9th day DIVINATION RHYMES
「私の可愛いソロモン」
それが僕の母の口癖だった。
19世紀も終わりに差し掛かる頃、とある家族が小さくも気高い島国、イギリスへと引っ越した。
霧の都からだいぶ離れた小さな街。
その街で安く借り出されていた二階の空き部屋に彼らは移り住む。
借りた部屋はたった二つ。
小さなキッチンが後付けされた狭いダイニングルーム。
調理場が場所を取り、部屋は小さくなってしまったが、そこそこ大きな窓のおかげで狭くは感じなかった。
もう一つの部屋は窓もなく、明りは裸電球だけの物置部屋。そこは娘とその母親の寝室になった。
収納スペースもお風呂場もない。
それでも不自由なく暮らせたのはお節介焼きな大家のお陰だと、一家の大黒柱が嬉しそうにそう愚痴をこぼしていた。
言葉も上手く伝わらない、右も左も分からない。
そんな一家に大家は新しい仕事を見つけてきてくれたり、娘が通う学校の書類手続きを手伝ってくれたりもした。
他にも夕食を一緒にとったり、休日も教会で祈りを済ました後、町の市場へ買い物に行ったりと本当によくしてもらったそうだ。
そのお陰で一家はすぐに新しい町になじむことが出来た。
そして、沢山の人に囲まれ育った小さな娘は、美しく優しい大人の女性になると町の教会でとある人物に出会う。
生まれも育ちもこの街で、おもちゃ工場で働く強くて頼もしい立派な男。
娘と男は共に惹かれ合い恋をした。
そして二人は愛し合い、結婚し、1913年、僕は産まれた。
僕が生まれた次の年から戦争が始まったと言うけれど、初めの頃はあまり戦争の現実味がなかったと聞く。
両親は僕のために沢山の本を買ってきてくれたり、工場で貰った廃材でおもちゃを作ってくれたりした。
休みの日には家族そろって街の教会に行き、礼拝を済ませた後は公園で楽しくピクニックもした。
誕生日には新しく借りた小さなアパートの一室に、沢山の親戚を呼んでバースディパーティーを盛大に祝った。
両親が僕のためにいろいろ尽くしてくれたから毎日がとても楽しくって幸せだった。
だから幼少の頃の僕は、自分は特別な存在なんじゃないかと信じて疑わなかった。
みんなが僕を見ていて、僕の事を愛している。
でも実際はそんな事ない。
とんでもない勘違いで、己惚れた浅い考えだ。
そう知ったのは五歳頃で、案外早かったものだから、僕は随分とひねくれて育ってしまったと思う。
= = =
1918年の春。
長く続く戦争下の元、父にも国を守る手伝いをして欲しいとの知らせがきた。
祖国は敵国を倒す兵士を必要としていたのだ。
父は二つ返事でその誘いに乗った。
出発当日、父は険しい顔をして自ら兵士の帽子を深々とかぶり、僕と母の手を繋いで駅へと向かった。
帽子から零れた暗いブロンドヘアーが日の光できらきら光っているのがとても印象的で、今でも鮮明に覚えている。
駅に着くと僕たちみたいな家族が沢山いた。
お互い抱き合う人。強く握手する人。涙を流す人。しかし誰も彼もが笑顔だった。
僕たち家族三人も、限られた時間を彼らと同じように大事に使う。
父は母を力一杯抱きしめキスをした。
小さく敬礼する僕を見ると、父は背筋をまっすぐ伸ばして立派な敬礼をお返しにしてくれた。
内気で臆病な性格の僕。
童話の本を読んだり花の絵を描いたりして楽しむばかりの僕に「女々しいやつだ」と父はいつも呆れたように笑っていた。
しかし父はそんな僕を否定する事は決してなかった。
むしろ僕のために面白おかしく絵本を読んでくれたり、僕の描いた下手くそな絵を褒めちぎったりしてくれた。
