心の中
珉が蒼の所へやって来たのは、昼を過ぎて日が傾き始めた頃だった。
蒼は、この槇の重臣の姿を見て、思っていた。歳は恐らく龍の宮の兆加ぐらい、500歳ほどであろうと思う。槇は、400歳ぐらいであると聞いているので、おそらくこちらのほうが年上であろう。
その珉よりの願い受けて、蒼はそこに藍を呼んだ。部屋の影に、維月も共に来ているのを感じていた。その維月について、どうも維心も居るような感じがしていた。
珉は、深々と藍に頭を下げた。
「王妃様。お出まし頂きまして、恐縮致しておりまする。」
藍は頷いた。
「珉。どうしたのですか。王には、明日にはお話をと申しておったはず。」
珉は顔を上げた。
「王の命で参ったのではありませぬ。王はあのように不器用なかた、今もお部屋で一人、考え込んでおられます。我の知ることを、王妃様にお話しだけでも思い、参りましてございます。」
藍は頷いた。
「では、申せ。」
珉は再び頭を下げた。
「は!王妃様、王の維月様に対するお振舞に憤られたのは当然のことでありまするが、それ以外の、宮での王のことについてでありまする。」
藍は扇で口元を押さえた。明らかに知らないことだったらしい。
珉は、槇がどんな気持ちで妃を次々と連れ帰ったのかを話した。維月はそれを聞きながら、やはり神の世でも、妃同士が仲が良い訳でもなくて、そんな嫌がらせもあるんだと知って、なぜだかホッとした。皆きちんと心があるのだ。人だけが、特別なのではない…。
しかしその嫌がらせは、陰湿だなと思った。大切に育てていた花を踏み潰したり、公の場で先を歩く正妃の藍のベールを踏みつけてバランスを崩させ、皆の前で恥をかかせたり、王から贈られた着物に何かのシミを付けたり…。数々の嫌がらせに、良く耐えたなあと維月は感心した。
しかし、槇がそれから藍を守ろうと必死に考えたのもわかった。自分が格下の宮から無理に迎え入れた藍が、どうしても過ごしやすくなるようにと思ったのだ。先の二人の妃に時々思い出したように通うのも、本当に思い出したからで、あまり通わないとまた藍に嫌がらせがと気遣ってのことだったのだ。
なので、夜明け前には戻りたくて仕方がなかった藍の元へと戻る。つまりは、槇の思考は、全て実は藍を中心に回っていたのだ。
「…しかしながら、昨夜のお振舞は我も眉を寄せましてございます。」珉は言った。「我はずっと王に付いておりまするゆえ分かり申すが、あれは、本当に妃に迎えたいと思うておられるような風情であられた。それまでのたくさんの妃達は、向こうから寄って来て、王がじゃあこれにするかといった感じで手軽に連れ帰られた者。王から言い寄った者は一人も居りませぬ。しかし昨夜は、王から拒まれる維月様に無理に言い寄っておられる様子でした。独身の皇女であるなら、王に正式な妃がもう一人居ってもおかしくはないかもしれませぬが、維月様は龍王妃。しかも月。そんなかたにあのように懸想されては、宮の存続にも関わる重大事になりかねませぬ。龍王の維月様に対する御執着は存じておりまするし、我が宮は簡単に滅ぼされてしまいまする。なので我も、それに関しては本日御諫め致しましてございます。」
維月は苦笑した。あくまで妃の前で言い寄ったことは関係なくて、宮の存続に関わるからいけないのね。そういう考え方なんだ…。
《普通ならありえぬことぞ。》維心の声が、頭の中に響いた。《龍王の妃に、その近くで言い寄るなどの。ま、主には数多の男が言いよって来るゆえ、普段から我慢の出来ぬ男なら、やるであろうな。》
維月はその声にため息を付いた。維心は、ここへ来るには支障があるので、自分の対に居て、維月の目からこの状況を見て聞いているのだ。なので、維月からは維心の気がほんのりした。
藍が、口を開いた。
「では…王は、我のためにと、あのように考えられたと。」
珉は頷いた。
「はい。結果、あのように女好きと言われようと、王は全く気になさっておられなかったのでございます。連れて来た多数の妃も、身分が低かったりと生活に困っておる者が、生活のためにと王に言い寄って来た者がほとんどで、王が通って来られないことに嘆いておる者は少のうございます。最初から、分かっておって参っておるのでありまするから。ただ、それが皆に伝わると、先の二人の妃が知ることとなり、また王妃様への嫌がらせに繋がるのではないかと懸念され、一切何も言われないだけでありまして。」
「まあ…。」
藍は涙ぐんだ。維月もこちらで感心して聞いていた。そんな方法で妃を守ろうとするなんて。私だって、もしかして維心様が私より前に誰か臣下の決めた妃を迎えていたとして…まあそれなら嫁いではいないだろうけど…だとして、それでも迎えられて、今のように大切にされていたら、確かにいじめられていたかもしれない。私は藍様とは性格が違うから自分で何とかしただろうけれど、維心様ならどうやって守ろうとされたのかしら。
《我なら主を迎える前に先の妃は里へ帰しておったの。》維心の声が、唐突に言った。《要らぬからの。》
