王国の災厄
そのころアドラント王国では。
王子クリストフと伯爵令嬢アイリスはもはや誰憚ることもなく、昼間から王宮内でべたべたとくっついていた。このごろは二人がそれぞれ一人でいるところを見た者はいないぐらいだ。
婚約者は追放したし、国で一番の発言力を持っていたアリュシオン公爵家の当主ガルドも面目を潰されたからか王宮には姿を見せなかった。また、病に伏せった国王も回復の様子を見せない。そのためクリストフに意見出来る者は誰もおらず、彼は好き放題に振る舞っていた。
「クリストフ殿下、私のために婚約破棄までしていただいて本当に嬉しいです」
「当然のことをしたまでだ。それに僕は君と出会って真実の愛に気づいたんだ」
「私も一生ついていきます」
「愛してるよ、アイリス」
そう言ってクリストフは王宮内であるというのにアイリスの唇を奪う。アイリスもうっとりとした表情でそれに応ずる。似たようなやりとりを毎日繰り返していても、二人は飽きることがなかった。
当然王宮内には様々な者の往来がある。兵士や使用人は極力姿を見ないよう、見ても気づかないように通り過ぎていくのだが、貴族となるとそうもいかない。
たまたま一人の男爵が所用で王宮に来てこの光景を目撃してしまった。彼はまだ若くしかも他の貴族に比べて潔癖だったため、二人の姿を見て思わずちっ、と舌打ちしてしまった。
そしてそれをアイリスが敏感に聞き取る。
「殿下、あの者は今殿下のお姿を見て舌打ちしましたわ。きっと良からぬことを企んでいるに違いありません!」
「何だと!? おい、そこの者、それは本当か!?」
アイリスの恐怖に震える声を聞いたクリストフの表情はそれまでの色ボケした間抜けなものから険しいものに豹変する。彼は元々短気、浅慮、癇癪持ちなところがあった。
男爵もここで平身低頭して謝ればそれで終わったのかもしれないが、彼は目の前の光景に我慢がならなかった。しかもつい最近にはアリュシオン公爵家の娘と婚約破棄したという事件もある。悪魔と話していたなどという噂も流れていたが、この光景を見るとその話を信じることも出来ない。まさかこれが真相だったとは、と彼は怒りに包まれた。
「殿下、恐れながら申し上げます。一時の愛情に囚われて判断を誤るのは王子としては許されることではございませぬ。せめて昼の間だけでも女性は遠くにおいてはいかがでしょうか」
当然と言えば当然すぎる諫言だった。
が、クリストフが何か言う間もなくアイリスが叫ぶ。
「殿下、この者は殿下を軽んじております! 臣下の分際で殿下に意見するなど立場を分かっておりません!」
「そ、そうだ、おぬし無礼であろう!」
実際無礼は無礼であるが、それを言い出せばクリストフがそれ以前の行為をしているのがそもそもの問題である。
が、クリストフはそれを棚に上げて癇癪を起こした。
「今すぐ先ほどの言葉を撤回せよ!」
「どの言葉を撤回せよとおっしゃるのですか! 虚言であるのならばいざ知らず、事実を述べた言葉を撤回することは出来ませぬ!」
「何だと!?」
クリストフは顔を真っ赤にして剣の柄に手をかける。それを見てアイリスは少し満更でもなさそうにしていたが、やがて優しくクリストフの手を握る。
「殿下、ありがたいですがそれは少し可哀想でございます」
アイリスの言葉にクリストフの表情が急に柔らかいものに戻る。あまりの豹変ぶりに男爵は怒りよりも先に困惑が湧いてきた。
「おお、アイリスは何と優しいんだ。よし、おぬしは領地と爵位を没収の上、平民に落とすだけで勘弁してやろう」
「何と……」
あまりのクリストフの決定にその男は呆然として何も言い返すことが出来なかった。相手の処分を可哀想とかで決めるなとか、お前にそんなことを決める権限はないとか、先ほどの自分の言葉に対する反論がないとか色々言いたいことはあったが、今のクリストフの耳には何を言っても無駄であると思われた。そのことを悟った男爵は唇を噛みしめてその場を離れる。
が、彼が視界から消えるとクリストフは何事もなかったかのようにアイリスと連れ立って談笑し始めたのであった。
その出来事から数日。男爵の事件を知った他の貴族たちは二人の前を避けて悪口を言うようになった。クリストフも王宮の空気が徐々に悪くなってきており、また貴族たちの視線がどんどん冷たいものに変わっていくのを感じるがどうすることも出来ず、次第に苛々を募らせていった。
そんなある日のことである。
「大変です殿下、ボルケーノ火山が噴火いたしました!」