だがそれだけでなく、父は僕に合ったいろんな遊びを教えてくれた。
町外れの小さな森で珍しい草花を探したり、川で一緒に魚を釣ったり。
父の趣味である蝶の標本作りを手伝ったりと、それはもう充実とした時間を共に過ごしたものだ。
僕は何でも知ってる父が大好きだった。
何にもできない僕にいろんなことを包み隠さず教えてくれる。
強くて優しい憧れの存在。
汽笛が長く、大きく鳴る。さよならの時間がやってきた。
母は最後に父の胸に黄色いリボンを送った。
父は最後に僕に大切な頼みごとを送った。
「母さんたちの事をしっかり頼んだよ。男同士の約束だ」
初めて父と交わした約束。
それは弱い僕を案じる内容ではなく、男として頼ってくれた切なる願い。
一生手の届かないと思っていた憧れの存在に、尊敬する父に僕は頼られた。
それはとても名誉な事で、期待された僕は小さな体を震わせた。
僕は父の願いを胸に然りと受け取り、母を守る決意を証明するために強く頷いた。
強い意志を感じた父は安心したのか、優しく笑い僕の頭をゴシゴシと強く撫でてくれた。
そして列車は静かに動きだし、沢山の人たちと父を詰め込んで、彼らは戦場に行った。
僕はこの父との約束を必ず守ってみせよう。
興奮冷めぬ僕は最後まで列車を見送る母の手を取り、僕が母さんを守ると彼女に宣言をした。
しかし悲しい事に、僕は自分が思っていたよりも臆病者だった。
何をしようともてんでダメで、いつも母の足を引っ張っていた。
父との約束を何度も心の中で呟き自分を奮い立たせる。
だけど母を守ろうと必死に動いても僕は僕でしかなかった。
戦争は終わりに向かっていた。
沢山の国々が戦い傷つき、がむしゃらに特攻していく。
勝利のためなら敵の民衆までもを殺していく。
その姿はとても恐ろしかった。
何時この街にも敵国の兵隊が攻めてきて、僕たちを八つ裂きにするのか。
僕は夜も眠れずガタガタ震えていた。
そんな時、母が優しく僕を抱きしめて、ベットの中で一緒に眠ってくれた。
「ねえ、お母さん。今お父さんはどこの人と戦っているの?」
「今お父さんはね、ママが子供の頃にいた国の人たちと戦っているのよ」
「それはどんな国? 怖い国?」
「美しくって素敵な国よ。
広い草原に大きな川。穏やかな風が吹く、おとぎ話の国のような所よ」
僕はお気に入りの絵本の世界に出てくる楽しい国を思い出した。
そんな素敵な国と何故戦っているのか。
「僕もいつか行けるかな?」
呑気な問いに母はにっこりと笑う。
ただそれだけ。母はそれ以上のことは、何も言わなかった。
それから数か月ののち、国は戦争に勝った。
国中でお祝いの祭りが開かれて、街でも大変な賑わいが起こっていた。
お祭りにはしゃぐ僕は母の手を取り、共に楽しもうとしたけれど、母は複雑そうな顔をしていた。
幼心にはその意味が理解できなかった。
ただ、母は今はとても悲しいのだろうな、としか理解できず、その母の悲しみを取り除く方法を知らない僕は、僕に苛立ちを覚えた。
その時の事が、僕の心の奥底に根付いていて、すべての始まりだと思っている。
= = =
戦争も終わり、しばらく平和な日々が続いた。
その間に僕は学校というものに通うことになる。
母もこの年の頃に学校に通い、沢山の友達を作ったのだそうだ。
それを息子の僕にも体験して欲しいとの事で、貧乏なのに僕を学校に通わせる事にしたと張り切っていた。
戦時中は暗い顔ばかりしていた母が、楽しそうに準備をしている。
それだけで僕は嬉しくなり、意味も分からず母の言う通りに学校に行くことを楽しみにしていた。
