BALANCE-R バランサー【後編】
11
「しつこいな! いらいらすんのよ! どいて」
廊下に柘植乃天佑の声が響き、刹那の沈黙。その後すぐ、引いた波が再び寄せる様に、廊下には、ざわざわが戻り、その中に二人の声は埋もれた。
二人っていうのは、もちろん、百鬼さんと柘植乃さんの二人だ。
百鬼さんは、昨日決意した通り、柘植乃さんに正面から向き合った訳だけれど、だからといってそう簡単に解決はしない。今ので、本日三回目のチャレンジだ。
「天佑ちゃん――私、すごく考えて、自分がどうしたいか考えて、やっぱり私はこのままなんて嫌なの。私に悪い所があるならがんばって直すから、ちゃんと言って欲しい。話して欲しい……私は天佑ちゃんと」
「迷惑なんだけど! そうやって、いい子ちゃんでいられる所が嫌いなの! だいたい万里はあの時、私と友達でいる事を拒否したじゃない? いまさら何言ってんのよ」
「あんな……土下座して頼むなんて、そんなのは友達じゃないって思ったから」
「そうね。あなたと私は友達じゃない。それでいいじゃない」
「天佑ちゃん……」
「ほんと……、消えて欲しいかも」
柘植乃さんは、百鬼さんと連れ違いざまにそう呟くと、教室へ入っていった。周囲にいた数名の女子が柘植乃さんに続き、百鬼さんだけが、何かおもしろそうな事が起きたとばかりに、ちら見している生徒達の好奇の目に晒される。
僕としては、結果は見えていたとしか言えない。
でも、百鬼さんを止めるなんて事は僕には出来なかった。それはそうだ。僕には、百鬼さんが抱えているこの問題に対して、どうすればいいのかなんて考えついていないのだから。百鬼さんが可能性を感じた方法を、問題を解決する為の手段として選んだ方法を、それを否定する事は出来ない。それに代わる妙案を提示する事が出来ないのだから、百鬼さんを見守る事しか出来なかった。
見守ると言えば聞こえはいいけれど、実のところは、今、この廊下で事の全てを見ていた、見ているだけだった生徒達となんら変わらない訳だ。
僕は百鬼さんの友達だというのに。
自称、友達――と、自分をそんな風に揶揄したところで、それは、自己否定ではなく、ある種の自己満足にしかならないのだから、敢えてここは、友達として声を掛けよう。
「百鬼さ――」
「百鬼さん、だよね?」
僕が百鬼さんに声を掛ける僅かコンマ何秒かの違いで、僕よりも先に百鬼さんに声を掛けた人物がいた。
「あの……ええと……はい。百鬼、です」
百鬼さんは、突然声を掛けられた為、少しばかり戸惑ったようだ。
「初めまして、だね。俺は柘植乃神助――天佑の双子の兄だよ」
百鬼さんは、両手で口を覆って、驚きの色を隠せない。というか、僕だって驚きの色を隠せない。柘植乃さんに双子の兄がいただなんて初耳だぞ! しかも、絶対にモテるに決まっているルックスじゃあないか。あれ? ルックスで言えば妹の柘植乃天佑とはあんまり似ていない。二卵性の双子というやつか。
「あはは、あんまり似てないかな? 天佑と。僕らは二卵性の双子だからね」
正解。
「――あ、初めまして、百鬼万里です。あの……」
「ごめんね。見てたよ」
「……ええと」
百鬼さんは、恥ずかしそうにしながら、少し俯いて視線を泳がせた。
どうしよう。完全に出遅れたぞ。僕に関わる話をしている中に入るならともかく、こうなると、僕は強引に割って入ったり出来ない。
「おーい! 神助、ちょっと今度のライブの打ち合わせすっから行こうぜ!」
割って入ったのは、梵だった。僕にする様に、柘植乃神助と一方的に肩を組んだ。
いいぞ、梵! さすがは何の脈略もなく登場する男。
「わかったよ、一空」
柘植乃神助は、やれやれと溜息を漏らし――
「天佑にも話を聞いておくから、放課後、少し百鬼さんからも話を聞かせてもらってもいいかい?」
と、言った。
「あ、ありがとうございます! 私、天佑ちゃんと友達でいたいんです」
「俺に任せて。それから、敬語じゃなくていいよ、同級生なんだからね。じゃあ放課後、正門前で待っててくれるかい?」
「はい、わかりました」
「ははは、また敬語だよ」
柘植乃神助は、ごく自然にウインクをして、梵に肩を組まれたままで、僕の横を通り過ぎて行った。
僕の横を通り過ぎる瞬間、梵が、すわりのいい顔をして右手の親指を立てていた。
あー、そういう事か――やっぱり梵は、僕が百鬼さんの事を見ているのを知っていみたいだ。それで、変な気をまわしたらしい事が分かった。
梵は完全に誤解しているとは思うけれど、一先ずこれで、僕は百鬼さんに声を掛けるタイミングを得た。
「百鬼さん、なんだか、ごめん、僕は何も出来なくて」
「ううん。……一番合戦君が見ててくれてるって思うから、勇気が出せるんだよ。ありがとう、心配してくれて」
「そ、そう言って貰えると落ち込まなくて済むよ」
「ええ? 一番合戦君が落ち込む事なんてないよ!」
百鬼さんは首を横に振りつつ、両手も高速で振って否定した。
僕は、百鬼さんのこの仕草が割と好きなので、否定して貰うのがクセになってしまいそうだ。
「だけど、良かったね。柘植乃さんのお兄さんが協力してくれるなんて」
「うん。でも、私のせいで兄妹の関係が悪くなったりしないかな……」
「僕も彼の事は全然知らないけれど、今の雰囲気だと、そんな風に状況が悪化する様な事は、失敗はしないタイプな気がするから、きっと上手くやってくれるんじゃないかな」
「……うん」
百鬼さんは、まだ少し心配そうだけれど、前向きな姿勢はいまだ健在で、放課後までに、また柘植乃さんとも話をしてみようと思うと言って、笑顔を見せてくれた。
思わぬ柘植乃兄の登場で、百鬼さんの抱える悩みが解決に向かって動き始めた事は喜ばしい事ではあるのだけれど、僕は柘植乃兄を、柘植乃神助の事を、見た目ほどには信用していない。
百鬼さんを安心させたいという事もあって、悪いようには言わなかったけれど、どうにも、あの、『爽やかでいい人そう』な雰囲気には、素直に受け入れられない何かがある様な気がして。
もちろん、せっかく友達になれた百鬼さんを取られそうだとか、モテそうなルックスに対してだとか、そんな次元での事ではなくて。
いつからだろう? 時々、こんな事がある。何がどうとか言えないんだけれど、敢えて言葉にするなら『違和感』って言うのか、この人って本当にこれで合ってるのかなって思う事がある。
僕は、その『違和感』を、柘植乃神助に感じていた。
うん。
後で、放課後までに梵に訊いてみよう。柘植乃神助について。
と、いう訳で僕が梵に尋ねると、お前の気持ちは分からんでもないぜ、そりゃあ相手が神助なら心配にもなるってもんだ、と言いながら色々と話してくれた。
このままの方が、色々と訊けそうなので、敢えて、ツッコむまい。
柘植乃神助は、梵と同じバンドのメンバーで、ベースを担当している。僕は梵がバンドを組んでいる事もすっかり忘れていた(音楽には疎いので、それほど興味を持って聞いていなかったのかもしれない)。そういえば、前に梵がライブに誘ってくれた事があったけれど、結局、行かなかったのは言うまでもない。
確か――『昼時ランチタイム』ってバンドだったっけ。
あのルックスで、バンドのベース、時にはボーカルもこなすと言うのだから、バンドのメンバーの中ではダントツでファンが多いらしい。梵は心底、悔しがっていた。
学校での成績もトップクラスでスポーツ万能な上に人望も厚いという、男版の一番合戦満帆とでも言おうか、こうなると梵でなくても悔しがる。
とにかく、悪い話が出てこない。
強いて言うなら、ピーマンが苦手という事ぐらいだと、梵は言った。
勝った――僕はピーマンだけを炒めた物も全然いける。
その後出てきた話も含めて、結局、僕が柘植乃神助に勝てたのはピーマンだけだった。
「って訳だから、安心して相談できる人みたいだよ。柘植乃さんのお兄さん」
僕は、梵から聞いた柘植乃兄の情報をかいつまんで、百鬼さんに伝えた。
「ありがとう。訊いておいてくれたんだね」
「梵が親しいみたいだったからね。……これから、会うんだよね?」
「うん。さっきもう一度、天佑ちゃんに話し掛けてみたんだけれど、ダメだった……私なんかと話している暇はないって……今日は星を見に行くんだから、どいてって」
百鬼さんは、唇を軽く噛み、寂しそうな表情をした。
「前に、天佑ちゃんと一緒に星を見に行った事があって、また行こうねって言ってたから……なんだか、悲しくなっちゃって」
「百鬼さん! まだ希望がなくなった訳じゃないよ! それをこれから掴みに行くんだよね? 大丈夫だよ……きっと」
自分でも、根拠のない事を言っているのは分かっているけれど、情けない事に、僕には百鬼さんを励ます事しか出来ない。
で、あれば、励まそう。励ましきろう。
「そう……だね。私が諦めちゃったら、そこで本当に終わっちゃうもんね」
百鬼さんは、うん、と頷き、両手を握りしめて――
「がんばります!」
と、言った。自分を奮い立たせる様に。
百鬼さんは、柘植乃兄が待っているであろう、正門へと向かった。
成績が優秀で、人との付き合い方も上手で、何よりも柘植乃天佑の兄であるという事実は、僕なんかが必死に考えるよりも、絶対に百鬼さんにとってプラスになるはずだ。
百鬼さんと柘植乃さんが、以前のように笑い合い、また一緒に星を見に行こうと言っていた約束を果たせる様に、きっと、そうなる様に、柘植乃兄は動いてくれるはずだ。
うん。
僕は――僕は、百鬼さんがいじめを受けていて、悩みを一人で抱え込んでしまう事を心配していた。でも今はもう、百鬼さんは一人じゃない。
大丈夫――僕は明日、百鬼さんから、いい報告を受ける事になるはずだ。
友達として、一緒に喜ぶ事が出来るはず――なんだけれど、気が付くと僕は、百鬼さんを追う様に、正門へと向かっていた。
12
「きゃあーっ!」
百鬼さんの悲鳴? どうして――
僕は、町外れにある廃倉庫の入り口に立っていた。
悪趣味かもしれないけれど、僕は百鬼さんと柘植乃兄の後をつけてここに来た。百鬼さんと柘植乃兄が中に入ってから、五分ぐらいが経ったと思う。
突然、百鬼さんの悲鳴が聞こえた。
「百鬼さん!」
僕は、廃倉庫の扉を開け、中へと飛び込んだ。
昨日の建設中のビルを思い出させる薄暗さが、否応なく僕の鼓動を早くする。
「一番合戦君!」
百鬼さんの声がする方を見ると、そこには、柘植乃神助に押し倒されている百鬼さんの姿があった。
「な、何をやってるんだ! 柘植乃神助!」
思わず叫ぶ。
柘植乃神助は、ちっと舌打ちをして、むくりと起き上がった。
「なんだよ、お前……俺の邪魔すんなよ」
そう言った柘植乃神助の手には、カッターナイフが握られていた。
ちょ、ちょっと待てよ。なんだよこの展開。昨日からなんだかおかしいぞ。僕はこんな、非日常的な体験をする様な、そんな生き方はしてこなかったのに――あの時から、僕は目立つ事なく、人の迷惑にならない様に、『普通』に生きてきたっていうのに。
「どっか行けって言ってんだよ!」
柘植乃神助は刃を伸ばしたカッターナイフを振り上げながら、僕に向かって来た。
「う、うわーっ!」
僕は、持っていた鞄を柘植乃神助に投げつけた。
柘植乃神助は、僕の投げた鞄を片手で払いのけ、向かってくる勢いを弱める事もなく、僕の胸ぐらを掴むと、そのぎらぎらした眼で僕を睨む。
昼休みに廊下で見た時とは、まるで別人の様な眼をしていた。
これが、僕が感じた『違和感』の正体なのか? これが、本当の柘植乃神助なのか――
「ぐあっ!」
僕は、無我夢中で柘植乃神助の顔面に頭突きをくらわせた。
柘植乃神助は、僕の胸ぐらを掴んでいた手を離し、自分の鼻を押さえる。僕の頭突きは柘植乃神助の鼻に命中し、見事、鼻血を出させる事に成功した。
僕も額にダメージはあったし、若干、頭がくらくらとするけれど、ここに出来た隙を逃さず、柘植乃神助の脇をすり抜けて百鬼さんの方へと駆けた。
「百鬼さん! 大丈夫?」
「一番合戦君……」
僕は、百鬼さんの両肩に手を起き、百鬼さんが怪我をしていないか確認する。
百鬼さんは、涙を浮かべながら、僕を見つめた。
「ごめん、百鬼さん……もっと慎重になるべきだったんだ。僕がもっと――」
百鬼さんは強く首を振った。
僕は、百鬼さんを背にして、庇う様に立ち上がる。
柘植乃神助は、鼻と上唇の間に流れる鼻血を手で拭ったけれど、またすぐに同じ場所が赤く染まった。そして、もう流れる鼻血に構う事なく、柘植乃神助は再びカッターナイフを振り上げながら僕と百鬼さんの方へと歩きだした。
さっき鞄を投げたのは失敗だったか。もう、武器になる様な物がない。昨日のビルは建設用の資材がたくさんあったけれど、ここには物がほとんどない。
「もうやめろよ! 柘植乃神助! こんな事して、こんな事して自分の人生を台無しにするんじゃないよ!」
武器がない以上、言葉でなんとかするしかないと思ったけれど、僕の言葉は柘植乃神助には何ら響いていない様だった。
「黙れよ……」
柘植乃神助は、大きく一歩を踏み込んで、カッターナイフを振り下ろした。
「わあああっ!」
振り下ろされた柘植乃神助の腕を、思わず出した両手が受け止めていた。
でも、なんだか凄い力だ。両手で受け止めきれない……昨日も思ったけれど、つくづく自分の非力さが嫌になる。
「一番合戦君!」
百鬼さんが投げた鞄が僕の顔の横を通り過ぎ、柘植乃神助の胸に当たった。
「おとなしく待ってなよ、百鬼さん」
もちろん、柘植乃神助には何ら効果はなかった。
「百鬼さん……逃げて、助けを呼んでくるんだ!」
後ろを振り返る余裕がない僕は、柘植乃神助の方を向いたままで百鬼さんに言った。
「でも、一番合戦君が……」
百鬼さんの声が涙声になっているのが分かる。
「いいから、行って百鬼さん! 行って助けを呼んでくれた方が、僕だって助かるんだ!」
「させねーよ!」
柘植乃神助は、僕の腹部に向けて、力任せに蹴りを放った。
マジかよ。カッターナイフを意識し過ぎて、完全に不意をつかれた。
僕は、後ろに蹴り飛ばされ、当然、僕の後ろにいた百鬼さんも飛ばされた僕に押されて、その場に倒れた。
「げほっ、うえっ……」
蹴られたせいか、また胸の辺りが気持ち悪くなってきた。
「さあ、どこから切ろうかな」
「うっ!」
柘植乃神助は、僕の腹の上に勢いよく腰を下ろし、両足で僕の両手を押さえつけると、カッターナイフの刃を僕の眼前に突き出した。
「一番合戦君!」
百鬼さんが叫んだのを合図に、柘植乃はカッターナイフを僕の頬に滑らせた。
ああ、この感覚、指に紙が触れているのに、誤って勢いよく紙を滑らせてしまった時の、あの感じが、頬にあった。
痛い――痛いけれど、叫び声をあげるよりも、僕は息を飲んだ。
柘植乃神助が、今度はカッターナイフを持った手を大きく振り上げていた。
そ、そんな渾身の力で、どこを切ろうっていうんだ……。
「俺の……邪魔を……するな!」
柘植乃神助が、カッターナイフを持った腕を振り下ろそうとした――
「そこまでよ!」
と、突然、女の子の声。百鬼さんじゃない。
でも、僕は、その声に聞き憶えがあった。
昨日、聞いた声だった。
「誰だ!」
と、柘植乃神助は悪役よろしく声の主に問い掛ける。声の主は、倉庫の扉から一歩入った辺りで、柘植乃神助を指さしてポーズを決めていた。
「通りすがりの――」
喋りながら、二、三歩進む。
「特監、東雲波瀾よ!」
と、手に持った黒い棒を構え、改めてポーズを決めたのは、あの、東雲波瀾だった。
「東雲……波瀾……」
「あら? 昨日のニュートラルじゃない。二日連続で私の前に現れるなんて、もしかして私のファンなの?」
二日連続で現れたのは、そっちだろう。って、いうか何でここに東雲波瀾がいるんだよ。
特監がここにいるって事は、まさか――まさか柘植乃神助は、百鬼さん以外にも人を襲っていて、殺刑を執行されるぐらいの犯罪者だっていう事なのか?
