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小児病棟 Ⅱ  まあだだよ

作者: さかなで

毎日多くの患者さんが来る総合病院は、多くの不安と苦痛が集まるところでもある。それは大人も子供も例外ではなく、しかし医療は常にそれに立ち向かわなくてはならないのだ。多くの患者さんは多くの苦悩を抱えている。それは子供も同じだ。あたしは小児科医としてこの病院で、そういう子たちと接し、ときに心折れ、それでも病気に立ち向かっていかなくてはならない。そんな日々を重ねていたあたしの、ある日起きた不思議な体験を話そう…。

それは朝日の光を浴びて、キラキラとしていた。


ポリエチレンの中の透明の液体は、細く長いチューブを伝って、まだ小さな腕の中に消えていく。


眠っているその子の顔に、そっと手を当てる…




「九号室の秀美ちゃんの点滴終りました」

「診察は午後になるから着替えさせておいてね」

「昨夜救急外来の患者さんの入院手続きはどうしますか?」

「ご家族がもうじき来るわ。それよりすぐにオペの準備に行って」

「わかりました」


山形市の中心にこの総合病院はある。病床数600、診療科目35科を誇り、ドクターヘリも備える県内でも有数の総合病院だ。わたしは研修医二年目をこの病院で終え、正式に医師としてこの病院に勤務している小児科医だ。


もともと内科医志望のあたしだったが、いまはこうして小児科に勤務している。一般成人の患者さんを見るより、子供たちの、いたいけな体で苦しんでいるさまを見るのはとてもつらい。とくに呼吸が辛くもがいているさまを目の当たりにして、我慢してね、と声をかけるのは虐待のようでさらに辛い。


「もうすぐよくなるよ。そうしたらイリオンモールに行ましょうね」


ベテランの看護師はそういうふうにうまい声かけをする。


イリオンは山形市内に何か所かあるショッピングモールだ。山形に、温泉はあってもディズニーランドはない。子供たちが喜ぶのはそんなところしかないのだ。


あたしは東京の医大を出て、恩師の勧めでこの病院に来た。あたしのようなのんびりした性格じゃ、東京の殺伐とした医療現場じゃ潰される、と思ったらしい。まあ、たしかに風光明媚でいいところだが、なんにもなさ過ぎて退屈っちゃあ退屈だった。まあ、それは病院の外。院内はそりゃあ毎日大変だ。


小児科の外来は一日平均六十人。救急救命センターの時間外外来は年間二千八百人。一般小児科の病床数はニ十三、それを年間千人の入院患者が利用する。小児患者のほぼ半数は呼吸器系の疾病だ。それって呼吸器感染症、つまり風邪や肺炎などだ。それは初期の段階での治療で完治、退院は容易だ。問題は腎疾患、血液疾患、そして心疾患などだ。これは入院が長引く。あたしの担当している患者さんもそうした子たちだ。


「江見先生」


あたしのことだ。呼吸器疾患担当の看護師に呼び止められた。


「どうしたの?」

「五号室の健二くんが発作で」

「咳の?」

「痙攣も少し」

「樋口くんは?」


同じ終了研修医でそっちの担当だ。


「主治医の江田先生ともども非番で」


あいつら一緒に休むなよ。めんどくせー。


「わかった」


五号室は四人部屋だ。お花やぬいぐるみはあまり飾っていない。入院日数が短いからだ。あたしの担当の病室はそれこそファンシーショップ並みにいろいろなものが飾られている。入院が長引けば、それだけ物が増えるのだ。


健二くんは苦しそうにベッドに横たわっていた。絶えずむせこんでいる。横隔膜が不規則に痙攣している。気道確保かとも思ったがそれほどでもないようだ。


「デキストロメトルファンを溶剤で。五ミリ」


通称メジコンと呼ばれる鎮咳剤だ。咳の中枢を鎮静化させる。これで幾分楽になるはずだ。


あたしは聴診器で健二くんの胸部の音を聞く。ザーザーとした嫌な音だ。まだ炎症がおさまらないようだ。もう三日たつのに。昨夜は苦しくて眠れていない。かわいそう。でもしっかりしろ、あたし。こんな子がここにはたくさんいるんだ。この子だけじゃない。過度な感情移入は誤診を招く。冷静に、さよ子。



