テンプレは面白い
毎度巻き起こるテンプレ批判。ただテンプレ批判が多すぎて、テンプレ批判のさらに批判が増えてしまったのが今だと思う。実際エッセイにはテンプレ批判の批判しかない。なんとも矛盾だ。テンプレ批判について書いてるのに実際にはテンプレ批判がエッセイには無い。こういった流行の変遷もなろうのランキングの特徴ではある。
以前から転生転移について述べているエッセイが多くなってきた頃にはランキングには現地主人公ばかりが占めるという現象が起きている。エッセイは常に後追いになるのでぬるい言及が多くて退屈になってしまう。それを防ぐには、まず新しいネタにする事と、さらに掘り下げた普遍性を扱う事が良いと思っている。
・テンプレ展開をひたすら箇条書きにしてみた
・なろうテンプレ・個人的まとめ
テンプレについてはこの2つが一番良いと思う。そこで分かるのは、テンプレと言う分かり易い一つの型が無く、言語的に扱うには無限増殖とも言えるような増え方をするものが有るだけと分かる。テンプレと言うのは適当な言葉ではないが、だからと言って結論ではない。テンプレ批判者が考えるような単純化されたテンプレと言う型は無い。これだけは間違いない。
そもそもテンプレ批判者が妥当じゃないのは、感情に思考が振り回されているからになる。その時点で聞くに値し無い言及しかない。私は特にその点が他者と全く違って優秀だと自負できるほどの変わり者。優秀だが変わり者?変わり者と言う言葉が妥当なぐらい人間は一般的に感情に振り回されて思考するのが当たり前の性質だから、優秀と言うより変わり者の方が妥当だなと思うぐらい自分が特異な人間であるのは自覚している。
その感情こそが重要で、テンプレはイメージにあり、言語化できると私は思ってない。簡単に出来たら私もそれに従って書くからだ。そのなんとなくのイメージこそがテンプレが受ける理由になる。何度も書いてるが、なろうでは実際の面白いと言う満足より、作品を選ぶと言う行為が面白さとセットになっていて、そういった総合的な面から面白さを追求し無いと全く意味が無いと書いている。
何故批判者達が面白さが分からないか?ならこの点を考慮し無いからになる。根本的にこのイメージするものが好みじゃないだけでは?多分そこに本当の問題がある。テンプレと言うワンパターンに飽きてるというのは実際にテンプレと呼ばれるものを読んでいる読者自身が数多くの細分化して増殖するテンプレと呼ばれるものを求めるのが矛盾してるからになる。
実際は飽きてる。でもそれが批判者にはそう見えないのは、根底の部分のイメージがそもそも好みじゃないから、それを飽きたと勘違いしてるからになる。これは今まで書いてきたものになる。
今回書くのは、テンプレがおもしろいのは、他者が模倣しやすいからになる。書く作者、読む作者が、言語化するのは不可能に近い。これの最大の理由は、言語化した瞬間に単純化された型はもう飽きてるからになる。だから無限にそれを補うために増殖していく。でも真似だけは出来る。言語化しにくい何かしらのイメージが読者作者に共通してるからになる。
それは簡単に他の作者が模倣しやすいもので無ければらなら無い。だからテンプレと批判者には見えてしまうのが理由になる。同じものに見えるものが増殖するのは根本的に当たり前すぎるとなる。何故なら模倣しやすいものが面白いからになる。これは革命的なものの見方になる。まず第一にプロにおいてはこれはやっかいなんだ。
どれだけ優秀なものを作っても模倣しやすいものならすぐにさらに優れたものが誕生して、発案者までも飽きられてしまうのだ。完全な模倣は著作権保護で守られてるが、イメージの模倣程度はむしろ競争を阻害するとして禁止していない。そこで多くの作家が自分にしか出せない色と言うのを模索する。これは歌手の歌い方も似ていると思う。
歌手は天性の声色とプラス経験から独特の歌唱法を身につけて個性にしていく。模倣されにくい特徴を持つほうが長く生き残れる。作家もプロは大体コレと似ている。作風や文体になる。
だが、なろうは無料である。それゆえにその部分あまり必死になる人が居ないと思う。自分なりの個性は歌のような感覚的にすぐ分かるものではない。頭を使う。何故テンプレと呼ばれるものが受けるか?なら模倣しやすいからになる答えはそこにある。素人読者がすぐに掴み取る事が出来る単純なイメージの方が受けるからになる。
作者同士で模倣できないような独特のイメージを持ったものが受けるわけが無いんだ。それは頭を使ったり読書慣れから来る玄人読者や作家が持つ感性を刺激するものだから。
これは今私がやってる実験乍に繋がってくる。私はこの単純化されたイメージのもので現代物を作りたい。なおかつライトだとイメージできる、ものが入ってる事が必須に成る。自分でやってると、初めてこのイメージを作り出すことは、非テンプレより難しいんじゃないか?と素直に思えてくる。
おそらく逆転の発想になる。真似されない個性より、真似される単純なイメージをつかめる方が受けるって点である。これは多分小説文化ではなくて、漫画アニメの文化からの流れだと思う。何故小説文化が押されてしまうのか?で文字と言う媒体だけでものを見る人たちがいるが、私はそれは単純だと見ている。
根底の部分で、受け手が求めるものにどれだけ媚を売るか?が重要で、内容についてじゃなくて、このイメージに言及した人はほとんど居ない。漠然とした即時性の高いすぐ感じ取れるイメージが単純であるほうが望ましい。こういう作品ね、これこそが今とても重要に成る部分。テンプレが受けるのが理解できないのは、単純に結果を見てるからになる。
実際はその原因をきちんと見て無いから、そこから外れる好みを持つテンプレ批判者は理解できてないとなる。むしろ模倣されないものは複雑すぎて受けないと知ったほうが良い。結果としてテンプレがあるだけで、実際のポイントは模倣は結果的にそうなっただけだって点に目が行かないのがすべての批判者の問題だと思う。
より深く根源的なものを書いてるため、おそらく私の言及は、表面的な流行に流されて無価値になるものじゃないと思う。
読者と作者で共有されるイメージの単純化。これこそれがライトである事を保証してくれる一つの担保になる。単純なものがライトなのではない、ライトである事をきちんとイメージの中に入れておいてくれるから。これが読者に媚びるという事になる。それが否定されてるわけじゃない。多分そもそもテンプレ批判者は読者として大切なこのイメージに対する好みを持ってないのが原因だと思われる。
それを単純に言語化して批判するから、ステレオタイプの雑な言及にしかなって無いので読むに値しないと私は思っている。