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夢の中で、百鬼タクトは江戸の城下町を駆けていた。
満月と夜の闇を背負いながら、瓦屋根を燕のように跳び移っていく。廻り方同心が提灯を持って巡回しているが、黒衣の装束に身を包んだ忍に気づく事はない。
タクトは、熟練の忍者になっていた。
果たして、任務はどんなものか――密書を家老に届けようとしているのか、城の要人を暗殺しようとしているのか。残念ながら、タクトは自分が何を目的として駆け抜けているのか、はっきりと理解していなかった。
これは、夢である。
眠りの最中に見る、ただの幻。
あるいは、心の奥底に隠れる憧れの影。
いつの間にか、景色は様変わりしていた。時代劇そのままの街並みは蒸発するように消え失せて、タクトは一人、果ての無い平原を走り続けている。相変わらず、何のために、何処を目指しているのか、まったくわからない。
もしかすると、タクトは逃げているのかも知れない。
何かの使命を帯びて、責任や義務を果たそうという訳ではなく――。
ただ単に、夢の中でも現実と同じように臆病なままで――。
嫌な気持ちが、ぬるりと背中を這った瞬間である。
夢は、終わりに向けて加速を始めた。
夢を砕く者――すなわち、恐るべき敵が登場する。逃げる忍と云えば、やはり、里を捨てた抜け忍に違いない。タクトは、自分がそんな罪を犯した者なのかも知れないと気付き始めていた。
真夜中の草原、吹き抜ける風にざわめく草花。
真上に輝く満月だけが、決闘の見届け人。
無言で刃を抜き放つその敵こそ、自分に罰を与える者である。
最強にして、最悪。
忍びの中の忍、完成形。
緋の瞳が、闇夜を裂く。シルバーブロンドの長髪。両手の小太刀と不釣り合いな、ごく普通の高校生の制服。女子高生。西洋の血が混じったクォーターであり、顔立ちも体格も、はっきりと日本人離れしている。
威圧感すら漂わせる程に美しく、芸術品のようなプロポーション。
そんな彼女はきっと、死という何よりも重い形で、タクトに償いを求めていた。
「あ……」
悲しい事に、タクトは何も云えなかった。
夢の中でも、一切の言葉を紡ぐ事ができない。
雷のような閃光。
刹那の斬撃。
闇夜に朱が走る。タクトは遅れて、ばっさりと斬られた事を知る。噴き出した鮮血、月の光を反射しながら、自分の手から零れ落ちる忍刀。ゆっくりと倒れていく。敗北した。罰を与えられて、タクトは無様に死んでいく。
そのまま徐々に、瞳を閉ざし――。
夢は、儚く薄れていき――。
「おい、百鬼!」
そして、現実。
タクトは瞳を開いた。
最悪の夢が終わって、その代わりに訪れるものは、最低の現実である。
「百鬼、また赤点を取りたいのか?」
心臓をぎゅっと掴まれたような一瞬が過ぎ去り、タクトは額を押さえる。
寝惚け眼のまま、じわりと冷や汗が浮かぶような数秒間。
黒板にチョークを向けたまま、強面の現国教師はタクトを睨んでいた。「すみません」と、ようやく授業中に居眠りしていた事を謝る。教師はそれ以上何も云わず、まるでタクトを無視するように、「あー、ここの逆接は、前段落の……」と、授業を淡々と再開していた。
教室に、笑い声はない。
最後尾の席に座るタクトに向けて、クラスメイトの幾人か、振り向いて無機質な視線を寄越していたが、すぐさま興味の失せたように向き直る。これが例えば、バスケ部の人気者がやらかした事ならば、茶化す声や冗談の声が飛び交って、教室はむしろ賑やかになったに違いない。
異物である百鬼には、そんな事が起こるはずなかった。
いじめられている、という訳ではない。
昼休み。
タクトは気配を殺して、教室をこっそりと抜け出る。いや、そもそも誰かに注目される事はないため、背中を丸める必要はまったくないのだけど、それが長年の癖になっているのだ。
財布と、鳴る事のない携帯電話。
それだけを片手に持って、購買や学食に向かう訳でもなく、人の波に逆行するように、校舎の片隅を目指して行く。三階の廊下を一番端まで歩く頃には、タクト以外の生徒は誰も見当たらなくなっている。昼休みにわざわざ、空き教室の並ぶ廊下を訪れる者はいないからだ。
廊下の端には、屋上に続く階段があった。
タクトはその途中、踊り場の隅に座り込む。
小説や漫画のように、校舎の屋上には出られる訳がなかった。もしも、屋上がフィクションのように解放されていたならば、それはそれで、タクトには無縁の場所になったはずだ。そこはきっと華やかな場所になり、運動部の男子や髪を染めた女子の過ごす場所になるから。