「お前も……俺の邪魔をするのか!」
柘植乃神助は、僕の腹から立ち上がり、東雲波瀾へ向かって駆け出した。
「はあ? 邪魔なのはあんた達みたいな連中でしょ?」
そう言うと、東雲波瀾は手にしていた黒い棒の両端を握った。そして、そのまま両手を左右に広げると、黒い棒は二本の小太刀になった――って、小太刀とか、普通に言っちゃったけれど、何だよ、小太刀って。
やっぱり、あの黒い棒って、とんでもない武器だったんじゃないか。
「法に代わって、おしおきよ!」
どこかで聞いた様な決め台詞とともに、東雲波瀾が地面を蹴った――と、次の瞬間には、僕のすぐ脇に柘植乃神助が持っていたカッターナイフが転がっていた。
「はい、おしまい!」
東雲波瀾は、小太刀の柄の底で柘植乃神助の側頭部を容赦なく、躊躇なく殴りつけた。
柘植乃神助は空中で数回転した後、地面を転がり、意識を失った状態で横たわる。
「あーあ、やっぱ『保持者』だったわね」
東雲波瀾は、横たわった柘植乃神助の額に手をかざして、そう言った。
ニュートラルとかキーパーとか、特監の専門用語っぽいけれど、どういう事なんだろう。
あ、まさか、柘植乃神助は――
「生きてるわよ。今のは殺刑じゃないもの」
僕の視線を感じてか、東雲波瀾は僕を見て言った。
「一番合戦君……血が出てるよ」
百鬼さんが、僕の頬をハンカチで押さえてくれた。
「ごめんなさい。ごめんなさい。私のせいで……」
百鬼さんは、僕の頬を押さえながら、ぽろぽろと涙を流す。
「違うよ、百鬼さんのせいじゃない……僕が――僕が、友達なのに柘植乃神助に丸投げする様な事をしたからいけないんだ。僕の方こそ、本当にごめん」
「ううん。私がもっと気をつけないといけなかった。バンドの練習で使っている倉庫だって言われて……ここなら人に聞かれる事はないから、何でも話してって言われて……そのまま信じちゃったから……私が……」
「あーっ、もう! 傍で聞いてたら全身かゆくなってくるわ! 私に言わせれば、どっちもどっちね! どっちもどっちよ! 詳しい事は知らないけれど、こういう場合は、だいたい、どっちもどっちよ!」
東雲波瀾が僕と百鬼さんのやりとりを見て、勝手にいらいらしている。
だいたい、なんでちょっと僕が怒られてる感じなんだよ。上から目線にもほどがある。昨日は動揺して、思わず逃げ出してしまったけれど、今、こうして改めて東雲波瀾を見てみると、僕や百鬼さんとなんら変わらない十代の女の子じゃないか。
そんな子が、人の命を奪う仕事をしているって事は、そりゃあ怖いんだけれど。
「何よ? なんか言いたい事があるなら、はっきり言いなさいよ」
僕の視線を感じた東雲波瀾が、尚も挑戦的にそう言った。
「あの!」
声を上げたのは、百鬼さんだった。
百鬼さんは、涙を拭い立ち上がる。
「あの……東雲波瀾さん、助けてくれてありがとう」
「月並みな言い方で申し訳ないんだけれど、別にあんたや、そこのニュートラルを助けた訳じゃないわよ。私のターゲットがいた場所に、たまたまあなた達がいただけ」
東雲波瀾は、二振りの小太刀を、再び一本の黒い棒に戻しながら言った。
もう、東雲万丈の事も東雲波瀾の事も忘れて、特監の事も、自分とは関係のない世界の事だと割り切ろうとしていたけれど、こうして再び出会ってしまった以上、そんな訳にはいかない。
本当は昨日、東雲万丈や東雲波瀾に訊きたい事が幾つかあった。だけど、あんな風に逃げてしまったし、もう訊く機会はないと思っていた。
さっきから東雲波瀾が僕を呼ぶ時に使っているニュートラルっていう言葉、そして、東雲万丈が言っていた、『事件性のある事象には近づくな』っていう言葉についても、まだわからない事がある。
僕は、まだ少し胸の気持ち悪さを感じながらも、ゆっくりと立ち上がった。
「一番合戦君、大丈夫? 顔色が悪いよ?」
「うん、また少し胸の辺りが気持ち悪いんだ。ほんと、自分の体力のなさには呆れるよ」
心配そうに僕を見つめる百鬼さんと、相変わらず、睨む様に僕を見る東雲波瀾。
「あんたの、その気持悪いってのもね――ニュートラルだからよ」
なんか、急にぶっこんで来たぞ、東雲波瀾。
ちょ、ちょっと待ってよ。質問は僕がするから、先に意味の分からない事を増やさないで欲しいな。
「ど、どういう事だよ? そもそも、ニュートラルってのがなんだかわからない」
「昨日、万丈が言ってた事じゃ不服って訳ね? ま、そりゃそうか。あれだけじゃあ余計に何の事だかわかんないわよね」
東雲波瀾は、片手ではらりとその長い髪を肩から払いながら、僕と百鬼さんに近づいて来た。
そして、僕の前で立ち止まったかと思うと――
「う、うわ……」
まるで、熱があるかどうか確認する時の様に、僕の額に手を当てた。
「ふーん……なるほどね」
僕の額から手を離すと、東雲波瀾は腕組みをして、僕の目を見据えた。
なんだろう、変に緊張する。
「な、何が……なるほどなんだよ?」
「ええっと、そうね――何から話したら分かりやすいのかしら」
東雲波瀾は、腕組みをしたまま、眉間にしわを寄せて目を閉じた。そんなにも、ややこしい話なんだろうか。そんな東雲波瀾の様子に、僕と百鬼さんは顔を見合わせた。
「なんだか、これぞ『難しい顔』って感じだね!」
百鬼さんは、何故か自分も口を真一文字に結んで眉間にしわを寄せながら、東雲波瀾を見つめている。
「やっぱ、やーめた」
――はあ? なんだって? 今、なんてった? おい。
「なんだか面倒になっちゃったわ。訊きたい事は万丈に訊きなさい」
そう言うと、東雲波瀾は両手を頭上に伸ばし、大きく伸びをした。
「ちょっと待ってよ! それはないだろ?」
「っさいわね! そもそも、私はあんたに説明する必要なんてないって思ってんのよ! だいたい、万丈が特監の事を話したってのも、ほんと、ばっかじゃないの! って話よ。ばか万丈よ。ばかん丈よ」
東雲波瀾は、まるで僕が、ばかん丈ででもあるかの様に、腰に手をあてながら僕を指さした。
こ、こうなったら――やりかたを変えよう。
「お願します! この無知な僕にニュートラルの事を教えて下さい! 東雲波瀾様」
僕は、九十度のおじぎをして東雲波瀾に懇願した。
「あら? あらあら? ちょっとは分かってきたようね。――いいわ、教えてあげる」
や、やったあ。てっきり――なんの真似よ? ばっかみたい――とか言われるかと思ってたあ。まさか本当に効果あるとは思ってなかったあ。
ようやく話が進むよ。意外にちょろいよ、東雲波瀾。それでいいのか? 東雲波瀾。
「人には――人の中には、その精神状態を左右する二つの因子が存在するの。善玉菌とか悪玉菌とか聞いた事あるでしょう? 便宜上、それらを善魂因子と悪魂因子って呼んでるわ」
東雲波瀾が話し始めた。正直、また訳が分からない。このまま聞いていれば分かるものなんだろうか。
「その二つの因子の比率が、性格を形成する――簡単に言うと、善魂因子の比率が多い人は、いわゆる『いい人』に思われて、悪魂因子の比率が多い人は『悪い人』に見られる傾向があるのよ。ニュートラルっていうのは、その比率がないの――現時点では、そんな事はあり得ないと言われている存在――だから万丈は昨日、伝説の……なんて言い方をしたのよ。ばかみたいに」
東雲波瀾は、東雲万丈をばか呼ばわりしないと気が済まないんだろうか。どう考えても最後の一言は余計だろう。
いや、そんな事よりも――
「ちょっと待ってよ……そんな珍しい存在が、それが――僕だって?」
「一番合戦君、すごい!」
百鬼さんが両手で口を覆って驚いている。いや、百鬼さん、すごいって言われても……。
「あんたの存在っていうのは、本来なら私達の属する機関が――特別超法監殺機関が放っておく訳ないんだけれど、私の上司の指示でまだ機関には報告していないから、こんな所でぼけーっとしてられるって訳よ珍獣くん」
「君はいちいち人を蔑まないといられないのか?」
「はい? なんか言ったかしら? いいのよ、ここで話を終わっても」
「すいませんでした。もっと蔑んで下さい。罵ってください」
なんだか、満帆のペースに巻き込まれている時の様な、抗えない謎の力が働いている。
「わ、私からもお願いします! もっと蔑んであげて下さい」
なんか色々と間違っているけれど、百鬼さんなりに応援してくれていると信じよう。
「ええと、どこまで話したかしら……あー、もう! これだから面倒くさいのよ」
「その……二つの因子なんて今まで聞いた事なかったけれど、それっていうのは……」
「公表されていないわ。まだ研究途上ってのもあるけれど、仮に公表したら、きっと世の中めちゃくちゃになるわね」
「どういう事だよ?」
「二つの因子、善魂因子と悪魂因子――善魂因子が多ければ良いという訳でも、悪魂因子が多ければ悪いという訳でもないわ。大事なのは、各個人に合った『バランス』……そのバランスが崩れた時に――人は一線を越えるの」
東雲波瀾は、その目に鋭さを湛えて話を続ける。
「一度崩れたバランスは、二度と元には戻らない。私達は――特監はバランスを崩し、人の道を踏み外した者を裁く為にいるのよ」
東雲波瀾が、そこまで話した所で、廃倉庫に携帯電話の着信音が響いた。
「やっと架けてきたわね」
鳴ったのは、東雲波瀾のスマホだった。
「ちょっと! 遅いわよ万丈!」
電話の相手は東雲万丈だ。
「……ええ、そうよ。こっちは保持者だったわ。……はあ? あんた確保してないってどういう事よ! ……その例えは意味わかんないんだけど……そうね、とりあえず早くこっちに来なさいよ。昨日のニュートラルもいるわ。……さっさとね」
東雲波瀾は、スマホの画面を軽くタッチして通話を終えた。
「と、いう訳だから、もう少ししたら万丈が来るわよ」
「そ、そんなことより! 二つの因子の事が公表されると世の中がめちゃくちゃになるって話が、まだ途中です!」
おっと、またも百鬼さんがカットインしてきたぞ。それにしても、そんなことよりって……東雲万丈の立場ないな。
「ああ、そういえばあなた――」
東雲波瀾は、さっき僕にした様に百鬼さんの額に手を当てた。
「きゃっ……」
百鬼さんが驚いて肩を竦めた。
「ふーん、もう完全に大丈夫みたいね」
「な……なんの事でしょう?」
百鬼さんが、恐る恐る東雲波瀾に尋ねる。
「万丈の話だと、あなた危なかったんだってさ」
「私が……危なかった?」
「そ。あなた、もう少しでバランス崩すところだったみたい」
東雲波瀾が、とんでもない事を言い出した。
百鬼さんが、バランスを崩すところだったって? それって、つまり、特監に裁かれる存在になるところだったっていうのか? そんなばかな。百鬼さんに限って、人の道を踏み外す様な事なんてする訳ないじゃないか。
「なんて事を言うんだよ! 百鬼さんが、そんな事になるはずないよ!」
「はあ? あんた何を知った風な事を言ってるわけ? 百鬼さんがそんな事になるはずないって、それこそそんなはずないわよ。いい? バランスの崩壊は誰にだって起こり得る事なの! 今は、二つの因子の事も、そのバランスの事も世の中には認識されていないから、何か事件が起こっても、背景にある犯人の生い立ちや、そこに至る動機がどうだとか言われているけれど、そこにある原因は唯一つ――二つの因子のバランス崩壊なのよ」
つまり――誰でも加害者や被害者になる可能性があるのと同じ様に、バランスの崩壊は誰にでも起こる可能性がある――そういう事なのか?
「そしてバランス崩壊は、突然起こる――崩壊までに因子比率の動揺が前兆としてはあるけれど、バランス崩壊する瞬間は誰にも分らないのよ。だから、明確な対処方法もないままで世の中に公表したら、みんながみんな疑心暗鬼になってとんでもない事になるでしょうね」
世の中がめちゃくちゃになるって、そういう事か。
「それに、情報っていうのは必ずしも正確には伝わらないものだから、悪魂因子の比率が多い者を犯罪予備軍なんて言いだす人も出てくるかもしれないわね。風評被害みたいなものだけれど」
「さっきは、バランスを崩したら二度と元に戻らないって言ってましたけど……私が、もう大丈夫っていうのはどういう事ですか?」
百鬼さんが話を戻した。確かに、世の中とか広い部分での話をされてもいまいち実感が湧かないけれど、百鬼さんの事なら僕も気になっている。
「簡単な事よ。あなたはバランス崩壊した訳じゃないからよ」
ああ、そうか。そうだ。東雲波瀾は、百鬼さんがバランス崩壊したとは言っていない。もう少しでバランスを崩すところだったと言ったんだ。
さっきの話から考えると、百鬼さんは、因子比率の動揺が起こっていた段階だったって事か?
