3rd day WEDNESDAY
扉を小さくノックする音が聞こえた。
イギリスの小さな田舎町。
その町の中心部にある一軒の家の玄関が来訪者によって鳴らされた音だ。
少しだけ扉が開かれると家の主だろうか暗い金髪の男、ソルが顔を半分出しながら「はいっ」と引きつった声で答えた。彼の目の前には誰もいない。
おかしいなと思い、目線を下におろすと白くて大きなリボンが鮮やかに目に映った。
そしてそのリボンがするりと後に滑り落ちるかと思うと、今度は可愛らしい女の子の顔が現れる。さらりとした黒い長髪の上に白いリボンが結ばれていたのだ。
少女は大きな青い瞳を愛らしく輝かせてソルの顔を見上げて笑う。
「こんにちは。ベイリー警視長さんのお家はここであってますか?」
なんと可愛らしい声。まるで小鳥がさえずっているかのように高く澄んでいる。
「あ、はい。そうです。でも今は外出中でいません」
「それでは、帰ってくるのを待っていてもよろしいでしょうか?」
「大丈夫です。えっと……君は?」
少女は呆れたように小さくため息を吐く。
「貴方、あまり人と話さないのかしら?聞き取りづらいわ」
初対面の少女に容赦ない指摘をされたソルは苦い顔をした。
確かに彼の声は小さい。
それどころか話せば話すほどに聞き取りづらくなっていく。
今にも消えて無くなりそうだ。
そのうえ彼は未だに扉に体を隠しているので聞き取りづらくて当然である。
「ご、ごめんなさい」
注意されたにもかかわらず、更に小さくなった声で謝る。
が少女には聞こえていなかったようで、間髪入れずに彼女は話し出した。
「まぁ、いいわ。私は火曜日の夜に殺されたお姉ちゃんの親戚なんです。
今日はベイリーさんに、お願いをしに来ました」
そう言うと少女は丁寧に深々とお辞儀をした。
「犯人をどうか早く捕まえてください」
そしてまた、ソルに向かってニタリと笑った。
ソルは自分の職場である二階のアトリエに少女を向かい入れた。
下のリビングはあまりにも汚く、いくら子供であれ女性に見苦しいものを見せるわけにはいかない。この部屋なら必要最低限の家具と画材しかないから不快な思いはさせないだろう。
そう思った彼なりの紳士的心使いであったが、部屋の扉を開けるととんでもない異臭があふれ出てきた。
少女は部屋の主の目の前でありながらも、お構いなしに急いで自分の鼻を両手でふさぐ。油絵具の独特なシンナー臭と腐った果物の酸っぱい臭い。
ソルは鼻をつまんでいる少女を見て、いけない! と思い急いで部屋の中に入ると大きな窓を全開した。
そして異臭を早く外へ追いだそうと手短にあったカンバスを手に持ち、部屋の中を目一杯扇ぐ。
「すごい臭い。吐きそう……」
ゲッソリした少女は換気が終わるまで階段に座って待つことにした。
しばらくすると、換気が終わったのか部屋の中から少女を呼ぶ声が聞こえた。
「お待たせしました。不快な思いをさせてしまい申し訳ございません……えっと、君の名前は何て呼べばいいのかな?」
申し訳なさそうな顔をしながら部屋から出てくるソル。
少女はしょぼくれた男の顔を見て、悪戯っぽく笑った。
「名前? 名前なんてどうでもいいでしょ」
「そうはいかないよ。依頼者の名前は聞いとかなきゃ……いけませんし……」
それもそうね、といったように目をぱちくりすると少女は少し悩むようなポーズをする。
「……け……ケリーィ、トワイライト。ピーターぁ・エス」
「ケリー・トワイライト・ピーター・エス?」
「そう、それ!」
そして少女は最後に鼻息を荒げながら「ケリーは”K”よ」と得意そうに付け足した。
「それで、貴方のお名前は?どもりさん」
「わっ! 私はどもりじゃありません! 喋るの、慣れてないだけ。です……」
聞き取りづらい言葉で喋るのでどもりと勘違いされても仕方がない。
七歳ほどの少女相手に話しているのに未だに声も引きつったままだ。
ここまでの話からするにこの男、どうも怪しい。下心でもあるのではないかと疑いたくもなるが彼の素振りからはそんなものは感じてこなかった。
常にケリーとは人二人分の距離を置いており、会話の時はきちんと彼女の目を見て話している。
しかしその目をよく見ると、目をそらしたい衝動を抑えているのか震えている。
