>>野外に出た。
実際には数分程度の出来事だったのだろう。頭まで霧に満たされたような状態から、素面に戻ってしまうとすでによく分からなくなっていた。
端末に表示された時計によれば、小悪魔との戦いと合わせて20分ほど経っている。
あれほど濃くなった霧は、今はもう腫れてしまい、部屋は元の暗闇を取り戻している。
感覚の以上拡張と意識の混濁、強迫観念と全能感。
――あの霧は体に悪そうだ。
とは思うのだが、完治した脇腹と、手元に戻ったライターを見ると、一概にそうとも断じられない。歯医者の後のような、体の強張りには目を瞑ろう。
しかし、それにしても、だ。喫煙者の業の深さは相当なものだ。手元に戻ったライターを見て、ゴトーは思う。それだけでカルマが2は下がっているんじゃなかろうか。
煙草に火を点ける。
あの時こみ上げてきた強烈な欲求は、魂の根源から吹き上がったかのようで、抵抗するという考えを一切浮かばせなかった。
「あ゛~」
戦いの昂揚や霧による全能感はとうに過ぎ去り、
「なんだかなあ……」
という虚脱感をニコチンとともに味わって。ゴトーは「わが家」の扉も開けずに座り込んだ。
小悪魔のいた部屋の様子は元の状態に戻ったが、死骸のあった場所には極薄い色をした宝石のような物が残っていた。とりあえず貴重品という扱いにする事にして拾っておく。
>>水色の決勝を拾った。休憩を始めた。...ゴーストは勇気を取り戻した。
<<ログ>>機能も、便利なのかそうでもないのか。拾った物についての情報は何も与えない。
>>ゴトーはライター(LED/オン)を向けた。ゴーストは絶叫した。ゴーストはしぼんだ。
ゴトーは座って紫煙を吐き出しながら、今更再出現した白い人影に向けて、手首を振るだけの仕草で光を当てていく。
「紫外線も紫外線も関係ないのか?」
亡霊どもは風に飛ばされた写真のように、あっけなく消え去った。跡には何も残らない。
ゴトーは片眉を上げると、吸い殻を携帯灰皿に入れて揉み消した。昔テレビのドキュメンタリー番組で、
「フィルターは土には還らない!」
と言って激怒していたレンジャーを見た事があり、なんとなく罪悪感に負けてポイ捨てが出来ない。
――ここに留まっていても、良い事は無さそうだ。
これまでずっと独り身で、家の中で喫煙しても咎める者はいない。
ゴトーは立ち上がると。「わが家」の扉に向かった。
>>扉を開けた。
>>外に出た。...゛電波 ゛を受信した。
――電波?
ログ表示に戸惑っていると、端末から妙にテンションの高い声が勝手に響いてきた。
『゛やあみんな、あーりんだよ。グレイトウォレスで山火事があったって噂だ。山から逃げ出した熊があちこちで暴れて騒動になったみたいだ。でも心配するなよ。熊は結局、どこかのサムライに切り殺された。それじゃあまずは一曲――』
ゴトーは端末を操作して、音声を消した。なんだか精神をかき乱すようで、聴き続けると頭の調子が悪くなりそうだった。
周囲を見渡す。
どこかの写真家が言っていた。
「みんなが思っているほど、空は青くない」
だから人の目に触れる前には、写真屋が仕事する。
目から鱗の発言に、ゴトーは深く納得した覚えがある。
けれども、今目の前に広がる空は、誰が仕事をしたのだろう。これまで目にしていたよりも、はるかに青い。
振り返ると「わが家」の扉は変わらずそこにある。
ゴトーは試しに出入りと開け閉めを繰り返した。もうおかしな場所にはつながらないようだった。
>>扉を開けた。ここは「わが家」だ。
吹き込む風で埃が舞い散り、太陽光を反射してきらきらと輝く。
岩山に掘られた倉庫跡だ。
>>野外に出た。
近くにある坑道も、同じく完全に放棄されている。
入り口には壊れた鉤のぶら下がる錆びた格子戸が付いているが、きいきい鳴くのはこれだけではないだろう。開け放たれたままになっていて、間違いなく野生動物の住処となっている。お隣さんだが、もちろん引っ越しの挨拶はいらない。されても困る。
どちらも人気はなく、したがって食料もない。
坑道奥に熊でもいるなら話は別だが、熊もまた雑食だ。棍棒一つで肉にしようと挑む気にはならない。
――斬り殺すのもよっぽどだよなあ。
ゴトーは端末から流れた音声を思い出した。
「わが家」の脇の斜面からは湧き水が流れ出していて、簡素な流しが作られているのを見ると、鉱毒の心配はなさそうだ。飲み水や洗い物に使えるだろう。
喉をうるおそうとして、ゴトーは水面に移った髭面に呆れた。一晩で茂った。むさ苦しくてしょうがなく、とても人前に出られる顔ではない。
すぐにでも沿ってしまいたかったが、忌々しい事に剃刀ひとつ持っていない。
ゴトーは自分の事を不器用な人間だとおもっているが、地道に続ける事だけは得意だ。
それでも刑務所時代の別の受刑者のように、無駄毛を一本づつ抜き切るような真似をしたいとは思えない。
『容貌を変えるような脱毛・剃毛をしてはならない』という規則のせいで、眉毛を抜いた者はすぐに懲罰に連れて行かれたが、それ以外の者も、しばらくすると別の受刑者も引っ張られた。
「脇を見せた瞬間に『お前……誰だ?』ってなるのかね?」
そう嘯いていたのだが、全裸で風呂場の入り口に立たされ、2人の看守の正面で股間を手で隠していた。
「隠すな!」
と言われて手を離すと、看守二人が呆れたように頷き、それっきりだ。大分容貌が変わっていたらしい。
そんなわけで、ゴトーはそんな事をする気はしなかった。
>>ゴトーは水を飲んだ。
とりあえず髭は諦める事にする。