午後はオペの立ち会いだ。昨夜急性虫垂炎で運ばれてきた子だ。あたしは直接メスは握らない。しかし小児科医師として立ち会わなければならないのだ。血を見るのは苦手だ。まして人の内臓、とくに子供のなどは耐えられないほどだ。まあ、今は少し慣れたが。オペは医長の吉田先生。まったく何の不安もなくあっという間に終わる。さすがだわ。あたしの恩師の弟子って言っていた。いやあ、あこがれるわ。


「どう見た?江見くん」

「素晴らしい手際でした」


あたしと江口先生が手を洗っているとき、先生はそう聞いてきたのでそう答えた。


「そうじゃない。いまの患者(クランケ)の腸に小さな変色があった。潰瘍かもしれんということさ」

「潰瘍?でも血液検査じゃ」

「血液で見えない時もある。その点、ぼくらは実際、自分の目で見られる。いまの段階で治療は容易いだろう。恐らく悪性じゃない」

「悪性じゃないって根拠は?」


なんか神がかってない?この先生。


「色もそうだしその変色域も小さい。問題なのは体の表面だ」

「体の表面?ところどころ痣がありましたね。古いのもあれば新しいものも」

「やけに多いんだよ」

「それって活発な男の子なら…」


だいたい男の子ってやんちゃだし。あたしの弟だって小さい頃、いっつもどこかケガしてたっけ。


「そりゃあ手足ならさ。だが体中、とくに内またとか尻にまであるとそうは考えにくい」


それって虐待の可能性?まさか…いや、何度かそういう事例はある。でもまさか…。


「親御さんと話してみる。まあことがことだ。警察や児童相談所も視野に入れないとな。それは医療というより人間の務めだからさ」

「先生はそこまで…」

「あれは、あの潰瘍はいわゆるストレス性潰瘍、かも、ということだ。まああらゆる可能性はあるから、断定はできんがね」


医者は病気さえ治せばいいってことじゃないんだ…。そんなのあたしにできるのか?




午後の回診は多田国先生という循環器系専門の部長とだ。どっしりとした体の、でも優しい先生だ。子供たちから横綱先生って呼ばれている。


五階東棟の十三ある病室をまわるのはけっこう大変だ。いまはひとり部屋一室を除いて満床で、それだけの患者さんを診るのは時間がかかってしまう。


十二号室を出たときはもう午後五時をまわっていた。そろそろ夕食になる。急がなくっちゃ。最後の十三号室はちょうど西のはずれにある。ここだけほかの病室とはちょっと離れている。もとは重度感染症の治療のために使われていた病室だったが、今は一般小児病棟の、そして長期入院患者専用の病室だ。


ドアが重い。思うのだが、いつもここだけドアの立て付けが悪い。なかにはきちんと四つ、ベッドが並べられ、そして恐ろしく静かだった。みんなはきちんとベッドに横になっている。身体が小さい分、ベッドがよけいに大きく見えて、何か痛々しい気持ちになる。


「妙子ちゃん今日は何してたの?」

「さよ子せんせい、あのね、おかあさんが今日は来れないって」

「そう、残念ね。でも明日はきっと来るから待っていようね」

「うん」


この子は生まれつき心臓が悪い。左右の心房の大きさが違うのだ。不整脈をときどき起こす。心臓手術も視野に入っている。いや、そうしなければ、十歳になる前に死んでしまうだろう…。


