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愛像偏愛―bloody lovers―  作者: 赤井家鴨
第一幕 一週間
6/11

6th day BONNY AND BLITHE, 

挿絵(By みてみん)

元絵:「イゾルデ」

月曜日の朝、私が姉と慕う大家の娘がひょっこりと帰ってきた。

急に帰ってきたものだから大家のベイリーおじさんと私はただ驚くばかり。

彼女はそんな私たちがおかしいと笑ってみせるが、笑顔がどこかぎこちない。

 私は彼女の実家である家の二階を借りて暮らしている身なので、どうこう言うような口を持っているわけではない。

だが、私が五つで彼女が八つの時から共にこの家で暮らし育ってきたのだ。

強がりで滅多なことがない限り家族にも見せない弱々しい彼女の雰囲気に私は疑問と不安を覚えた。


 干からびたパンにジャガイモのスープ。食糧難の時代の中、ベイリーおじさんが娘のためにと台所中からかき集めた贅沢な昼食。それを久しぶりに三人で囲みながら食べた。

お腹が満たされ安心したのか、やっと彼女は帰ってきた理由であろう話をぽつりと話し出すのだった。


 十数年間、おしどり夫婦だと思っていた彼女の旦那が浮気をしていた。

だいぶ前から仕事の帰りが遅くなり、休日も家を空ける日が増えて疑問に思っていたと彼女は言う。

しかしそれは戦後という先の見えない未来のため、少しでも楽な生活をするためにと一生懸命に仕事をしてお金を貯めているのだと思っていた。

だが彼女は最近、近所のおばさんたちが話す世間話の中で旦那が浮気している事を知ってしまった。

嘘だと思ったが不安になり旦那に問い詰めた。が、言葉を濁されシラを切られてしまう。

結婚して長くはなるが未だに子供もいない。

誰に相談をしようとも、こんな狭い町中じゃ話に変な尾ひれがついて広がってしまう。

疑心暗鬼にしか働かなくなってしまった彼女の心はついに耐えられなくなってしまい、こうして最後の砦である実家に帰ってきたのだった。

気さくで明るい性格をした彼女からは信じられない話だ。

「もっと早くパパに言えばよかった」

彼女は涙をこぼしながら黒いコートの裾を握りしめてそう呟いた。

だが私は知っている。彼女はこんな時も決して自分の父親に、本当のことを全て話さない事を。



まだ私たちが幼かった頃、おじさんは仕事熱心すぎて自分の奥さんと離婚してしまった。

別に夫婦仲が悪かったわけでも、冷め切っていたわけでもない。

彼の仕事への愛情が奥さんよりも勝っていただけだ。

それを分かっていたのか彼女は母親に引き取られた後でも、父親であるおじさんを信用し続けていたし信頼していた。家族を奪った仕事を恨んだこともなく、人を守る大切な仕事だと誇りにすら感じていた。

そしておじさんも、彼女の期待通りの素晴らしい父親であり続けた。

奥さんが病気で亡くなると葬式では大粒の涙を流して深く悲しんだり、親戚に無理だと反対されても自分の手で娘を育てると言い張って八歳になったばかりの彼女を引き取った。

だが仕事に対する情熱は変わることはなかった。その姿勢は余りにも完璧すぎて他人から、仕事が”好き”なのではなく”愛している”のではないかと指摘されても仕方ないほどであった。