「ほんと、呆れる位の幸運だわ。身近なところにニュートラルがいたなんてね」
「やっとニュートラルが出てきた!」
思わず声に出してしまった。
「あくまで仮説だったんだけれど、ニュートラルには因子比率の修復能力がある――そう言われているわ。それを――」
東雲波瀾は、またしても僕を指さした。
「あんたが立証した訳よ。その子と、あそこで気を失っている奴に対してね」
視線で百鬼さんと、床に倒れたままの柘植乃神助を示す東雲波瀾。
「僕が……百鬼さんと、柘植乃神助を? いや、でも僕は何もしてないんだけど……なんで?」
「あんたは二人に触れたでしょ? そしてその後、胸が気持ち悪いって言ってたじゃない。あれは簡単に言えば、ずれた分の因子比率を修復する為に過剰分の因子をあんたが吸い出したせいよ」
そして、東雲波瀾はこう続ける――
「おかげで――百鬼さん、あなた――自殺しなくて済んだわね」
13
東雲波瀾の言葉に、一番驚いていたのは百鬼さんだった。
もちろん、僕だって衝撃を受けない訳はない。昨日の学校では確かに百鬼さんの様子に違和感があったけれど、今日の百鬼さんは、柘植乃さんと正面から話をする為に前向きに行動をしていたから、僕にして見れば、百鬼さんと自殺という言葉がすぐには結び付かなかった。
「私……自殺しようなんて思ってないです!」
百鬼さんが、東雲波瀾を見つめて強く否定した。
「今はそうでしょうね。私が言っているのは、そこのニュートラルがあなたのバランスを修復しなかったらそうなっていたって意味よ」
二つの因子のバランスが崩れた時に人は一線を越える――東雲波瀾はそう言っていた。僕はその意味を、殺人者になってしまう事だと思っていたけれど、一線を越えるっていうのは、なにも他者の命を奪う行為に及ぶって事だけじゃなかったんだ。自分自身の命を奪う行為――つまり、自殺に至るのもバランスの崩壊が原因って事らしい。
東雲波瀾の話は、とても信じられない話ではあるのだけれど、嘘を言っている様にも思えないし、僕と百鬼さんに対してこんな嘘をつく意味はない。
だとしたら――だとしたら、僕は昨日、百鬼さんに声を掛けて本当によかった。
百鬼さんは、柘植乃さんとの事を僕に話してくれたけれど、もしもあのまま一人で抱え続けていたらと思うと、その辛さは想像に難くない。もしも僕が、小学三年生の頃のあの体験を今していたら――きっと、まともではいられないだろうと思う。
結果的に、僕がニュートラルだったからよかったって事になるのかもしれないけれど、例えそうでなくても、僕は百鬼さんの助けになれていたと信じたい。
あの時の満帆の様にはいかないまでも。
「……でも、もしかしたらそうなのかもって……思う」
百鬼さんが、さっきの強さが嘘みたいに、弱々しく呟いた。
「な、百鬼さん……それって……」
「あ! 違うの、心配しないで一番合戦君……昨日までの私はそうだったかもって――なんだか、変な感じだったの。このまま……どこか光の届かない海の底にでも閉じ込められてしまうみたいな――ここにいるのに、いないみたいな、そんな変な感じだったの」
百鬼さんの言う事――僕には分かる気がした。
もしかして、僕もあの時、バランスを崩しかけていたんだろうか。
「ま、そういう訳だから、誰にでも二つの因子比率のバランスを崩す可能性はあるのよ。私や万丈も含めてね。唯一、あんただけが――ニュートラルだけが例外なのよ」
僕だけが、例外――って、これって、もうどう足掻いても『普通』じゃないな。なんなんだよ、今更だけれど、なんなんだよこの展開。
「何か思い当たる事はあるはずよ。例えば、すぐに気が変わったりとか、激しく怒ったり悲しんだり、ばかみたいに喜んだりする事がないとかね」
言われてみれば、確かに、東雲波瀾が言う事に思い当たる節はある。
だけど、だからと言って全てを素直に受け入れられるはずないじゃないか。
僕が望んでいたのは、こんな事じゃあない。僕は、百鬼さんと一緒に、ざっくばらんな世間話なんかを気軽にしたかっただけなんだ。
それだけでも、僕にとっては『普通』ではない事なのに、こんな、ニュートラルとかって。
「その顔なによ? 随分とサービスして色々教えてあげたのに、まだ不服な訳?」
東雲波瀾が、また絡んで来た。
この子はなんだっていつも喧嘩腰なんだ? 疲れるだろう、それ。
「ふ、不服って訳じゃないけれど――正直、ここまで聞いてもまだ現実とは思えないっていうか……」
「でしょうね! あんたキレ者な顔していないもの。なんていうか――普通?」
「そんなの君に言われなくても分かってるよ! 僕の顔は、キレ者でもなければチョイ悪でもなくて普通中の普通だって事は百も承知さ!」
「一番合戦君……気にしてたんだね……」
「な、ななな、百鬼さん! してないしてない! 気にしてない!」
「一番合戦君、大丈夫だよっ!」
百鬼さんが力強く頷いている。せっかく励ましてくれているけれど、本当に気にしてないからね。
「それじゃあ、もういいかしら? そろそろ万丈も来るだろうし、私達まだまだ仕事があるのよ」
そう言って、東雲波瀾は、手に持っていた黒い棒――いや、小太刀を、抜かないままで僕と百鬼さんに向けた。
「ま、まさか、話を聞いた僕たちを始末しようって言うんじゃあ……」
「はあ? ほんと勘弁して欲しいわ……あんた、まだ特監の事をただの人殺しだとも思ってるんじゃないでしょうね?」
「そうじゃないけど……」
「あの、でも……私達こんなに聞いちゃって……よかったのかな?」
百鬼さんも少し不安げだ。
そりゃあそうだ。話を聞かせて欲しいと言ったのは確かに僕だけれど、二つの因子とか、バランス崩壊とか、こんなにも非現実的な話になるだなんて思っていなかった。
「聞くだけなら別にいいわよ。私が話したんだから。ただし、他言は無用って事ね」
「そう言われても、僕や百鬼さんが他の誰かに話すかもしれないって考えないのか?」
「そうね……ま、なくはないのかもしれないけれど、私達は――特監は人を見る目はあるのよ」
東雲波瀾は、珍しく少し微笑みながら、アイドルの決めポーズの様に、手をピストルっぽくした指で自分の目を指した。
そういえば、昨日から東雲波瀾って、やたらポーズをとっている様に思うのは気のせいだろうか? なんて考えていると、廃倉庫の入り口から、もう一人の特監――東雲万丈が入って来た。
「大丈夫だったか? 二人とも」
開口一番、東雲万丈は、真顔でそう言った。
「大丈夫に決まってるじゃない! 私がいたんだから」
「いや、だから大丈夫だったかと訊いている」
「どういう意味かしら?」
表情を全く変えない東雲万丈に、顔を引きつらせながら食って掛かる東雲波瀾。
この二人、コンビで特監としての仕事をしているみたいだけれど、兄妹なのかな?
「少年、俺と波瀾は兄妹ではない」
「心を読んだ!」
「そんな事を考えている気がしただけだ」
「それでも凄いよ。怖いよ」
東雲波瀾とはまた違ったクセがすごい。
「俺と波瀾に血縁関係はない。もちろん婚姻関係もなければ、いかがわしい関係でもない」
「キモい事を言ってんじゃないわよ! ばか万丈! ばかん丈!」
「同じ姓でも本当の姉妹じゃないゴージャス姉妹がいるだろう? あれだ」
東雲万丈は東雲波瀾の言葉を意に介する事もなく、また例えた。
なんで例える。
「堂本と堂本でも家族じゃないアイドルみたいなものよ!」
だから、なんで東雲波瀾まで例える。
「そ、その辺はもういいよ……それよりも、最後に一つ訊きたいんだけれど、『事件性のある事象には近づくな』っていうのは、どういう事なのかな?」
僕の言葉を受けて、東雲万丈が真顔で僕を見た。
「……」
なんだろう、この間は。
なんで無言なんだよ。なんか言えよ。まさか、昨日の事を、自分が言った事を忘れたとでも言うんじゃないだろうな? 冗談じゃないぞ。あんな気になる言い方しておいて忘れたとは言わせないぞ。
「勘違いするなよ、少年。なんの事だか忘れた訳ではない。憶えているとも。あれだろう? 事件――次元は会議室で怒ってるんじゃない、現場で怒ってるんだ! とかいう――」
「絶対にルパンなんかやらかしたよね!って、いま一回ちゃんと事件って言いかけただろ!事件性から引っ張るには分かりにくいよ!」
真顔でなにを言ってるんだよ、東雲万丈。
て言うか、僕もだよ。ちょっとノッてる場合じゃないよ。
訊きたい事を訊いたら、今度こそ東雲万丈と東雲波瀾とは関わらない様にしなきゃいけない。やっぱり、東雲波瀾から色々と聞いて、この二人がいる世界は、僕や百鬼さんが関わっていい世界じゃない事がよく分かった。東雲波瀾が話を切り上げたのも、これ以上は踏み込むなって事だろうと思う。なんなら、もう踏み込み過ぎている位なのかもしれないけれど。
「最後にって言ってるんだから、さっさと教えてやりなさいよ」
東雲波瀾は意識を失っている柘植乃神助の鞄をごそごそと探りながら、東雲万丈を促した。
「波瀾からある程度の話は聞いているのだとは思うが、ニュートラルはバランス崩壊に至る前の因子比率の動揺を修正する事が出来るという伝説は聞いたか?」
「伝説は知らないけど、仮説なら聞いたよ」
「そうか。つまりは、それだ。昨日、君はそこの百鬼さんの因子比率を修正した訳だが、その際、体調に異変があっただろう?」
「それなら、ついさっきもあって――僕が過剰分の因子を吸い出したって……」
「その通りだ。それは、簡単に言うと体内に異物を取り入れている様なものだ。そんな事を繰り返して、君の体に何の負担も掛からないはずはないと思わないか? 事件性のある事象には、因子比率の動揺を起こしている者が関わっている可能性が高い――つまり、そこに関わって、君がニュートラルとしての能力を発揮してしまえば、それだけ君の体に負担が掛かるし、その結果、君がどうなるか分からないという事だ」
だいたい、思っていた通りの答えが返って来た――そういう事なんじゃあないかと思っていたけれど、やっぱりだった。
うん。
やっぱり、これ以上は特監に関わるのはよそう――『普通』に戻らないといけない。
昨日、今日と、あまりにも現実離れした事が起こり過ぎている。
駄目だ――僕は目立たず、穏やかに過ごすんだ。
僕は『特別』である必要はないし、そうなろうとしちゃいけないんだ。
「よく分かったよ……君の忠告」
「そうか。ならばよかった」
「そこで意識を失っている柘植乃神助は、逮捕されるのかな?」
僕の質問には、東雲万丈ではなく、柘植乃神助の鞄から生徒手帳を取り出して、中を見ている東雲波瀾が答えた。
「あんた怪我してるしね。傷害で被害届出せばいいんじゃない? 私達は警察じゃないから逮捕はしないわよ」
「そ、そうなんだ……僕だけの事なら、そこまではって思うけれど――昨日は百鬼さんに何かを被せて連れ去ったり、今日もこんな事になって、正直、そのままって訳にはいかないとは思う」
と、僕が言うと、東雲波瀾は大きく溜息をついた。
「あんたって、ほんと呆れる勘違い君だわね! 昨日、百鬼さんを拉致した男と柘植乃神助は全くの別人よ」
え、ええっ! そうなの? 僕は、昨日の犯人と柘植乃神助は同一人物だと思っていたんだけれど、違うのか? じゃあ、じゃあ昨日の犯人は誰だよ。
てっきり、百鬼さんに対する柘植乃さんの行為も柘植乃神助がそうさせたんじゃないかと思っていた。百鬼さんを孤立させる為に。だから、柘植乃神助をどうにかすれば、これで色々な事が解決するんじゃあないかと思っていた。
それなのに――昨日、百鬼さんを襲った犯人は別にいるなんて事になったら、まだまだ百鬼さんは安心出来ないじゃないか。
ん? いや待てよ。そういえば、東雲万丈は別の誰かを追っていたんじゃなかったっけ――それって、もしかして、真犯人なんじゃないのか。
「ま、ここで実際に柘植乃神助と対峙するまでは、柘植乃神助が犯人って線もあったけれどね」
東雲波瀾は手にしていた生徒手帳を柘植乃神助の鞄に戻した。
「安心しろ、少年。取り逃がしはしたが、犯人の特定は出来ている」
「二回も取り逃がして偉そうに言うんじゃないわよ!」
「重い荷物を持っている時に――ちょっ、一回降ろそう、一回、一回、一回降ろそう――て時があるだろう? あれだ」
「だから! 一回じゃなくて二回逃がしてんのよ、あんたは!」
「と、とにかく、真犯人はすぐに捕まるって事なんだね?」
僕がそう言うと、東雲万丈と東雲波瀾が一瞬、沈黙した。
「捕まえる訳じゃないけれど――安心していいわよ」
東雲波瀾のその言葉の意味を考えた時、僕はいつの間にか自分の感覚が麻痺していた事に気付いた。
そうだった――東雲万丈と東雲波瀾が追っている人物は、すでに二つの因子比率のバランスを崩している――つまり、殺刑を執行されるって事だ。
この二人は――人を殺すんだ。
「少年、君に理解して貰おうとは思わない。いや、特監に関わる者以外には理解し難いのは重々承知している。だが、俺達は――特監は殺戮マシーンじゃない。俺とて、殺刑を執行する事がなければいいと思っているさ」
東雲万丈は、手に持っている黒い棒の様な物――おそらくは武器なんだろうけれど、それを見つめながら、静かにそう言った。
「もう行きなさいよ、あんた達……柘植乃神助は、まあ、こっちでなんとかしとくわよ」
東雲波瀾は、僕と百鬼さんに背を向けた。
「一番合戦君……どうしたら、いいのかな?」
事の成り行きを見守っていた百鬼さんが、不安げに僕を見上げる。
「うん……もう、僕や百鬼さんが関わる事じゃないよ。……帰ろう」
「そっか……うん」
百鬼さんは、落ちていた自分の鞄と僕の鞄を拾い上げた。
「そうだ。一つだけ……」
廃倉庫を出ようとしていた僕と百鬼さんを、東雲万丈が引き止める。
「柘植乃神助と、その妹の柘植乃天佑の家に出入りしている家庭教師を知っているか?」
僕が百鬼さんの顔を見つめると、百鬼さんは首を横に振った。
「僕も百鬼さんも知らないよ。その家庭教師がどうしたんだよ?」
「いや、知らないならいい。ただ、念の為、明日までは柘植乃神助の家には近づかない様にする事だ」
東雲波瀾から、散々な言われようだった僕でも、ここまで言われれば、流石に分かる。
東雲万丈はこう言っているんだ――真犯人は、柘植乃家に出入りしている家庭教師だと。
「さあ、わかったら――さっさと行きなさいよ」
東雲波瀾は、僕と百鬼さんに背を向けたままで言う。
「あのっ! 東雲万丈さん、東雲波瀾さん、本当にありがとうございます!」
百鬼さんは、東雲万丈と東雲波瀾の方を向いて、深く頭を下げた。
「後は任された」
相変わらず真顔のままでそう言った東雲万丈と、背を向けたまま、何も言わない東雲波瀾。
「ええと……あ、ありがとう」
特監の存在と殺刑については、正直、今の僕には、肯定も否定も出来ないけれど、昨日も今日も、東雲万丈と東雲波瀾には助けて貰ったのは事実な訳で――そこには、素直にお礼を言いたかった。
14
中学生誘拐殺害事件の犯人は、殺害された中学生が通っていた学習塾の経営者だった。
確か、学習塾と家庭教師派遣業もしていたと記事には書いていたけれど、昨日、百鬼さんを襲った犯人は――柘植乃家に出入りしている家庭教師は、もしかして、関連性があるんだろうか。
廃倉庫を後にした僕と百鬼さんは、昨日とは違ってまだ明るい道をゆっくりと歩いていた。
「な、なんだか大変な二日間だったね。僕が百鬼さんを巻き込んじゃったみたいで……」
「ううん。巻き込んだのは私だよ……私と天佑ちゃんの事がなかったら、きっと、こんな事にはならなかったんだもん」
「ははは、また東雲波瀾にどっちもどっちって言われそうだね」
「ほんとだね」
よかった――百鬼さんが、また笑ってくれた。
でもきっと、柘植乃天佑の事、柘植乃神助の事、そして――柘植乃家に出入りしている家庭教師の事が気になっているに違いない。
柘植乃さんとの関係がこんな状況でも、心配で仕方ないんだろうな。柘植乃さんが何と言おうと、百鬼さんにとって、柘植乃天佑は親友のままなのだから。
そんな百鬼さんを見ていると、僕はまた、いつもの僕らしくない事をしてしまう。
「百鬼さん、柘植乃さんの家って分かる?」
「え? 一番合戦君……どう……するの?」