「あっちゃん、今日は元気ね」

「ああ、マンガもらったんだ」

「誰から?」

「知らない。起きたら置いてあった」

「そう、きっと誰かがくれたのね。よかったね」

「でもこれ、読んだ気がするんだ。ずっと前に」

「まあ、そういうこともあるさ」

「そうだね」


ずいぶん手垢で汚れたマンガ本だ。でも誰だろう?ご両親はめったに来ない。あつしくんのご家族、たまたま来たのかな、午前中に。


海斗くんはこの部屋で一番小さい。でもとてもしっかりしてる子で、いつもお気に入りの絵本を見ている。


「今日はお熱、どうかなあ」


あたしは小さな腕をとって体温計を脇にいれる。


「冷たーい」

「ごめん。ちょっとがまん」


他の看護師は耳の穴で測る。でもこの子たちは嫌がるのであたしは従来通りの検温だ。


「うーん、まだお熱高いね」

「じゃあまだ外に遊びに行けない?」


それを言われるのがマジ辛い。


「もう少しお熱さがってからじゃないとむーりー」

「じゃあ明日には下がるね」

「がんばってね」


それしか言えない。ダメなあたし。もうちょっと勇気づけられたら、どんなにいいのか。でも、あたしは知っている。いろんなことを知りすぎている。


隣りのベッドの女の子は、陽気でちょっと生意気だけど、この子を見てると何とか元気になれる。患者さんに元気をもらうなんて、何だか失格みたいだけど…。


「先生、今日はキョロちゃん来なかったよ」

「えーっと、キョロちゃんって誰だっけ?」

「いやね、先生に言ったでしょ?あたしの友だちだって」


そうだったけかな?まあ、こういう子は想像と言うか、妄想と言うか、大人にはわからない世界を持っているんだ。あからさまに否定はしない。


「明日香ちゃんの友だちだっけ?残念だったね」

「まあいいよ。また来るから。きっとまた真夜中に」


そんな時間に誰も来ません!


「夜中は勘弁してほしいわねー。眠いよねー」

「あたし真夜中なんて平気よ。だって眠くないもん」

「そう?でも眠らないと大きくなれないぞ」

「あたし大きくなれないもん。平気よ」


何も言えなくなった。またまたダメなあたし。しっかりしろ!


「わっ!」

「きゃあ!」

「あははは、驚いてやんの」


何かが飛び出してきた。なに?なんなの?


「うまくいったわね、キョロちゃん」

「おお、みごと先生をおどろかしちゃった」

「な、なにすんの。ああ、おどろいた」


ベッドの影に隠れていたのは小児病棟でたったひとりだけ一人部屋にいる子。小越恭也。十歳。山形県副知事の一人息子。小児喘息を患っているって聞いたけど、ぜんぜん元気そうじゃない。


「あんたねえ」

「あ、怒った?ねえねえ怒った?」


そう聞かれて怒らない大人はいないけど、でも怒った顔は見せないのも大人。ちきしょう、計算してやがる。さすが副県知事の息子。


「きみの病室はここじゃないでしょ?」

「だってあそこつまんないんだもん。ひとりだし。ここはいっぱい子供いるから。にぎやかでいいなあ」


にぎやかって、この病室が小児病棟で一番静かなんだけれど。


きょうやくーん


外で看護師の誰かの声がした。


「あ、いっけねえ。帰んなくちゃ」

「まったねー」

「おう、明日香もエリ子もみんなもまたなー」


そうしてパタパタと出て行った。まったく人騒がせなガキだ。早く退院しちまえ!ホント、あれで重病なのかしら?仮病じゃないのか。学校行きたくないから。…まさかね。




回診が終わるとすぐに夕食だ。看護師が忙しそうに動いている。ナースセンターはほとんど人がいなくなる時間だ。


あたしも管理センターに戻る。今夜は当直なのだ。少しでも仮眠を取らなくちゃ。資料を抱えて仮眠室のベッドにもぐりこむ。研修医を終えてもやることはたくさんある。実際の医療よりそっちの方が大変なくらいだ。こいつで睡眠時間を減らされるのだ。それでもいつしか眠りに落ちていく…。あれ?エリ子ってだれ?まあいいか。


そうしてあたしは眠りについてしまった。


起こされたのは夜も七時をまわったころだ。たいして寝てない。


「急変?十号室の田辺清子ちゃん?マジか」


重い腎疾患でずっと危篤が続いていた。急性腎不全を発症していて、透析は欠かせない子だった。あんな小さいのに。


看護師の報せであたしは十号室に駆けつける。もう髪の毛なんてぐちゃぐちゃだ。急いで手でまとめゴムでとめる。すでに早坂先生が来ていた。退勤時間を大きく過ぎているのに。


