8th day SATURDAY
目まぐるしい金曜日を終え、土曜日の朝が来た。
あの後ケリーは傷つけた肖像画に対して何も言わずに帰ってしまった。
幸いなことに傷は浅く、すぐに直せる。
しかし何処が気に入らなかったのか。
どう絵を直せば良いのか分からず、ソルは絵の修復作業に入れずにいた。
折角、愛しの女性に会えたというのに、彼女の肖像画にも筆はのらない。
唐突に襲いかかるスランプにソルは参ってしまった。
しかし今日も今日とて仕事を見つけて働かなくては、このままじゃ餓死してしまう。
寝巻きから颯爽と普段着に着替え、朝食を取ろうと部屋を出た。
だがその時、扉を開いた時だ。はらりと何かが舞い落ちる音が微かに足元から聞こえた。
何か持ち物を落としたかと下を見る。すると一枚のカードが落ちている。
それを拾い上げ、書かれた文章を読んだソルは目を真ん丸く見開いた。
「今日の夕方、ロンドンに旅立ちます。
ジャックリーン・ザ・リッパー」
ロンドン。
唐突な彼女からのアプローチにソルは自分の心臓が跳ね踊ったように感じた。
この鼓動は喜びか驚きか。
彼女が大都市に放たれる事への恐怖か、離れ離れになる事への悲しみなのか。
一体何が起きている。起こるのだ。
彼は急いで階段を駆け下り、キッチンへと向かった。
途中リビングで軽い朝食を嗜むベイリーが、普段は見られない彼の喜々する姿に驚いた目で見ていた。
その目には大きなクマが出来ており、眠たそうに垂れている。
「おはようソル。今日は元気がいいな」
「ベイリーおじさん。急で申し訳ございません。
今日の夕方からロンドンに出かけてみようと思います」
「本当に急だな。どうしてロンドンに?」
当たり前な疑問だ。しかしソルは何も話さない。
焼きあがったトーストにバターを塗るカサカサとした音と、お湯が沸いた音だけが部屋に籠る。
しばらくしてベイリーは何かを悟ったのか、静かに「そうか」と納得したように優しい声で言った。
「出かける前に、部屋は片付けといてくれよ。
絵のモデルか知らんが、その……悪臭が廊下まで漏れてきているぞ」
そう言われて未だに朝食セットのモチーフをそのまま放置している事を思い出した。
腐ったモチーフたちと同じ部屋で過ごし、時折窓を開けて換気していたので本人は気にしていなかったようだ。
五感の中で特に嗅覚は順応しやすいと聞く。
確かに彼の鼻は悪臭に慣れてしまっていたようだ。
「ああ。申し訳ございません。出かけるまでには片付けます」
困った顔をして詫びるソル。
ベイリーはそんな彼の顔を見て、安心したように優しく笑った。
= = =
時間を少々遡る。
昨夜、ソルが家に帰るのを見送ったベイリー。
そしてロビンはソルを取り調べる前に一人の人物を捕まえていた。
その人物とは、彼よりも先に路地裏から出てきた一人の女性。
初めは、事件の犯人かと身構えたが、彼女は「助けて!」と何度も叫びながら出てきた。
保護した時、彼女は恐怖に取り憑かれてガタガタと震えており、結局その日のうちに彼女から事情を聴く事は出来ずにいた。
そして土曜の朝方、ベイリーが一度帰宅してから数時間後。
ようやく彼女は口を開くことができるようになった。
小さな取調室にロビンと昨夜保護した女性がいる。
部屋の二面は大きなガラス窓になっており、他の警官たちがそこから二人を監視すように立ち並んでいた。
女性は一日中泣いていたのか目が赤く腫れており、毛布にくるまっている。
ロビンは女性に今までの事件の詳しい話や、街の人にまだ公表していない証拠品などを彼女に見せていた。
女性は平常心を取り戻そうと、出された温かい紅茶を一口すする。
しかし昨夜の不安と恐怖が和らぐことはない。