入学初日、母は僕にお守りだと言って暗いブロンドのカツラをプレゼントしてくれた。
あの日見た父の髪と同じ色。
母譲りの黒髪を隠すのは少し惜しいと思ったが、父のように強くなりたいと思っていた僕はそのお守りを大事に受け取った。
学校というものはとても不思議な場所で、歳の近い子供たちが沢山集められていて面白い所だと初めは思った。
しかしものの数分で、あの子供特有の甲高いわめき声や舌足らずの早口言葉の荒波に揉まれ、僕はこの場に恐怖しか感じなくなってしまった。
彼らは一体何を話しているのだろうか。
何が起きてるのだろうか。
先生はそんな彼らをぶっきらぼうな口調で注意する。
僕は何も話しちゃいないが、自分が怒られたような気がして胸がキュッと締め付けられた。
ここは地獄だ。危険な場所だ。
すぐさま逃げ出そうとしたが、母のあの嬉しそうな笑みを思い浮かべると、僕は静かに自分の席から動くことなく、先生に言われた通りに黙って座っていた。
しかし本当に学校というものは耐えがたい物ばかりで溢れかえっていた。
何かしらの授業中、先生がワザとらしくクラスを見渡して僕の名前を呼んだ。
「この問題を解いて」
真っ白なチョークを手渡されたが、僕の頭の中身はすでにそのチョークよりも真っ白になっていた。
僕は絶望的なまでに勉強というものが理解できなかったのだ。
何を教わっているのかわからない。
教わったことはすぐに出来ない。
何度も聞いて書いて、自分できっかり理解しなくてはその物事に不満をだいて理解を放棄していたのだ。
答えが分からず涙を溜める僕に先生は大きくため息をついていた。
そして僕に席に戻るように言うと勉強ができる子を指名して、正解すると大げさに褒めていた。
そんな彼らを見ていると、僕の心は苦しい思いでいっぱいになった。
そして運動の時間も苦手だった。
僕は思っていた以上に足が遅く、体を動かすこと全てがぎこちなくっていつもクラスメイトに笑われていた。
運動も出来ないし勉強もおろそか。
終いには賢い人という名前。
あっという間に先生にも見放され、僕はクラスのいじめられっ子になっていた。
だけど僕は彼らを恨むことは決してない。
だって、僕がのろまでトンマな事は本当の事だから。
いじめられて当然のこと。
でも、名前についてはどうも納得しきれなかった。
僕はこの名前が大嫌いで、名前について苛められた日には母のエプロンを僕の涙で濡らしたものだ。
「なんで僕の名前はソロモンなの? ジャックとかピーターが良かった」
当たり障りない普通の名前が羨ましい。
母は寂しそうな顔をして僕を抱きしめる。
「可愛い私のソロモン」
それだけ言うと母は僕と一緒に涙を流して悲しんでくれた。
ただそれだけ。
それ以上の事は無い。
だけど、それだけの事は僕に大きな罪悪感を植え付けるには十分だった。
また母さんに悲しい思いをさせてしまった。
こんなに優しい母を泣かせるなんて僕はなんて愚かな人間なのだろう。
そう思って、また自分を責めたてる。
そしてトドメに父との約束が、彼の形見である蝶の標本を通して僕に思い出させるのだ。
『母さんを頼む』
だけど僕は母さんを悲しませてばかりだ。
悲しませることしかできない僕は、より一層僕の事が嫌いになった。
= = =
学校にうまく馴染めぬまま、僕たちは父との思い出が詰まったアパートを出ていき、またあの貸し部屋の二階に移り住む。
こっちの貸し部屋の方がずっと家賃が安くて貧乏人の懐に優しいからだ。
母は結婚した後、この部屋から出て行ったから僕にとっては初めてのベイリー一家との対面。
