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ダークエルフに、魔法使い。
現代日本の高校生である百鬼タクトにとって、それらは決して耳慣れない単語ではなかった。むしろ、エンターテイメントに日常的に親しんでいる者ならば、すぐさま容易にイメージできるものだろう。とはいえ、そんなものが現実に飛び出して来たならば、やはり驚く他なかった。
ケイは先の言葉を証明するように、杖を軽く薙いだ。
途端、杖の先端が輝き、流星のように闇を裂く。閃光はそのまま勢いよく杖から飛び出して、二人の間に光球となり浮かんだ。ランプが灯ったようでもあり、二人の顔立ちや表情がはっきりと見て取れるようになる。
魔法。
実際に目の前で見せられては、タクトも疑う事ができない。
「無所属の流れ者だけど……実力は本物と、そう自負している」
ケイは誇る風でもなく、淡々と告げた。
「ひとまず、良かった。言葉が通じているという事は、〈愚者の輪〉は無事に接続されている――つまり、私が呼び出したものは、確かに〈人間〉である事が証明されたわけだ」
ほっとした、と云うように、ケイは初めて笑顔を見せた。
もちろん、タクトの方は何の意味もわからず、ぽかんと呆けたままだ。
疑問は沸騰したように湧き上がるが、酸欠の金魚のように口がぱくぱくと動くだけで、なかなか言葉にならない。指先が震えていた。驚愕か、恐怖か、あるいは両方が原因だろうか。
わからない。
その状態は、とても怖い。
一方で、ケイは最初の瞬間に見えていた緊張も無くなったようで、余裕を感じさせる微笑みを浮かべていた。彼女こそ、このような異常事態を引き起こした元凶なのかも知れない。タクトがそんな風に考えた瞬間、「私が、君をこの世界に呼び寄せた」と、ケイは静かに宣言した。
「……世界?」
「うん。そうさ、この世界」
ケイはあっさりと、当然のように云う。
「君からすれば、ここは異世界と云うべきか。ただし、大丈夫。何も心配する事はない。生態系は、完璧とは云わないけれど、奇跡的に似通っているはずだ。生きていく上で、君が困るような事はないよ。なぜならば、そうした世界同士が繋がるように、この魔法は作用するはずなのだから……」
何を云われているのか。
やはり、何もわからなかった。
嫌な予感ばかり、徐々に深まっていく。
じわり、と。
タクトの背中の辺りを、危険信号が蛇のように這った。混乱するばかりだった頭が若干冷える。タクトの現状は、さながら誘拐や拉致をされたに等しい。魔法やダークエルフという不可思議な要素に目を眩ませられそうになるが、何よりも優先的に考えるべきは、自分の身の安全であるはずだ。
「お、俺を、どうするつもりだ?」
舐められないように堂々と尋ねるつもりが、情けなくも、声は震えてしまう。
タクトが怯えている事は、一目瞭然だったはずだ。
嘲笑われるか。見下されるか。
こんな時なのに、脳裏に浮かんだのは学校のクラスメイト達の無関心な視線。あるいは、昔々、タクトが道を見失った時に数多の大人達から向けられた視線。無様な姿を晒した事で、ケイ・オールポートという女性からも、そんな眼を向けられるかと思ったが――。
きょとん、と。
年端も行かない少女のように、ケイは小首を傾げる。
それから、吹き出した。けらけらと、場違いな明るさで笑った。
「やだ。可愛いんだから……」
そんな風に、小さな呟き声。
「ああ、もう……」
吐息。
「すごく、好み」
瞬間、空気が変わる。
ケイは杖を薙ぐ仕草で、マントを脱ぎ落した。
今まで隙間からちらりと見えるだけだった身体が惜しげもなく晒される。エルフというイメージ通りに、胴も手足も細く、華奢という言葉が似合う。しかし、薄布を重ねたような衣服の胸元、そこは挑発的に開かれており、大きく、重く、アンバランスな魅力を正面から叩きつけて来る。
こんな時なのに、タクトは思わず目を見張る。
そして、そのまま釘付けになり――幾ばくかの後、自分の醜態に気付いて、大慌てで視線を逸らした。くすくす、と。無機質な石畳を見つめるタクトに、やはり艶っぽい笑い声が届く。
ダークエルフ。
改めて、タクトはその事に思いを巡らした。
もちろん、タクトの知っている〈ダークエルフ〉とは、コミックやゲームに登場するフィクションの存在に過ぎない。だが、目の前に居る本物の女性、ケイ・オールポートの肌色や耳の形は、そうしたフィクションで語られるものと綺麗に一致している。
では、その内面は――。
ぐるぐる、と。
タクトの思考は乱れた。
