そのに
俺はうつらうつらしながらも、なんとか意識を保ったまま六限の終礼までこぎつけることができた。後は帰りの挨拶なりなんなりして帰るだけである。
俺は凝り固まった背筋をくーっと伸ばして、大きな欠伸をひとつこぼした。今日も一日お疲れ様俺!ナイスファイト!
その後の帰りのSTも軽く聞き流して、俺は意気揚々と机に掛かった鞄を背負いあげる。俺みたいな帰宅部たちにとっては、帰る瞬間というのが一番楽しいのだ。いやあ、帰宅って本当に素晴らしいものですね!
俺は席を立ち、あらためて教室を見回してみた。後ろの方では、帰るのが名残惜しいのか、未だにリア充どもがべちゃくちゃとダベりあっている。
俺はそれに軽く一瞥をやって、そそくさと教室を後にする。帰れと言われたのだからさっさと帰るべきなのだ。ここに無駄に居座るのは、時間がもったいなすぎるというものである。…………べっべつに、おしゃべりするともだちがいないとか、ぜんぜんそんなんじゃないんだからねっ!
俺はガラガラと教室の引き戸をひきずって、長い廊下をつっきっていく。そして二階分の階段を下りていき、一階の昇降口を目指す。右から5番目上から2番目。自分の下駄箱にスリッパをシュートして、赤色のスニーカーに履き替える。いつも通りのルーティーンだ。
俺はそれから、うんうんと低い駆動音をあげている自動販売機前を突っ切り、我が愛車を止めてある駐輪場を目指す。
校舎を出て屋根が無くなると、俺の頭上からダイレクトに陽光が降り注いでくる。燦々と照りつけてくる太陽の自意識過剰っぷりったら半端じゃない。「私を見てっ!」とばかりにぶりぶりアピールをしている。
暦の上ではもう7月を迎えていた。季節で言うところの夏である。
今年の夏もバカみたいに蝉どもは鳴きじゃくり、バカみたいに連日の猛暑が続いた。クーラーのよく効いた校舎から一歩出てしまえば、そこが灼熱地獄にすら思えるほどの暑さだ。まさに夏って感じだ。
俺はしたたりそうになる汗を、時折カッターの袖で拭いながら、中庭を突っ切っていく。グラウンドには、威勢のいい大声が響き渡っていた。まるで競い合っているかのように、おのおのの部活が叫びあっている。
汗水を飛び散らせながら、陸上部が走り回り、野球部は泥まみれになり、ラグビー部はその強靭な肩をぶつけ合う。まさに絵に描いたような青春である。暑い夏という背景もあいまって、彼らは青春を体現するかのようにして輝いていた。
「あゝ、くたばってしまえ青春よ」と心に思い浮かべながら、俺はてくてく駐輪場を目指す。俺は家に帰ってからが青春なのだ。はやく帰らねば。そう自分に言い聞かせて、足取りを早める。
ふと見上げた空には、当たり前の如く太陽が赫赫と輝いていた。それは思わず目を細めてしまうほどに、眩いものであった。
俺はこの夏も、きっと青春などとは無縁に終わっていくのだろう。だが、俺の頭上にも彼らと同じだけの陽光が降り注ぐ。同じだけの光で俺を照らしてくれる。
「あついわ……帰りてえ」
俺はようやく辿り着いた自転車にまたがると、力強くアスファルトを蹴り上げた。
✳︎
野を越え、山を越え、海を越え、やっとこさの思いで俺はなんとか我が家に辿り着いた。タイヤの空気が大分抜けてしまっていて、思いの外苦戦してしまった。
鍵の隠し場所である傘立ての奥をがさごそとまさぐり、カエルのキーホルダーのついた鍵を捕まえる。ゲコゲコガチャリガチャリとツーロックのドアを開けて、中に入る……っとその前に再び傘立てに鍵をシュート。
ナイスシュートをかました俺はあらためて家の中に入っていく。
靴を脱ぎつつ「ただいま〜……」っとあいさつをしてみるも、なんの反応もない。ただのしかばねのようだ。
それに電気もついておらず、家の中は薄暗かった。恐らくまだ誰も帰ってきてないのだろう。母親は夜遅くまで仕事だし、妹(小)すなわち夕凪春香はバスケ部の活動に打ち込んでいる。こんな早い時間帯に帰ってこれるのは俺くらいというものだ。やはり俺が最強である。
暗いとなんだかテンションも上がらないので、俺はパチパチと部屋中の電気をつけながら道を進んだ。最近買い換えたLED電球が、清潔感溢れる白い光をぴかぴかと放っていく。
ひとしきりの点灯夫の仕事を終えた俺は、自室がある二階を目指す。我が家は二階建ての新築マイホームなのだ。
そうして階段を上りきり、ちょうど目の前に位置する自室のドアノブに手をかけた時だった。
急にガチャリと音を立てて、隣の部屋のドアが開いたのだ。予期せぬ出来事に俺の心臓は思わず飛び跳ねた。
驚きながらも、俺は隣のドアを一瞥する。
すると、なんと中からみーちゃんこと我が妹(大)夕凪みちるが顔を出したのだった。
そりゃあ彼女の部屋のドアが開いたのだから、彼女が出てくるのは当たり前のことなのだが、なんせ久しぶりの再会だ。彼女の姿を見たのは一ヶ月ぶりくらいなものであった。俺はきょとんとした顔のまま硬直してしまう。
みちるの顔は引きこもっていても、相変わらずに綺麗なものだった。
「……やっぱ兄貴か」
久しぶりに聞く妹の声は、どこかぎこちなく、以前のようなハキハキとした明るさを失っていた。
「まるで俺じゃ残念みたいな口ぶりだな。ちょっと傷ついちゃったよお兄ちゃん」
俺は動揺を悟られないように、つとめて明るい口調で話した。彼女は薄暗い表情を少しだけ崩して、わすがに微笑んだ。
「むしろその逆かな。お兄ちゃんに用があるんだよ。このタイミングを待ってた」
「俺に用……?」
「うん。ちょっと部屋に来てほしいんだけど……」
わずかに彼女は恥じらいの表情を浮かべ、自らの部屋に俺を手招くのだった。
…………あれ?これなんかのアニメで見たことあるぞ?……一緒にエロゲするやつかな?
俺はなんともいえない不安な心持ちになりながらも、妹のあとについていく。
俺と妹の夏休みをかけた戦いが、今始まらんとしていることを、この時の俺はまだ知る由も無いのだった。