不安を抱いたまま、新しい生活を送ることになる二階の部屋の扉を開ける。
部屋の中には僕より少し大きい女の子がせっせと掃き掃除をしていた。
母の幼馴染の子供だと紹介された彼女は、自分の事をマフェットと名乗った。
僕より三つ年上でしっかり者の女の子。
母がマフェットに僕の友達になって欲しいと頼むと彼女は「任せて!」と嬉しそうに答えてくれた。
それからの彼女はベイリー一家特有の余計なお節介焼きを発揮する。
学校も一緒の彼女は即座に僕が受けているイジメに勘付き、僕を庇い始めた。
そしてずっと隠し続けていたイジメの事をマフェットは平然と母に教えた。
話を聞いた母はまた悲しそうな顔をして、心配そうに僕の瞳をじっと見つめた。
まるで僕の中身を覗くように。
僕は侵入されまいと抵抗して見つめ返すが、次第に潤む母の瞳に僕は目をそらしてしまった。
「学校でのこの子を任せてもいいかしら?」
不安そうな母の声。
マフェットは自信たっぷりに「任せて!」と笑って答えた。
そして次の日からマフェットは僕を守る任務につき、彼女の友人たちも手伝うようになった。
厳重な守りに大袈裟だとマフェットの友人たちは茶化していたが、次第にそれは普通なことになり誰も違和感を抱かなくなっていた。
マフェットは終始ふざける事無く、当然の事のように僕を守り続けた。
そして僕を実の弟のようにかわいがり、世話を焼こうと一生懸命に働いていた。
お陰で僕へのイジメはだいぶ和らいだ。
だって三つも年上の先輩たちが大事に僕を守るのだ。
しかもマフェットは真面目で明るく、友達や先生たちからの人望が厚い特別な女の子。
そんな完璧な女の子に守られていた僕はそれはそれはもう、とっても屈辱的だった。
女の子に守られる。こんな恥ずかしい事があるものか。
彼女たちの好意には感謝している。しかし、まだ青タンまみれに擦り傷だらけの方がずっとましだ。
マフェットたちに守られる事が当たり前なってしまった僕は、学校や彼女たちから離れるために、父との思い出が詰まった森の中へと出かけるようになっていった。
森の中は安心する。
誰にもイジメられないし、怒られることも、気を使う者もいない。
弱い自分を守る人もいないし、僕の存在で悲しむ人もいない。
この森で僕はやっと誰にも干渉されずに自由になることが出来た。
だけどそんな平和も長くは続かず、彼女たちは森の目前まで現れるようになっていた。
彼女たちの強い正義感と優しさで、何もできない僕が色濃く浮き彫りになってゆく。
僕はもうそんなの耐えられない。
もう僕は僕を嫌いになるのが嫌なんだ。
「お願いだからほっといてくれ」なんて言葉を言える勇気もなく、この日も彼女たちの追っ手を振り切り森の深くまで逃げ込んだ。
乾いた風が吹き抜ける雑木林。
蜜が滴る幹を調べて珍しい虫を探し、新しい花を見つけてはスケッチブックに記録した。
風が次第に強くなり、空に浮かぶ雲の流れも速くなる。
一雨来そうだ。そろそろ帰ろうと、飛ばされそうになる紙の束を無理矢理に鞄の中に押し込んだ。
柔らかく湿った土の上を歩いて舗装された道路へと向かう。
ぬかるみに足を取られまいと懸命に足元を見て歩く。
その途中、視界の隅に一匹のネズミを見つけた。
驚きビクついた僕は飛び跳ねるように一歩後ろへと下がったが、ネズミは眠っているようで動かない。
これは野生のネズミをまじまじと観察出来るチャンスかもしれない。
普段はすばしっこく走り回る生き物が、目の前で動かずにぐっすりと眠っている。