彼女の気持ちをよそにロビンは容赦なく女性に質問を投げつける。
彼の口から「犯人の女性」と言う言葉が出るたびに女性の手は小さく震えた。
そしてついに保護した女性は紅茶を飲む手をぴたりと止め、驚いているのか呆れているのか、その両方ともとれる表情をして怯えるように話し出す。
「……彼女ぉ? 貴方達がなぜ犯人を捕まえられなかったのかよく分かったわ」
被害者の女性の話を聞いているうちにロビンたちは大きなミスを見つけてしまった。
ベイリーの言った言葉「噂話を間に受けるな」が、今ようやく彼らに教訓として染み込んだ。
「あんな、力強くて恐ろしい女性がいるものですか!犯人は……!」
犯人は、彼の最も知る人物であった。
= = =
朝食を食べ終わり、出かける準備を終えたソルは玄関先に置いてあるアトリエの看板をしまっていた。
今日のアトリエ・サンはお休みだ。
窓際に飾ってあった見本の静物画も看板と共に部屋の奥へと片付ける。
その側に飾ってあった胡蝶蘭はすっかり萎れてしまい、みすぼらしい姿になっていた。
「それでは行ってきます」
「予定よりも随分と速いね。いつ帰ってくる予定だい」
「……明日には」
「そうか、ちゃんと帰ってきておくれよ」
でないと娘の次に、息子のように可愛がる大切な友人までもが居なくなってしまう。
そんな気がしてベイリーはそのまじないの言葉を彼に送った。
返事はちゃんと「はい」と素直に返ってくる。
ソルは静かにはにかみ、使い古されたトランクと紙袋に包まれた板のような手荷物を持って深々とお辞儀した。
今日はいい天気だ。
青空が澄み渡り、春がすぐそこまで来ていることが伺えられる。
しかし少々まだ肌寒い。彼は黒いコートに袖を通した。
そしてベイリー宅の玄関扉を潜り、外に出て行く。
「おはようソル。今からどこに行くの?」
ニッコリと笑うケリー。
駅に向かう途中、いつの間にか彼の後ろからひょっこりと現れ、当たり前のように彼について行く。
彼女は相変わらず楽しそうに笑い、頭の上にのった大きな白いリボンをゆらゆら揺らす。
「今、ベイリーさんは家にいるよ」
本来、彼女はベイリーに用があってあの家にたびたび尋ねに来ていたのだ。
それなのにいつの間にかソルとの話友達になっていた。
いや、彼としては彼女と友達だなんて言ってもらいたくはないだろうが、傍から見ればそのような関係になっていた。
「ううん。今日はソルに用があるの」
「私に?」
「うん」
少女らしく、混じり気のない澄んだ返事。
昨日の最後に見た静かな彼女と違い、元の元気な明るさがある。
昨日のままの気まずい雰囲気が続いていると思い、緊張していたソルはその肩の荷をストンと降ろした。
そして彼は駅に向かっていることを伝えると二人はその方角へ一緒に向かう。
「昨日はせっかく描いてくれた絵に傷をつけてごめんなさい」
「いいや、依頼主に気に入ってもらってこその仕事だから。帰ってきたら描き直すよ」
「じっくり見て描いてね。ソルの絵は感情がないから」
感情が無い。
唐突の彼女からのアドバイスに彼はムッとへの口をした。
彼女は絵の何を知っているのか。
少しムカッときたような反応をするソルに、彼女は言ってやったぞ! というような楽しそうな笑顔を浮かべた。
「でも、大丈夫よ。彼女の絵はよく見て描いてるもの」
そして、急に彼の絵を褒める。
彼女は一体何が目的なのだろう。
突然ふられた優しい言葉に小恥ずかしさを感じたのか、ソルは持っていた紙袋の包みを強く抱きしめた。
「聞いてもいいかしら。その包みは何?」
「絵だよ」
「絵?」
「彼女の肖像画」
ケリーの顔にうっすらと影が落ちる。そして、口をニタリと笑わせた。
「ついに出来たのね」
