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愛像偏愛―bloody lovers―  作者: 赤井家鴨
第一幕 一週間
4/11

4th day THURSDAY

挿絵(By みてみん)

元絵:オブリ―・ビアズリー「J.ラムスデン・プロパートの蔵書票」


冬の寒さが残る春先にて。

早朝の散歩を楽しむ老人が町の外枠を歩いていた。いつもと変わらぬ散歩道。しかしこの日は見慣れないものを見つけた。

今までとは全く違う異変に老人はすぐに感づき、それが一体何か理解すると自分の顔が酷く引きつる感覚を味わった。

そしてその場から逃げるように急いで町の警察署へと駆けて行った。



「ロビン警部! またもや女性の死体が発見されました!」

先ほどの老人の通報により、現場を確認しに行ってた警官も上司のロビン警部に事を知らせようと彼の部屋に飛び込んできた。

 座り心地の良さそうな椅子にふんぞり返るロビン警部は嫌そうな顔で部下を見る。

彼はいつでもどこでもお気に入りの本革手袋をはめており、その手を自分の額に当てながらやれやれといったように頭を左右に振った。

「マーチン、そういう事件は私に持ってくるなと言っただろうが」

彼は恐ろしいほどに潔癖症で死体が出る仕事が大の苦手であった。

「し……しかし、この死体は先日同様切り刻まれておりまして、同一犯かと……」

「それならベイリーの所に行け。その件に関してはあの爺さんに全て任せた」

「は……はぁ」

上司のやる気のなさに少し疑問を持ちつつも、言われるがままにマーチン巡査は渋々と爺さん、もといベイリー元警視正の元へと足を運んだ。


 公園の道沿いに並ぶ、同じデザインの家並木の角の家。ベルを鳴らすとすぐに初老の男が出てきた。

「ベイリー殿、また殺人事件が起きました。現場に来ていただけないでしょうか」

 マーチン巡査がこの街に配属されたときにはベイリー警視正はすでに退職していた。

小さな田舎町の頼れるお巡りさん。温厚な人柄で争いを好まない。どんな人にも優しく、正義の味方で罪の敵。

そんな噂を職場の同期や町の人からは聞いていた。そして、定年退職ではなく自主的に警官の職を辞めた噂も。

 初めてマーチンがベイリーに面会したこの日、やはり彼も噂話通りの印象をベイリー本人から感じ取った。

のんびりとしたおじさん。殺人事件とは無関係そうで嫌いそう。ロビン警部に良いように使われて嫌々とやっているのだろうなと考えると可哀想だと思ってしまった。

 しかし彼は嫌な顔一つせず「あぁ。急ごう」と言うと、朝食もまだ途中だというのにマーチン巡査と一緒に現場へと向かうのであった。


 「ところで初めに、私に部下として送ってくれた彼は?」

最初の事件で路地の出入り口を封鎖していた警官の事をベイリーは尋ねる。彼はベイリーが担当する事件の調査を手伝う補佐として任命されていたのだが、今日は彼の姿がどこにも見当たらない。

彼は仕事熱心で頼りがいのあるいいやつだ、良い警察官になる。と、この間太鼓判を押したばかりだというのに……

ベイリーは見込み違いだったかと残念そうな顔をする。だがそれを見たマーチンはベイリーよりもより残念そうな、ばつの悪そうな暗い顔をした。

「先輩は最初の通報を受けてすぐに私と一緒に現場に行きました。が……」

言葉を飲み込むように唾をのむ。歯切れの悪い言葉の続きを待つが出る様子もない。

彼の口が開かれるのをもうしばらく待とうと思った頃には、事件現場まで目と鼻の先の所までたどり着いていた。

現場の人だかりを見たマーチンは「続きは現場に着いてからお話しします」と言うとより一層歩く速度を上げた。



 町の隅にある廃れた家々。ちらほらと集まってきている野次馬を通り抜けると数人の警官が現場の保存をしていたり、証拠がないかと辺りを探索していた。案内されるがままに廃墟の家の前に通される。そこには茶色く枯れた生垣があり、その中から白い足が二本はえ出ていた。