維月は落ち着かなかった。維心が自分を通して見聞きしているということは、こうやって考えたことまで皆維心に筒抜けということだ。
《そんな妃を物のように言わないでくださいませ。どちらにしても、その状況では、私は嫁いでおりませぬ。》
維心から、どっと不安の感情が押し寄せて来た。
《だから、我には主の他に妃が居った事はないであろう。主だけぞ。仮にでも、そのように申すでない…。》
維月は苦笑した。考えるのも嫌だと思っていることが伝わって来たからだ。
《そのように不安にならないで。維心様、愛しておりまするから。》
維心の気が、複雑な感じに変化した。維月がなんだろうと思っていると、維心が言った。
《維月、帰って参れ。藍殿に、槇に話しに行けと言えばよい。藍殿は泣いておるではないか…我は主が傍に居らねば寂しい。》
藍を見ると、確かに藍は涙を流していた。珉が気遣わしげにそれを見ている。維月は影から歩み出て話そうと思うと、蒼が先に口を開いた。
「藍殿、今からでも良いのではありませぬか?槇殿と、今一度話して来られては。」
藍は、小さく頷いた。珉が見る見る表情を明るくして、言った。
「おお、王妃様!では、王の元へ。」
藍は立ち上がり、蒼と維月に頭を下げると、珉に先導されて、そこを出て行った。それをホッとして見送っていた蒼は、維月を振り返って言った。
「あれ、維心様は?確かに維心様の気もすると思ったのに。」
維月は笑って答えた。
「あ、やっぱり?維心様がここへ来るには支障があるでしょう、槇様の妃と、あなたの妃が居るんだから。いくら親族と言っても、ここは奥宮だし。だから、私を通して見聞きしてらしたのよ。」と、維月が額を抑えた。「…維心様が早く戻れと言っているの。戻るわね。」
蒼は少し呆れたが、頷いた。
「ああ。これで、収まってくれたらいいな。」
維月は微笑んで頷くと、維心の対へと歩いて行った。
暗く沈んだ槇の背後に、あの慕わしい気がした。槇は急いで振り返ると、そこに藍が立っていると見とめた。
「藍…。」
藍は、なんと声を掛けたら良いのか分からず、しばらくそこに佇んでいた。槇が、恐る恐る手を差し出した。
「藍…これへ。」
藍は、迷うそぶりを見せたが、すっと歩いてその手を取った。槇はホッとして、藍をまた恐る恐る抱き寄せた。
「藍、我は愚かであった。」槇は、慎重に言葉を選びながら言った。「維月殿へのあのような振る舞い、我を忘れるにしてもほどがあるの。もう、主が否と申すならそのようなことはせぬゆえ。我と共に宮へ帰ってくれぬか。」
藍は、槇を見上げた。そう言えば、藍は槇を、こんなにまじまじと見たことはなかった。維月様は、しっかりと龍王の目を見て話しておられた。龍王は、また愛おしげにそんな維月様を見ておられて、それは仲睦まじく、羨ましいほどであった。槇は、そのブルーグレイの瞳でじっと藍を見ていた。こんなに間近で見る槇は、整った顔立ちで少しいたずらっ子のような風情で、その明るい茶色の髪も全てが愛おしかった。思えば、自分が初めて槇と会った時、その凛々しい姿に驚いたものだった。それが、遥か格の高い宮の王だと聞いて、気落ちしていた所、槇から正式な申し入れがあったと、しかも正妃として迎え入れられると、宮では大騒ぎになったものだった。そうして実家の宮は槇からの援助で大きくなり、潤って、父も穏やかになった。兄弟姉妹達も、良いところへ縁付くことが出来たのだ。
藍は、涙ぐんだ。槇様…どのようなことがあっても、宮で嫌がらせを受けようとも、お傍に居ようと決めておったものを。藍が涙ぐんだのを見て、槇は慌ててその涙を自分の袖で拭った。
「藍、我は何か良くないことを申したか?我はもう、あのようなことはせぬ。」
藍は、首を振った。
「槇様…我は、忘れておりました。これほどまでに槇様を想うておりましたものを。でもだからこそ、槇様が他のかたをお連れになるのは、大変につろうございました。他のお二人の妃のことにしても、槇様の正妃になったのでありまするから、どんなことでも受けて耐えるつもりでありましたの。なので、まさか槇様が、そのようにお気づかい下さっておったとは、思いもしませず…申し訳ございませぬ。」
槇は、藍が常になく自分をじっと見て、しっかりと話すのでどぎまぎした。なんと美しいことか…我は藍を一時たりとも離したくはないものを。
「藍、主を気遣うのは当然のこと。我は主を一番に想うておるのだからの。主が居らぬ寂しさは、他とは比べものにならぬもの…藍、我を想うてくれておるのなら、共に戻ろう。我と共に。我は、今度こそ、何事も主に話してから行うことにする。何を失っても、主を失うのは怖いのだ。我には、本当なら主だけで良いのだ。愛している。」
藍は涙を流しながら頷いた。槇はホッとして、藍を抱き締めた。藍しか要らぬ。他はどうでも良い…。
二人はそのまま、ずっと抱き合っていた。
珉はそっとそれを確認して安堵した表情を見せると、そこを立ち去った。