前から図鑑ではなく、本物を観察してみたいと思っていた僕は獲物を定め、唾を静かに飲み込んだ。
ドキドキとなる鼓動を抑えつつ、ネズミが逃げ出さないようにゆっくりと忍び寄る。
あと一歩、二歩。ネズミの顔を拝める距離まで近づいた。
しかし僕はそこでネズミが静かな理由を知る。
ネズミの小さな口から、赤い液体が流れていた。
赤い液体。赤い血。
そう、ネズミは死んでいたのだ。
初めて見た野生動物の、哺乳類の死骸。
それはとても魅力的で、僕の心は飛び跳ねるような興奮を味わった。
もう、音の心配もせずに僕は堂々とネズミに近づいた。
指先でチョンっと触る。
しかし動かない。
次は掴み、持ち上げる。
親指、人差し指、中指の腹。
3本の指から伝わるネズミの筋肉は思っていたよりも強く硬かった。
長い尻尾も、細く尖った指先もカチコチに硬くなっており、重力に従い垂れることはない。
苦しみもがくような顔つき。
口は歪み、げっ歯類特有の前歯が醜く飛び出ている。
両目は生気の光が失われ、ぬいぐるみに縫い付けたられたビーズの目のような鈍い色をしていた。
それからも僕はネズミをいろんな角度に回して、舐めるように観察した。
怖いなんて一度も思わなかった。
むしろ死というとっておきなイベントに胸の奥底から湧き出てくる興味が、好奇心が僕の心を躍らせた。
きっと僕の瞳はギラギラと輝き、誰にも見せたことのない満面の笑みを浮かべていただろう。
それはもう、僕を見つけて恐怖に顔を歪めた彼とは対照的に。
ネズミを観察する僕の後ろから、ガサッと乾いた枯葉を踏む音が聞こえた。
クラスリーダー、ロビン・クレメント。
彼自身は直接僕をイジメたりはしない。
でも見下すような態度をよくしていた。
そんな彼が今、僕の背後に立ち、僕の手元を覗き込んでいる。
恐怖に震え、目元を引きつらせている彼と、振り向いた僕の目が会った。
彼は「うわー!」と大声をあげて、かっこ悪く後ろへと倒れる。
僕は立ち上がり、彼を起こそうと手を差し出したのだが、ロビンは尻餅をついたまま後ずさった。
そして自力で立ち上がると、その場から逃げるように走り去ってしまった。
彼もまた、ネズミの死骸に興味があったのかな?
そう思い悩む僕の差し出した手のひらに一粒、ポツリと雨が降り出した。
ロビンが倒れた場所には彼の荷物がばら撒かれたまま。
ノートに筆箱。虫眼鏡と植物図鑑。
カバンも全て泥がつき、降り始めた雨でこれ以上に汚れてしまうだろう。
僕は掴んでいたネズミの死骸を放り捨て、急いで彼の荷物を拾い集めると、濡れないように抱きかかえて母の待つ家へと走って帰って行った。
「忘れ物だよ」
次の日、僕は何事もなかったようにロビンに忘れ物を届けに行った。
僕は彼のカバンを両手に持ち、彼に差し出した。
彼がそれを受け取るのをじっと待つ。
しかしロビンは僕を見るや否や荷物ごと僕の手を払いのけた。
「触るな! 汚い」
荷物は地面に落ちてしまい、中身がその場にばら撒かれる。
ノートに筆箱。虫眼鏡と植物図鑑。
汚い。確かにまだ土がついたままだったかもしれない。
僕はまた植物図鑑を拾い上げ、表紙についてる土を手で払うと彼に差し出した。
「昨日、森に置いてっ……」「こっちに来るな! ネズミ殺しめ」
ネズミ殺し。
言われもしないその言葉に僕は目をまん丸と見開いた。
「昨日、森の中でこいつがネズミを殺すのを見た! こいつは化け物だ! 怪物なんだ!」
「違う」
「やめろ! 俺に触れるな!!」
そう言って今度は腕だけではなく、僕自自身をロビンは突き飛ばした。