エルフと云えば、正義の側。自然や調和と寄り添い、多くの場合、主人公の味方である。一方で、ダークエルフと云えば、そうしたエルフの集団から外れた者達であり、時に残忍であったり、時に冷酷であったりする。
邪教を信仰している事も多い。
タクトは我に返ったように、はっとなる。
もう一度、周囲を見渡してみれば、やはりここは神殿のようだ。朽ちて風化しているが、大昔は立派な場所だったに違いない。何を祀っていたのか――公に認められた神を崇めていたならば、神殿が捨て去られるとは思えない。
そう考えると、ここは、世間に認められない何かを――邪悪なものを、密かに信仰する場所だったのではないか。
「俺を生贄にするつもりか?」
タクトは勢いよく、相手を押しやってしまうぐらいの調子で叫ぼうとした。
だが、先程と同じように、蚊の鳴くような小さな声が、ぶるぶると震えただけだ。
「生贄?」
ケイは微笑んだまま、小首を傾げた。
「そうね。そうとも云えるかも」
そう云って、彼女は笑みを消した。
ほとんど無表情に近しい真顔で、静かに一歩、タクトの方に歩み寄る。
「私は、今、この瞬間を迎えるために、五年の歳月を古の魔法の研究に費やした。今年でちょうど二十歳になるから、これまでの人生の四分の一を賭け金に使ったわけね。ああ、どれだけの者達から呆れられたか。罵倒されて、嘲笑されて、見下されて、見放されて――それでも、私は決して諦めなかった。そして、遂に、この偉大な成果に辿り着いた」
二歩、三歩……。
近寄って来る彼女、その迫力。
言葉の強さ、意志の強さから、タクトは逃げられなかった。
手の届く距離となる。ケイは先程マントは脱いだが、杖は捨てていなかった。先端に宝玉の飾られた、大きな木の杖。もしも、その杖を思いっきり頭に叩きつけられたら、それだけで相当なダメージを受けるだろう。最悪、打ちどころが悪ければ、死に至るかも知れない。
否。
彼女は、魔法使い。
杖で殴らなくても、何か、恐るべき魔法が使えるはずだ。
既に、タクトは蛇に睨まれた蛙の状態である。攻撃されたならば、一瞬でやられてしまうだろう。ダークエルフであるケイが邪なものを崇拝しており、その生贄とするためにタクトを呼び寄せたのだとしたら――何も抵抗できないまま、ここで終わりだ。
さらに、ケイは一歩。
タクトは震えも止めて、息を呑んだ。
「私が、君をここに召喚した」
吐息も掛かるような距離。
ほんの少し顔を前に出せば、唇の触れ合うような距離。
瑠璃色の深い瞳に、熱情が見えた。クールな外見と裏腹に、声の響きには全て、情熱が感じられた。秘密を囁き合うような小声なのに、オペラ歌手と向き合っているように、身体を芯から震わされるようだった。
ケイはごく自然に、結わえていた髪を解いていた。
黒髪。鴉の羽が舞い散るように、豊かな長髪が流れ落ちる。
「私の目的は、たった一つだけ……」
ケイの細い指が、タクトの頬を撫でた。
ぞくり、と。命の危機を感じてか、あるいは――。
肌が粟立ち、全力疾走した直後のように、息が詰まった。
「悪いようにはしない。いえ、むしろ……」
ケイは云う。
「君を身勝手に召喚した事に対し、これ以上ない幸福を捧げる。そう、だから……」
跪く。
ケイ・オールポートは、タクトの前で膝を折った。頬を優しく撫でていた時と同じ手つきで、そのままタクトの片腕を取る。上目使いに、瑠璃色の瞳が揺れている。感極まったように、うっすらと目尻に涙が見えた。もしかすると、彼女はタクト以上の緊張状態にあるのかも知れない。今、この瞬間――あるいは、最初の時から。余裕綽々に見えていたのは、そう振る舞っていただけか。むしろ、感情を上書きするようにして、堂々と行動するためか。
触れ合った指先から、彼女の震えが伝わって来る。
そんな事に今さら気づいて、タクトは不意に冷静になった。
「ケイ・オールポート、忌み嫌われるダークエルフ。生まれは、アトラクス王国の北火領。一族は絶えて、家族と呼べる者は無し。魔法使いとして、認可は受けておらず、無所属。ただし、その才能は誰にも負けないと自負している。そんな私が、これからの人生の全てを君の幸福に捧げる事を誓い、それを対価として、ここに〈古の契約〉を願い出る」
詠うように、言葉を紡ぎながら――。
ケイは跪き、タクトの腕を取ったままの体勢で、もう片方の手で懐を探り、そこから何かを取り出した。タクトに差し出すように、掌が開かれる。そこに在ったのは、古めかしい対の指輪。「冒険者として、これまでに得た宝の中でも、極上の魔法の指輪だ」と、ケイは静かに告げた。
そして、タクトとケイの視線が交わる。
沈黙。刹那の静寂。
ゆっくり、と。
しかし、堂々と――。
「私と、永遠の契約を……どうか、結婚してください」