一人の兵士が息をきらして王宮に駆け込んでくる。
ボルケーノ火山と言えば王国の西側にある大きな火山である。アドラント王国が成立してから噴火していなかったが、それ以前にこの地を治めていたバイルス王国が滅びる直前に噴火していたため、まるで不吉の前兆のようであった。
「何だと?」
表情を変えたクリストフはテラスに出て西の空を確認する。実際、西の空は火山から噴き出された煙で真っ黒に染まっていた。この規模の噴火が起きているであればかなりの規模の被害が出てしまうだろう。
そしてその時だった。
突然、ぐらぐらと地面が揺れる。まるで何者かに足を掴まれて上下に振り回されているかのような衝撃を受ける。
「うおっ」
クリストフは悲鳴を上げて思わずその場に崩れ落ちる。
王宮内ではいくつもの棚が倒れ、食器が割れる音や物が落ちる音が聞こえてくる。遠くからはメキメキと建物にひびが入るような音すら聞こえてくる。
が、クリストフにとってそんなことはどうでも良かった。彼にとって今守らなければいけないものは国でも王宮でもなかった。
「きゃっ」
アイリスは珍しく作った悲鳴ではなく本気の悲鳴を上げて、クリストフの腕に飛び込む。
「大丈夫か!?」
「は、はい。ありがとうございます」
「安心しろ。そなたは絶対に守る」
そう言ってクリストフは彼女を抱きしめる。アイリスはクリストフを潤んだ瞳で見つめ、吊り橋効果とでも言うべきか、二人は危機的状況なのに二人だけの世界へと入っていく。
が、その世界は数秒で破壊された。すぐに王宮にいる兵士がばたばたとクリストフの元へ駆け込んでくる。
「殿下、地震により城下町に被害が出ております!」
「殿下、王宮の離宮が崩れておりますが、いかがいたしましょう!」
「殿下、噴火と地震により民が動揺しております!」
ここ数日の間、さしたる問題は起こらなかったのでシルアもアルュシオン公爵もいなくても何とかなっていたが、立て続けに起こった問題をクリストフに一人で解決することは出来なかった。
大体、今はクリストフにとってそれどころではない。せっかくアイリスを慰めているというのに彼らはなぜ無粋なことをするのか。
「ええいっ、お前たちとりあえず自分で考えて何とかしろ! それよりもアイリスを安全な場所に逃がすのが先だ!」
「そ、そんな、殿下!」
「立て続けに起こっている災害について何かご指示を!」
「今は陛下も病中でアルュシオン公爵もおりません!」
兵士や家臣たちは必死にクリストフを追いかける。
「うるさい! そのくらい自分たちで何とかしろ!」
家来たちはなおも必死にクリストフを引き留めようとするが、彼は一声叫ぶとアイリスの手を引き、彼らを無視して自身の部屋へと向かって走っていく。
その後ろ姿を見た兵士たちはため息をついた。
「やはりあの殿下では国は持たないか」
「なぜご自身で何も判断出来ないのにアルュシオン公爵やシルア様を追い出してしまわれたのか」
「この国はもう終わりかもしれぬ」
クリストフの耳にもそんな愚痴はかすかに聞こえてきたが、彼はお構いなしに走っていく。
王宮の中でも、王家の者が住む部屋は特別頑丈に出来ており、魔法による補強もされている。そこならアイリスも安心できるだろう。
「殿下、お困りのようでございますな」
「マルスリウス伯!?」「父上!?」
そんな二人の前に突如現れたのがアイリスの父、マルスリウス伯である。
この年四十になる彼はクリストフが貴族の支持を失って狼狽しているのを見て内心ほくそ笑んでいた。彼は伯爵でありながらもクリストフに娘を差し出し、貢物を差し出して取り入っていたが、アリュシオン公爵家はことあるごとに「王族に賄賂を贈るのはけしからぬ」と王子への接近を阻止してきた。
しかしその公爵も今はいないし、殿下はこのザマである。いよいよ力を握る時がやってきたのだ。
「殿下、今は非常事態でございます。このわたくしめを摂政に任命してくださいませ。さすればどんな災害が起ころうとも、殿下の代わりに対応してご覧にいれましょう」
それを聞いてクリストフはぱっと表情を輝かせる。
これで面倒な仕事は全てこいつに押し付けることが出来る。
「そうか! 僕は今アイリスを保護するのに忙しいんだ! 摂政でも何でも任せる! 良きようにやってくれ!」
「かしこまりました。謹んでお受けいたします」
そう言ってマルスリウス伯は慇懃に頭を下げる。だが、その口元には邪な笑みが浮かんでいた。