近くの机に手をつき、倒れることを防ごうとしたが、僕は体勢を崩して後ろにあった棚の角に強く顔を打ちつけてしまった。
あまりの痛さに僕は顔を抑えてその場にうずくまる。
クラスメイトや先生はロビンの大声に何事かと集まりだした。
立ち尽くすロビンの前には、うずくまり倒れている僕の姿。
皆初めはロビンを見る。が、すぐに僕に注目の眼差しを向けた。
誰も「大丈夫か」とか、心配するような声をかけはしなかった。
気まずくなった僕はゆっくりと起き上がり、顔を押さえていた右手を外した。
何も変わりないよ。大丈夫だよ。と皆に振舞うためだ。
しかし集まったギャラリーの顔は昨日のロビンの顔のように引きつっていった。
何故だろう。僕は自分の右手に着いたヌメッとした感覚に気付き、それを確かめようと手のひらを見た。
そこには赤い血が付いていた。
赤い赤い真っ赤な血。
昨日のネズミが口から垂らしていた赤い液体と同じ真っ赤な血だ。
クラスメイトの一人が「うわ! 血だ!!」と叫んだ。
それを合図に次々と「血だ!」「血だ!」と子供たちの声が響き渡った。
鼻からツーっと赤い血が一筋流れると「ばっちい!」と罵られ、床にもポツポツ垂れてしまうと「キャーッ」と悲鳴が上がる。
だが誰もロビンを責めたりはしなかった。
彼もまた彼らと同じように僕を見る。
軽蔑の眼差し。恐怖の眼光。それらが僕をじっと見る。
僕だけをじっと見ている。
何度も何度も血を拭ったが、止まることはかった。
あのネズミのように血が流れ続けて、このまま死んでしまうんじゃないかと恐怖した。
体は硬くなり、冷たくピンと手足を伸ばして醜い姿を晒すのだと不安になった。
ここに僕の味方はいない。
まだ、汚いだの何だのと罵声が飛び交っている。
両の手のひらは赤く染まり、涙が溢れて僕の心は限界を超えていた。
僕は泣いて、走って、逃げ出した。
誰も僕の後を追いかけたりはしなかった。
だけど彼らのあの瞳が僕の背後に刺さってついてくる。
それを払うために僕はあの家に帰った。
町の中心、公園を目の前にした一軒の家。
そこの二階に僕の優しい母さんが、いつものようにエプロン姿で僕の帰りを待っている。
僕は血だらけの顔で母の元へ駆けよると、彼女のエプロンを掴んで顔を隠し、大声を出して泣いた。
「可愛い私のソロモン。どうしたの? その怪我は何?」
「皆んなが僕のこと、ばっちいって……僕の、血が、血がばっちいって」
グチャグチャの言葉の羅列に母は何度も何度も頷いて、僕の手当てを懸命にしてくれた。
心の内の悲しみを、言葉にして外に出すことはとても清々しいものなのだが、その分自分が弱くなるような気がして僕は今までじっと黙っていた。
だけどこの時の僕はやはり限界を超えていたのか、後先考えずに思っていたことすべてを母に話していた。
母はその言葉たちの意味を理解してはいなかったと思う。
「僕は汚い子なんだ。だから嫌われて当然なんだ。皆、血が嫌いで、僕の血は……血は、汚くって……」
僕は特別な子じゃない。こんな僕は愛される資格などない。
「そんなことないわよ。ソロモンの血はちゃんと鮮やかな赤色。綺麗な赤。赤は生きてる証なのよ」
母は僕の顔についた最後の血を拭き取る。
血は嘘のように止まり、僕の体は硬く冷たくなることはなかった。
「それに、パパの子だもの汚くないわ」
そう言って彼女はまた僕を抱きしめた。
抱きしめられた時、母の心臓の音がよく聞こえた。
ゆっくりと、しかし強く脈打つ生きてる証。
その心音は彼女の体をめぐり、透き通るピンクの肌の下に温かな赤を流してる。
