願い
紗は、明人を想って部屋に篭りがちであった。
侍女達は、まだ龍王妃への望みが無くなった訳ではないので、宮の中へ出て少しは皆と交流をと勧めるものの、紗は一向に出ようとはしなかった。男を恋慕うなどということは、紗には無縁であったので、自分の中に生まれた感情に戸惑っていたのも事実であったが、ああして自分の気持ちを確認してしまった今、他の男に嫁ぐということが嫌で仕方がなかった。それが、例えこの神世最大の宮の皇子の妃であても、その皇子が如何に美しい男であっても、変わらなかった。ただ、明人以外の男に触れられるという事実が、紗には耐えられなかったのだ。
侍女達が暗く沈んでいる紗を見兼ねて、外へ出るように促した。龍王妃への望みが絶たれてしまったために、このように沈んでいるのだと思ったからだ。
「紗様、只今お庭には将維様が出られていると、他の皇女達はもう着飾って出ておる様子。お早くお準備をなさらねば。」
侍女の一人が紗を急かす。しかし、紗は出たくなかった。他の男の目に触れること自体が嫌だったのだ。
それでも侍女達にとっても、紗を龍王妃にするのは悲願であるので、乗り気でない紗を着替えさせ、髪を結い上げた。
外へとなった時、紗は言った。
「ベールを。」
侍女は首を振った。
「そのような。皆ベールは付けておられませぬ。将維様のお目に留まらねばなりませぬゆえ。」
紗は強固に言い張った。
「我はそのような教育は受けておりませぬ。ベールも付けずにこの日の下を外へ出るなど。早ようベールを持て。」
侍女達は渋々ベールを持って来た。紗はすっぽりと自分を隠すものを選ぶと、侍女達に急かされながら、気が進まないながら庭へと歩み出た。
そこには、確かに将維が居た。ずっと向こうの池の畔に、月の宮の王だと聞いた者と二人、何かを話しながら立っている。その少し手前には、四人の皇女達が、着飾って立っていた。侍女が言った通り皆ベールを付けることもなく、そのままの状態で将維達から離れて立っている。皆の簪が、光にキラキラと光って見えた。
将維はそれを知ってか知らずか、振り返りもせず月の宮の王と話し込んでいた。
侍女達が急かした。
「紗様、さああちらへ!なるだけ近くへ行かねばなりませぬ。皆さまもう、数十分前からああしていらっしゃるようでございまするよ。」
紗はため息を付いた。ならば今更数分遅れただけでは何もありはしないのに。
それでも、それが紗の責務であった。紗は仕方なく、重い足を引きずってそちらへと向かった。
「…我は、妃など要らぬと申しておるのに。」将維は蒼に言った。「そのような事情なら、すぐにでもあれらをそれぞれの宮へ帰せば良かろう。しかし、それも父上の命でなければ無理なのであろうな。」
蒼は苦笑した。
「わかってるよ。維心様にも言うつもりだが、まずは将維にと思ってな。オレも明人にはいろいろと世話になったから、どうしても叶えてやりたくて。」
将維は頷いた。
「さもあろう。我が妃を探しておるならいざ知らず、あのような事情でこうなっておるのに…そもそも、一人一人の名も顔も頭に入っておらぬわ。」
蒼はちらと後ろを振り返った。妃候補の皇女達が、数メートル後ろで侍女達に付き添われて立っている。何としても将維の目につこうということか。
「だが、皆必死であろう。父王から強く命じられて来ているゆえ、将維の目に留まることに一生懸命なんだよ。少しは話してやればいいじゃないか。」
将維は眉を寄せた。
「蒼、まだ懲りぬようだの。我はそれで偉い目にあっておるのだぞ。昨日母上があのように具合が悪くなられなければ、どうなっておったことか。父上は母上のことしかご興味がないゆえ、ほんに助かったわ。我は行く。主は、父に話しに参るが良い。早い方が良いであろう?我も宮の中でこう追い回されては堪らぬわ。」