「こいつは急性腎障害(AKI)だ。手伝ってくれ」

「腹部エコーかけます」

「ああ、ICUも視野に入れる」

「血清クレアチニンが上昇してますね」

「すぐ処置しよう」

「これは…」


参ったな、とは言わない。たとえどうしようもない状況でも、だ。医者は最後までそんな言葉は口に出してはならないと教わった。


「すぐに処置の準備します」

「たのむ」


それが医療だ。



処置が済んで、何とか安定したのは深夜をまわってからだ。


「おつかれさま。きみのおかげで何とかなった。ありがとう」


早坂先生にお礼を言われるなんて。あたし何もしてないし。


「みんな早坂先生の指示で何とかなったんです。勉強になりました」

「疲れたろう。仮眠取ってくれ」

「いいえ、もう今夜はねられませんよ。頭がはっきりしすぎてます。先生は?」

「ああ、ぼくはタクシーで帰るよ。明日は娘の参観日なんだ」


娘さんの授業参観が終わって一休みしたら、また午後から出勤して当直、かあ。まったく医師ってしんどい商売だね。


管理センターに戻ると、誰もいなかった。数台の開きっぱなしのパソコンがうっすらと光っている。みんな仮眠しているのかな?あたしは昼間できなかった研修報告書と、それに付随した患者たちの症例に適合する海外データを照会することに没頭した。それは恐ろしく手間のかかる仕事だった。


「先生?」


管理センターの入り口で、あまり見かけない顔の看護師が顔を出した。


「なんでしょう?」

「あの、十三号室の患者さんが…」

「小児科の?」

「そうです。五階です」


何かあったのか?急変するような子はいなかったはずだが。廊下を急ぎ足で歩きながらその看護士に聞いた。


「どの患者さん?急変なのよね?バイタルは?」

「あたし、頼まれたもので。先生を呼んできてって」

「そう。あなた名前は?何科の人?」

「あたしはエリ子です。担当は小児科」

「え?小児科?」


こんな子はいないはずだ。


「新生児科なんです」

「あ、ああそう。新しく入った?」

「そうです」


なーんだ。あそこは入れ替わりが激しいから知らない子が多いのだ。エレベーターは半数は夜間止まっている。みな離れている。


「階段で行きましょう」


ここは三階。二階上はすぐだ。


「いま十三号室には誰がいるの?」

「みんないます」


質問を間違ったかなと思った。あたしは、看護師の誰が呼んだか聞きたかったのに。


「いえ、そうじゃなく」


そう聞こうとしてあたしはドキッとした。今となりにいたはずの看護師がいない?


「あれ?えと、エリ子さん?」


返事はない。どこいったんだ?いま一緒に階段上っていたはずなのに?四階に行っちゃったのかもしれない。でも四階はリハビリ科とか手術室とかがあるだけ。新生児科の看護師に用はないはずだ。


「どこ行っちゃったんだ」


あたしはちょっと不思議な感覚になった。ああ、きっと頭がぼうっとしてるんだ。睡眠不足のせいかもしれない。仮眠しとけばよかったかな。


五階に上がるとナースステーションには誰もいなかった。


「ちょっと」


ブースの中に声をかけるが、誰の返事もなかった。奥まで行って休んでる看護師たちを起こすのも気の毒だから、あたしは直接十三号室に行った。


来ちゃだめ


「誰?」


誰かの声がした。子供の声だった。起きている子がいるんだ。誰だろう。夜泣きをする子がいる。そういうときは看護師がかかりっきりになってみているという。きっとそうなのかもしれない。


もういいかい


「え?」


こんどははっきり聞こえた。やっぱり子供の声だ。でも、男の子だか女の子だかわからない。蛍光灯が瞬いている。何だか嫌な感じがする。それにこの廊下、こんなに長かったっけ?


まあだだよ


いやだ。だれかどこかで遊んでるんだ。何人かでかくれんぼをしている。まったくもう、こんな夜中に誰なんだ。


そっちに行ったよ

まだ来ないよ


「ちょっと。誰なの?出てきなさい。夜中なんだから」


なんか言ってる

聞こえた聞こえた


「ふざけるのはやめて。早く寝てちょうだい」


蛍光灯が瞬く瞬間、一瞬数人の影が壁に映った。


「ちょっとあんたたち!」


あたしは走ってしまった。まったくこんな夜中にどこの病室の子なんだろう。あたしはチラッと脳裏に昼間あたしを驚かしたあの男の子を思い出した。ちょうどその一人部屋の病室の前だった。


「まったくあんたたちは…」


その子…小越恭也くんの病室のドアを開けると…彼はスヤスヤと寝ていた。寝具や病衣の乱れはない。慌てて戻ったのではない。ずっとここで寝ていたんだ。じゃあ違う子たち?そんな活発に歩ける子、いたかなあ?