僕の体にも、彼女と同じように血が流れてる。
泣きじゃくり、腫れあがった目元も赤く染まり、僕はまだ生きてるんだと実感する。
血は汚くない。生きてる証。僕は母の言葉のお陰で急に血が愛おしく思えた。
凄い凄いと感心していると、壁に掛けられた蝶の標本が僕を見つめていた。
父の形見。青い蝶。
『母さんを頼む』
弱くなった僕にそう囁いた気がした。
でもきっと無理だよ父さん。
僕は今日、この時しっかりと感じてしまった。
母は、彼女は強すぎる。
= = =
それから十数年。
結局あのまま学校をやめて、家に引きこもり勉強をつづけるも特に大きな転機はなく、幼少時代のトラウマを抱えたまま僕は成長し、より一層自分に劣等感を覚えていた。
とりあえず昔から持ち続けている画家になる夢を志して美大の受験に挑んだりもしたが、なかなか上手くいかずに一人ひねくれた毎日を送っていた。
最終的に絵は独学で、趣味の範囲を超える事はなく、決まった職に就きたくても長続きできずに転々と仕事を変えていた。
朝から定時まで働き、残りの時間で絵を描いて寝る。
日曜日には教会の神父様からありがたいお言葉を貰い、絵を描いて寝る。
ただこれだけの生活、これだけの人生。
いい加減この生活に飽き飽きしていた時だ。
1939年、また大陸の方で大きな争いが始まった。
僕はその知らせを聞くとすぐに兵として働くことを志願した。
別に野次馬的な精神でも英雄気取りでもなんでもない。
ついに僕も父と同じように兵士となる時が来たのだと思っただけだ。
それに、戦場に行けばまた父に会える気がして僕の心は高ぶった。
尊敬し、憧れの存在である僕の永遠のヒーロー。
その背中に、指先だけでも触れる距離に行けるかもしれない。
だけど母は僕の希望を頑なに拒否し続けた。
彼女の不安な気持ちもわかる。
でも父との交わした約束を守る最後のチャンスなのだと何度も何度も説得した。
しかし彼女は変わらず「私の可愛いソロモン」と言うだけだった。
戦争が始まって半年。
ついに僕は逃げ道を無くすために今ある仕事を辞めて、急いで軍に志願届を送った。
初めて母の意思に反抗した。
母を裏切る罪悪感は重く圧し掛かったが、すぐに返事の手紙を待つワクワク感で気持ちは薄らいだ。
暫くして僕宛てに軍からの手紙が届く。
そこには試験の日付が書いてあるだけだったが、僕はもう合格したかのような気分になって手紙に何度も抱擁をした。
まるで夢のようだ。
これが現実であってほしいと何度も願う僕は、試験会場に向かい、名前を呼ばれる時を今か今かと待ちわびた。
試験を受けたことは現実だ。
だが思い描いた未来は全くの幻であった。
僕は兵士としての体力試験で不合格になってしまった。
試験会場に向かう途中、慣れない列車と人ごみで精神的にも肉体的にも疲労しきったまま試験に挑んでしまったのだ。
兵士として認められ、受け入れられた合格者たちを尻目に僕はすっかり体調を崩して母の元へと返されてしまう。
「私の可愛いソロモン。
可哀想に。今すぐにお薬を買ってくるわね」
どこか安心したような、嬉しそうな眼差しを寝込む僕に向ける母。
細い母の腕が、やさしく僕のひたいを撫でる。
僕は母を守るどころか、ずっと母に守られっぱなしだ。
「貴方はこのままでいいのよ。無理しないで。私の可愛いソロモン」
ひたいに感じる優しい体温にうながされ、僕は深く眠りについた。
しかし数日経っても病状は良くなることもなく、より悪化した。
寝込む僕に母は冷たいタオルで何度も顔を拭ってくれる。
もう僕は子供じゃないのに。