それでもやはり彼女は、クタクタになるまで人の為に働き詰める父親の姿に痛く感動していた。

しかしその姿勢が彼女を、幼少期の頃から父親との距離を大きく遠ざけさせていた。

自分なんかのくだらない悩みを話して仕事の邪魔をするのではないか? そんなことを話しても良いのか? これが、彼女が彼女の父親と話す前に思い悩む心境。

それはおじさんが仕事を引退した後も彼女の心を惑わせ続けており、本当のことを言えなくさせているのだった。

私は子供の頃にそんな話を、彼女が照れ臭そうに話してくれたから知ってはいた。

しかし、きっとベイリーおじさんはその時は知らなかったと思う。

気付いたと思う頃には娘はとうに嫁いでいたし、戦争も終わっていた。

仕事を引退してやっと娘と向かい合える時間を手に入れたにも話を聞く相手がいない。

時間を持て余したおじさんは、中途半端に町の人たちの相談相手になってしまった。



きっと今の旦那の話だってどこか隠しているところがある。

近所の世間話で知ったのは本当だろうが、問い詰めて終わりは嘘かもしれない。

きっと問い詰めた後に旦那の後をつけて自分の目で浮気現場を確認してはいるだろう。

彼女の性格を知らないおじさんは、念願叶って娘の心の内を聞くことができた。

彼は彼女の事を思い、ただ瞳を潤わせて娘の肩をやさしく抱いた。

「よく話してくれたね。お前が苦しむことはないよ」

おじさんはあらかじめ準備していたような優しい言葉をスラスラ話す。

私も何か気の利いた言葉をかけなくてはと焦って言葉を探すが、彼女は「ごめんなさい」を繰り返して泣くばかり。

私は深く考えることができなかった。

なぜ謝るのか「お姉ちゃんは悪くないよ」なんて当たり障りない言葉しか出なかった。

頭の弱い私の目一杯の言葉。彼女の傷を癒すにはこれで合っていたのだろうか。

彼女は私の言葉にもただ「ごめんね」とつぶやくだけだった。

私と彼女は血の繋がっていない赤の他人である。

しかし他人と言えども子供の頃は同じ一つ屋根の下で暮らしていた。

今でも私は彼女の事を実の"姉"のようにしたっている。

浮気の話だって可哀想にと同情したし彼女の悲しむ姿を長くは見たくはないと思った。

それならばもっと良い言葉をかけるべきであったのだろう。

彼女に「ごめんね」以外の言葉を引き出すような、優しい言葉を言えたのではないかと今だからこそ考えてしまう。しかしやはり私には気の利いた言葉を思いつくことができないのだった。


会話がひと段落すると、しばらくは実家に居たいと言う彼女に私は急いで二階の部屋を掃除しに向かった。なにせ彼女の部屋だった場所は今、私が描いた無価値の絵画たちに侵略されて物置に変貌していたからだ。

急いでアトリエに絵を運ぶ私を、目を赤く腫れさせた姉がニコニコ笑って近寄ってくる。そして私が描き溜めた絵画たちをパタパタめくって見始めた。めくるたびに積もった埃がキラリと舞う。

「アンタは好きな人とかいないの?」

「私なんかに誰も近づかないよ」

私から近づかないからね。人が怖い。

彼女ですら長く離れていたせいか今は怖い。一緒にいる空間に息が詰まりそうだ。

「そんなネガティブ思考はダメだよ」と彼女は私の鼻をつまんで小さく笑う。

静物画ばかりの絵に飽きたのか、最近の出来事や面白い話はないかと無意味な質問を繰り返す。積もり積もった話をしたからか、先ほどよりもだいぶすっきりとした顔をして素直な笑顔が垣間見えた。折角帰ってきたのだからベイリーおじさんと話せばいいのにと言っても、後で嫌なくらい話すからいいんだとあしらわれた。

