配達に来ているのだろう。
変わらない不快な言葉に反撃する力は残っていない。僕が何か言おうが言うまいがお構いなしの彼は、謝るでもなく、僕に手を貸すわけでもなく、すぐに向こうに歩いて行ってしまう。
しかし、直後、彼は「そうだ」と振り返った。
「事情は聞いたよ〜」
どうでも良さそうに、それだけ言い放った桜太郎は、また背を向ける。そして、これまた面倒臭そうに、片手をひらひらと振りながら「またね〜」と去って行った。
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