昼食は食べない。午後、腹が空かないと云えば嘘になるが、購買等の賑やかな場所に行く事を考えると、その方がぞっとした。
ぼんやり、と。
無為に過ごす、その途中――。
唐突に、携帯が震えた。
滅多に着信のない電話に、一瞬、身が強張る。タクトは慌てて画面を確認した後――、何も見なかったと云うように、携帯を冷たいコンクリの床に置き直した。もう一度、着信。今度は、相手も確認しないまま、電源自体を乱暴に切った。
夢の内容を思い出す。
緋の瞳、銀髪、静かな殺気と――。
そんな悪夢と浅い眠りで、昼休みの一時間をやり過ごした。
教室に戻れば、出入口近くに座るクラスメイトから視線を向けられる。その一瞬が、一番苦しい気持ちになった。自分の席に着けば、後はもう、空気に溶けるだけだ。何も考えず、何も感じないように、一日の授業が終わるのを息を潜めて待ち続ける。
百鬼タクト、十七歳。
高校二年生。
今の高校に入学してから、友達は一人も作っていなかった。最初は話しかけられる事もあったけれど、まったく満足に返事をしないような相手に、いつまでも構い続ける聖人君子はいない。
休み時間、放課後。
昨夜のテレビ番組の話題で盛り上がるグループ、これから新宿まで遊びに行こうと話し合っているグループ。タクトにとっては、遠い遠い、異国で起こっている出来事のようだ。
自分は何をしているのだろうか、と。
時折、そんな想いが、木枯らしのように胸を駆け抜ける。
身体が震えそうになるぐらい、急に怖くなった。無邪気に笑い合っている同い年のクラスメイト達は、おそらく、自分のことを理解できないもののように思っているはずだ。だが、タクトの方も、彼らをまったく理解できなかった。
価値観が違う。常識が違う。
やはり、住む世界が違うのだ。
だから、結局――。
友達なんて、最初から作れるはずがなかった。
解放を告げるチャイムの音。
逃げ出すように教室を出て、タクトは帰り道を急ぐ。
家に帰れば、一人、深海魚のように過ごせる。気が付いた時には、眠りに落ちる事ができる。そして、変わり映えのしない毎日を繰り返すだけだ。タクトはもしかすると、自分が早く死にたいと思っているのではないかと、時々不安になった。
生きているのに、既に死んでいるのに等しいのではないか、と。
時々、後悔する。
「タクト君!」
教室を出て、校舎の入口で靴を履きかえれば、一日は終わったも同然だった。
それなのに、この日は起こってはいけない変化が起こってしまった。
タクトはグラウンドに踏み出した時、その先にある校門に人だかりが出来ている事をまず不審に思った。それでも、どうせ自分には関係がない事と傍を通り抜けようとしたが――。
「ねえ、タクト君!」
二度目に名前を呼ばれた時は、その声の主を取り囲んでいた男子達も、遠巻きに眺めていた女子達も、全員がタクトの方に振り返っていた。無数の針に肌を突き刺される気分。タクトは必死に無視を決め込んで、その場を離れようとした。
だが、横目に見えてしまう。
そこに居たのは、他校の女生徒。
この辺りでは有名な、お嬢様学校の洒落た制服が目立っている。
だが、それ以上に、生粋のシルバーブロンド。血の透けるような緋色の瞳。映画スターやモデルも道を譲るような美しさ――いずれも、人目を惹きつけないはずがないのだ。タクトの瞳には、世界は色褪せたようにしか見えないけれど、それでも、彼女の姿だけは鮮烈に浮き立っている。
渋谷辺りを歩くと、声を掛けて来る男が順番待ちするらしい。
そんな話が冗談にもならない彼女。
祭囃子アヤメ。
彼女は、誰かを待つように、校門の傍で立っていたらしい。普通、他校の生徒がそんな風に一人で居たとしても、じろじろと興味の視線を向けられる事はあっても、人だかりが生まれる事はないだろう。残念ながら、タクトの通う高校は品行方正の真逆を行っている。とりわけ調子の良さそうな男子達が、獲物を見つけたように周囲を固めていく流れは容易に想像ができた。
ほんの一瞬、タクトとアヤメの視線が交わる。
刹那。
彼女は、ぱっと花開くような笑みに変わった。
「……っ!」
首を絞められたように、タクトは小さく息を吐き出す。
視線を慌ててそらして、ほとんど走り出す勢いでその場を離れた。思わず顔を伏せてしまったのは、頬が赤くなっていると自覚があったからだ。実際に顔を合わせるのは、いつ以来だろうか。電話やメールならば、今日の昼休みのように時々、不意打ちでやって来るけれど――。