「近付くなって言われたけれど……家庭教師が危険だって事を伝える位はしておいた方がいいと思うんだ。今の状況で、柘植乃さんが聞いてくれるかはわからないけれど」
「ありがとう……本当に、一番合戦君は何でもお見通しなんだね」
僕の少し前を歩いていた百鬼さんは、手を後ろ手に組んだままで振り返ると、伏し目がちにそう言った。
僕は、誰かの迷惑にならない様に、目立たない様に、ただただ『普通』であろうとしてきた。
小学三年生の――あの時から。そんな僕の思いを知ってか知らずか、満帆は僕をそっとしておこうとはしなかったのだけれど――そっとしておくどころか、寧ろ目立たせていた感が否めない訳だけれど、それでも僕は、ただただ『普通』であろうとしてきた。
そんな僕が、何故か百鬼さんの事が気になって、友達になりたいという思いを抱いて――それから昨日、行動に移した。
うん。
何かが変わった気はする。
もの凄く、獏前としているけれど、僕の中で、何かが変わった気がする。
いや、変わったというよりも――戻った、のかな。
「一番合戦君! こっちだよっ!」
百鬼さんが、前方の曲がり角で手招きしている。
「あ、うん」
僕は小走りで百鬼さんの所で向かった。
その角を曲がると、比較的新しい住居が並ぶ住宅街に入った。
「ええと……確か、白い壁の家だったんだけど……」
きょろきょろと周囲を見回しながら、白い壁の、柘植乃さんの家を探している百鬼さんだけれど――周囲の家の壁はだいたい白かった。
「百鬼さん、ええと、壁の色以外で何か目印はなかったのかな?」
百鬼さんは腕組みをしながら、首をかしげて壁の色以外の目印を思い出そうとしている。
「あ! そういえば門の所に……」
「何か目印になる物があった?」
百鬼さんは両手を握りしめ、自身に充ち溢れた目で僕を見る。
「門番がいたよ!」
「も、門番が……いたの?」
「いたよ……門番が」
倒置法で駄目押しされたら、もう信じるしかない。
いや、でもやっぱり――百鬼さん、なんで壁の色が門番のインパクトに勝ってしまったんだよ。
そういえば、百鬼さんも少し印象が変わった気がするなあ。話す様になって距離が縮まったせいかもしれないけれど、あれだけ百鬼さんを見ていたのに、昨日と今日の二日間だけで、全然知らない顔を見ている。
話してみないと分からない事っていうのはあるものだなあと、改めて思う。
そして、百鬼さんの新しい一面を見る度に、僕は益々、百鬼さんの事を好きになった。
いや、だから、恋愛感情の好きというのとは違う――まあ、いいや。
「一番合戦君! 一番合戦君! ここだよ、ここだよ」
百鬼さんが、とある一軒の家の前に立ち、器用な事に小声で叫んだ。
それを受け、また僕は早足で百鬼さんの待つ場所へと急ぐ。
「ほら、ここだよ」
百鬼さんが指さした表札には、確かに『柘植乃』と書かれていた。
でも、残念な事に、その家の壁の色は緑だった。
「は、反射で白っぽく見えてた……かも」
さすがに、百鬼さんもバツが悪そうだ。
「あ、あー、そうかもね。反射すると白く見えるかも――そ、そうだ! ええと、門番の人って……」
僕は少し話題を逸らそうと門の辺りを見たけれど、そこには門番らしき人もいなければ、当然、門番の人が駐在するような場所もない。
「今日はいないみたいだね……前に見た時は私に飛びついて来て舐め回されたのに」
変態だよね! それ門番っていうか変態の中の変態だよね! 百鬼さん、なんでそんなに普通に言えるんだよ。飛びつかれて舐め回されて平気って、最早、新しい一面とかそんなどころじゃないよ。
「あ! 一番合戦君、あんな所にいるよ門番」
百鬼さんが門の奥、玄関ドアの脇を指さした。
「門番って……」
そこには――一頭のドーベルマンが眠っていた。
「百鬼さん……もしかして、門番じゃなくて、番犬――」
「え……はああはわわわ……」
みるみる内に顔が紅潮していき、百鬼さんは、あたふたしている――やっぱ言い間違えてたんだね。
「恥ずかしい……」
両手で顔を覆う百鬼さん。
「そ、そんなに恥ずかしがらなくても大丈夫だよ。おもしろかったし……あ、じゃなくて、ええと、とにかく、柘植乃さんを呼んでみようか」
「……はい」
百鬼さんは、小さく返事をすると、気を取り直す為に大きく深呼吸をして、柘植乃家の門の前に立った。
「じゃあ――押すね」
ゆっくりと、インターホンに指を近づける百鬼さんの背中から、もの凄く緊張しているのが伝わってくる。
そして、百鬼さんの指がインターホンに触れる――
「ぶあおばおぶあうううう」
ええっ! なんて音のインターホンだと思ったら、そうじゃなかった。百鬼さんの指がインターホンを押す直前、さっきまで眠っていた門番――番犬のドーベルマンが突然、牙をむき出しにしながら門に駆け寄って来た。
それはもう、ゾンビ化しているとしか思えない勢いで。
「びっくりしたあ……」
あれ? 意外に百鬼さんは落ち着いた感じで、門からも離れようとしていない。
「おいで」
信じられない事に、百鬼さんは迫りくるドーベルマンに銃口を向けるでもなく、その場にしゃがむと、素手を門の隙間から差し出した。
「ばるるるる」
相変わらず、ゾンビじみた声を出しているドーベルマン。
「百鬼さん! 危ないよ!」
僕は百鬼さんの手を引かせようと、百鬼さんの肩を掴んだ。
「きゃっ!」
僕が急に肩を掴んだせいで、百鬼さんは、体勢を崩して尻もちをついてしまった。しかし、その手はまだ、門の内側に出ている。
「べばるばぶるうううう」
もう絶対にイヌ科とは思えない声を上げながら、ドーベルマンが百鬼さんの手に噛み付いた。
「しまった! 百鬼さん!」
どうする事もできず、ドーベルマンが百鬼さんの手に噛み付いたのを見ているだけの僕。
「あ……や、くすぐったいよ……」
――甘噛みだった。
いやいや、完全に噛みちぎる位の勢いだったじゃあないか。なんだよ甘噛みかよ。
まあ、そりゃあ、前は舐め回したって言うんだからいきなり強く噛みついたりはしないのかもしれないけれど――それにしたって、あの唸り声は怖すぎるよ。
「ご、ごめん百鬼さん。てっきり噛みつかれるかと思って」
「ほんとだよ。この子よりも一番合戦君にびっくりしちゃった」
百鬼さんは体勢を立て直して、お尻についた埃を手で払いながらそう言った。
「なついてるんだね? もしかして、何回か来た事あったのかな?」
「あ……もしかして一番合戦君、何回も来た事あるのに家の場所忘れてたのか――って思ってる?」
「お、お、お、お、お、お、思ってないって! そんな事、思ってないってば!」
「ほんとかなあ?……」
百鬼さんは疑いの眼差しで僕を見上げている。
「本当に今日が二回目ですから!」
そう言うと、百鬼さんはスカートの裾の乱れを直しながら立ち上がり、再びインターホンを押す姿勢をとった。
さっきまで怖すぎる唸り声を上げていたドーベルマンは、もっと甘噛んでいたいとでも言っているかの様に、くううん、と一鳴きする。
「じゃあ、今度こそ――」
そして、百鬼さんの指がインターホンに触れる――
「何か御用かしら?」
玄関のドアが開き、一人の女性が顔を覗かせた。
百鬼さんは、役目のなくなった指をゆっくりと下げる。
「あら? あなた、天佑のお友達の――」
「は、はい! 百鬼です」
百鬼さんは、その女性に対して深く頭を下げながら名乗ったので、僕もつられて頭を下げた。
「そうそう、百鬼さんね。ええと、ごめんなさいね、天佑なら今いないのよ」
その話しぶりや雰囲気から察するに、柘植乃兄妹の母親であろうその女性は、いわゆる、美魔女と呼ばれる様な、きれいな大人の女性だった。
柘植乃兄妹の整った顔立ちから考えれば、この親にしてこの子ありといった所だ。
「そ、そうですか……」
百鬼さんが残念そうに――でも少しほっとした様に俯いた。
やっぱり、あれだけ強硬な姿勢の柘植乃さんと対峙するのは、相当しんどいんだろうと思う。いくら、百鬼さんの親友でいたいという思いが強くても、それはそうだろう。
「今日は家庭教師の先生と図書館で勉強すると言っていたから、図書館にいるかもしれないわ」
「え……家庭教師の先生と?」
百鬼さんが僕を振り返ったのを受けて、僕は、小さく頷いた。
百鬼さんや僕の言葉を信じてくれるか――受け入れてくれるかはともかく、柘植乃さんに家庭教師を警戒する様に伝える事だけでもできればと、ここまで来たけれど、どうやら遅かったらしい。
すでに柘植乃さんは家庭教師と接触していた。
「あ、ありがとうございます! 行ってみます」
百鬼さんは、もう一度深く頭を下げて振り返ると、その目で、図書館へ行く事を僕に告げた。
「し、失礼します」
僕も柘植乃母に頭を下げ、柘植乃家を後にする。
すでに百鬼さんは駆け出していて、僕は急いで後を追った。
「はあ、はあ……な、百鬼さん……」
百鬼さんの新たな一面――走るのが速い。僕はかなり必死に走ってようやく追いついた。
これは、本当にジムにでも通った方がいいかもしれない。
「なに? 一番合戦君」
「はあ、はあ、と、図書館に行くのは……はあ、はあ、危険かもしれないよ」
「でも……それでも、天佑ちゃんが……」
「もし……もしも図書館に行って……はあ、はあ、もう特監の二人がいたりしたら、無茶しないで二人に……はあ、はあ、二人に任せるって……約束して欲しいんだ」
「……うん。わかったよ一番合戦君」
なんで息がきれてないんだ、百鬼さん……。
そこから、ノンストップで駆けに駆けた僕と百鬼さんは、おそらく柘植乃家から徒歩なら三十分はかかるであろう距離を十分ちょっとで走破した。
「はあああ……はあああ……はああああ……」
もう、言葉を発する事も出来ない。さすがに百鬼さんも肩を揺らしながら、両手で膝を押さえている。
「ふう……ふう……行くね」
明らかに百鬼さんよりも回復が遅い僕を気遣ってか、百鬼さんは、行こうじゃなくて行くねと言った。
情けない。こんな時に頼りにならないと思われた様で、少し寂しくはあったけれど、そんな事を気にしているよりも、百鬼さんを一人で行かせる訳にはいかない。
「ま、待って百鬼さん……僕も行くに決まってるじゃないか」
僕のその声は、百鬼さんには聞こえていなかった様で、百鬼さんは歩みを止める事なく、図書館の中へと入って行った。
当然、僕もすぐに図書館へと入る。
「百鬼さん」
僕はまた、百鬼さんの肩を掴んだ。今度は、驚かさない様に、そっと。
「どうしよう一番合戦君……すごく広いよ」
「手分けして探そう。もしも見つけたら――」
僕は、肩に掛けていた鞄から生徒手帳を取り出し、白紙のページを一枚ちぎると、生徒手帳に付属している極細鉛筆で僕の携帯電話の番号を書いた。
「ここに電話して。僕の番号だから」
百鬼さんは、僕が書いたメモを受け取ると、黙って頷いた。
この市立図書館は、玄関ホールを中心に左右に廊下が伸び、その先にそれぞれ広い空間があって、数えきれない程の蔵書が陳列されている。
僕と百鬼さんは、柘植乃さんが玄関ホールにいない事を確認すると、左右の廊下に分かれた。
廊下ですれ違う人にも視線を向け、柘植乃さんを探す。
もしも、ここで柘植乃さんを見つける事が出来たなら、おそらくは大事になる事なく、あくまで百鬼さんと柘植乃さんの間の問題だけを解決する事を考えればいいはずだ。
柘植乃さんの家庭教師が、昨日の、百鬼さんを襲った犯人だったとしても、こんな場所で何か事を起こすとは考え難い。
僕は廊下を抜け、ドームの様になっている広い空間に出た。
幾つもの長机が並んでいる。ドームは三階建の構造で、真ん中は吹き抜けになっていて壁沿いにぎっしりと、様々な本が並んでいた。
一階部分、そこにいる人達の顔を確認する。
柘植乃さんの姿はない。二階、三階と、一人も見逃す事なく確認する。
が、いない――ここには、柘植乃さんはいない。という事は百鬼さんが行った方かと思ったけれど、まだ電話はない。もしかして、電話をする事が出来ない状況になっているんじゃあないだろうか。
心配になった僕は、ドームから玄関ホールの方へと戻った。
「あ!」
玄関ホールに戻ると、そこには――
「一番合戦君!」
百鬼さんがいた。どうやら、百鬼さんも柘植乃さんを見つける事が出来ずに、僕と同じ考えで玄関ホールに足を向けたらしい。
「こっちにもいなかったよ」
僕の言葉に、百鬼さんは不安げな表情を浮かべた。
「入れ違いで家に帰ったのかもしれないよ」
「天佑ちゃん……どこに……」
百鬼さんは両手を握りしめて俯いてしまった。
どうしよう。当然だけれど、僕には柘植乃さんがいそうな場所に心当たりはない。
まだ柘植乃さんは家庭教師と一緒なんだろうか……もしも家庭教師と一緒にいるとしたら、もちろん危険ではあるのだろうけれど、逆転の発想をすれば、それは、あの二人が――特監の二人が見つけてくれる可能性があるという事でもある。
そんな風に考えるのは楽観的過ぎるのかな。それでも、少しは百鬼さんを安心させる事はできるかもしれない。
なんて思っていると、突然、百鬼さんが一冊の本を手に持って顔を上げた。
「一番合戦君! 星!」
「え? 星?」
百鬼さんが手に持っている本には『星空はみていた』というタイトルが書かれている。
「そう! 天佑ちゃん、今日は星を見に行くって言ってたの! だとしたら、きっと――」
そういえば、放課後の教室で百鬼さんがそんな話をしていた事を、僕も思い出した。
確か、前に百鬼さんと柘植乃さんとで星を見に行った事があって、また行こうって言っていた――そんな話だった。
「星を見に行くのなら――きっと、あそこしかない!」
柘植乃さんの家を探していた時とは違い、百鬼さんの眼には確固たる自信と強い意思が宿っている様に感じた僕は、もうそれに賭けるしかないと思った。
「行こう、百鬼さん」
「うん」
百鬼さんは力強く頷くと、僕を先導する様に図書館を出て、いよいよ暗くなり始めた道を、再び駆け出した。
いつか柘植乃さんと星を見た場所を目指して。
「いてくれよ……柘植乃さん」
そう祈りながら、僕は百鬼さんの後を全力で追いかけた。
15
将軍公園――隣県との県境にまたがる標高約850メートルの御衛山山頂にある展望公園。
きっと、黄金週間の間は、家族連れやカップルで賑わっていたんだろうけれど、さすがに平日の夕飯時ともなると、ほとんど人を見かけない。たまにすれ違う人からは、平日のこんな時間から山に登るのか? と怪訝そうな顔を向けられはするものの、別段、引き止められたり、注意を受けたりはしなかった。
山頂には天文台があり、天文部のある学校の生徒が星を観る為に訪れる事があるから、きっと、そういう風に思われているんだろう。
麓からはケーブルカーとバスを乗り継いで山頂へ登るのだけれど、今、僕と百鬼さんはケーブルカーの駅からバス停までの間を歩いている。
百鬼さんが柘植乃さんと一緒に星を見に行こうと言っていたのが、この御衛山山頂の将軍公園だった。
もしも、柘植乃さんが家庭教師と一緒にこの山の山頂にいるのなら、この人出の少なさはよろしくない。
東雲万丈と東雲波瀾が殺刑を執行しようとしている人物、それが柘植乃さんの家庭教師であり、本当に人としての一線を越えているのなら、柘植乃さんの身にはかなりの危険が迫っている事になる。
家庭教師を警戒する様、柘植乃さんに伝えるだけだったのが、まさか、その家庭教師もいるかもしれない場所へ行く事になるだなんて――こんな事なら、東雲万丈か東雲波瀾の携帯電話番号を聞いておけばよかったな、なんて随分と勝手な事を考える。
これ以上は関わり合いにならないと決めておいて、何を考えているんだ僕は。
連絡するなら警察でいいじゃないか。
うん。
もしも本当に柘植乃さんの家庭教師が危険な人物だったのなら、すぐに警察に通報しよう。
「よかった、もうすぐ次のバスが来るよ」
バス停の時刻表を確認した百鬼さんが、僕を振り返る。
柘植乃さんの事を心配している百鬼さんの口数は、この道中いつにも増して少なかった。
「もう一度、電話してみる?」
ケーブルカーに乗っている間、百鬼さんは何度も柘植乃さんに電話を架けていたんだけれど、柘植乃さんは一度も出る事はなかった。
「うん……バスを降りたら架けてみるね」
僕と百鬼さんは、やって来たシャトルバスに乗り込み、柘植乃さんと家庭教師がいるであろう山頂を目指す。