「いやまだだ。
今、少々スランプ気味で……街のホテルで続きを描こうと思って持って行くんだ」
「街?そういえば、どこに行くの?」
「ロンドン」
「ロンドン……」
先ほどまでずっと話し続けていた彼女の言葉が止まった。
あまりにも静かすぎて居なくなったのかと、彼女が歩いていたところに目をやる。
しかしちゃんと彼女はついてきていた。しかも、じっと彼の目を見つめていた。
その瞳は夕暮れの青に似ていて、全てを見透かすような暗く、恐ろしい色をしている。
彼女の瞳に恐怖を覚えたのか、ドキッと心臓に冷たい血液が流れた。
そういえば、彼女はロンドンから訪ねてきたのだったか……
「ケリーのご両親にも挨拶しに行った方がいいかな? 住所は?」
「イーストエンド」
ソルは彼女に聞いておきながら、一瞬にして嫌そうな顔と驚きの顔を同時にしてみせる。
「大丈夫よ。確かに今は瓦礫ばっかだけど、噛み付いたりしないわ。でもオススメしないよ」
淡々と明るく話す少女に何故か恐ろしさを覚える。
時々見える彼女の大人らしさは育った環境にあったのか。
ソルはここで彼女との会話を止めてしまう。
「なんで会話が止まるの? どもりさん」
「わ! 私は……」
「どもりじゃない。でしょ? それじゃあ、ロンドンで何するの?」
「ロンドンで何をするかって……」
せっかくケリーが振ってくれた会話だが、ロンドンですること。
それは特に決めていなかった。
黒の彼女が置手紙でその町の名前を指名した。だから私はそこに向かうのだ。
と、ケリーに素直に話す事は出来なかった。
ただでさえ、愛だの恋だのと勝手な解釈をする少女にこれ以上何かしらの情報を与えるのは危険だ。
しかし、ちゃんとケリーを納得させるような話をしなくては列車に乗るまで延々と聞き続けるだろう。
ソルは諦めたかのように長い息を吐き、少女の暗い青空の色した瞳を見つめてこう応えた。
「姉さんに会いに行く」
= = =
ベイリーは朝の身支度を終えていた。
昨夜保護した女性の証言を聞きに職場へ向かおうと、玄関先で最後の確認をしていた時だ。
玄関チャイムが長く鳴り響き、ロビンの荒げる声とドアを叩く音が同時に聞こえた。
何事かと扉を開けると玄関前にはロビンを先頭に七人ほどの警官たち。
「ちょっと! ロビン君!一体何事だ!」
「ソルはいるか? 上の部屋か?!」
「いいや、夕方の列車でロンドンに行くと言っていた。
が、だいぶ前に駅に向かって出ていったぞ」
「そうか……」
ロビンは一瞬ベイリーを睨みつける。
まるで、使えない部下を見下すような目で。
ベイリーもそのことに気づくがすでにロビンは自分の部下たちに命令を下していた。
「それでは、家宅捜査にはいる! 後ろの二人はソルの後を追い、奴の行動を監視しろ」
「家宅捜査?! ちょっと困るよ、いったいどうしたんだ?!」
慌てふためくも警官たちは次々と家の中に入りこみ、二階にある彼の部屋にも向かう。
「昨夜保護した女性がついに証言した。あの後に路地から出てきた奴が犯人だ!」
「だからと言ってソルが犯人だという証拠はないじゃないか! それに犯人は……」
「犯人は女性ではない。
被害者が男性だとハッキリ言った。ハサミを持った男に襲われたと」
そう言うとロビンは証拠品であろう鉄のハサミを取り出した。
大きな刃の先には赤い液体だったものが付着している。
「ベイリー警視正。あなたには黙っておりましたが、ソルが帰った後にあの辺りを調べていた部下がこんなものを見つけましてね。
ゴミ箱に捨てられていました。見覚えは……ありませんか?」
使い古されたハサミには幾つもの傷や錆がついていた。
そして小さく、持ち主のものであろうイニシャルも刻まれている。