まるで猛獣に見つかった小動物が、視線をそらさずにいかにしてこの場から逃げようかと探るように。
そう言った例えがしっくりと当てはまる感じだった。
声も折角、一瞬でも大きな……と言っても普通の人と変わりない声の高さで、少女の言葉に反抗したというのに「私の事はソルと呼んでください」と名乗る頃には元の声に戻ってしまった。
今度はちゃんと届いただろうか。ケリーと名乗った少女は「ふーん」と言って彼の横を通り部屋の中に入っていく。
後に着けられたような簡約キッチンと衣装ケースに机。折り畳み式ベッドが畳まれて入口の隅へ追いやられている。骨の部分がほとんど錆びだらけで塗料が剥がれていた。使おうと開けばその瞬間にネジが外れて壊れてしまうだろう。それほどにボロボロな状態であった。
それ以外にこの部屋には何もないようだ。しかしソルが持つカンバスに気が付くとケリーは面白そうにそのカンバスを奪い取る。
「これ、貴方が描いたの?」
「ええ」
「他にはないの?」
ケリーの質問にソルは指さし応える。窓辺の隅には大量のカンバスが。
「あそこにある絵を見てもいい?」
コクリと頷き承諾すると少女は嬉しそうに無造作に積まれたカンバスの元へと駆けて行った。
パタパタと絵をめくり、面白い絵が無いかと物色する。
果物のつまったカゴや花瓶に活けられた綺麗な花の静物画。レンガの街並みを記録した風景画と数多くの絵画が何枚も何枚も続いている。どれもこれも写実的で上手に描けている。普段絵を描かない人から見れば素直に「上手」だと褒めてくれるだろう。
しかし彼女はこれらの絵を見ても笑顔一つ浮かばせなかった。
それどころか不満そうに口をへの字に歪ませ小首をかしげる。
「どれもこれもつまんなーい。人の絵はないの?」
「人の絵はあまり描かない。モデルになってくれる人がいなくって……」
クロッキー帳をぺらぺらとめくってケリーに見せた。
そこにはちゃんと人物の絵が描いてあるが、どれもこれも人を上から見たような簡単なラフスケッチばかりだ。
おそらくこの部屋から窓越しに描いたのだろう。何ページにもわたって上から見た歩行者の絵が続く。
「つまんなくない? 物ばかり描いて」
「そんな事ないよ。物はじっとしていてくれて良い。じっくりと描ける」
そう言って今描いている静物画のモチーフに目をやる。
机の上には朝食のイメージがセッティングされていた。
シミだらけのテーブルクロスに空のワイングラス。かつてのみずみずしさを失ったシワだらけのリンゴに青カビ、白カビが生えた魚の燻製とパン。
この部屋の悪臭の正体だ。朝食画を描いているのだろうがとても美味しそうな朝食に見えないし、人に好かれるような絵が完成するとも思えないモデルたちだ。
「腐っちゃう前に描けなかったの?」
「今は寒波の影響で食糧難だろ? 公園の隅で見つけた落ちたリンゴに、いつ作ったか分からない燻製とパン。これだけしか手に入らなかった」
なるほど。とケリーは納得する。
しかしもう少し良いモチーフが無かったのかと聞きたいところだが、もう彼女は彼の絵に興味を無くしてしまっていた。
手に持った絵をもとに戻し、ふらふらと部屋の中を散策し始める。
ソルはその間に紅茶を持ってこようと部屋を出ようとした。
彼を見送るように目で追っていたケリーは、折り畳み式ベッドの陰に置かれた一枚の絵を発見する。
「あるじゃないの。人の絵」
ひょいっと拾い上げる彼女の指が画面に触れていた。それに気づいたソルは慌てて彼女から絵を奪い取ろうとするが可憐にかわされてしまった。
「待ってくれ! その絵はまだ描きかけなんだ。まだ乾いていないから画面を触らないでくれ」
注意されると思いのほかケリーは素直に従った。今度は気を付けて絵の具の付いていない木枠を両手で持つ。
絵の中の女性は黒い髪に黒い服。暗い画面の中で肌は白く輝き、美しく浮かび上がっていた。そしてその白と黒の世界に映える真っ赤な唇はこの絵を見た者に強い印象を植え付けている。
ケリーはうっとりとその絵に見惚れてしまい、しばらく彼に返す気は無いようだ。
ついに観念したソルは呆れたように一つため息を吐いた。
「彼女は私の初めてのお客様だ」
へぇと言ってケリーは絵を嬉しそうに眺める。
「素敵ね。他の絵と違って心の声が聞こえる」
「心の声?」
「この人の絵を描いてる貴方は……とても楽しそう」