バスに揺られながら、僕はふと、気になっていた事を思い出した。あの廃倉庫で東雲波瀾の話を聞いた時、漠然とではあったんだけれど、気になっていた事――隣町の中学生誘拐殺害事件の犯人、柘植乃さんの家庭教師、そして柘植乃神助、こんなにも狭い範囲でこうも立て続けに特監が関わる事件が起こるなんて――これは単なる偶然なんだろうか。
「一番合戦君……どうしよう……少し、怖くなってきちゃったよ」
百鬼さんは、膝の上に置いた手を、強く握り合わせている。
「とにかく、バスを降りたら柘植乃さんに電話をして、反応がなければ将軍公園を隅無く探そう。きっと、大丈夫だよ……」
僕はつい、何の根拠もない事を言ってしまった。こんな言葉は、今の百鬼さんには何の気休めにもならないに決まっている。
それでも、百鬼さんは――うん、とだけ言って、自分に何かを言い聞かせる様に二度頷いた。
約十分ほどの距離を走ると、シャトルバスは山頂の将軍公園に到着した。僕と百鬼さんは足早に下車し、百鬼さんはすぐに携帯電話で柘植乃さんへ電話を架ける。
「天佑ちゃん……出て……」
祈る様に呟く百鬼さん。
すぐ横にいる僕にも、柘植乃さんの電話を呼び出している音が聞こえていた。
二回、三回、四回……十五回目のコール――
「いい加減にしてよ! なんなのよ!」
百鬼さんの電話の向こうから、柘植乃さんの声が聞こえた。
「天佑ちゃん……よかった……」
柘植乃さんの声を聞き、安心したせいか、百鬼さんの目に薄っすらと涙が浮かんでいる。
「はい? なんなの? 嫌がらせでもしようっていうの? 私はこれから好きな人と星を見るの! もう架けてこないで!」
「天佑ちゃん!」
ツーツーと無情な音が鳴る。柘植乃さんは、一方的に電話を切ってしまった。
「百鬼さん、柘植乃さんを探そう。柘植乃さんは星を見るって言っていたから、きっと、ここにいるんだよ」
「うん……そうだね、一番合戦君」
柘植乃さんは、好きな人と星を見ると言っていた。もしも柘植乃さんの言う好きな人が、家庭教師の事なら、いくら僕や百鬼さんが警戒しろと言った所で聞く耳を持たないだろうけれど、それでもここまで来た以上、柘植乃さんを見つけるまでは百鬼さんは安心できないだろう。
僕と百鬼さんは、図書館と違い、手分けせずに一緒に柘植乃さんを探す事にした。
さすがに、暗くなってきて、人もほとんどいない場所を百鬼さんに一人で歩いて欲しくない。
だけど、探すといっても将軍公園は割と広い。今から全てを探すとすれば随分と時間がかかるので、僕は百鬼さんの案を採用して、公園の北側から探す事にした。
将軍公園の南側は、僕たちの住む町と湖を見渡す事が出来て、この時間だと夜景が綺麗なスポットだ。ただ、こちら側は少し明るいので星を見るのなら、少し暗い公園の北側に行く事が多いらしい。当然、天文台も北側にある。
ま、デートで来ているのなら夜景も見ている可能性がないではないけれど、僕と百鬼さんは将軍公園の北側を探し始めた。
公園の北側は、街灯もなく、足元を照らす照明が数か所ある程度で、空を見上げてみると、確かに星がよく見える。
この暗さの中で、柘植乃さんを探すとなると大変なんじゃないかと思っていたら、ベンチに腰掛けている人影があった。
「天佑ちゃん?……うん、きっとそう!」
この暗さで、後ろ姿の輪郭ぐらいしか分からないのに、百鬼さんはその人影を柘植乃さんだと確信したようだ。
周囲に目を凝らしてみるけれど、他には誰もいないみたいだ。
家庭教師とはここで待ち合わせしていて、まだ来ていないんだろうか? とにかく、今は一人でいてくれた方が都合がいい。柘植乃さんの方へ歩み出した百鬼さんに続いて、僕も一歩踏み出す。
「あ、待って……一番合戦君は、少しここにいて……」
振り返った百鬼さんが僕を両手で制した。
「私が――話してくる」
ああ、そりゃそうか。僕までいたら、なんだか話がややこしくなってしまいそうだ。ここは百鬼さんの言うとおりに引き下がって、二人の様子を見守る事にした。
結局、学校でもここでも僕には何もできないんだな――そんな事を考えもする。
でも、どこか、ほっとしている自分がいるのも分かってる。
誰かの為を思っている様でありながら、実は自分がリスクを負わない方法を選ぶ――そんな自分の一面が嫌になる。柘植乃神助が百鬼さんに協力すると言った時も、僕はほっとしていたんだ。
目立たずにいようと――そうしようと染みついた処世術とでも言おうか。
でも、その結果、柘植乃神助の件では、百鬼さんを危険な目に合わせてしまったのだから、今回は二の轍を踏む訳にはいかない。
僕は、百鬼さんと柘植乃さんの方を見つつも、周囲に注意を払った。
「なんでいるの? なんなのよ!」
公園が静まり返っていたせいで、柘植乃さんの声がより大きく聞こえた。
「天佑ちゃんに伝えたい事があって……」
「ふざけないで! どうやって知ったのか知らないけれど、こんな所まで来るなんて、どういうつもりよ!」
「天佑ちゃんが星を見に行くって言っていたのを思い出したの! 前に……前に、一緒に行こうねって言っていたから……ここじゃないかなって思ったの」
「最低! 言うんじゃなかったわ……ほんと、邪魔ばっかりしてくれるわよね」
「邪魔なんて……しないよ。私、天佑ちゃんの邪魔なんてしない……」
「してるわよ! いるだけで邪魔なのよ! 気付いてよ!」
「そんな……どうして? 私……天佑ちゃんに何かしたのなら謝るから、いけない所があるなら直すから……」
「それはもう聞いたわよ。迷惑だって言ったでしょ? 聞いてなかった?」
「お願い……だから、ちゃんと話してよ……天佑ちゃん」
「帰って! さっきも言ったでしょ? 私は好きな人と星を見に来たの。万里の顔を見て苛々したくないのよ」
「天佑ちゃん……」
「……消えてよ」
「私は……天佑ちゃんとここに来たかった! また一緒に二人で星を見たかった! どうしてこんな事になっちゃうの? 私……分からないよ……ねえ、天佑ちゃん!」
人が人を弾く音――柘植乃さんの右手が百鬼さんの左頬を叩いた。
これは、駄目なんじゃないか? 止める方がいいのかな。
「分からないわよね……そうよね、万里には分らないわよ! 勉強が出来て、それでいてどこか抜けてて、そこがかわいくて、優しくて、信用されてて、手先が器用で……」
柘植乃さんは一体何を言っているんだ? 悪口になってない気がするけれど。
「私はいつもいつも、万里と自分を比べてた! 私はいくら勉強しても成績は良いとはいえないし、学級委員だって買って出たけれど、何かあった時に先生が信用しているのは成績も優秀な万里なのよ! 男子だって、結局は万里みたいな子がいいの! なんでよ……なんで私じゃ駄目なのよ! 私だって頑張ってるじゃない!」
「天佑ちゃん……」
「何もしなくても、周りが認めてくれる――万里みたいないい子ちゃんは本当に嫌い……万里といると苦しくて仕方ないのよ!」
「私は……私は天佑ちゃんが思っているみたいな……そんなんじゃないよ」
「まだいい子ぶる? たいしたものね!」
柘植乃さんが、また右手を振り上げた。
駄目だ――そう思ったら、僕はもう飛び出していた。
「やめろ、柘植乃さん!」
僕は、振り上げられた柘植乃さんの右手を掴んで、百鬼さんを背中に庇った。
「一番合戦君……」
「一番合戦? 何であんたがいるのよ! え? なになに? あんたと万里ってそうなの? 笑えるじゃない」
「そんなんじゃないよ。だけど、百鬼さんは本当に柘植乃さんの事を心配して、必死に探してたんだ。君とちゃんと話しをしたくて、危険を知らせたくて」
「私にはもう万里と話す事なんてないのよ! 危険って何よ? こんな所まで来るあんた達が危険よ。頭おかしいんじゃないの?」
「とにかく、もう一度、ちゃんと百鬼さんの話を聞いてあげてよ」
「しつこいし! いい加減に手を離してくれる? 痛いんですけど」
柘植乃さんに言われて、僕は若干強く掴み過ぎていたその手を離した。
「天佑ちゃん……」
すると、僕が離した柘植乃さんの手を、今度は百鬼さんが掴んだ。
「離してよ!」
「天佑ちゃん!……天佑ちゃんは、いつも明るくて、私なんかにも話かけてくれて、みんなを元気にする事ができて、クラスの為に一生懸命で、私が知らない曲を教えてくれて、とってもおいしいスイーツのお店に連れて行ってくれて、いつも一緒にいてくれて……」
「ちょっと……何……言ってんのよ……」
「さっき……天佑ちゃんは私の事を言ってくれたでしょ? だから、私も天佑ちゃんのいい所を、好きな所を言ったの」
「違――さっきのは……」
「私は天佑ちゃんともっと一緒にいたいの! 二年生の頃みたいに、もっと天佑ちゃんと笑っていたい! 私は――天佑ちゃんが大好きだから」
「また……そうやって……いい子ちゃんでいるんだから……万里は――」
百鬼さんの手を振りほどき、僕と百鬼さんに背を向けた柘植乃さんの肩は、暗くてよく見えないけれど、小刻みに震えている様に感じた。
百鬼さんも、両手で顔を覆って、泣いている。
僕は――僕は、また胸の辺りが気持ち悪くなってきた。
「うっ……」
まずい、吐きそうだ――僕はトイレがないかと見回したけれど、トイレは公園の南側か天文台の中にしかないようだ。となれば、側溝だ。
側溝に即行だ。
「一番合戦君?」
急に走り出した僕に気付いた百鬼さんが僕の名を呼んだっぽいけれど、僕は振り返る事なく公園の隅にある側溝を目指した。
「き……気持ち悪……けど……これって……」
側溝に這いつくばり、嘔吐しながらも、僕はある結論に辿り着いた。
さっき、 僕は柘植乃さんの手を掴んでいた。そして、その後、柘植乃さんは先程までの強硬な姿勢が崩れた様に思う。つまりこれは――あの百鬼さんへの仕打ちが、善玉因子と悪玉因子の因子比率の動揺によるものだったって事なんじゃないのか。
だとしたら、今僕が因子比率を修復した事で、百鬼さんと柘植乃さんは以前の様に戻れるかもしれない。
いや、きっと戻れる。
「よ……よかった……」
僕はハンカチで口元を拭き、鞄に持っていたペットボトルの水で口をゆすいだ。
「一番合戦君……大丈夫?」
百鬼さんが四つん這いになっている僕の背中をさすりに来てくれた。
「だ、大丈夫だよ……もう、落ち付いたから。それより、柘植乃さんは?」
「ちょっと一人にしてって……」
「そ、そうなんだ……家庭教師の事はまだ?」
「うん、まだ話せてない……」
「大丈夫――もう大丈夫だよ。きっとわかってくれる」
家庭教師の事を伝える為、僕は百鬼さんと一緒に、柘植乃さんがいたベンチの所に戻る。
「天佑ちゃん……」
俯いてベンチに腰掛けている柘植乃さんに百鬼さんが呼びかけると、柘植乃さんは顔を上げてこちらを見た。
その柘植乃さんの更に向こう側――僕たちの方に歩いてくる人影があった。
その気配に気付いた柘植乃さんが、今度はそちらを振り返る――
「あ、先生……おそかったね」
――柘植乃さんは、振り返り、先生と言った。この場合の先生は勿論、家庭教師の先生な訳で、と言う事はつまり、そこにいるのは、特監の東雲万丈と東雲波瀾が追跡している人物と言う事。
「天佑ちゃん――その二人は友達?」
家庭教師の男が、僕と百鬼さんの事を柘植乃さんに尋ねた。
僕と百鬼さんに緊張が走る。
背中と額に、嫌な汗が滲んできたのが分かった。
「ううん、いいの。もうここはいいから違う所へ行こうよ」
柘植乃さんはベンチから立ち上がり、家庭教師の男と腕を組んだ。
「……じゃあ、そうしようか」
家庭教師の男は低い声でそう言うと、柘植乃さんと腕を組んだまま、僕と百鬼さんに背を向けた。
「待って! 天佑ちゃん!」
百鬼さんが、たまに出す力強い声で柘植乃さんを呼び止めると、柘植乃さんは振り返らないまま、その歩みだけを止めた。
「天佑ちゃん、お願いだから……もう一度こっちへ来て」
「……」
柘植乃さんは返事をしない。
「天佑ちゃん!」
「もうほっといてよ! もう――もう駄目だよ」
柘植乃さんは振り返る事のないままでそう言うと、再び歩きだそうとした。
あれ? 僕が柘植乃さんの因子比率を修復して、それで――それで柘植乃さんは百鬼さんと仲の良かった頃の様に戻るんじゃあないのか? どういう事だよ、これは。
「天佑ちゃん……駄目……」
百鬼さんが柘植乃さんに駆け寄り、その腕を掴む。
「ちょっと! 万里!」
「駄目なの! この人から離れて!」
百鬼さんが力一杯、柘植乃さんの腕を引っ張ると、家庭教師の男と組んでいた方の腕は解け、百鬼さんと柘植乃さんは、地面に倒れてしまった。
「何するのよ! 危ないじゃない!」
「違うの……その人の方が……」
百鬼さんがそこまで言いかけると、家庭教師の男が、ゆっくりと振り返り――
「お前ら……何を知っている? 何か知っているな?」
と、またも低い声で言った。
「百鬼さん! 逃げるんだ、立って!」
僕は百鬼さんの所へ踏み出しながら叫んだ。
「天佑ちゃん! 立って!」
百鬼さんは事情が飲み込めていない柘植乃さんの腕を引っ張りながら立ち上がる。
「離してよ万里! なんなのよ!」
「とにかく逃げなきゃいけないの!」
百鬼さんが柘植乃さんの腕を掴んだままで走り出そうとした。
「おいおい……邪魔するなよ」
家庭教師の男が、百鬼さんと柘植乃さんの腕を掴んだ。まずい、どうする? 僕は――
「おおおおおっ!」
またも自分を奮い立たせる為と雰囲気で雄叫びを上げながら家庭教師の男に突進した。
「うぐおっ!」
家庭教師の男は、東雲万丈程の鍛え抜かれた胸板ではなかったらしい。僕のタックルで後ろへ弾かれた家庭教師の男は百鬼さんと柘植乃さんを掴んでいた手を離し、地面に尻もちをついた。
「今だ! 走って!」
僕は、茫然としている百鬼さんと柘植乃さんに叫ぶ。
「せ、先生!」
おいいいっ! 柘植乃さんは百鬼さんの手を振り払い、あろう事か尻もちをついている家庭教師の男の傍へ駆け寄った。
柘植乃さんには何の事情も説明していないから仕方ないとは言え、これでまた振り出しに戻ったじゃないか。僕の渾身のタックルが無駄になってしまった。
「天佑ちゃん、よく戻ったね」
尻もちをついているので、足元を照らす照明で家庭教師の男の口元が照らし出された。
その口元に湛えた笑みが――歪んだ。
「痛い!――先生? 苦しい……」
家庭教師の男は、柘植乃さんの首を掴んだ。柘植乃さんは両手で家庭教師の男の手を外そうとするが、その手はロックが掛かった様に外れない。
「そ、その手を離せ! 僕は今から警察に電話をするぞ……」
僕はスマホを掲げながら、家庭教師の男を牽制した。
「麓からここまで来るのにどれだけ時間が掛かると思っているんだ?」
しまった。鼻で笑いながら家庭教師の男にそう言われて、僕はようやくその事に気付いた。
ここは山の山頂、警察に連絡したからと言ってすぐに助けが来る訳じゃあない。
「所詮はガキだな……だが……ガキが苦しんで、その親も苦しむのは最高だ」
家庭教師の男が、柘植乃さんの首を掴んでいる手に力を加えたらしく、柘植乃さんが両手で宙をかく。
「天佑ちゃん!」
百鬼さんが柘植乃さんを助けに走り、家庭教師の男めがけて鞄を振りかぶった。
「きゃあっ!」
しかし、百鬼さんは鞄を家庭教師の男に掴まれ、そのまま引き寄せられてしまった。そして、柘植乃さんと同じく首を掴まれた。
家庭教師の男は、左右の腕でそれぞれ百鬼さんと柘植乃さんの首を掴んだまま、ゆっくりと立ち上がった。
おいおい、なんて腕力なんだよ。胸板は厚くなかったのに。
もう、こうなったら作戦も何もない。何がなんでも二人を助けないと。
「うおおおおお!」
僕は再び雄叫びを上げながら、両手が塞がっている家庭教師の男に突進した。
両手が塞がっている以上、僕のタックルは家庭教師の腹部に命中するはずだ。そうして怯んだ所で、百鬼さんと柘植乃さんを家庭教師の男から解放し、とりあえず逃げる――イメージできたぞ。
「え?――」
僕は、満天の星空を見ていた。
これって――あのパターンじゃあないか? さっきは上手くいったのに――
駄目だ、このまま地面に頭をぶつけて意識を失ったりなんかしたら……そんな事を考えていると、僕は地面にぶつかるより先に、壁か何かにぶつかった。
え? 壁なんてあったっけ?