「これは……なんて酷い」

「被害者の女性はマティルダ。歳は二十九で未婚」

 抵抗したような跡が生垣の木々から確認できる。しかしそれ以上に争った痕跡が無かった。

死骸の周りの霜は何度も踏み固められた跡があったが彼女の流れ出た血液が辺りの霜を溶かして一緒に凍ってしまっている。足跡の特徴をつかむのは少々時間がかかりそうだ。

 冬の厚手のコートは前が開かれており、白いブラウスも赤く染まっている。それ以外に服を脱がされた形跡はどこにもなかった。

服の上から鋭利なもので刺されている。初めの被害者、レイよりも深々と切り開かれた傷口が何十か所と、腕や足。腹部にも。そして前回同様、首には死因と思われる大きな切り傷。


「昨夜、彼女は勤め先の残業をしており、午後十時頃に帰宅したとの被害者の恋人からの証言があります。

火曜の事件の事がありまして彼女一人を夜遅くに歩かせられないと、その恋人に送り迎いをしてもらっておりました。

この日も迎いに行って無事、彼女を家へと送ったと言います。

しかし彼女は何故かその後一人、外を出歩いてしまい事件に巻き込まれた……」

「なるほど。にして、その恋人からもう少し話は聞けるかね?」

マーチンは唇を噛みしめ俯く。

「その恋人って言うのが……先輩なんです」

その言葉を聞いたベイリーはとても悲しそうに眉をひそめて、自分の顔を撫でるように額から口元へと手を下した。

「今朝、通報を受けて二人で現場に向かい、遺体を発見したのが先輩でした。

彼女を見た先輩はすぐに錯乱した様子で、現場を荒らしかねなかったので申し訳ないと思ったのですが、今回の調査からは外れてもらいました」

「そうか……」

ベイリーの丸い指が彼女の顔についた土を拭う。蝋人形のように固く冷たくなった彼女の頬。開いたままの彼女の瞳を冷たい空気が乾かせる。

「これ以上彼女をこんな寒空には置いていけないな。早く済ませて彼に合わせてあげよう」

 それからの彼らの仕事は素早かった。現場に残るありとあらゆる証拠を集め、遺体もすぐに検視に回した。そして第一発見者や事件現場の周りの聞き込みをあっという間に済ませてしまった。



「……しかし、今回は犯人の特徴に関する情報はなしか」

「先輩が彼女を家に送ったのは水曜の午後十時頃。遺体が見つかったのは早朝、六時頃。その時にはすでに地面の霜は凍っていたというので犯行は深夜におこなわれたのでしょうか。

 うーん、この区域は元々人があまり住んでいないようですし、浮浪者も多いのでジャックリーンとは別件でしょうかね」

「ジャックリーン?」

ベイリーはマーチンの口から出た何処の誰か分からない女性の名前に疑問の声をあげた。

「ジャック・ザ・リッパーならぬジャックリーン・ザ・リッパー。いま巷で有名ですよ。まぁ彼女は臓器も盗まないですがね」

 ベイリーはこの時初めてこの事件の噂話を耳にした。誰がそんな事を言い出したのか。

よく聞けば周りの野次馬たちも囁くように”ジャックリーン”の名前を口挟んでいる。

「やっぱり、”ジャックリーン”みたいよ。あの若いお巡りさんが今、”ジャックリーン”って言ったわ」

どうやらマーチンは彼らの噂を信じているようだ。

昔からこの町は物騒な噂話が大好きだった。それを知っているベイリーはまたかといったように呆れた乾いた笑い声を漏らした。


 町自体は比較的に平和な方で、日常とは違うスリルを求める傾向が強いらしい。

先ほども事件の情報集めをしていたはずなのにいつの間にか野次馬たちに質問攻めにされていた。どんな凶器か、どんな死因で遺体の状態は。警察以外が持っても意味の無いであろう情報を一般人の彼らは欲しがった。