何を知ったようにと渋がるソル。
この絵画の人物はケリーの親戚を殺したかもしれない人。実際にそうだという根拠や証拠はないがソルは彼女がそうなのではと心の中で勝手に確信していた。その女性の絵をケリーは素敵と言った。
「ケリーの、殺された親戚ってどんな人だったの?」
無言。無神経なことを聞いたかとハッとする。
「ご、ごめん。無理に答えなくて……」
「レイちゃんはね」
ケリーが口を開く。レイとは火曜日の夜に殺された女性の名前だ。
「本当のお姉さんのように私と仲良しだったの」
寂しそうに語るが一つ一つ淡々と話す。まるで確認するかのように。
「お姉ちゃんはね、弱虫でいじめられっ子の私をいつも庇ってくれた。『可愛いケリー。くよくよ泣いてちゃだめよ、一緒に遊びましょう』って。本を読んでくれたり、絵を描いたりして遊んでくれたわ。それなのに……なんでお姉ちゃんは殺されたの?なんでお姉ちゃんが死ななきゃいけなかったの?」
絵を見つめる少女の寂しい背中。彼女を励まそうにも気が利く言葉一つ思い付かない。
ソルは首を垂らしてただ唇を噛みしめる事しかできなかった。長い沈黙が続く。
だが彼女は、次にはケロッとしたように「あーあ。なんか飽きちゃった」と笑って振り向いて見せた。
満面な笑みは無理に作ったものか本物か。それも分からないぐらいに目頭やえくぼにしわが寄っている。
「なんか、しけちゃったね。また明日来るね!」
女性の肖像画をソルに渡すと大げさにお辞儀をし、階段を急いで下りて行った。おしまいには玄関扉がぱたりと閉まる音が響く。
一体なんだったのか。小首を傾げるソルはケリーが触り散らかしたカンバスをまとめ始めた。
「どれもこれもつまんない。っか……」
ケリーの言葉を思い出し、今まで描いてきた自分の絵を数枚並べて見比べた。
ほとんど独学で積み上げた技術だ。描いている時は多少なりとも愛着があった。
毎日見続けて悪いところを直したり、上手に綺麗に描いてやろうと試行錯誤したものだ。
しかしなるほど、時が経って改めて見てみるとこれら絵からは、好きだとか上手に描けたとかいう自信がまったく感じられなかった。
少女の言う通りこれらの絵からは人の心に訴えかける何かがない。無機質な、ただそこに有る物だけを描いただけといった絵だ。
自分ですらそう思ってしまうのだから、他人であるケリーなんて尚更そう思ってしまったのだろう。これならまだ写真の方が見る人に訴えかけるものを持っている。
悲しく肩を落とし今描いているモチーフに目をやる。これも同じ。何も変わりない物。今までと同じ。
進歩のない自分に落胆していると「ただいま」と言う声とともに玄関の扉が開かれた。
この家の主、ベイリー元警視正が外の聞き込みから帰ってきたのだ。
「ベイリーさん、先ほどお客さんが来ました。被害者の親戚だと」
そしてケリーの特徴や彼女の話を階段の上から彼に話した。しかしベイリーはどうも不思議そうな顔をしている。
「ミセス,レイにそんな小さな親戚は居ないはずだが?」
彼の言葉につい、えっと声を漏らした。確かにあの少女は親戚だと言った。寂しそうに、レイの事を姉と慕っていると語ってくれた。
ベイリーの言葉に疑問を持ち、彼女が唯一褒めた女性の肖像画を見る。
ケリーも彼女と同じ黒い髪に白い肌。けたけた笑う唇はうっすらと赤かった。
まさか、馬鹿らしい。そう思ったソルはイーゼルに立てかけてあった朝食画をおろして彼女の肖像画を立てかける。
彼女がこの絵を持った時に着いたであろう指の後を消そうとしたがどこにもない。
見間違いだったか、見落としたのかともう一度くまなく探した。しかしどこにもない。見間違いだったかと安堵の息を吐き、またじっくりと彼女の肖像画を見つめる。
まだ描いている途中だから、作者の自分からすると愛着補正が入ってしまい心があるかないかなんて分からない。しかしそんなソルでもひとつ分かる事がある。
この絵を、誰が見ても素晴らしいと認める立派な絵に仕上げよう。その心意気だけは本物だ。
ケリーはこの絵から一体どんな心の声を聞いたのだろう。
また明日。
明日、また彼女に合ったら聞いてみよう。ソルは階段を下りて一階の応接間へと向かう。
そして明日の来訪者のために掃除の準備を始めるのであった。