後頭部と背中に硬いマットにぶつかった様な衝撃が走った。
「大丈夫か? 少年」
聞き覚えのあるこの声と話し方――
今、僕がもたれ掛っているのは、壁でも硬いマットでもなかった。
僕の背中を受け止めたのは――東雲万丈だった。
「ぐあああ!」
そして、低い声で叫んだ家庭教師の男を見ると、そこには、小太刀の柄の底で家庭教師の男の側頭部を叩きつけている東雲波瀾がいた。
家庭教師の男は、百鬼さんと柘植乃さんの首から手を離し、打たれた側頭部を押さえながら地面を転がっている。
「がはっ……けほ……」
百鬼さんはその場にへたり込みながら、首を押さえて咳込んだけれど、柘植乃さんは、家庭教師の男の手から解放されると、そのまま地面に倒れそうになり、東雲波瀾に支えられていた。
柘植乃さんは意識を失ったらしい。
東雲波瀾は、柘植乃さんを地面に寝かせると呼吸を確認している。
「百鬼さん、この子はショックで意識を失っているだけみたいだから見ててあげて」
「は……はい」
東雲波瀾は百鬼さんに柘植乃さんを託すと、地面を転がっている家庭教師の男の方へ近づいた。
「もう逃がさないわよ! 覚悟なさい!」
東雲波瀾が、手に持っていた黒い棒を左右に引くと、それは二振りの小太刀になる。
東雲波瀾は――今、ここで殺刑を執行するつもりなんだ。
16
いったい、何が起こったんだろう。
相も変わらず、東雲波瀾は自信満々でそこに立ち、家庭教師の男は特監の殺刑を執行されるはずだった。
それが、どういう訳か、地面に横たわっているのは――東雲波瀾だった。
僕の後ろに立っていた東雲万丈が、横たわる東雲波瀾の傍へ近付いて行く。
「波瀾、相手は保持者じゃなく崩壊者なんだ。油断するな」
「っさいわね! したわよ! ええ、しましたよ! 何をかって? 油断よ!」
東雲波瀾が立ち上がった。どうやら怪我はしていないみたいだ。
「なんなら交代してもいいんだが」
「もーう! うるさい! うるさい! おとなしく見てなさいよ!」
東雲万丈は、軽く溜息をつくと、僕と百鬼さん、そして意識を失っている柘植乃さんの方へ戻って来た。
「だ、大丈夫なのか? 東雲波瀾……」
「大丈夫だ。問題ない」
そう言って、東雲万丈は東雲波瀾の背中に視線を移したので、僕もそちらを見る。
そのタイミングで、家庭教師の男がベンチの上にある雨除けの屋根から飛び降りて来た。
家庭教師の男――東雲万丈の話によると、名前は、挟間役夫。年齢は二十四歳で、元々は学習塾の講師をしていたらしい。そう、あの中学生誘拐殺害事件の犯人が営んでいた学習塾の講師だ。
教えていた生徒うち、ある一人の成績が思うように上がらないのを、その親は挟間役夫の責任だと学習塾に訴えた。親が県会議員だった事もあり、塾側もその訴えを受けて挟間役夫を塾の講師から外し、挟間役夫は塾講師の正社員から家庭教師のアルバイトへと立場を変えられた。
この出来事が、挟間役夫が二つの因子比率のバランスを崩す引き金になったようだ。
で、その挟間役夫なのだけれど、どうにも信じがたい事をやってのけた。
自信満々だった東雲波瀾が小太刀を抜いて挟間役夫に斬り掛かると、地面を転がっていたはずの挟間役夫は、信じられない跳躍力で東雲波瀾の小太刀をかわした。
そして、そのまま空中で横回転し、東雲波瀾に廻し蹴りを放ってベンチの上の雨除けの屋根に跳び乗ったんだ。
廻し蹴りを受けた東雲波瀾は、腕で防御したものの、飛ばされて地面に横たわった。
あの挟間役夫の動きは、とても人間業とは思えない。
「こんな事もできるのか。走るのが速くなったと思っていたが……なんだよ、この力……漫画かよ」
挟間役夫も自分の身体能力に驚いているみたいだ。
「せっかくだけれど、もうあんたがその身体能力を発揮する事はないわよ!」
東雲波瀾が小太刀の切先を挟間役夫に向け、ポーズを決めた。
「それって本物か? なんなのお前ら? 警察……じゃないな」
「知らないなら教えてあげるわ! 私は特監――東雲波瀾よ!」
と、言いながら、東雲波瀾は二振りの小太刀を頭上で交差させた。
「特監……え? もしかしてクズ塾長を殺してくれたってやつか? ははは、マジかよ」
挟間役夫が肩を震わせて笑い出した。
「ははははっ……あー、そうかそうか、それで次は俺って事か」
「あの男も私が殺刑を執行したわ! クズ塾長呼ばわりしているけれど、あんたも十分クズよ! 挟間役夫!」
東雲波瀾が地面を蹴った。
だけど、そこからの東雲波瀾の動きを、僕は完全に把握する事は出来なかった。挟間役夫が人間離れした動きをしたと言っていたけれど、東雲波瀾もしっかり人間離れしている。
どうやら特監って、まだまだ分からない事だらけみたいだ。
足元を照らす照明が、時折、東雲波瀾と挟間役夫の動いた痕跡を照らし出す――と言っても二人が動いた事で舞う砂埃が照らされる程度で、やっぱり僕にはその動きは分からない。
「むむむ」
どうやら東雲波瀾と挟間役夫の動きが見えているらしい東雲万丈が、そんな事を言う。
「なにが、むむむだよ」
「波瀾が押され始めた」
「ええっ! 駄目じゃないか」
「そうだな、駄目だな」
「助けに入らなくていいの?」
「そんな事をしたら、すごく怒るからな。前にこんなことがあった――俺がコーヒーを飲んで一息ついていると、突然、波瀾に後頭部を鈍器のような物で殴られたんだ――」
「もうそれ殺意あるよね。サスペンスの始まりだよね」
「訳が分からない俺に、波瀾は言った――俺が録画予約した時代劇『五、六匹が斬る』のせいで、毎週楽しみにしていた『美少女魔法戦士セーラーまどか』が半分しか録画できていなかったじゃないのよ、と。どうやら時間帯がかぶっていたらしいが、波瀾の予約より俺の予約が優先されていたらしい」
「なんだよ、そのエピソード! 今の状況に何の関係もないじゃあないか!」
「俺は波瀾を怒らせたくはないという事だ」
「心配しなくても、君はずっと怒られっぱなしだよ」
なんなんだよ東雲万丈って。何を話す時もずっと真顔だし、急に例えたり変なエピソードぶっこんできたり。
――って、そんな事よりも東雲波瀾は大丈夫なのか?
僕がなんとか目を凝らして東雲波瀾の動きを捉えようとした時――
「うわあっ!」
僕の目の前に、東雲波瀾の――お尻があった。
「むごっ!」
僕は東雲波瀾のお尻を顔面で受け止めたまま後ろに倒れた。
「一番合戦君!」
百鬼さんの声が、また少し遠くから聞こえる様な――っていうか苦しいぞ。
「ちょっと……どこに顔敷いてんのよ……変態」
僕の顔に座っている状態で東雲波瀾がなんかひどい事を言っている。
「波瀾さん、一番合戦君が死んじゃう!」
百鬼さんが東雲波瀾の手を引っ張って、彼女を僕の顔の上からどかしてくれた。
「ぷはっ……し、死ぬかと思った」
僕は上体を起こして、文句の一つも言ってやろうと東雲波瀾を見ると、東雲波瀾は体の至る所に切り傷を負っていて、肩で息をしている状態だった。
なるほど、すぐに僕の顔から移動できなかった訳だ。
「波瀾は腹部に蹴りを受けてここまで飛ばされたんだ。しばらくは満足に動けないだろうから、俺の出番と言う事だ。少年、君達は山を降りはじめるといい――殺刑の瞬間を見たい訳ではないだろう?」
東雲万丈が、黒い棒を手に挟間役夫の前に進み出た。
「今度は男か……ようやくこの身体能力にも慣れてきた所だし、いいよ。相手してやるよ。俺は神から特別な能力を授かった!誰も俺の邪魔はできない!」
挟間役夫はそう言うと、手に持っているナイフを舐めた。
いつの間にナイフなんて持ってたんだよ。ちょっと見えなかった間に随分とヤバい奴になっちゃってるじゃあないか。
これは確かに、この場を離れた方がよさそうだけれど、柘植乃さんがまだ意識を失ったままだ。
昨日の百鬼さんの様に、僕が柘植乃さんをおぶってバス停までいくしかないか。
「百鬼さん、柘植乃さんを僕の背中にのせてもらえるかな? 僕が柘植乃さんをおぶるから、この場を離れよう。ここは僕達がいていい場所じゃないよ」
「でも……波瀾さんと万丈さんが……」
「彼等は特監としての職務を全うしているんだよ! 僕達とは違うんだ」
百鬼さんが、若干親しみを持って波瀾さん、万丈さんと呼んだ事が、僕を妙に焦らせた。
踏み込んではいけない所へ、どんどん踏み込んで行ってしまっている気がしたからだと思う。
「さあ、早く百鬼さん」
僕は、横たわる柘植乃さんの傍にしゃがみ込んだ。
「うわあああああっ!」
その時、挟間役夫の叫び声が、暗い公園に響いた。
思わず、声のした方を見た――見てしまった。
「な、百鬼さんは見ちゃ駄目だ!」
と、言ったものの時すでに遅し、百鬼さんも僕と同じ物を見てしまっていた。
東雲万丈が手にしていた黒い棒――いや、いつの間にか黒い刀に変わっていたそれは、前に突き出した挟間役夫の掌を貫いて、その眼前に切先を留めていた。
「あ……ああ……」
百鬼さんが、横たわる柘植乃さんの脇にへたり込んでしまった。
これじゃあ、もう動けない。ここで、全てが終わるのを見ているしかない。
人が――殺されるのを。
「くっそ……痛い! 痛いいっ!」
挟間役夫が刀から掌を引き抜き、痛みを紛らわそうとしているのか、その手を上下に振り続ける。
「次は心臓を貫く……殺刑を執行する」
東雲万丈は黒い刀身の刀を低く構え、腰も下げた。
次の一撃で、挟間役夫を殺すつもりなんだ――そう思った瞬間、どういう訳だか、僕の体は勝手に動いてしまっていた。
「ま、待ってよ! 東雲万丈!」
僕は東雲万丈の前に立って、その行く手を遮った。
「少年、危険だ。下がれ」
構えを解かないまま、東雲万丈は言った。
「ぼ、僕にニュートラルの能力があるのなら、あの挟間役夫だって、もしかしたらバランスを修復できるかもしれないんじゃないのか?」
「それは無い。崩壊者のバランスを修復する事は不可能だ。一度バランスを崩した者は二度と戻らない――だから、俺達がいるんだ」
「だ、だけど! ニュートラルの能力は仮説なんだよね? だったら、バランス崩壊した人にも効果がある可能性だってゼロじゃないかもしれないだろ?」
東雲万丈は、やれやれと言う風に、溜息をつくと、構えを解いた。
「少年、思うようにやってみろ」
東雲万丈の言葉を受けて、僕は挟間役夫を振り返った。
「な、なんだガキ……」
「挟間役夫さん……僕はあなたの事は許せない。あなたは昨日、僕の友達を襲った。そして今日は――あなたに想いを寄せる柘植乃さんを……そのナイフはそういう事だよね」
「俺に説教するつもりか? はん、お前みたいなガキに何がわかる……どいつもこいつも俺の人生の邪魔ばっかりしやがって! 馬鹿にしやがって!」
「このまま続ければ、あなたは特監の殺刑を執行されてしまう! もうやめるんだ! ナイフを捨てて……僕の手を握って下さい」
「は? 気持ち悪い奴だ……なんの真似だ?」
僕は、挟間役夫に向けて手を差し出した。
「は……ははは……はははははは」
挟間役夫が、笑いながら、ゆっくりと僕に近づいてくる。手にはナイフを持ったままだけれど。
東雲万丈は、動かず、僕と挟間役夫の動向を見守っている。
「ははは…はーあ……握手すれば見逃してくれるとでも言うのか?」
あと一歩、挟間役夫が踏み込めば、僕をナイフで刺せる位置まで来た。
鼓動が速くなるのを感じる。
「手を……出して下さい……」
挟間役夫は、片手にナイフを持ったまま、もう一方の手を――さっき東雲万丈に貫かれ、血まみれの手を僕に差し出した。ここまで来た以上は――僕自身も、どうしてここまで大胆な行動に出たのか甚だ疑問ではあるのだけれど――ここまで来た以上は、血まみれの傷ついた手に怯む訳にはいかない。
僕は、挟間役夫の血まみれの手を、握った。
頼む――僕は、人が殺される所なんて見たくない。
「……おい……いつまで握ってんだよ? 離せよ」
ない――あの、胸の辺りが気持ち悪くなる感じがない。それって、つまり、二つの因子比率の修復ができてないって事か……。
「離せよ……離さないというのなら……もう死ねよ!」
挟間役夫が、握ったままの手を突然引いたせいで、僕は体勢を崩され、前のめりになる。
次の瞬間、もう一方の手に持ったナイフが、僕の眼前に迫った。
「やめろ!」
僕は必死に上体を捻り、わざと足を滑らせて間一髪、挟間役夫のナイフをかわした。
勢い余って、僕と挟間役夫の位置が反転し、僕は挟間役夫の手を離した。
「お前みたいな普通のガキが、しゃしゃり出て俺の邪魔をするんじゃあない!」
「もうやめるんだ! まだ誰かを殺した訳じゃあないのに、バランスを崩したってだけで死ななきゃならないなんて、それでいいのか!」
「訳のわからない事を言うな! 俺はもう引き返せないんだよ! はっ! まだ誰かを殺した訳じゃあないだと? ははははは! 何を言っているんだ、お前は……俺はもう、殺しているんだよ」