 犯人の特徴はもう街中に知れ渡っている。黒い長髪に黒くて長い服。

女性ばかりを狙った犯行と、殺害方法が刺殺と有名な殺人鬼ジャック・ザ・リッパーと似ていたがために初めは犯人は男だと言われていた。

しかし黒の長髪男はあいにくこの町にはいない。社交的な女性が何も抵抗もなく襲われたとのことで犯人は女性なのでは、というのが彼らの推理らしい。


 ベイリー元警視正はマーチン巡査に呆れたような笑顔を見せつつも優しく注意する。

「警察が町の噂話に流されちゃいかんよ。我々が追っているのはお話の中の殺人鬼ではないんだ。

私たちは現場に残された証拠から真実を導き出さなくてはいけない。噂を信じちゃいかん」

 その言葉にマーチンは素直に、感動したように自分の言った言葉を恥じて顔を赤くした。

「自分はまだまだ未熟です。もう一度証拠がないかよく確認します」

慌てるようにマーチンは事件現場付近の死角になり用な場所をくまなく探り調査を始めた。

 他の体たらく警察官たちとは違いマーチンは真剣にこの事件に取り組んでくれそうだ。

安心したようにベイリーも小さく頷くともう一度、被害者の遺体がどかれた跡を見回した。


 殺害の目的は物取りでも女性に対する暴行というわけでもない。怨恨(えんこん)という訳でもないと思ったが、今回の悲惨な状況を見るとそうとも言い切れない気がしてきた。

警察は初めからこの事件に肩入れしていないのは誰が見ても明確だった。犯人はすぐに捕まると高を括っているのだ。

しかし今回の事件を防ぐことはできなかった。

「もっと何か決定的な証拠はないのか……」

彼も家の外周を歩きながら、辺りを見回し頭を働かせる。

「この被害者は前回の被害者との親密な関係はない。目立った共通点は……二人とも二十代だという所ぐらいか。

職業もお互い別物で知り合い同士でもない。レイは茶髪に青目。マティルダはくせ毛の黒髪、茶色目……」

 性格も特別陰湿だったり、恨みを買うような子ではなかったと被害者の知人たちが証言していた。

どちらかというとお転婆で大らかだったり、大人しくて社交的だったり。優しくて愛される、好かれる性格をしていたと誰もがそう口にした。他にも聞き込みをしてはみたがそれ以上の情報は集まらなかった。

 顔の傷はあさい。いや、ただ浅いだけでなく見様によっては優しくなぞったように見えた。

「なぜ何度も刺したのだろうか?」

犯人が被害者を殺すのは首を深く斬る方法。殺すだけならば首だけを何度も刺せばいい。それだけでいい。ダメ押しで心臓に刺すのもいいだろう。しかしだ、彼女たちはそれだけでなく体のあちらこちらを刺されていた。

 思い通りに進まない堂々巡りの推理に困ったようにため息を吐く。

空もいつの間にか、彼らの心を現すかのように怪しく暗い雲たちに覆われていた。




= = =




「そう言えば、うちの旦那が例の殺人事件の犯人らしい人を見たっていうのよ」

「まぁ!」「どんな?!」

 通りの商店街に奥様達が店先で世間話をしていた。お店のおかみも混ざって楽しそうに話をする。

「噂通り、真っ黒なパーティードレスを着た色白の女性ですって! しかも、手が赤く染まってたそうよ」

「やだー、怖いわねぇ!」

ここでも物騒な殺人事件の話。すでにこの日の朝に発見された死体の情報も出回っていた。しかも噂話には尾ひれがついてどんどんと大きくなっていた。

 「まいどあり」という亭主の声と共に店から一人の男が買い物袋を抱えながら出てきた。それでも彼女らは買い物客の男など気にせず世間話を続ける。男は申し訳なさそうに彼女らの間を縫って道に出ると反対側の店の亭主と目が合った。目が合うと亭主は嬉しそうに手を振る。

「おー、ソルの坊ちゃん元気かい?」

「魚屋さん」

 ソルが子供の頃、彼の母親とよく利用した店だ。今、彼の住む家の中には料理といえるものを作れる者が独りもいないので魚屋などもう久しく利用していなかった。しかし亭主の方は彼の事を覚えていたようで嬉しそうに話しかけた。