「ねえ、待って。タクト君、ねえ……」
背後から追って来る声。
それでも、タクトは振り返らない。
彼女を取り囲んでいた生徒逹は、ぽかんと呆けているだろう。もしかすると、タクトのクラスメイトも幾人か、そこに混ざっていたかも知れない。全員がきっと、「こんな冴えない奴が、彼女の待っていた相手?」と思っているはずだ。
タクトとアヤメ。
二人は、幼なじみ。
仲は良かった。
ただし、それは昔々の事である。
二人の歩む道が分かれてから随分経っていた。
アヤメは、皆が憧れるような女子校に入学し、そこでも優秀な成績を修めている。友人は多く、先輩や後輩に慕われて、教師を始めとした大人達からの信頼も厚い。敢えて繰り返す必要もない美貌。天賦の才を幾つも与えられて、持て余すぐらいの彼女は、まさしく、万人が羨むような人生を歩んでいる。
日向の道。
タクトは、彼女の居る場所を日陰から眺めていた。
底辺に近い場所で、さらに落ちこぼれている。友達と呼べるような相手は一人もなく、笑ったり、泣いたりする事も忘れてしまった。ぼさぼさの髪は、一ヶ月に一度ぐらい、自分の手で切る。時代を間違えたような黒眼鏡。卑屈に折れ曲がった猫背。青空の色を忘れそうになるぐらい、アスファルトの地面ばかり眺めて歩く。
だが、今は駆けていた。
必死に。
逃げたかった。
最寄の駅に真っ直ぐ向かうには、人通りの多い商店街を抜けなければいけない。だが、そこは下校する生徒で一杯だ。目立ちたくなかった。タクトはほとんど無意識に、狭い路地裏をあちこちに折れ曲がり、時には錆びたフェンスを乗り越えたり、そんな無茶まで滅茶苦茶に行いながら、彼女をどうにか振り切ろうとした。
だが、無理だ。
タクトが、彼女から逃げられるはずなかった。
「いい加減、怒るよ」
五分か、十分か――。
かなりの距離を走り続けても、気配はぴったりと背後にあった。
斜陽。
沈みかける太陽が、二人をオレンジ色に染める。
河原の道。彼方の陸橋をちょうど電車が通り抜けて、静寂をしばらく掻き消してくれた。だが、それも束の間の事で、力強く腕を掴まれてしまったタクトは、振り返る事を拒む事はできず、遂に、彼女を正面から見つめる羽目になった。
二人だけの道。
無言。
タクトは息を切らして、制服のシャツの下にはびっしょりと汗を掻いていた。一方で、アヤメは涼しい顔をしている。汗の一粒、浮かべていない。鋭い視線、きつく結ばれた口元。「どうして、逃げるの?」と、彼女は端的に怒りを示した。
タクトは何も云えない。
まだ息は切れたままで、声が出なかったという事もあるけれど――それ以上に、そもそも何を云うべきかわからなかった。何も云えるはずがなかったのだ。
二人は、幼なじみ。
仲は良かった。
誰よりも、親しかった。
実の家族よりも、互いを想っていた。
だが、今は誰よりも遠い。
タクトは、アヤメから片腕を掴まれている。痛いぐらいに、とても力強く。思わず表情を歪めると、彼女はすぐに気づいたようで慌てて手を離した。「ごめん、大丈夫?」と心配される。お人好し、優しい。それだけで、タクトは彼女が昔からまったく変わっていない事を知った。
子供の頃は、何も考えず、仔犬がじゃれ合うように遊べたのに――。
今はもう、真っ直ぐに顔も見れなかった。
逃げ場がなくなっても、タクトはまだ顔を背け続ける。
変わらない、アヤメの笑顔が怖かった。
怖いと感じる自分が、タクトは嫌いだった。
「はい、タクト君」
はにかんだような笑顔のアヤメ。
タクトが半歩後ろに退いた瞬間、彼女はほんの少し、悲しそうな色を瞳に浮かべたけれど――それをすぐさま隠して、今度は満面の笑み。真正面から、隠すつもりのない剥き出しの気持ちを突き付けられて、タクトはさらに、半歩を退がりかける。
「お誕生日、おめでとう」
ああ、そうだった。
タクトはようやく気付く。
胡乱な毎日を送っているから、自分の誕生日すらも忘れてしまっていた。だから、昼休みの時に電話が掛かって来たのか。彼女は果たして、電話で何を云うつもりだったのだろうか。
祝いの言葉と――。
もしかすれば、放課後にデートしようとでも――。
「ど、どうして……?」
タクトの声は、蜘蛛の巣に絡んだような調子。
プレゼントとして、可愛くラッピングされた小包を見つめる。
学校鞄を地面に降ろし、彼女は丁寧に、両手でタクトの前に差し出していた。
「最近、ほとんど会えないから……だから、誕生日ぐらい……」