将維は、歩かず飛び上がって行った。蒼はそれを見て、何が何でも皇女達と接するつもりはないのを見て取った。
ふと見ると、皇女達が飛んで行く将維を残念そうに見上げている。蒼はため息を付いて、同じように飛び上がって維心の奥の宮へ向かった。
紗は、飛び上がった将維を目で追った。やはり、将維様は何もご興味がないのだわ…。
紗がそう思っていると、将維が宮の出入り口近くである、紗の前に降り立った。紗は驚いて、深く頭を下げた。
将維は、言った。
「…誰か?」
侍女が頭を下げながら答えた。
「はい、槇様の宮の皇女、紗様でありまする。」
将維は興味深げに紗を見た。そうか、これが蒼の言っていた明人の想いびとか。なので他と離れて、こんなベールに隠れて立っておったのだな。我の目についてはならぬと思うてのことか…しかし、侍女はわかっておらぬようだ。
将維は言った。
「…ゆかしい事は良いこと。我はあのようにあから様な様は好かぬゆえ。」
将維はそう言うと、宮の入り口から入って行った。侍女は飛び上がらんばかりに喜んだ。
「まあ紗様!将維様があのように…他の皇女達には、見向きもなさらなかったものを!目に留めて頂いたばかりか、お言葉まで頂けるなど…!」
侍女達は喜んでいたが、紗はベールの中で下を向いた。我はそのようなつもりは…ただ、明人様以外の殿方には、姿を見せたくないと…。
こちらへ慌てて向かって来ていた他の皇女の侍女達が、それを聞いて聞こえよがしに言った。
「ほんにこのようなこと、思いもしませなんだ。己だけベールを着て目立とうなどと…」
他の皇女の侍女も言った。
「そのような小細工、直に底が知れるであろうに。将維様もすぐにお気づきになりまするでしょう。」
紗は、そんなあからさまな敵意を向けられたのは生まれて初めてだった。そんな風に思ったのではないのに。私…。ただお目に留まってしまってはならないと…。
紗が困って下を向いていると、凛とした声が割って入った。
「まあ、なんと浅ましい。そのような事を口にするのを許すとは、どのような躾けをしていらっしゃるのか。」
紗は驚いて顔を上げた。そこに居たのは、黒髪に凛とした顔立ちの、緑青の宮の霧花だった。それを聞いた、その侍女の主人である蕾と静は、赤くなって下を向いた。自分達は絶対にそんなことは口にしないが、おとなしい彼女達をいいことに、侍女達は言いたい放題なのだろう。
侍女達は負けじと言った。
「そのような。霧花様、お口が過ぎようというもの。」
霧花はその侍女をキッと睨んだ。
「控えなさい!たかが侍女ふぜいが、無礼にもほどがある。我は気分が悪しゅうなった。部屋へ戻る。このこと、父王はご存知でいらっしゃるものか。我も父から、主らの王に問うてもらおうほどに。」と、紗の手を取った。「さ、参りましょう、紗殿。お部屋でお話しでもして、気分を直しましょう。」
紗は黙って頷いた。そして、霧花に手を引かれるままに、宮の中を部屋へと戻って行った。
実はそれを、宙に浮かんで見ている者が居た。
「おお、おもしろいの。まるで維月を見るようぞ。緑青は、なかなかにおもしろい娘を持っておるではないか。あれなら、将維も気に入るのではないのか。」
維心が、宙に浮いて言った。横に浮いていた蒼は言った。
「また維心様、維心様と同様、将維も他は興味がないと思いまする。いくら似ておっても。」
維心の所へ行こう飛んでいたら、宙で会ったのだ。維心は眉を寄せた。
「まあの…我を引き合いに出されてはどうしようもない。洪。」維心は隣に浮かぶ洪を見た。「早速に利翔と唐李に書状を遣わせよ。皇女の品は申し分ないものであるが、侍女達があまりにも不作法であったとの。二人は帰せ。」
洪は頭を下げた。
「ははー!」