「久しぶりだな。今も仕事探してるのか? お前さんが前に働いてた配達屋のおやっさんから仕事を探してるって話を聞いてるぜ。

急で悪いが明日、仕事頼んでもいいかな? 市場で大量に魚が仕入れられそうなんだ。朝早いんだが配達頼めねえかな?」

 この職業難の時代、小さな仕事でも大変ありがたくソルはすぐに同意しようとした。が、脳裏に一人の女性の影がちらついた。

「あ、ごめんなさい。明日は……その、彼女が来るかもしれない……」

「なんだって!彼女って、もしかしなくともこれか?」と小指を立てる。

驚くソルは首を横に振り抵抗するが亭主はノリノリだ。

「そうか、そうだよなぁお前も男だもんな!そういやぁ、幾つだっけお前さん?」

「三十……四です」

「さんじゅ……」

 魚屋の亭主は言葉を詰まらせた。

彼は子供の頃のソルを知っているので、それまでの年数を計算すればおおよその年齢を予想することはできただろう。

しかし、亭主がたたき出した数値と実際の年齢とは幾分大きく離れていた。何せ彼の見た目と雰囲気は二十代にも見えるほどに若かったのだ。

「あ、あの。彼女というのはお客さんです。肖像画を描いてくれるよう依頼されまして……」

「なんでぇ、そういうことか」

「あ! でも、やっぱり六時頃なら大丈夫です!彼女が来なければもっと早い時間でも……」

「随分遅くまで作業するんだな。無理しなくてもいいんだぜ?」

「いいえ、こんな私に仕事のチャンスをくれるお魚屋さんのご好意を無駄にしたくない……」

「そいつはありがてぇ。それじゃあ、朝の六時に来てくれ」

 何とかチャンスを手にすることが出来たソルは嬉しそうに小さく笑った。

実の所、ソルとしては久々の収入を得ることが出来る仕事であった。前までやっていた配達の仕事も日雇いのようなものだったし、すぐに人件費削減といってクビを切られていたのだった。

 雀の涙でも明日生きるためのお金が入る。それだけでもありがたいことなのに、亭主はいい値の給料を出すとソルに約束した。それは彼の思っていた以上の数字で彼は何度も亭主に感謝をした。

