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「桜生……泣いてるの……?」
「……」
嬉しいのに、……もう……言葉にできないぐらいどうしようもなく悔しくて、悲しくて……。
再び絢の口を塞ぎにかかる。
今は……今だけは、絢は僕のものだ。僕だけの……。
唇を重ねることなんて、するつもりはなかったのに。するべきでなかったのに。絢に僕との思い出を残したくなかったのに。やっぱり忘れてほしくないという気持ちが押し寄せて来る。
この複雑な感情をどう処理して良いか分からず、結局、僕の唇は絢を求めていく。
この流れ出る涙の訳……は、一つはそう、嬉し涙。もう一つは、後悔の涙。でも、もう理性が働かない。どうしようもないのだ。
しかし、幸せなはずなのに、心は満たされない。何度も離しては……重ねても重ねても。絢への愛のバロメーターが満タンになってくれない。両手で水を掬っても指の間から流れて行くように、絢を求めれば求めるほど、幸せが流れ落ちてしまう。
そうやって、力尽きた僕は、ゆっくり絢の唇から離れる。
自然と顔を見合わせると、絢の頬がうっすら紅色になっていく。キスを交わしたのが今更恥ずかしくなったのか、照れている彼女をまた愛おしく思い、また独り占めしたくなる。
しかし、そうも言ってはいられない。僕は理性を保てるよう、一度立ち上がる。絢の手を引いて彼女にも立つように促す。繋いだ手が震えてしまい、その震えを抑えるために、もう片方の手をさらに添える。そして、すこし見下ろした彼女を一途に見つめた。
「……絢、聞いて。
絢の良いところは、誰にも分け隔てなく接したり、誰もを一人ひとり尊重できるところ。それから、何があってもくよくよ悩まずに前向きに捉えて乗り越えていけるところ。
二つとも僕が苦手にしてる事だから、絢のことをいつも凄いな、って尊敬してる」
「そんなことない……」
「ううん。こんな僕の事も大事に思ってくれるし、こんな僕との人生を過ごすために、いっぱい考えて医者になろうって頑張ってくれて、ありがとう」
首を傾けて自分史上最高の笑顔を手向ける。
「私はただ桜生とずっと一緒に居たいから、頑張れるだけだよ。凄くなんかない。それに、桜生の方がよっぽど辛い事あるのに、私のために頑張って働いてくれてる事、分かってるよ?」
「うん。ありがとう、絢。僕も絢と一緒に過ごせる日のために、これからも頑張るよ」
そこで繋いだ手にぎゅっと、さらに力を入れる。
「でも、でも……もし僕が絢の傍に居られなくなっても……」
「やだよ。聞きたくないッ」
絢は僕の話の皆を悟ったように目を閉じて、顔を後ろに背ける。
「絢、お願い……聞いて」
絢を落ち着かせるために、僕は絢の顔を覗き込み、ゆっくり彼女に語りかける。
「いや、いやッ。手を離してッ」
「だめだっ! 聞いてくれるまでは、離さないッ!」
僕から手を引き抜こうと暴れる絢の手を強く握ってしまう。
だめだ。こんな言い方しても、こんなやり方をしても、絢を不安にするだけだ。
でも、僕には今日しか時間がない。どうしても今日伝えなければならない。
「乱暴なことして、ごめん」
僕は絢の手を解放した。すぐに絢はその場に座り込んで両耳を塞いだ。絶対に聞いてやらない、と駄々をこねた子供のように。
「絢、僕と約束して欲しいんだよ。お願い、こっち、向いて」
しゃがみ込んだ絢の目の前に向かい合い、彼女が耳に置いている左手の上から僕の右手で優しく包み込む。
「絢……ッ、ゴホッ、ゴホッ、ゴホッ」
緑助に言わせると風邪の一種、とのことだが、咳が長引いていた。
こんな時に……困る。
「ゴホッ、ゴホッ、ゴホッ……」
しかし、咳は止まってくれない。苦しい……。
絢が背中を上下にさすってくれる。
「桜生? 大丈夫?」
大丈夫。気管に痰が絡まっただけだ、と思う。それが風邪で弱った喉を刺激しているだけだ。
たぶん……。
「だい、じょ、ぶ。……す、すぐ、治まる……か、ら、ゴホッ、ゴホッ、ゴホッ」
絢は、無言で背中を撫で続けてくれる。
そのおかげか、しばらくすると、ひとしきり続いた咳も少しずつ治まり始めた。
よかった。治ってくれそうだ。
ふと、絢の横顔を見ると、彼女の頬には静かに涙が流れていた。
「ゴホッ、……絢?」
「……」
「ごめん、咳き込んじゃって……ゴホッ。せっかくいい雰囲気だったのにね」
ズルっ、と絢は鼻を啜り、頭を左右に振った。それから、やっとこちらを向いた絢の涙を親指で拭ってり、彼女に片目を一瞬閉じて見せた。
「ばか、桜生。本気で心配した。……本気で桜生がいなくなっちゃうかと思った」
絢は僕の胸に軽い拳をくらわせてきた。「ごめん、絢」と呟き、彼女の体を僕の胸に抱き寄せる。