とにかく十三号室に行かないと。すぐに気を取り直しあたしは急いだ。病室のドアは相変わらず重かった。


あれ?病室の中がやけに暗い。なんか雰囲気がおかしい。どうなっている?看護師はどこなんだ?誰もいない?いや、誰かいる…。


「誰か…」


あたしはできるだけ小さな声で看護師を呼んだ。


「誰かいるの?」


返事はなかった。カーテンが揺れている。窓が開いているのだ。誰だ、開けっ放しにしているのは。カーテンを引いてあたしはびっくりしてしまった。そうだ、この病院の窓はすべて嵌め殺しなのだ。開くわけがない。じゃあ何でカーテンが?窓の外は真っ暗な闇。そうしてあたしは背中に冷たい汗を流した。窓に映っているあたしの後ろの、病室の入り口に誰かが立っているのだ。


振り向いた。だが誰もいない。からかっているのか?錯覚なのか?あれ?窓際のあつし君のベッドがおかしい。ずいぶん大きな体が見える。


「あつしくん?」


薄暗いそこで見たものは紛れもなくあの江口先生だった。昼間オペで一緒だった。なんでこんなところで寝ているのか?それもあつしくんの病床で。いや、あたしが間違えたのかもしれない。ここは小児科じゃない?きっとここは五階東棟ではないのだ。つくりは五階から九階まで似ているのだ。ああ、あたし間違ったんだ。


ここはきっと仮眠室なんだ。そう思って隣りのベッドを見ると、そこには早坂先生が寝ている。あれ?明日は参観日でお帰りになったんじゃないのか?い、いや、タクシーがなかったんだ。明日の朝早く帰るのだ。きっとそうだ。念のため他のベッドを見ると、そこには多田国先生が寝ていて大きな声をあげそうになった。


おかしいおかしい。どうかしている。だいいちここはちゃんとした病室だ。仮眠室なんかじゃない。だって、棚や壁に飾られたぬいぐるみや絵や折り紙は、十三号室のものだから。


せんせい


「ひっ!」


明日香ちゃんの声だ。ああ、明日香ちゃんいたのね。


せんせいは来てくれなかった


「な、なに言ってるの?あたし来たわよ」


よんでもきてくれなかった


「そんなことないじゃない!いまいるでしょ、ここに」


しんでからじゃおそいのよ


「なに言ってんの?あなたは死んでなんか…」


明日香ちゃんはその小さな体をすでに腐乱させていた。ぱさぱさになった髪の毛と、つやのない皮膚は、おかしな色になっていた。それはもうなん十日も経ったような死体だった。なんで?あたしはここで何を見ている?


それはどこからともなく子供の声で、そしてみんなが勝手にしゃべっていた。どうしちゃったんだ、あたし。おかしくなったんだろうか?とにかく先生たちを起こそう。そう思った。


「先生!江口先生!」


起きるはずはなかった。あたしは医者だから。死んでずいぶん経つ人間は、わかるから。じゃあ昼間あった先生は?ここにいるのはいったい何?


「早坂先生!多田国先生!誰でもいいから起きてくださいっ!」


もういいよ


振り向くとさっきの看護師だった。いや、そんな気がしただけだ。なぜなら、その看護師の眼は、目玉はなく、ただ真っ黒い穴が開いていただけだったから。


あたしは何か恐ろしいものに、引っ張り込まれるような感じがして、そして何もわからなくなった。





「先生…江見先生?」


呼ぶ声で目が覚めた。仮眠室で目が覚めた。


「あ、あれ?」

「先生、寝坊助さんですね。もう当直の引継ぎの時間ですよ」

「あれ?朝になっちゃった?」

「お疲れだったんですね。昨夜は深夜まで大変だったようですから」

「あ、ああそうね。いま何時?」

「朝の八時です」


いやだ。あたしったらぐっすり寝ちゃったんだ。あー、変な夢見ちゃったな。


小児科のナースセンターの前を通ると、ナースたちがくすくす笑っている。超恥ずかしい。朝食の後片付けをしている横を、あたしはちょっと顔を伏せながら病室に向かった。十三号室が妙に気になったからだ。


ドアは相変わらず重かった。直してくれないかなーと思って開けると、あたしの心臓は停止する寸前になった。


「なにここ?」


一度病室を出て、また中を見た。掃除用具とかコピー用紙だとかが積まれていた。棚が乱雑におかれ、古いシーツが重ねられている。なんなんだ、ここは?病室はどこに消えた?