「昔よしみの坊ちゃんだからな。その代わり、ちゃんと働いてもらうよ」そう言ってにっこり笑う亭主と明日の予定を打ち合わせする。


 暫くすると思い出したように亭主は話を切り替えた。

「そういやぁ、ベイリーの嬢ちゃんは見つかったか?」

ベイリーの一人娘。火曜の朝から行方不明となったままだ。

「それが……まだ」

見つかっていない。彼女はソルよりも年上だし、子供ではない。もういい大人だ。大げさに慌てずともいいだろう。しかし

「最近この街も物騒だから早く見つかるといいな」

亭主の言うように彼女が被害に遭う確率はゼロではない。ソルも息を詰まらせるような返事をした。

「はい。それでは。明日の朝」

「おう、お客のお嬢さんにも夜遅くに出歩かないよう言っときな」

「大丈夫です。彼女が帰るのはもっと早い時間ですから。最近、筆が乗ってつい遅くまで作業を続けてしまうんです」

「大作が出来たら見せてくれよな!俺も、お嬢ちゃん見つけたら知らせに行くから」

 人の良い魚屋の亭主に見送られてソルは公園の方の道を進む。

店先のご婦人たちはまだ世間話に花を咲かせていた。


「今日の朝も現れたんですって! ジャックリーン」

「まっ! 今度の犠牲者は?」

「町外れのお嬢さん。聞いた話じゃ、若いお巡りさんの恋人ですって!」

「ここに来る間の通り道だったのだけど見たわよ。ボロボロ泣いてて可哀想だったわ」



 公園沿いの通りの端の家。彼の住む一軒家が目に入ると、玄関先の階段に見覚えのある小さな女の子が座っていた。

「こんにちは。ベイリーさんは今日もいないの?」

ソルに気づいた彼女、ケリーが頬杖をついたまま見上げてくる。

「また事件が起きたから、朝から現場に行ってて今は家にいないよ。今日は帰りが遅いかもしれない」

長い黒髪をなびかせて彼女は「あぁ……そう」と可笑しそうに言って立ち上がった。楽しそうに笑う目つきも可愛らしい。

 また殺人事件が起きたから早く帰るようにと彼女を促すが一向に帰る気配がない。それどころか、からかうように笑って看板を指差した。

「これ、ソルが書いたの?書いてあること本当?」

 そこにはソルの職と言えるか分からないアトリエの看板が立て掛けてあった。

白いチョークで描かれた人面太陽の表情は相変わらず挑発的な笑みを浮かべている。

「いや、ベイリーさんの娘さんが書いたんだ」

「それじゃあ、依頼は受けつけてないのかしら?」

「いいや。肖像画の依頼は受け付けてるよ」

現に今、あの女性の肖像画を描いている。黒の長髪の黒いドレスの彼女。

「それじゃあ私の絵を描いてくれる? 昨日言ってたじゃないモデルがいないって。お金ならあるわ」

 ケリーは左右につけられたポケットに両手を突っ込んで中の物を全て取り出した。

両手にはポケットの中身、幾つかの溶けた飴玉と丸ボタン、そして小さな指ぬき。それにドングリと数枚の硬貨が掴まれていた。彼女はお金だけを器用に拾い上げてソルにその手を突き出す。

「君みたいな、小さな女性(レディ)からはお金は取らないよ」


 すました顔をして玄関の鍵を開けると、少女を一階の応接間に通した。一昨日とは違って随分と部屋の中はきれいに整理整頓されている。

 ソルが、お茶の準備をしてくるよと言って台所に向かう。ケリーは暖炉の前に置いてある特等席のソファーに駆けて行って腰を下ろした。

彼女は可愛らしく足をパタパタ振りながら辺りを見渡す。窓際にはお洒落な白い胡蝶蘭が飾られている。しかし少し元気がないようで(こうべ)を垂らしていた。その下に大きなスケッチブックも立てかけてある。おそらくソルが花のスケッチをしていたのだろう。

 他に何か面白いものはないものか。サイドテーブルの上に並べられている家族写真を見つけて眺める。

「ソルの家族?」

と聞くが彼女の手にした写真にはソルらしい人物はいない。

 若い頃のベイリー警視と彼の娘。そして彼の妻らしき女性が幸せそうな顔をしている。三人の家族写真だ。

他の写真立てにも同じ少女が長い髪を一つに結いて幸せそうな顔で写っている。

「ベイリーさんの家族だよ」

紅茶の深く澄んだ香りとスコーンの芳ばしい匂いがケリーの鼻をくすぐった。ソルが紅茶とスコーンを運んできたのだ。

「私は二階の借家を借りてるだけで彼らとは他人だ」

もう彼からは昨日のような緊張している感じはない。丁寧に彼女をもてなす。

 ケリーは嬉しそうにスコーンにかぶりつくと、美味しそうに何度も嚙みしめた。そして温かい紅茶を一飲みして冷えきった体を芯からほっこり温める。

「ん~このスコーンの塩加減ちょうどいいわ。気に入っちゃった」

そう言いながら指に付いたカケラもぺろりと舐めあげる。

 花の下に立てかけてあったスケッチブックを取るとソルは自分の椅子を引きずり、ケリーの座るソファーの前に置いて座った。

「上手に描いてね」

お腹が少しだけ膨れて満足したのか、ケリーは今までとは雰囲気の違う素直な笑顔を見せた。

ソルはすかさず、その笑顔をスケッチブックに描きとめる。


「お嬢さんは、レイの親戚なんだよね」

「ケリーでいいわ」

ケリーは楽しそうに話し出した。

「ええそうよ。遠い親戚なの。

レイお姉ちゃんのお母さんのお姉さんのお姉さんのお姉さんのお姉さんの旦那さんのお姉さんのお兄さんのお姉さんのお姉さんの旦那さんのお姉さんのお姉さんのお姉さんのお姉さんのところの子供なの」

 確かに遠い。ほとんど他人だ。そういうことならば、ベイリーも知らないと言うのも仕方ないことかもしれない。

しかしそんなにも離れているのに何故、レイと知り合いなのか不思議であった。が彼女はそれ以上の事は話さなかった。

 なにか、特別な関係なのだろう。興味をそそらされたが変に突っ込んでも、自分は警察でも何でもない一般人なので深くは探らないようにしよう。とソルは思った。デリケートな部分だったら彼女に悪い。