彼女も何処か、必死な調子になっている。
一瞬、タクトはプレゼントに手を伸ばしかけた。
だが、寸前で止まる。
「あ……」
思い出したのは、悪夢。
血飛沫と死。それらが、現実な彼女の温かな笑みと重なる。
悲鳴を呑み込んだ。絶叫を胸に留めた。
ただし、衝動は止まらない。
「……っ!」
痛みを噛み殺すような吐息。
それと共に、タクトはアヤメの手を振り払った。
差し出されていたプレゼントは、当然、地面に勢いよく落ちた。鈍い音を立てて、箱がへこんでしまった。間抜けに二回、三回と転がっていく。無言、無音。斜陽が、二人を染めている。
どれくらい、そのまま経ったか。
アヤメは顔を伏せて、小包を拾い上げようとする。しかし、膝を折った体勢のまま、ゼンマイの切れた人形のように動きを止めた。彼女は片手で、目元を押さえる。音は無い。静か。泣くと云うよりも、涙をただ流すというように。
世界中のどんな男でも、一瞬で激情を冷まされそうだけど――。
だが、タクトは違った。
「やめろ。ふ、ふざけるな……やめろよ!」
必死に叫んだ。
「もう、俺に関わらないでくれよ!」
頭を抱えて、嗚咽を漏らした。
まるで走馬灯のように、記憶が甦っていく。
昔々――。
タクトは分不相応にも、幼なじみのアヤメが好きだった。
大好き、だった。
幸か不幸か、二人は仲が良く、「大人になったら結婚しようね」と、大人達に隠れてこっそり約束したものだ。しかし、最初は寄り添っていた道も徐々に分かれて、いつしか恐るべき崖のように、絶対に越えられないぐらい大きく開いてしまった。
『タクト君はすごいね!』
きらきら、と。
真っ直ぐの視線を向けてくる、子供の頃のアヤメを思い出す。
タクトは夏の陽を浴びて、精一杯に背伸びしていたものだ。
何にでも為れると思っていた。何でも成せると思っていた。幸せは何処にでも転がっているもので、未来は希望に満ち溢れている事を疑わなかった。
何もかも、掌から零れていくものだと知らなかった。
「お、お前のせいで、俺は……!」
云ってはいけない。
そこだけは、踏み越えてはいけない。
わかっていたはずなのに、タクトは言葉を止められなかった。
何年間も、胸に押し込めていた想いを止められなかった。
「お前さえ、いなければ……!」
その瞬間、タクトは貧血を起こしたように、ふらりと倒れかけた。
急速に意識が遠のき、何が起こったのか――大きな混乱に見舞われる。
見えたのは、光。
聞こえたのは、歌うような声。
「なに、が……なんだ、これ?」
タクトは驚きに言葉を失った。
目の前で、アヤメも緋の瞳を見張っていた。
それは、後々知れる事だけど――。
光は、エーテルの極端な異空間流入による反作用。
歌声は、古の魔法を復活させようとするダークエルフの詠唱。
すなわち、この異変は〈異世界の魔法〉であり――。
「タクト君!」
祭囃子アヤメの声を最後に聞いた。
死にたい、と。
タクトは長い間、自分の本心がそう在るのではないかと疑っていた。死が訪れる刹那の時に、最期の幸せが得られるのではないか。そうして虚無に消え去った方が、不幸を噛み締めながら生きているだけの今よりも、まだ楽なのではないだろうか。
そう思っていた。
だが、やはり違ったのだ。
死に目を凝らす事は、結局、どうにか生きている自分を実感する事に他ならなかった。
ぎりぎりで生きようとしている自分を知り、タクトは心を慰めていたに過ぎない。
死にたくなかった。
生きたかった。
日向の道を。
幸福を。希望を。
あの頃、子供のように――。
真っ直ぐに未来を見ていたかった。
笑いたかった。
泣きたかった。
喜びも悲しみも、まだまだ味わいたい。
だから、百鬼タクトは最後に大きな叫び声を上げた。
「アヤメ!」
まるで、産声のように――。
やり直せるならば、やり直したい。
本当は、ずっと、そう思っていた。
もちろん、二人の道が外れてしまった過去まで戻って、全てを一から正していくなんて事はできない。どん底まで落ちてしまった今、もはや、タクトは身動きが取れなかった。喘ぎ、苦しみながら、それでも切っ掛けを欲していたのかも知れない。甘ったれた考えかも知れない。だが、もしも、神様が最後のチャンスをくれたならば――その時は、死にもの狂いで足掻いてみたかった。
光の奔流。
かつてない異変。
その中で、タクトは手を伸ばした。
アヤメもまた、その手を伸ばして来ていた。
それぞれの手が結ばれた瞬間、光は大きく爆ぜた。
そして――。
転機は訪れる、二人の物語が再開する。