「絢……。このまま聞いて」
今度は大人しくしてくれる絢を抱きしめたまま、彼女の耳元へ話し掛ける。
「絢……、どんなことがあっても、君の幸せを絶対に諦めないで。それだけは約束して。
君は、日向を歩いて、それで……幸せになるべきだよ」
僕が彼女に求めることは、それだけ。
たとえ、僕がいなくても。
君なら、僕よりもっと素敵な男性が君の傍に居てくれるはずだ。
ごめん……絢。
君のために出来ることは、君を僕から解放してあげること。
「うッ……」
僕の胸で、僕のために、声を押し殺して涙を流す彼女が可愛くて、愛おしくて。
そのせいで、胸の速い鼓動が治らない。それを心地よく思う今は、今だけは、彼女をひたすらに感じていたかった。
今だけは許してください。最後に今だけは。
「絢」
僕はさらに腕に力をこめると、彼女の名前を何度も何度も呼び続けた。
その日の夜は、学校や船着場のある津結に無事饅頭屋を開店させた姉夫婦、それから絢も呼ばれて、和路医師宅(我が家)で楽しい夕餉となった。
明日は、もう南へ戻らなければならない。
明日の事を考えると胸の奥が闇にのみこまれそうで、生きた心地がしない。
自分で決めたことなのに。
「桜生っ! なんで急に帰ってきたんだ? 俺に会いたくなったのか? ハハハッ」
背中をバシバシ叩かれながら、春次郎はいつも通り絡んでくる。
「春兄に会いたかったのは、間違ってないよ」
「おっ! やっぱりそうだったんだな! お前は可愛いやつだ」
背中を叩き終わると、春次郎は僕の肩に手を回し、今度は肩をバンバン叩き始める。
「春次郎、いい加減やめてやって、どう見たって、桜生は疲れてんでしょうがッ」
「真子ぉー! 久々に会ったのにそんな言い方……。桜生だって、嬉しそうだぞっ、な、桜生! そうだろ?」
「うん! 嬉しいよ」
「おーせーぃ!」
最後には春次郎にガッツリ抱きしめられる。これは、間違いなく、前世の反動。
「明日、帰る時、絶対に店に寄れよなっ! 沢山饅頭用意しとくからな!」
「う、うん。春兄、ありがとう。でも、沢山はいらないかな。ははは……」
「ホントよ。荷物になっても困るでしょ? 春次郎、良く考えてッ」
真子が僕のフォローに入ってくれる。
こんな感じで相変わらずの二人だが、姉と春次郎が夫婦として充実した毎日を暮らしている様子が伺えて、僕は心から安心した。
「桜生、髪かなり伸びたわね」
春次郎と真子が横で痴話喧嘩をしているすきに、向かいに座っていた母の由がずっと気になっていただろう事を聞いてきた。
「うん。伸びちゃったね」
「明日の出発までに切ってあげましょうね」
「母さん……、そのことなんだけど、今回はちょっと切らずに伸ばしてみようかな、って」
後ろに束ねても腰に届きそうな髪を片手で掬って肩から前に出して見せる。
「あらあら、何か心境の変化でもあったのかしら? でも、あなたの好きにしたらいいわよ。ね、あなた?」
問われた母の隣の和路医師は、嬉しそうに「そうですね。長いのも似合いますよ、桜生さん」と優しい口調のこちらの二人の雰囲気は、姉夫婦とは全く真逆である。
「絢、そういえば、拓郎兄さんの結婚はどうなってるの?」
確か、拓郎は姉夫婦の生活が落ち着けば、自分も、と言っていたはずだ。
昨日、森戸屋に挨拶に行った時は元気そうだったし、婚約者の絹と二人で仲睦まじく揃って顔を見せてくれた。
「お互いの家は、いつでも、と準備はしてるんだけど。後は拓郎兄さんの気持ち次第なのかな、って」
「そっか。拓郎兄さん達にもお幸せに、って伝えといて……」
「……桜生、そういう事は、自分で伝えてあげてッ」
言葉を遮られた上に、……ウッ、絢のこちらを見る目つきが怖いッ。もう、お別れみたいなこと言うなよ、ってその目が告げている。
「わ、分かりました……そうしま……ゴホッ、ゴホッ、ゴホッ……」
「桜生……!」
咳き込む僕を見て、すぐに背中に手を当ててくれる絢。しかし、僕は絢の手を振り払うように、ゆっくり膝を立てる。
皆んなが楽しんでいるのに迷惑を掛けたくない。咳が治まるまで席を外したかった。
大丈夫。すぐ治まる。それまで、部屋を出ていよう。
付いて来ようとする絢を、首を左右に振り、必要ないと示す。
「ゴホッ、ゴホッ、ゴホッ……」
すぐ後ろの襖を開けて、廊下に脚を踏み出し、そして閉める。
あれ?
脚が動かない……。
ドサリッと体が抵抗もなく床にぶつかったような衝撃を感じた。
そして、そこから音と視界がぷっつり途切れた。
最後まで読んで頂きありがとうございます。
いつも読んでくださる皆様に感謝申し上げます!
また、次話も頑張ります‼︎
宜しくお願い致します。