そう言ったって、母は嬉しそうにせっせと僕の世話をする。
いつまで経っても治らない僕を診る彼女は日に日に痩せ細り、その凛々しい美しさは失っていった。
彼女の顔色は血の気の引いた白い色。
癖のある長い黒髪からのぞき見える唇だけが、ただ一つ赤い色をしていた。
この日も僕に語りかける。
困ったように、優しく嬉しそうに。
震える唇がにっこり笑い、彼女は言うのだ。
あの口癖を。
「可哀想な私のソロモン」
可哀想なソロモン。いつしか僕は”可愛いソロモン”から”可哀想なソロモン”になっていた。
可哀想だなんて言わないで。
惨めな気持ちがより一層大きくなる。
「今、大きな街まで行っていいお薬を買いに行くからね。
夜まで帰ってこれないけど、しっかりお留守番するのよ」
嬉しそうな声色で、彼女は僕の額にキスをして、重く固い扉を閉めて出て行った。
時計の音だけが部屋にこだまする。
冷めぬ熱で頭の中はぐわんぐわんと鳴り響き、壁に掛けられた蝶の標本達が変わらず僕を監視する。
『お前はいつになったら母さんを守るんだ』
わからない。
優しく可憐で、触ってしまえばガラスのように崩れそうな母は恐ろしいほどに強いのだ。
そんな彼女を守る隙なんて、もうどこにもない。
『いつになったら役に立つ? いつになったら父さんの期待に応える?』
わからない。
そんなのわからないよ。
やっと応えられると思ったのに。
やっと期待にそぐなう子になれると思ったのに。
ねえ誰か、
誰か教えておくれ。
僕が、強くなる方法。
僕はその日、深い眠りのどん底に陥ってしまった。
このまま目が覚めなければいいのに。
だけど大家のベイリーおじさんが急いで部屋に入ってくると、僕を無理やり起こして幾数枚かの写真を突き出した。
今日が何日の何曜日かもわからない。
僕は重たい頭を起こして渡された写真に目を通す。
それは瓦礫となった建物が鮮明に写ったある町の写真。
大きな通りと沢山の建物。
白い煙が立ち昇り、人々がそれを眺めてる。
なんの写真かと尋ねると、大都市が空襲にあったと言う。
それを聞いた僕はまた、写真に目を通した。
白黒写真の中には見知らぬ人々の寂しそうな顔。
そして冷たい瞳と小さく空いた口が誰かを探しているようだった。
本当は何の写真か、見せられてすぐにわかった。
でもそんな事、わかりたくはなかった。
『これがお前への罰だ。諦め、約束を破った悪い子への罰』
日に濃くなる戦争色。
屋根裏で、物置の隅で、防空壕の中で、守るべき人を僕は待ち続けた。
『お前は特別な子でなければ、愛される価値もない存在』
あんなに悪かった体調もいつの間にか治っていた。
もう僕はすっかり元気になった。
顔色も赤味が映えて、健康的で、薬なんかもういらない。
なのに、それなのに。
いくら待っても、待ち続けても。
戦争は終わり、怯える日々が過ぎ去ってしまっても、母は、あの日から帰ってこなくなってしまった。
結局僕は一度たりとも母を守れなかった。
埃を被った父の形見が未だに語りかける。
『母さんを頼む』
期待に応えたかった。
でもダメだった。
無理だった。
父を裏切ってしまった僕は何もかもが怖くなって、大切な蝶の標本を全て打ち壊し、解体し、燃やしてしまった。
蝶たちの悲鳴が耳に刺さり、胸が締め付けられるように痛くて苦しい。
焼却炉の火に照らされて、僕はあの子供の頃のように大人気なく泣いて、泣いて、泣きじゃくった。
母さん。最後まで貴女の可愛い子でいられなくってごめんなさい。
父さん。無力な僕を許してください。
「私の可愛いソロモン」
僕は母を守れなかった。