「本当はおじさんと沢山お話ししたいのでしょう?」

素直に話せばいいのに。彼女は図星だったと言うように照れ臭そうに笑うだけ。

「そうね」と答えてはくれるが実行はしない。部屋が片付くと彼女はかつての自室に篭ってしまった。




私は納得できなかった。何故彼女がこうも傷つかなくてはいけなかったのか。

本来ならば部外者である私には関係のない話。

下手に傷口をえぐるようなことはしたくないはずなのに、誰に似たのか私は彼女の力になりたいと思っていた。

私はすぐさまに出かける用意をした。彼女の旦那に一言二言何かガツンといってやろうと思ったのだ。

確かに姉さんは昔から口うるさくお節介焼きで自分勝手な人だが、それは誰よりも正義感が強くって明るい性格をしているからだと思っていた。

だから、もう一度話し合えば関係を修復することができるのではないかと甘い考えを私は持っていた。

独りぼっちになってしまった僕を、家族として向かい入れ続けてくれていたベイリー一家の役に立ちたい。この時の私は随分と自惚れていた。

真意を調べるべく私は彼女の家に向かうことにした。



外はどんよりとした雨の匂いに包まれていて、空に浮かぶ雲も重く暗く居座っている。

今すぐにでも雨が降りそうではあったが、私は急いで石畳の道を走っていった。

町はずれの駅ぐらいしかない寂しい通りに彼女とその旦那の家がある。

なんとか雨が降る前に目的地に着くと一人の女性が玄関の前に突っ立っていた。見かけぬ顔だ。

高級そうな毛皮のコート。そのコートから黒いドレスがスラリと覗く。

お洒落な帽子を深々とかぶり、長い黒髪を垂らしていた。

そして葉巻をくわえて気だるそうに紫煙を吐く。

彼女とは正反対な雰囲気を身にまとう見知らぬ女性に、つい私は息を飲んで魅入ってしまった。

「こんばんわ。こんな所でどうしたのですか? 雨が降り出しそうだから早く帰ったほうがいいですよ」

「あら貴方、お巡りさんの所で部屋を借りてる坊ちゃんじゃないの。心配してくれてありがとう。でも大丈夫よ」

彼女の方は私を知っているようだ。色っぽく笑う彼女の口からまた細い紫煙が昇る。

「姉さ……この家の奥さんに、何か用でもあるのですか?」

「えぇ、まぁ、そんな所ね。あなたも?」

「彼女なら実家に戻っていて今日は帰ってきませんよ」

そう教えると彼女は「あ、そう。なんだ」とつまらなそうに言って葉巻を石畳に捨てた。

そして二、三度火を踏み消す。

「じゃぁ……彼女に言付けを頼めるかしら?彼とは別れる気はないからって。

それと、帰ってきても無駄よ。これから彼とこの町を出る約束なの。

手始めにロンドンに行くわ。その後の予定は知らない。

列車の中で考えるの。行き当たりばったりで素敵でしょ? それじゃお願いね」

一方的に言い終わると満足したのかコートをひるがえし、駅の方へと振り返る。

ヒールの音を高く響かせて彼女はその場を去って行った。

去っていく女性を私は最後まで見送らなかった。

頭から血の気がスッと引く感覚に襲われ、性に似合わず何度も玄関の扉を叩いたり、呼び鈴を鳴らした。しかし誰も出てこない。

 女性の言ったことは本当か。あの女性がその、浮気相手本人だったのか。

ただ一言、美しい女性だとは思った。しかしその雰囲気からは性悪な人とも感じとれた。

とても関わりたくはないとも思った。あんな女性のどこがいいのかと自分勝手な偏見を持ち、心の中で悪態を吐くが何も変わりはしない。

せめて駅に向かい彼らを呼び止めようともした。しかし時はすでに遅く、駅のホームに乗り込んだ頃には列車はゆっくりと走りだしていた。


大それた考えを唱えていた私は結局何もすることができなかった。

何が姉の為だ、恩返しだ。私はただの、無力な人間だ。


家に帰る途中、ついに雨は降り出した。

昼を過ぎたばかりだというのにあたりはすっかり暗い。

びしょ濡れになった私が玄関の扉を開けると、姉さんが新しいタオルを持って向かい入れてくれた。

「どこに行ってたの?」

何も知らない彼女。

町を去った彼女の旦那のことを部外者である自分は彼女に話さなくてはいけない。

浮気相手から預かった言付けを、伝えなくてはいけない。

首を突っ込むべきではなかったと後悔し、彼女を傷つける事に申し訳なさを感じてつい彼女を憐れみの目で見つめる。

気まずい空気が流れる。一言も喋らず見つめるだけの私に彼女は苦笑した。

空気を切り替えるように彼女は脇に抱えた二枚の板切れを私に差し出した。

「さっき、机の中を掃除したらこんなものが出てきたの」

それはウィジャボードという降霊術の道具。板にはゼロから九までの数字とアルファベット、そして"yes"と"no"の文字が書いてある。縁取りに描かれた太陽と月の絵が挑発的な笑みを浮かべている。

子供の頃の彼女はいつもこれを使って死んだ母親の霊と交信ゴッコをしていた。

私の母がロンドンで起きた大空襲に巻き込まれ、亡くなった時も彼女はこのウィジャボードを使い私を慰めてくれていた。

きっと彼女にとっては特別で、幸せなひと時を与えてくれる魔法の道具なのだろう。

今も幸せそうに手に持ったウィジャボードを見つめている。

だが私は彼女に対し「そんな事をしている暇はない!」と珍しく声を荒げてしまった。

キョトンとした彼女は勿論どういう事かと尋ねてきた。

ウジウジと話すべきか否かと悩んでいた時間も無駄になり、私は全てを語る他なかった。

また彼女を悲しませてしまう。私はこんな事をしたくて外を走ったわけではない。

少しでも良いニュースを運び、彼女を安心させたかったのだ。

また元気で明るいお節介焼きな彼女に笑ってもらいたい。と、ただそれだけの気持ちで動いていたのに。口から漏れ出すのは言いたくもない聞き直したくもない、かの女性からの恋敵への言付け。


私は一門一句、出来るだけニュアンスを変えずに伝える事しかできなかった。

もっとオブラートに包む事もできただろう。

しかし私にはそんな頭を持ち合わせてはいなかった。

次第に強張る彼女の顔が見るに耐えなくなっても、私は口を止めることなく最後まで話を続けた。

「彼は……浮気相手とこの町を出て行った」

「え?」

彼女の目が、その一言で大きく見開いた。

私はその目を真っ直ぐと見つめ、彼女にとって避けたかった最悪な現実をもう一度言う。

「もうこの町には居な……」「何でそんなこと言うの!」

言葉を遮り、彼女は手に持っていたウィジャボードを私に投げ飛ばした。

顔はくしゃくしゃに歪み、目からはどっと涙が溢れ落ちる。

私を払いのけて玄関の扉を力一杯に押し開けると、はじけるように外に出て行った。

雨脚は先ほどよりも激しくなっており、遠くの方では雷鳴が轟いている。

彼女は駆けて行った。愛する人がもういない空っぽの家へと。



私はそんな彼女を止めることはしなかった。そんな権利、私にはない。

彼女を傷つける事しかできないこの私に、彼女の為に一緒にびし濡れになって追いかける事も、優しい言葉をかけることも許されてはいないのだ。

彼女は雨に濡れることに抵抗なく、人目も気にせずに一直線にあの家に向かうのだろうか。

誰もいない、何も残っていないあの家で、彼女は一人寂しく泣き崩れるのだろうか。


私はただ、彼女が投げ捨てた大切な宝物を手に持ち、彼女の部屋に届けると自分のアトリエに帰った。

そして何もかもが夢であるようにと願い、目の前の白いカンバスにまだ見えぬ幸せな笑顔を思い描くのだった。





〈つづく〉




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