それを見たベイリーは唾を飲み込んだ。額に汗が垂れる感触が伝わる。
恐ろしいことを知った。
たしかに、その証拠品は彼が知っているものだった。
急に突きつけられた事件の展開に混乱するベイリーをよそに、二階からロビンを呼ぶ大きな声が聞こえた。
「な……何かの間違えだ。そんなハサミ、どこの文房具店でも売っている。
イニシャル一文字だけで断定するなど……
ソルが帰ってきてから、彼から直接聞こうじゃないか。ねえ」
だがロビンは聞く耳持たずと言った感じに、呼ばれた二階へと向かっていく。
階段を上りきると右に廊下が伸びている。
二つ目の扉、開かれた部屋の入り口で数人の警官が驚き慄いていた。
急いで彼らに駆け寄ると、今までに嗅いだことのない異臭がロビンの鼻を刺激した。
部屋の中は警官に荒らされ、スケッチブックや下書きの絵が散乱している。
しかもその絵の人物は全て黒髪に黒いドレスの女性。
丁寧に描いた日付もついていた。
片付けられた机の上には、木曜日の夜に殺されたマダムの形見であろうダイアのネックレスも。
これだけでもうソルが事件とは関係ないとはいえないだろう。
だがしかし警官たちが驚いていたのはこれらの証拠品ではなかった。
入口のすぐ横に置かれていた折り畳み式の簡易ベッド。
初めはホコリよけの布を被って部屋の隅に邪魔者として避けられていた。
スプリンクが錆びつき、開くことができなくなっているようだ。
しかしそのベットはしっかりと部屋の壁に立てかけておらず、少しだけ隙間を作って置かれていた。
静かにベッドをどかす。
するとその隙間から毛布に包まれた何かが、この時を待っていたかのように現れた。
所々に黒いシミが染みついている。
何も知らない警官たちは、不思議がることもせず毛布を剥ぎ取る。
パリパリと毛布から出るとは思えない不気味な音、そして急激に増す異臭が彼らを怯ませた。
そして毛布に包まれていたものが顔を出した時、見慣れているはずのものなのに彼らは悲鳴をあげるほかなかった。
布には女性の死体が包まれていた。
すでに腐敗は進んでいるようで見るに堪えない。
ロビンの後をつけてやってきたベイリーも女性の遺体を見るや否や悲痛な叫び声を上げた。
「マフェット!」
そう、この遺体はベイリー氏が探し続けていた最愛の娘。
ソルが姉と慕う、マフェット・ベイリー。彼女本人だった。
町中を走り回っても見つからないわけだ。
彼女は他の被害者たちよりも死んでから随分と時間が経っているようだ。
春だというのに、まだまだ続く冬の気温のせいかお陰か見た目だけでは死後どれくらい経っているのかすぐに判別できない。
しかし隠しきれない異臭で、彼女の内臓は随分とドロドロに溶けてしまっているだろうと想像する事はできた。
首を何度も切ったあとがある。
だが致命傷と思える傷以外はどれも浅く、ためらった様に見える。
血は乾いているが傷口が膿んでいてとても汚らしい。
ベイリーは悲しみのあまり娘に抱き付こうとするも、死体を動かすなとロビンに止められた。
「いつだ?! 奴が乗る列車は何時のだ!」
「わからない。夕方の列車だとしか」
「先に入った二人はこのまま部屋を調べろ! 残りの奴は私と共に駅に向かう! 急げ!」
何という盲点か。
全く事件と関係ない人物だと気にしていなかったあの男が関係していたとは。
ロビンは馬鹿にされた様な、けなされた様な悔しさで唇を強く噛みしめる。
彼自身もソルが事件に寛容しているなどと信じたくはないのだ。
それは彼の身を案じてなどではない。
自分より下だと見下し馬鹿にしきっている相手がいつの間にか恐れる存在、意識せざるおえない存在になる事への恐怖からだった。