その挟間役夫の言葉は、動きを完全に止めてしまう程の衝撃を、僕に与えた。
昨日、百鬼さんを襲ったものの、東雲万丈の介入で逃げた事、そして、今日は柘植乃さんを襲う前に止められた事で、僕は、挟間役夫はバランスを崩してはいるけれど、まだ人を殺してはいないと思いこんでいた。
だから、このまま殺刑になるなんて、何もしていないのに、バランス崩壊者だから殺刑になるなんて、そんなのは駄目だと思って――だけど、違ったんだ。
「あのクズ塾長にできて俺に出来ねぇ事なんかねぇんだよ!お前で三人目だ!」
挟間役夫は、笑みを浮かべながら、手に持ったナイフを振り上げた。
動けない――動けないのに、僕の心臓だけは、より激しく動いていた。
「鬼……」
思わず、そんな風に呟いてしまったけれど、鬼が本当に存在するのなら、こんな顔なんだろうと思う。
人は、こんな表情をする事ができるものなんだ。
血走った目を剥き、口を大きく開いて、笑っているのか、憎んでいるのか、或いは悲しんでいるのかさえ判別出来ない、そんな表情をする事が。
17
「時間切れだ、少年――挟間役夫は、もう戻れなかった」
そう言った東雲万丈の持つ黒い刀は、挟間役夫の心臓を、寸分違わず貫いて、僕の眼前にその切先を留めている。
「し、死んだ……」
僕の眼前で鬼の形相のまま動くことのない、その男を見て、少しずつ、僕の心臓が落ち着きを取り戻す。
僕は、助けを求めるかの様に、ゆっくりと百鬼さんの方を見た。
百鬼さんは、両手で口元を押さえて茫然としている様だ。
うん。
そりゃあそうだ。目の前で人が死んだんだから。それも事故じゃなく、人の手によってその命を奪われたんだから。
「少年、動けるか? 動けるのなら百鬼さん達の方へ行け」
僕は、東雲万丈に言われるまでもなく、百鬼さんのいる方へ行こうとしていたのだけれど、膝に力が入らない。
仕方がないので、僕は四つん這いになって、東雲万丈に貫かれた挟間役夫の傍を離れる。
僕が離れたのを確認した、東雲万丈が黒い刀を挟間役夫から引き抜くと、その傷口から血が吹き出したらしく、びちゃびちゃと嫌な音が聞こえた。
「何やってんのよ、あんた」
四つん這いで近づく僕の前に、仁王立ちの東雲波瀾が立ち塞がった。
「やらせた万丈も万丈だけど……あんた、自分の命を何だと思ってんのよ! 殺されるかもしれなかったのよ! ばか!」
東雲波瀾は本気で怒っていた。
僕は――僕はどうして、あんな事をしたんだろう。
結果的に、挟間役夫はすでに罪を犯していた訳だけれど、それを知るまでは、本当に殺刑を止めなければと思っていた。殺刑の執行――人はやり直す事ができるって事を否定する行為を止めたかったのかもしれない。
たとえ間違えたとしても、たとえ罪を犯したとしても、人はやり直す事ができる――そうでなければ、失敗したら終わりなんて事になれば、僕は――あの時で終わってしまうから。
百鬼さんと柘植乃さんだって、まだやり直す事ができるはずなんだ。
かけ違えたボタンを直す事さえできれば、きっと。
「ちょっと! 聞いてるの?」
「う、うわっ」
東雲波瀾は僕の胸ぐらを掴み上げて、僕を無理やり立ち上がらせた。
「とりあえず、五体満足なようね」
「僕は……怪我はしてないよ」
「万丈が少しでも遅れたら死んでいたわよ。ま、万丈が討ち損じる事なんてないけれど――だからこそ、あんたにあんな事させたんでしょうけれど」
「え……し、東雲万丈は最初から……僕が挟間役夫の因子比率を修復する事なんてできないって分かってて、その上で殺刑を執行する瞬間を計ってたのか?」
「そんなのは私でも分かっていたわよ。ニュートラルが因子比率を修復できるのは、あくまでも比率が動揺している段階の保持者まで……バランスを崩壊してしまっている崩壊者を、崩壊したバランスを修復する事はできないわ」
それでも、もしかしたらって――もしかしたら奇跡が起きて、全てが上手くいくんじゃあないかって、そう思ったんだ、僕は。
それは、ニュートラルなんて特別な存在だと言われた僕の思い上がりだったのかもしれないけれど、僕にそれができるのなら、やらなきゃいけないって思ったんだ。
でも――結局、僕は奇跡を起こせなかった。
僕が何か特別な存在になった訳じゃあなく、東雲万丈や東雲波瀾という特別な存在と、彼らがいる特別な世界に巻き込まれただけの僕は――僕自身は、何も変わっていない『普通』の僕のままなのだから、それはそうだ。
百鬼さんと友達になる事ができて、僕はこれで何かを変えられると思っていたのかもしれない。
そうか、そうなんだな。
僕は――あの時から僕は、自分に蓋をして、白い包装紙で包んでいた。
それが綺麗な形だと自分に言い聞かせていたけれど、本当は破りたかったんだ。
昨日、満帆は僕に無理してないかと言ったけれど、また満帆には分かっていたのかな。
僕は、もっと皆と笑いたい。
僕は、もっと皆と話したい。
僕は、僕でいたい。
「ちょ……ちょっと! 何も泣く事ないでしょ! 私が悪者みたいじゃないのよ!」
東雲波瀾の言葉で、僕は自分の頬を伝う物に気付き、慌てて手で拭った。
「きゃあっ! 一番合戦君! 顔に……血が……」
しまった。僕の手には挟間役夫の手を握った時に、彼の手の血がべったりと付いていたし、すでに頬にも、さっき飛び散った血が付いていたんだった。
きっと、今の僕の顔はかなりのホラーだろう。
バスとかケーブルカーとか、乗せて貰えるのかな? なんて事を考える。
うん。
やっぱり気分の切り替えは早い。
これも、ニュートラルだからだよ、と言われれば割と納得してしまうかも。
「もうすぐ特監の処理班がここに来るからシャワーを浴びるといいわ」
東雲波瀾がそう言うと、どこかからヘリコプターのプロペラの音が聞こえてきた。
こんな夜にヘリコプター? もしかして、東雲波瀾が言った処理班が来たのかな。
「あ……百鬼さん、大丈夫?」
落ち着いてきた僕は、殺刑の執行を見てしまった百鬼さんの事が心配になった。
「うん。もう、何が怖いのか分からなくなっちゃって……」
確かにそうかもしれない。昨日から立て続けに起きた色々な事に、感覚が麻痺していて、本当なら、すぐにでもここから離れたいはずなのに、特監とは関わってはいけないはずなのに、そうしようとは思わないのだから。
「柘植乃さんは、まだ?」
「まだ意識が戻らないけど……でも、意識を失っているっていうよりは、眠っているみたいで」
柘植乃さんは、まだ意識を失ったままだけれど、東雲波瀾が言うには、もちろん命に別条はないらしい。
「来たな。先生が」
一人で挟間役夫の遺体を寝袋の様な袋に入れていた東雲万丈が、その作業を終えてこちらへやって来た。
その作業はとても丁寧で、最後に東雲万丈は挟間役夫に対して、手を合わせていた。
東雲万丈は、特監は殺戮マシーンじゃないと言っていたけれど、確かに、それはそうなのだと思った。
だけど、やっぱり殺刑にはまだ理解を示せない。
どうして善玉因子と悪玉因子のバランスを崩した人を、どこかに収監するとかじゃあ駄目なのか、どうして殺さなければならないのか。
あの、人間離れした身体能力のせいなのかな。
そんな事を考えていると、僕たちのいる場所を上空のヘリコプターがライトで照らし、長い縄梯子が放りだされた。
「まぶしいな……」
まぶしくてよく見えないけれど、誰かが縄梯子を降りてくるのは分かった。
「ヘリで来るなんて言ってたかしら?」
「いや、聞いていないな」
東雲波瀾と東雲万丈には、降りてくるのが誰か分かっているらしい。
ヘリコプターのプロペラで、もの凄い風が吹く中、我慢して見つめていると、縄梯子を降りて来た人物が、ついに将軍公園に降り立った。
降りて来たのは、東雲万丈と同じ様な黒い服を着た男の人だった。
「こわーっ! これ怖いよ! 高いよ! 信じられないよお!」
降りてきたその人は、なんか……泣いてた。
なんだ、この人は?
「先生! どうしてヘリなんかで来たのよ! 目立って仕方ないじゃない!」
東雲波瀾は、その男の人を先生と呼んだ。
「いやあ、だって処理班は先に車輌で到着して人払いも済ませたって連絡があったからねえ。こんな登場は町中じゃあなかなかできないじゃないか波瀾ちゃん」
「波瀾ちゃんって言うな!」
「まあまあ、波瀾にゃん」
「にゃんですって!」
図らずも猫語になっている東雲波瀾がいた。
「ええと――君がニュートラルの……一番合戦順風君かい?」
先生と呼ばれたその人は、僕の名前を知っていた。
「ああ、まあ、僕らは警察とも仲良しこよしでやってるんでね。ちょいと調べさせては貰ったよ。悪いね」
「先生、一先ず少年には処理班の車輌でシャワーを浴びさせてあげて下さい」
東雲万丈が、先生に対して僕のシャワーを進言してくれた。
「そうだねえ。僕も、ちょっとこの顔を前にして平然と喋っているのには抵抗があるしね」
なんだか悪口を言われた様な気にもなるけれど、ここはお言葉に甘える事にしよう。
僕だけでなく、百鬼さんと、意識を失ったままの柘植乃さんも、処理班の車輌とやらに連れて行かれ、僕はシャワーの付いた車に案内された。
いつの間にか、将軍公園の駐車場には、装甲車の様な特殊な車が三台とワゴン車が一台停まっていて、他の車は一台もなくなっていた。
百鬼さんと柘植乃さんは先に、キャンピングカーの様な、一番大きな車へ案内されていた。
東雲万丈と、先生と呼ばれた男の人も、その車に乗り込んだ。
「あ……」
シャワー付きの車に乗ると、そこには東雲波瀾もいた。
「何よ……」
明るい所で改めて見ると、挟間役夫に切られた東雲波瀾の切り傷は痛々しく、僕なら痛みで泣き叫んでいるに違いないと思えるほどだった。
「じろじろ見ないでくれる? あと、絶対に覗くんじゃないわよ!」
そう言って、東雲波瀾は女性を現す赤いマークの付いた扉の中に消えた。
「絶対に! 覗くんじゃないわよ!」
わざわざもう一回顔を覗かせて念を押してきた。
僕はそういうキャラじゃないぞ。って言うか、それは覗けというフリと捉えていいのかと誤解を招きやしないか? いや、覗かないけれど。
僕は、男性を示す青いマークの付いた扉に入った。
扉の中は脱衣スペースがあり、その奥にもう一枚扉があって、その中がシャワールームになっている。
車にこんな設備が付いているというだけで、変にテンションが上がる。
僕は、顔面から、熱いシャワーを浴びた。
「ふう……」
顔に付いた血と、体の土埃を洗い流す。
脱衣スペースにはマイナスイオンドライヤーも完備されていたので、髪を乾かしてから、僕は脱衣スペースを出た。
「あ……」
「何よ……」
タイミングがいいのか悪いのか、またそこに東雲波瀾がいた。
まだ少し濡れている東雲波瀾の長い髪に、僕は少し、どきっとさせられた。
満帆以外で、お風呂上がり(シャワーだけど)の女の子を見たのは初めてだったから、なんだか照れ臭かった。
「そ、そういえば柘植乃神助って、どうなったのかな?」
東雲波瀾は、面倒臭そうに僕を見た。
「警察に引き渡したわよ。今頃は『道端で寝てましたー』とか言われて家に連れ込まれて、ちゃんとベッドで寝てるんじゃないの? 起きたら廃倉庫での事は夢だったのか何なのか訳が分からないんじゃないかしら?」
なんだか、ほっとした様な、それでいいのかとも思うような――でも、挟間役夫があんな事になり、双子の兄までもが逮捕なんて事になったら柘植乃さんがあまりに辛すぎるんじゃあないかと思うと、これでいいのかもしれない。
ただ、また学校で会ったらと思うと、どうしたらいいのか、気が重いけれど。
「行くわよ。先生からあんたに話があるんだって」
「僕に話って――ニュートラルの事かな?」
「そうなんじゃないの? 知らないけれど」
僕と東雲波瀾はシャワーの付いた車から、一番大きな車へと移動した。
車の中へ入ると、そこは広いリビングの様になっていて、真ん中のテーブルを囲う様に配置されたソファに、東雲万丈、百鬼さん、そして先生と呼ばれている男の人が座っていた。
柘植乃さんはその奥のスペースで寝かされている。
僕は百鬼さんの隣に腰掛け、東雲波瀾が東雲万丈の隣に座ると、いわゆる、お誕生日席に陣取っている先生が口火を切った。
「さあて、改めまして、ようこそ一番合戦君に百鬼さん。僕は特別超法監殺機関の東雲誠一朗」
「え? 東雲って……」
「あー、別に波瀾ちゃんや万丈と親子とかそんな事はないよ。僕はまだそんな歳じゃあないからね」
「そのくだりはもうやったわよ先生」
「あらあ? そうかい。じゃあ話を進めようか一番合戦君」
「あ、はい……あの、ニュートラルの話ですか?」
僕がそう言うと、東雲さんは頭を掻きながら――
「その前に、君の中のもやっとを解消しておこうか一番合戦君」
と、言った。僕の中のもやっと?