維心は黙っている維月を小脇に抱えて戻ろうと踵を返した。
「さ、戻ろうぞ、維月。主が言うように、誰も居らぬ時の方が、公の場でより面白いの。本音が見えて我も楽しめたわ。」
維月は眉を寄せた。
「そのような…楽しむためではありませぬ。皇女達を宮へ帰すため、理由を探しておるのでありましょう。後はいかがなさるおつもりですか?」
「そうよの、庭へ出るのにベール一つも付けずにいたと言えば、槇の宮の紗以外は片付くが、それでは逆に困るであろう。蒼が願い出ておるのは、その紗であるのに、残ってしまうのであるから。」
維心は言いながら居間へ向かって飛ぶ。蒼もそれに付いて飛びながら言った。
「おそらく紗は己の身を隠そうと思うてあのように…。」
維月が言った。
「かわいそうに。父王の手前、責務だからと出て来たのでありましょうね。何とかして早く帰してあげたいこと。」
維心が、維月を見て頷いた。
「主がそう申すのであれば、我の権限ですぐにでも皆帰そうほどに。ただ、先の二人とは時をずらす必要があるゆえ、明日になるの。蒼、それで良いか。」
蒼は頷いた。
「はい、維心様。ありがとうございます。」
維心は維月を抱いて奥宮の庭に下り立った。
「何でもない事ぞ。主には我も維月のことで世話になっておるのだから。なんなり申せ。なんなら、我が槇に命じて明人に娶らせるようにしても良いぞ。」
蒼は慌てて首を振った。
「そのような不自然なこと、お願いできませぬ。そこから先は、オレがやってやりとうございます。あれにはオレも、世話になりっぱなしでありまするから。」
維心は満足そうにうなずいた。
「良い軍神であるものな。主の手並み、見てみようぞ。期待しておる。」と、維月の肩を抱いた。「さあ維月、中へ。気が済んだであろう?」
維月は維心を見上げた。
「はい…でも、気になりまする。あの子達が、宮へ帰って父王になんと言われるのかと思うと…。」
維心は歩きながら言った。
「我が咎める書状を出す二人以外は、何も言われぬであろうよ。七夕の賓客達が、我がなぜに中止にしようと決めたのか見ておって知っておる。そのことはあれらの宮にも昨日の内に伝わっておるわ。我のワガママだと思うて、諦めておるであろうよ。」
維心はそう言って笑った。きっと、維心様なりに考えて、自分が悪者になることで、皆に悪くならないようにとあの時に、将維の縁談を壊してくださったのだわ…。
維月はそれを悟って、維心の胸に身を摺り寄せた。
「維心様…本当に大好きですわ…。」
この、不器用な感じの気の使い方も。維月はそう思って、維心にべったりくっついた。歩いている最中だったので、それで足が絡んで立ち止まることを余儀なくされたが、維心は嬉しそうに維月を抱き上げて、また歩き出しながら言った。
「急にどうした?主らしゅうない…」と、ちょっと蒼を振り返った。「いつもは蒼が居るとか申すのに…。」
確かにそうなのだが、どうでもいい気持ちだった。維月は維心の頬に唇を寄せた。
「よろしいのですわ。とても愛おしい気持ちになりましたから。」
維心は嬉しそうに笑った。
「何を申す…我は常に愛おしく想うておるに…主は今だけと申すか。」
維心が居間の椅子に維月を抱いたまま腰掛けて、拗ねるようにそう言うのを、蒼はこちらで聞いて落ち着かなかった。駄目だ、もう二人の世界に入ってしまった。しばらく戻って来ない…維心様はこうなると他が見えていないから。
「維月…主の良いように…。」
蒼が出て行こうとしてちらと振り返ると、維心がそう言って維月と深く口づけていた。
何十年経ってもベタベタと仲の良い二人に、蒼は感心するやら呆れるやらだった。
そして、その日の内に、皇女二人が帰還し、残った皇女も次の日にはそれぞれの宮へと、龍王の都合とのことで帰って行ったのだった。




