理由
桂と名付けられた子は、怪我をさせないように慎重に、厳重な守りのもとに乳母達に育てられた。
性質が性質なので、乳母は二人ついていた。出産に立ち合っていたのはそのうちの一人で、何も言わないが、その性質の訳も知っていた。
そのせいか乳母は、泰にあまり目の触れないようにと育てているようだった。
泰は、それがありがたかった。桂を見ると、己の過ちと、桂を案じながら逝った慶を思い出し、いたたまれなかったのだ。
しかし事情を知らない桂は、父を慕った。泰は桂が可愛かったが、その慶に瓜二つの姿を見ていると、また辛くて遠ざける事が多かった。
そんなある日、10歳違いの妹、雛と散策していた桂は、その悩みを聞いていた。年頃になり縁談が舞い込み、雛は宮に居たいと桂に泣きついていたのだ。桂は、代わってやりたくても己の病のせいで無理なので、雛を不憫に思っていた。そう、我は想う殿方が出来ても、見ている事しか出来ないのに…。
そんな二人の耳に、乳母達の話すのが聞こえて来た。
「いったい王は何を考えていらっしゃるのか…桂様のお気持ちを考えたら、雛様のご縁談など公に話されるなど、間違っておられまする。」
もう一人が頷いた。
「慶様を救いたいとは申せ、あのような術など…桂様は健やかにお生まれでしたのに。命を入れ替えたりなさらなければ、今頃は引く手あまたのお美しさであられるのに…。」
桂は耳を疑った。雛は驚いて桂を見た。
「お姉様…!」
乳母達がハッとして振り返る。桂は踵を返して、生まれて初めて走った。
「桂様!いけませぬ!」
乳母達が慌てて追いかけて来るのが分かる。
「お姉様!」
雛も駆け出した。桂は慣れないので転倒し、手に擦り傷を作った。
「ああ!なんということ!王にご連絡を!」
乳母が叫ぶ。桂は意識が朦朧として来た。
「お姉様!お姉様!ああ…どうしたらいいの!」
雛がぎこちなく手をかざし、必死に気を補充しようとしている。桂は意識を失った。
知らせを受けた泰は、慌てて桂を抱き上げて、部屋へ運んで気を補充した。その時久しぶりに見た桂は、慶に瓜二つで驚くほどに美しかった。
死なせる訳には行かぬ…慶が遺した子であるのに!
泰は己の考えが間違っていたことを悟った。これからは側に置き、何が何でも桂を守らねばならぬ。それが償いのなるのだから!
何とか回復することが出来た桂は、無口になって、部屋から出なくなった。泰は今さらにどうすれば良いのか分からず、桂の部屋の戸の前で毎日立ち尽くした。あのようなことになった経緯を聞くのに、雛に問い質したところ、桂が出生の時のことを聞いてしまったのだと知っていた。なので、余計に桂に声を掛けることが出来なかったのだった。
そうやって数週間も過ぎた頃、乳母二人と共に、桂は忽然と姿を消した。
そして、ずっと探し続けて、それでも見つからぬ桂を、泰はずっと思っていたのだった。
「…我は、取り返しのつかぬことをしてしもうたのだ。」泰は、涙を流してうなだれた。「桂は何も悪くなかった。我がただ、慶を失いとうなかったばかりに、あのように愚かなことをして、そして慶を失い、桂までもまた失ってしまったのだ…。」
蒼は、泰を黙って見ていた。泰を責めることは出来ない。なぜなら、自分も同じことをしたかもしれないからだ。桂を失いたくなかった。子の命で何とかなるならと、考えた泰の気持ちも、今の蒼にはわかったのだった。
「…オレも、一度愛する女を失ったことがある。だから、お前の気持ちは分かる。だがな、オレは子の命を代償にとは考えなかった。だから、お前のやったことが、例え成功していても、慶は喜ばなかったし、どの道幸せにはなれなかったと思うぞ。」
十六夜が言うのに、蒼は顔を上げた。確かに、十六夜はそうだった。母さんを復活させるのに、オレの命をと言ったら、それは維月が望まないと言って、拒絶した。本当の愛情とは、そうなのかも知れない。相手の気持ちを考えて、自分の気持ちを犠牲にする方向へ考えを持って行く…。蒼は、そんなことを、十六夜に教えられるとは思いもしなかった。
ふと、十六夜が顔を上げると、立ち上がって傍の仕切り布を開けた。
「…おい。こんな所で立ち聞きするとはいい趣味じゃねぇか、維心。」
そこには、維心と維月が並んで、わざわざ椅子を置いて座っていた。維心が言った。
「何を言う。我も維月もずっとここで座っておったぞ。」
十六夜は呆れたように言った。
「あのな、座って聞いてても立ち聞きなんだよ、まったく。」と布を開いて言った。「入りな。どうせ聞いてたんだからよ。」
二人は顔を見合わせると、並んで入って来た。そして椅子に座ると、維心は言った。
「しかしの、泰。我にもその気持ちは分かるぞ。我が出産で維月を亡くし掛けた時、そのような方法があるのを知っておったら、迷わずやっておったわ。子は何度でも生めると思うてしもうたであろう。維月は我の生涯でただ一人。こんなことを言うたら、維月が怒るであろうがの。」
維月は苦笑した。
「私は不死でありまする。なので入れ替えても子が不死になって月へ昇るだけ。なので怒りは致しませぬ。あの時は、人の体でありましたから、それが滅ぶだけでありましたでしょう。私達には当てはまりませぬわ。」