今だって目撃情報の一つ、黒髪の謎が解けていない。
彼は暗い金髪で肩にも届かないほどの短髪だ。
黒ずんだ金髪だから、雨の日の夜や暗い路地で黒色に見間違えたのかもしれない。
保護した女性も犯人は方まで伸びた黒の長髪だとハッキリ言っていた。
少なくとも彼は真犯人ではなく、共犯者の片割れなのだろう。
せめてそれくらいの地位だと思いたい。
しかしそうだからと言って、彼を捕まえる事は変わりないのだ。
いい加減『気弱で何もできない』と書き留めた男のレッテルを剥がさなくてはいけない様だ。
ロビンは一歩一歩強く蹴り上げて駅へと急いだ。
= = =
「私にもね、姉さんと呼べる人がいたんだ。ベイリーおじさんの娘さん」
ソルとケリー、二人は駅のベンチに座りロンドン行きの列車を待っていた。
駅には彼らの他に、ソルの後を追って一般人に扮した警官二人しかいない。
そうとは知らないソルは独り言のようにケリーに、自分の姉の事を話し出した。
「ケリーのお姉さんと同じで、いつも私に良くしてくれていた。
事件の間はいつ姉さんの死体が出てくるのか……怖かった」
「でも、出てこなかったね」
優しく笑うケリー。
彼も安心したように「ああ」と返事を返す。
「ソルはおねいさんのことが好きなの?」
「……嫌いだ…………すごく」
「へぇ」
「彼女はいつだってお姉さんぶって僕のお世話をしようとしていた。
いらないお節介ばかりかけるし、自分のものだけを押し付けて、僕の好きなものは二の次。
僕と彼女は他人なのに……」
苦しそうに心の内を言葉にして話す。
今までこんなことはなかった。
しかし今、この町から離れる前に話すべきことなのだと彼は思って話しているのだろう。
ケリーもその気持ちに受け答えるように彼の言葉に耳を傾ける。
「僕にはない元気で明るい性格で、友達も沢山いて、皆に頼られて。
皆に愛され、強くて守る必要のない人だと思っていた。
そんな彼女が大嫌いだった。完璧な人間。非の打ち所のない。
皆と楽しそうに笑う彼女が僕は大っ嫌いだった……。
でも、だけど、この間の日曜日に彼女は帰ってきたんだ。
心身ともに疲れ果て、あの家に救いを求めて帰ってきた。
その時の彼女の顔をみて初めて知ったよ。
彼女は、笑顔が似合う子だったんだって。
あんなにも嫌いだった彼女の笑顔が、今は凄く恋しい。
また……一緒に、笑いたいな……って、そう思ったんだ」
潤み出す声色。
それは明らかに彼が悲しみの感情を表に出さぬよう堪えているものであった。
ケリーは彼の顔を伺おうと見上げる。
しかし彼もまた、白い雲が水玉模様のように浮かぶ青空を見上げていた。
「大丈夫?」
珍しく気を使う声をかけるケリー。
彼は変わらず、空を見上げて言う。
「うん、平気。
だって僕と姉さんはもうひとりぼっちにはならないから」
小さく捻り出した言葉は冷たくも嬉しそうな声色をしていた。
不気味で優しい彼の声に、ケリーはその答えの意味を聞こうと声をかけた。
「ねえ、ソル」
「なんだい?」
その時、後ろから「止まれ!」と言う大きな声が聞こえた。
「ソル! ソロモン・ジェームズ・ボガード! 貴様に殺人の容疑がかかっている!!」
突然の事にソルは驚き、大きく振り返った。
そこにはロビンが鬼の形相で彼を睨みつけている。
「昨夜、連続殺人鬼に追われていたと思わしき女性を保護し、犯人とつながる情報を証言してもらった。
彼女の後に、あの路地から出てきたのはお前だけだ」
「い……一体、何の話だ?」
「先ほどお前のアトリエを調べさせてもらった。
部屋から三人目の被害者エリナの遺留品である、ダイヤのネックレスを見つけた。
それだけでなく、第一被害者であろうマフェット・ベイリーの遺体も発見した!