「どうしました、江見先生?」


婦長の増田さんだ。あたしがこの病院に勤めてからずっとお世話になっている。まるであたしのお姉さんみたいに接してくれていた。


「こ、ここの病室は?」

「え?さ、さあ。むかしは感染者用の病室でしたが、いまは隔離病棟が新設されていて、ですからそれ以来ここは物置ですけど」

「はい?だってあたしこの病院来てからずっとこの病室の担当だったのよ?」


婦長はちょっと黙った。そして何か気の毒そうな顔をした。


「先生が何か辛いことがおありのとき、よくここで泣いていたと他の看護師に聞きました。先生はずいぶん頑張りました。もう立派なお医者さんになりました。だからもう、ここは必要ないって、そういうことじゃないでしょうか?」


婦長はそう言って笑ってくれた。あたしは自然に涙が出た。ああ、きっとそうなんだね。あの病室の子たちは、三年間、ずっとあたしを励ましてくれていたんだ。


いまは物置になったその部屋に、まぶしいほどの朝日がさしてきた。いまになって思えば、そう言えば三年間、ずっと変わらずにあの子たちはいた。何も不思議じゃないと思い込んでいた。みんな、ありがとうね。


「あ、先生起きたんだ」


小越恭也がいた。ああ、この子は現実の子なんだね。


「昨夜は大変だったね」

「はい?」

「みんなとかくれんぼしてたよ」

「あたしが?」

「あれは悪いものだよ。先生に憑りつこうとしてたんだ」

「なに言ってんの?あたしは…」

「あの部屋は良くないよ。昼間はいいけど夜は入っちゃダメなんだ」

「な、なんでよ」

「前に江口先生がそう言っていた」

「江口先生が」

「そうだよ。ほかの先生もね」

「ほかの先生も、って?」

「先生は知っているかなあ。多田国先生と早坂先生っていう人だよ」

「知ってるわよ、それくらい」

「じゃあ、最初に憑りつかれた池上って看護師は?」

「池上?知らないわ」

「そうかあ。池上エリ子って言うんだ。いつも先生にまとわりついていたけど、見えなかったの?」

「え?」

「ほかの先生はみんなとりつかれて死んじゃったけど、先生は無事で安心したよ。きっと明日香ちゃんが守ってくれたんだね」

「ちょっとまって!」

「いけね。ぼくも行かなくちゃ」

「行かなくちゃってどこへよ!」

「先生、がんばってね。ぼくは先生、好きだったから」

「ちょっと待ちなさいよ!」


何人かの看護婦が飛んできた。それからは、あなたたちが想像している通りだ。



この春から東京の世田谷にある小さな病院の内科医で勤務を始めた。小さな病院と言っても東京だ。病床数は多い。病室も沢山あって、全部回診するのに結構時間がかかる。ここはひとり部屋も埋まっていて、ほぼ満床だ。いや、空きもある。十三号室の四人部屋が、まだ空いている。




『小児病棟』は短編として以前書いています。今回はその続編という形で、しかし小児科という特殊な医療の世界を描きたかったということもあり、続編というには全く違うものになってしまいました。前回はただホラーの世界を面白く、ということでしたが、今回は小児科を通して社会のひずみや医療の限界をどうしても、少しだけども描きたかったので、ちょっと長くなってしまいました。まあ、そういうものをぶち込むと、あまり怖くなくなるということがわかっていたのですが、元来理屈っぽい性格なので、仕方ないのです。許してください。


えー、ここで本音を申し上げれば、自分は怪談というか、ホラー小説は向いていないと思います。先に書いた『第122偵察小隊~』のような半ばシナリオのようなものが自分的には好きなので、今後はそういったものが書ければいいなと思います。また機会があったら、目を通すだけでもと、お願いしてしまいます。


ちなみに、この病院は実際にある病院の、十五年前の話をもとにしてあります。いまもその物置があるかはわかりません。この新型コロナ騒ぎの中、それを確かめるわけにはいかないので、まあいつかそこに行ったときに、できたら確かめたいと思っています。

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