維心はため息を付いた。
「そうであるな。しかし蒼よ…桂はそのような事情を背負って生きておったのだな。それでも、桂は主を愛したのであるぞ。」
蒼は頷いた。目頭が熱くなって来るのが分かる。桂は、死ぬかも知れぬと思っていながら、オレを愛してくれた。そして、命を懸けて子を生んでくれた…最後まで言わなかったのは、父王が自分にしたことを知っていたからなのだ。
「今でも、桂を愛しております。」蒼は言った。「きっとずっとそうでしょう。忘れることなどない。桂は、何よりもかけがえのない妃だった。初めて自分で選んで望んだ、たった一人の…。」
蒼は涙を流して俯いた。維月は同じように涙ぐんで維心に寄り添う。維心は慰めるようにその肩を抱き、蒼を見て頷いた。
十六夜が、口を開いた。
「…それにしても、命が消えるってことがあるんだな。」
維心が十六夜を見た。
「何と申した?消える?」
十六夜は頷いた。
「そうだ。オレは命ってのは黄泉へ逝って、こっちへ来て、そうやって循環してるもので、消えちまうとは思わなかった。」
維心が眉を寄せた。
「我が命を司っておるゆえ確かに言うが、消えることはない。主の言うように、循環しておるのでな。一度黄泉へ逝っても、また転生して生まれて来る…そして、また黄泉へ逝く。こちらへ来た命は、己の責務を全うするまで黄泉へは行かぬ。生まれ出る前に亡くなった子は、それが責務であったということになるの。すぐに楽になるのであるから。」
十六夜は眉を寄せた。
「お前、話聞いてたか?泰は慶が拒んで、入れ替えた桂の命が消えたと言ったんだぞ。まだ責務を全うしてないのに、黄泉へ逝ったのか?それとも、それが責務だったのかよ。」
維心は考え込むように眉をひそめた。
「…術でゆがめたのであるから、それが責務ということはあるまい。」
泰が、驚いたように顔を上げた。
「…それは、どういうことでありまするか?」
十六夜が言った。
「つまり、お前が消えたと言った命がどうなったか分からないんだよ。消えたって、掻き消すようにか?」
泰は思い出そうと目を泳がせた。
「…いや、スーッと徐々に消えるような感じであった。」
維心と十六夜は目を合わせた。維心が言った。
「それは、消えたのではなく主に見えぬようになったのであろうな。我なら見える。そのあとどこへ行ったのかも、おそらく我なら見えたであろう。」
維月が維心を見上げた。
「維心様、ならばその命、まだどこかに漂っているかもしれぬということでありまするか?」
維心は頷いた。
「理屈ではそうなるの。しかし、見つけたにしても桂に戻すのはもう無理であるぞ。死してから幾日経っておる。主の時は、月の力で体を保っておったゆえに出来たこと。桂の体は、あれより何も手を掛けておらぬではないか。とても命を呼び込めるものではないであろう。」
あれから数か月が経っている。しかし、蒼は言った。
「その命がどこかを彷徨っているとしたら、救わねばならないでしょう。桂に宿るはずだった命が、そのように彷徨っておるなど、オレには耐えられない。維心様、救ってやってくれませんか。」
維心はため息を付いた。
「そうであるの…確かにそれは我の仕事であるな。我にしか出来ぬことであるし。しかし、我は生前の桂に会うたことがないゆえな。その気がどのようなものであるのか分からぬ。ゆえ、気を探って見つけるという訳にも行かぬの。」
蒼は立ち上がった。
「和奏がおります。」と、侍女を呼んだ。「和奏を、これへ。」
侍女が頭を下げて出て行った。十六夜が蒼を見た。
「そうか、和奏の気と似たのを探せばいいんだな!」
蒼は頷いた。桂にそっくりの和奏の気なら、きっと参考になるはず。
そのうちに、乳母に抱かれた和奏が居間へ入って来た。もう生まれて数か月になる和奏は、知らない顔が多いのに泣きそうになったが、蒼と十六夜を見て笑った。蒼が、和奏を抱き取った。
「維心様、これが和奏です。」
泰も、その赤子を見てまた目を潤ませた。桂にそっくりだ。慶の面影を継いでいる…。
和奏は、じっと見る維心を見てきょとんとしていたが、笑ったかと思うと手を出した。維心はびっくりした。
「おい、和奏が知らない男に抱かれようとしてるぞ。」
十六夜が言う。蒼が十六夜を睨んだ。
「そんな言い方するなよ。ただ抱っこをせがんでるだけじゃないか。」
維心はそれを聞いて少しためらった。赤子など、自分の子以外抱いたことも触れたことも無い。
「維心様、抱っこして欲しいのですわよ?抱いてあげてくださいませ。」
維月に言われて、維心は恐々和奏を抱いた。和奏はきゃっきゃと笑う。維心は何が可笑しいのか分からず眉を寄せた。
「何やら喜んでおるの。」
維月はふふっと笑った。
「それは維心様に抱かれておるのですから。」
ますます訳が分からなかったが、維心は意識を集中してその気を読んだ。この気と同じ、もしくは似たものを探す…。維心は顔を上げた。まさか…。
「…ここの墓所にある。」
維心は驚いたように言った。蒼も十六夜も、泰も驚いて維心を見る。
和奏は一人、何も知らずに維心の腕で笑っていた。