「君は、なぜ崩壊者が――ああ、崩壊者というのは文字通り、善魂因子と悪魂因子の因子比率をバランス崩壊させてしまった者の事なんだがね――その崩壊者が、なぜ命を奪われなくてはならないのか……そう考えているよね? そこまでしなくてもいいんじゃあないか、と」
そう言いながら、テーブルの脇に置いていた紙とペンを手に取り説明を始めた、この東雲誠一朗って人は、何でもお見通しらしい。
東雲波瀾と東雲万丈から僕の事を、詳細まで報告されているんだろうけれど。
そして、僕はここで一つの事実を知る――
「あ、善玉と悪玉って魂って書くのか……」
東雲波瀾が、善玉菌と悪玉菌なんて事を言うから、僕はそのままの字面でイメージしていた。
「いい所に気が付いたねえ一番合戦君! これは僕が名付けたんだよ。いやあ、我ながらハイセンスだよねえ」
「いいから話を続けて、先生!」
東雲波瀾は東雲さんが何か書きかけていた紙を丸めて投げ捨てた。
「ひどいなあ、波瀾きゅんは。先生泣いても知らないよ?」
無言の圧を放つ東雲波瀾に負けたのか、東雲さんは一回咳ばらいをして姿勢を正した。
「この二日間――いや、厳密には約一週間ほどの間に動きがあったのだけれど、どうしてこの町や隣町といった近隣で崩壊者が立て続けに出現したり、その近くで因子比率の動揺をきたした者がいたと思うかな一番合戦君?」
急に僕に振ってきたな。だけど、何となく考えていた事は――ある。
「もしかして……バランス崩壊した人は、周りの人の因子比率を動揺させるんですか?」
僕の言葉に、東雲さんが乾いた拍手を送ってくれた。
「正解――と言いたい所だけれどねえ、一番合戦君、いや、惜しいね。確かに崩壊者は因子比率を動揺させる。影響を受けた者は、崩壊者と似た言動をとる事も多い。報告によれば、柘植乃兄妹は『邪魔するな』という言葉を多用し、そのタイミングで感情が昂ぶる事が多かったみたいだが、それは自分の人生を邪魔された事がきっかけで因子比率のバランスを崩した狭間役夫の影響だよ。だがね、それだけじゃあ終わらないんだなあ」
「今回の起源崩壊者は学習塾の経営者である桶之夢と言う男――」
ここで、ずっと真顔のまま黙っていた東雲万丈が割って入ってきた。
「ちなみに、桶が姓で之夢が名だ。この男が因子比率のバランス崩壊を起こし、その影響を受けて挟間役夫は因子比率の動揺をきたした挙げ句に崩壊者となったんだ。つまり、崩壊者は崩壊者を生み出す――バランス崩壊の連鎖だ」
バランス崩壊した人が、周りにいる別の人をバランス崩壊させる――それって、放っておいたら、どんどん拡散するって事なのか?
「分かり易く言えば――死んでるくせにボロボロのネルシャツを着て墓場から蘇る奴とか、なにか訳のわからないウイルスに感染した結果、体がボロボロになっても自我を失ったまま人を襲う奴とかがいるだろう? そして奴等に噛まれると噛まれた者も――と言う、あれだ」
「ゾンビだよね。三文字で終わるよね、今のくだり」
果たして笑って欲しいのかどうなのか――いつでも真顔の東雲万丈の表情からは、何も分からないので、こっちとしてはリアクションに困る。
「別にゾンビに例えなくてもわかるわよ! あんたは黙ってなさい万丈。ほら、先生があんたに役目を奪われて空也上人像みたいになってるじゃない! 口からなんか出てるじゃない!」
東雲波瀾と東雲万丈が東雲さんの口から出てた何かを強引に押し込んだ――って、何かってなんだよ。
「あーつまりだ、一番合戦君、感染源を死滅しない限りは感染が拡大するという訳なんだよ。だから、僕らがいるのさ」
「でも……それでも、そんな――人をウイルスみたいに……どこかに閉じ込めておくとか、何か方法はないんですか?」
「閉じ込める……なるほどねえ。で、閉じ込められた崩壊者の皆さんは、そこでどんな風に過ごすと言うんだい? 誰がその面倒を見る? 知っての通り、崩壊者は狂った因子の働きで人並み外れた身体能力を発揮する。まあ、全員が全員ではないのだけれど、そんな連中が、破壊衝動や殺傷衝動を抑えられなくなるんだよ? 一か所に閉じ込めておくなんて不可能だよ」
「少年、そしてなによりも、刑務所の懲役はいつか出られるという、いわば希望があるのに対し、崩壊者は死ぬまで閉じ込められたままという事になる。一度崩れたバランスは二度と元には戻らないのだからな」
東雲さんの言葉に続けて、僕への駄目押しとばかりに東雲万丈が言った。
「だから――だから私達が殺刑を執行するのよ。それは……崩壊者への救いでもあると私は信じているから」
いつも鋭い印象だった東雲波瀾の眼が、どこか悲しみを帯びた様に、そんな風に見えた。
「崩壊者は自我が崩壊する訳じゃあない。自分を保ったままで、破壊や殺傷の衝動が抑えられなくなるんだ。いっそ、それこそゾンビにでもなってくれるのなら退治も楽なんだけれどもねえ……相手は人間なものだから、警察とは違う僕らみたいなのが必要なんだよ一番合戦君。法を超越できる存在がね」
言っている事は、分かる。
確かに――とても信じられない様な話だけれど、確かにこの人達の言っている事は現実で、僕はこの二日間で、今の話を飲み込むしかない体験をした。
だけど……命を奪うって結論に至るには、まだ納得できないでいる。
「はあ……なかなか頑固だねえ一番合戦君は。まあいいさ。何も僕らは君の許可を得ようとも支持されようとも思ってはいないのだからねえ。ただ……ただ知っておいて貰おうと思っただけだよ。僕らと望まざる出会いをしてしまったニュートラルの君にはね」
「わ!――」
と、立ち上がったのは百鬼さんだ。
「わ……私も聞いてしまったんですけど……いいですか? 聞くつもりがなくても聞こえるっていうか、聞かされたというか……」
ああ、百鬼さんが取り乱し始めたぞ。という事は――
「あの! でも絶対に誰にも言いませんから! 信じてくださいね! 私、口は二番目に堅いので!」
二番目に堅いって何の二番目だろう。
そして、出た。両手を振り振り、首も同時に左右に振るあれだ。
僕の好きなあれだ。
「わ、わかってるよ百鬼さん……うわあ、なんだか変わった子なんだねえ百鬼さんって」
東雲さんが若干引いている。
「あの、東雲さん……いいですか?」
殺刑の是非は一先ずおいておいて、僕はこの際だからと、気になっていた事を質問する事にした。
「話の内容から推測すると、殺刑が執行されたのは桶之夢という人が最初じゃないんですよね? 世間じゃあ、それが殺刑第一号なんて言われているけれど」
「その通りだよ一番合戦君。本来なら、まだまだ極秘裏に動く予定だったんだけれどねえ」
と言いながら、東雲さんは東雲波瀾を見た。
東雲波瀾は、東雲さんの視線に気づいているはずなのに、斜め上の何もない空間を凝視している。
そう言えば、東雲波瀾が、殺刑の執行を警察に見られて、公表せざるを得なくなったんだっけ? あれ? 警察と特監は仲良しこよしなんじゃあないのかな。
「まあ、ちょっとしたミスがあった訳だけれど、さっきも言った様に崩壊者は自我が崩壊している訳じゃあない。凶悪な事件の抑止力の為に公表したっていう一年前のあれは本当の理由だよ。崩壊者への警告さ。その意味を強める必要があったんだ――どういう訳かここ最近、僕らは忙しくてねえ」
「それは……バランス崩壊する人が増えてるっていう事ですか?」
「そういう事だね。僕らは特殊な装置でバランス崩壊や因子比率の動揺をある程度は捕捉できるんだけれど……それでも、今回みたいに崩壊者や因子比率の動揺をきたした者が密集すると、波瀾ちゃんや万丈に直接確かめて貰うしかないからねえ、骨が折れるよ」
なるほど。だからこの場所や、あの廃倉庫や、建設中のビルに、東雲波瀾や東雲万丈が現れたのか。
僕がニュートラルだったのは、この人達にも想定外だったみたいだけれど。
「それで、あの……僕は、僕はどうなるんですか? ニュートラルの……僕は……」
僕の言葉を聞いた東雲さんの目つきが変わった。
東雲さんの掛けている眼鏡が鋭く光った様に思えたその時、東雲さんは――
「そうだねえ、ニュートラルには……いて貰っちゃあ困るんだよ」
と、言った。
「いて貰っちゃあ困る――って……」
せっかくシャワーを浴びたのに、僕は、背中に嫌な汗が噴き出すのを感じた。
「あー、いやいやいや、そう警戒しなくてもいいよ一番合戦君。なにも君をどうこうしようっていうんじゃあないからねえ。ただ、君の事は――君がニュートラルって事は、ここにいる僕らしか知らないって事にしておかなければならないんだよ」
東雲さんは、満面の笑みを僕に向ける。なんだか、何か重要な事を誤魔化された気がしないでもない。
「あの……波瀾さんと万丈さんの事も誰にも言わないって約束してますし、一番合戦君の事も、私達は誰にも言いません」
百鬼さんの言葉に、東雲さんは大きく頷いた。
「そうだねえ。わかってるよー、うん。波瀾ちゃんと万丈は人を見る目はあるからねえ。ま、多少ペラペラ喋り過ぎのきらいはあるけれどもね」
「ほらね、ばか万丈」
「君もだよ波瀾ぴょん」
「ぴょんな!」
そんな、な。ぴょんに引っ張られているぞ、東雲波瀾。
「いいかい、一番合戦君。君はこの後、家に帰ったら、またいつも通りの生活を送るんだ。ただし、万丈が忠告したとは思うけれど、事件性のある事象には近づかない事」
「もう余計な正義感を出して無茶しない事ね」
東雲波瀾が僕を睨んだ。初めて会った時のように。
別に正義感であんな事をした訳じゃあないんだけれど。
「守れるかな? 一番合戦君」
東雲さんが、念を押す。
「わかってます。絶対にこの二日間の事は誰にも言わないし、事件性のある事象――ですか、それには近づかない様にします」
「んじゃあ、そういう事で宜しく頼むよ!」
東雲さんが手を差し出したので、僕はその手に握手をした。
ちょうど、そこで柘植乃さんが意識を取り戻した。
挟間役夫の事は――もうこの世にいない事は伏せて、東雲さんが上手く話してくれた。柘植乃さんには分かり易い様に自分を警察だと説明したらしい。
自分が想いを寄せていた人が犯罪者で、逮捕されたと聞かされた柘植乃さんは、悲しかったのか、悔しかったのか、ぽろぽろと涙を流した。
百鬼さんが差し出したハンカチは――使わなかった。
柘植乃さんが落ち着くのを待って、僕と百鬼さん、柘植乃さんは、特別超法監殺機関の車で各自の家まで送って貰える事になったので、見た目が普通のワゴン車に見える車へ移動する事になる。
「少年……」
ワゴンへ向かおうとした僕を、東雲万丈が呼びとめた。
「なに……かな?」
「君が挟間の因子比率を修復しようとするのを止めなかったのは、バランス崩壊者には、ニュートラルの能力も効果がないという事を身を持って知って欲しかったからだ。無論、挟間が君に危害を加えようとすれば、絶対に――完全にそれを阻止する自信と確信があっての事だ。ニュートラルの修復能力は、百鬼さんや柘植乃兄妹の様に、人を救う事ができる能力かもしれないが、君自身を窮地に追い込む能力でもあるのかもしれない。それを忘れないでくれ。それから――俺と波瀾の事だが、なぜ俺達がツーマンセルなのか……それは、一人がバランス崩壊をした時に、もう一人がその命を奪う為だ」
東雲万丈は、またとんでもない事を言い始めた。
「殺刑を執行する時――人の命を奪う時には、俺や波瀾でも、因子比率にブレが生じるんだ。俺達は特別な環境で、特別な訓練を積んでいるが、それでも――それでもそうなる。人の命を奪うというのは、それほどの事なんだ。だから、俺達は、人の命の重さは分かっているつもりだ。前にも言ったが、俺達は殺戮マシーンじゃない」
「……わかってるよ……君達を殺戮マシーンだなんて思ってないよ」
「そうか。それなら、いい。ありがとう少年」
「その、少年っていうのやめてくれるかな? 順風でいいよ。もう会う事もないのかもしれないけれど……あと、ありがとう」
僕が、東雲万丈に握手を求めると、待っていたかの様に手を握られた。
「俺の事も万丈でいいぞ順風」
いや、言ったけどさ、早速ってなんかさ……。
「それにしても……会った時から思ってたんだけれど」
「なんだ? 順風」
「君って、よく喋るよね」
「思ったより喋るんだね、とはよく言われるな」
と、会ってからここまで、ずっと真顔の万丈が言った。
「ちょっと! 車出るわよ!」
東雲波瀾がワゴンの傍から駆け寄って来た。
「波瀾も順風とちゃんと別れの言葉を交わしたらどうだ?」
「はあ? 何よ順風って――まあ、しっかりしなさいよ! あんた危なっかしいんだから」
「ありがとう……ええと」
「……波瀾でいいわよ……」
「ありがとう、波瀾」
僕が波瀾にも握手を求めると、少し間を置き、波瀾は、目線を逸らしたままで、僕の手を握った。
「それじゃあ、また……じゃないか……さよなら」
「ああ、元気でな順風」
「じゃあね……」
僕は、万丈と波瀾に別れを告げると、百鬼さんと柘植乃さんが乗っているワゴンへ乗り込んだ。
こうして、黄金週間明けの長かった二日間は幕を閉じた。
18
「おーい! ぷう! 起きてるのー?」
いつもの朝。
階下からの満帆の声を合図に、僕は部屋を出て階段を降りる。
そのまま洗面所へ行き、超極細毛の歯ブラシでやさしくブラッシングをした後、ふわふわに泡立てた洗顔フォームで洗顔をした。
「よし!」
僕は、両手で頬を軽く叩く。
「よし! ってなあんだよお、ぷう! 告白でもすんの?」
満帆がまた朝からしがみついて来た。
「告白なんかしないし、いい加減この朝からくっつくのやめろよ」
「じゃあ昼からくっつくならいいかね?」
「くっつこうとするなと言ってるんだよ、僕は」
「けちー!」
満帆が尻をこすりつけて来た。
「けつー! それはけつー! って言わすな! 僕はお尻って言う派だ!」
、
うん。
これでもかという位に、いつも通りの朝だ。
昨日、送って貰った車の中で、柘植乃さんは一人、助手席に乗り、ずっと窓の外を向いていた。
結局、意識を取り戻してから、百鬼さんとは一言も口を聞いていない。もちろん、僕とも。
柘植乃さんは、僕のニュートラルの能力で、善魂因子と悪魂因子の因子比率の動揺を修復したけれど、それだけで『あれ? 私は今まで何をしていたの?』的な事にはならなくて、柘植乃さんは、百鬼さんにした事、言った事を憶えている。それは百鬼さんも同じだ。
小さい子供みたいに、じゃあ仲直りって訳にはいかないのは、それは当然なんだと思う。
だけど、きっと百鬼さんは柘植乃さんに言葉を掛け続けるだろうし、柘植乃さんだって、今すぐには無理でも、また、百鬼さんの言葉を受け止められる時が来ると信じたい。
あの時、ぶつけ合った二人の言葉は本物だったはずだから。
僕は――僕も、そう簡単には変わらない。
やっぱり、波風は立てたくないし、できる事なら穏やかに毎日を過ごしたいと思う。
だけど、無理して自分を抑え込む事に――無理をして『普通』でいる事には、なんの意味もないし、勿体ないと思うようにはなった。
今は、もうこの瞬間しかないんだ。
今、感じたままに。
今、思う事をしよう。
今の僕が――僕だ。
うん。
今朝の星占いは一位だったし、きっと今日もいい事あるさ。
ほら、さっそく前を歩く後ろ姿――
肩までは届かない位のさらさらな髪、少し俯きがちで、スカートの裾が踊らない様にゆっくりと、控え目な雰囲気を醸し出しながら歩くその姿を見つけた僕は、足早に駆け寄った。
「おはよう! 百鬼さん」
いつも通りの、新しい朝だ。