一緒に署まで同行してもらおうか!!」
何が起きているのか分からないといった表情のソル。
何かしらのおふざけかと思うも、どうやら違うようだ。
ロビンと共に来た警官たちは拳銃の銃口をソルに向けている。
先にソルの後をつけていた警官たちも拳銃を握りしめ、いつでも撃てるようにと引き金に指をかけていた。
「なんの事か分からない。私は違う……私はただ、彼女に会いに行くだけだ」
「彼女? 共犯者と思われる黒髪の男か!」
「違う! 私は、人殺しなど……ましてやマフェット姉さんを殺すなんてこと……!」
ソルはただ動揺するばかりで、ロビンの声はまるっきし聞こえていないようだ。
彼の目は焦りの色に変わっている。いつもの冷静沈着な瞳はどこにもない。
今なら彼を傷つける事無く捕まえることが出来るだろう。
緊張した空気の中、ロビンは静かに一歩前に出ようと足を運んだ。しかし、
「キャーッ!」
と小さな女の子の金切り声がその場に響いた。
同時に、建物の陰に隠れていた一人の男がソルの左胸に向かって銃弾を撃ち込む。
彼は二番目の被害者、マティルダの恋人。
ジャックリーンの事件を最初に担当していた警官だが、彼女が殺され錯乱し、調査から外されていた。
しかし彼は、彼独自で犯人を探し当て、隠れて後をつけていたようだ。そして彼の復讐は見事成功を収める。
ソルの左胸に空いた丸い傷口から真っ赤な血液がとめどなく溢れ出る。
「え?あ、」とソルは、自分の血を拭うように胸元に手を当てた。
熱い。
熱い。
熱い。
痛い。
その感情が彼の心を支配し、みるみるとその顔は恐怖の色に染まっていく。
男の狙撃を発砲の合図と間違えた他の警察たちも、次々と引き金を引いた。
ロビンが大声でどなる。
「やめろ! 奴を撃つな! 奴はこの事件の重要参考人だ! 発砲止め! 止め!」
しかしすでに彼は何発もの銃弾を浴びせられ、脳天にも数発当てられていた。
『痛い、痛いよ! 誰か助けて! マフェット! マフェット姉さん! ケリー……ケ……リーぃ?』
彼の心に今までになかった疑問がわく。
先ほどの切り裂くような悲鳴、あれは誰のものだ。
少女の声だった。ケリーのものか?
しかし警官たちが来てから彼女の気配が消えた。
消えた? 何処へ?
そもそも、彼女は本当に初めの被害者の親戚なのか?
彼女はなぜいつもタイミング悪くベイリーおじさんが留守の時、ソルが一人の時ばかりに現れるのか。
本当に偶然か……。
スローモーションのように膝から崩れる。
彼は静かに瞬きし、その瞼の裏にかの女姓の姿を思い浮かべていた。
長い前髪で隠れた目元、不適な笑みを浮かべる赤い唇。
ジャックリーン。彼女もまた一体何者なのか。
しかしその謎はその場ですぐに解明された。
しかもそのネタ晴らしをしたのはソル自身だった。
倒れきる直前、ソルの目の前に黒くて長い前髪が現れた。
彼の頭の左右からも風になびいて黒髪があふれ出る。
その場にいた誰もが、特にソルと同級生だったロビンなんかは瞬きする事も忘れて我が目を疑っていた。
なんと彼は金髪のかつらを着けていたのだ。
どんな理由があってかはわからないが、確かに彼は金髪のかつらをかぶり、地毛の黒くて癖のある髪を隠していた。
それが、先の銃弾の衝撃と倒れこむ反動でするりと取れたのだ。
彼の黒髪は肩まで伸びた長髪。目撃情報通り。
警官たちは彼を取り押さえようと近づくことをせず、その場に固まりついている。
彼の周りに赤い水たまりは広がり、黒髪も赤く濡れていく。
そして、その髪を見つめるソロモンは寂しそう眉間にしわを寄せた。
『ああ。ついに、ばれてしまったか』