 それから二人は当たり障りない日常的な小話を小一時間ほど話し「出来たよ」と言う彼の声でその話は終了した。

 ソルが出来上がったラフスケッチを彼女に見せる。

「どれどれ」なんて可愛らしく両手を前に突き出し、スケッチブックを奪ったケリーはそれを見ながら「ふーん……」と、うなった声を漏らした。

 そこに描かれたケリーはまだスコーンの味の余韻に浸っており、自然な笑顔を浮かべている。しかし彼女はこの絵を見ながらワザとらしく考える素振りを見せた。


「昨日見たあの絵。描きかけの肖像画……」

彼女の言う絵とは黒髪の女性の絵のことだ。

「やっぱりあの絵はとても素晴らしいわ。ねぇあなた、あの絵の人に恋してる?」

突然すぎる言葉に、ソルはあからさまに顔をひきつらせた。

「何を言い出すんだ? きみは」

「だって見て。私の絵や花の絵からは何か、描いてて楽しい……面白いみたいな感情が読み取れないんだけど、あの絵からは描いてる時の楽しさや愛おしさが沢山溢れ出ていた」

 アホらしい。彼女も他と同じ、小さな女の子特有の大人の恋愛に憧れる少女だったのか。

心のどこかでこの子は他の子達とは違うと期待していたソルはすっかり肩透かしを食らってしまったという顔をする。

「これはまだ下書きだからそんなものが感じられなくてもいいんだ」

「そんな事ないわよ。だってあの絵は未完成でも十分、好きだっていう気持ちが伝わってきたもの。間違いないわ」

 もうこれ以上彼女の戯言に付き合っている時間がもったいない。ソルはすっかり幼い少女に、勝手に幻滅していた。

「この雰囲気で描いていくけどいい? サイズは小さめにしとくね」

ケリーに問いかけても彼女から返事が帰ってこない。ただ小さな声で楽しそうにクスクス笑っているだけだった。

 結局このままケリーはベイリーが戻って来るのを待つことなく彼女は帰ってしまった。

 全く何だったのかと呆れるソルは自分の部屋に戻ると早速、今度ケリーが来た時のためにと絵の下地の準備を始めるのだった。




= = =





 その日の夜空は重い雲に覆われていた。月の光も射さないほどに暗い暗い夜の町。街灯は未だに光を点けてもらっていなかった。

電気もない部屋の中で何本かの蝋燭の光を頼りにソルは一人スケッチブックとにらめっこしている。

寝る前にケリーのスケッチの気になるところを小さく手直ししたり、少女の横顔を思い出しながら何枚か絵を描いていたのだ。

 その思い出しの中に今朝聞いたご婦人たちの世間話や明日の仕事の話、ケリーとのやり取りも出てくる。

「私が? お客様である彼女に恋など……」

小さなレディにからかわれた事に未だに彼は動揺しているようだ。

 明日は早い。作業を終わらせてもう寝るかと背伸びをした。体のコリをほぐし、のっそりゆっくりと画材を片付けはじめる。

 眠気のピークだと言わんばかりに一つ大きなあくびをした。するとタイミングよく部屋の扉が鈍くきしんだ音を立てて開かれた。

えっ、と驚いたソルは恐る恐る扉の方に目をやる。そこにはなんと、あの肖像画の彼女がいた。

 ウェーブがかった美しい黒髪に黒いドレス。白く伸びた腕には赤い血が手袋のようについている。

幽霊のように現れた彼女に恐怖を感じたが、蝋燭の光だけで照らされた部屋の中で彼女はあの日と同じ無邪気な笑顔を彼に向けていた。

『ねぇあなた、あの絵の人に恋してる?』

少女の声が頭の中にこだまする。

そんな事はない。そう否定するもソルの目は彼女に釘づけになっていた。

彼女の笑顔がより一層ニタリと歪んだ。


「私の絵を描いてくれませんか?」


その言葉を聞いた時、彼は諦めるように確信した。

あぁ、私は彼女を愛している。






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