七夕の龍の宮
例年、龍の宮の七夕祭は盛大に行われるが、今年は更に、妃候補の最終選考の場とあって、他の宮からもそれを見たさに例年より多くの神が訪れていた。人混みが嫌いな維月は、もう始まりで疲れてしまって元気がなくなって来て、維心はそれは心配した。侍女達に、やれ簪を減らせだの、袿を変えろだの大騒ぎで、妃候補の観察どころではなかった。将維は元より興味はないので、候補の皇女達の顔を見ようともしない。洪は来客の対応に立ち働いており、今度ばかりはいくらなんでも妃の選考にばかりかまけてはいられなかった。日を間違えたか…。洪は思っていた。
「維月、しっかり致せ。宴に移ったら少し神が少のうなるゆえ。」
維月は青い顔をしながらも、無理に微笑んだ。
「大丈夫でございます…少し、人いきれに酔っただけでありまするので。」
そう言いながらも、つらそうだ。維月は人の頃、船に酔った時の事を思い出していた。
「なんと、このように青い顔を。」維心は維月を守るように、自分の気で包んで、そして腕でも抱き締めた。「維月…代わってやれたら良いものを。やはりもう居間へ戻ろうぞ。主は邪気に弱いゆえ…このように多くの神が集まると、こうなるの。」
維月は維心の胸に身を預けた。
「しかし、ただの七夕ではありませぬのに…。妃の選考の大切な場。そのようなわがままは申せませぬ。」
維心はしばらく黙って維月を見ていたが、維月を抱いて立ち上がると、言った。
「もう良い。妃の選考は、またいずれそのうちに考えるが良い。まだ将維には早いやもしれぬと思い始めたところであった。洪!」維心は洪を見て、言った。「妃の選考を中止せよ。此度は選ばぬことにする。」
洪は仰天して、回りの賓客達も驚いて維心を見上げた。
「王、しかしながら、皆様お揃いで…!」
維心は洪を睨んだ。
「我が中止と申しておる!正妃がこのような時に他は何も考えられぬわ。我には将維の妃より維月の方が大切なのだ。他は知らぬ!」
皆が呆気にとられて呆然とする中、維心は維月を抱いて踵を返して出て行った。賓客に混じってそれを見ていた蒼は感心していた。龍王っていうのは、本当にどんなわがままも通してしまうんだ…。
将維をちらりと見ると、ホッとしたように息をついて、微笑んでその場を辞して行った。蒼もなぜか安堵したのだった。
「ああ紗様、何としたことでしょう。」侍女が言った。「龍王様があのようにおっしゃるとは…王妃様のお加減が大層お悪くていらして、ご心配のあまりあのように言われたと臣下のかたよりご連絡がありました。とにかくしばらくはこちらに滞在して欲しいとのこと。龍王様のお気が変わるかもと…。」
紗は頷いた。だが、少しホッとしていた。まさか自分が選ばれる事はないとは思っていたが、もしも面倒だからまとめて妃になどとおっしゃられたらどうしようかと思っていたのだ。
だが、龍王様はあれほどに恐ろしいかた。気がとても大きく強く、飲まれるのではないかと思った…。
紗は休む準備をしながら、空に出ている月を見ていた。月の宮…月が降りて来るという宮…。そこにおわすと言うあのかたは、一体今どうなさっているのか…。
明人は、蒼について再び嘉韻と共に龍の宮へ訪れていた。
紗は、わずか五人の中に選ばれたという。つまりは、将維様の妃になる可能性が上がったということだ。
明人は胸が締め付けられる思いだった。前回ここへ来て、嘉韻と共に穏やかに話していたこの庭が、まるで嘘のようだった。明人は紗のことばかり想い、そして苦しくて仕方がなかった。嘉韻にも、このままでは序列が下がって、もしも誰かを娶りたくとも出来ぬ序列になってしまうと言われたが、どうにも出来なかった。
もう暗くなって来ていたが、明人は祖父の明蓮に会うために、そっとその屋敷へと向かった。
出迎えた召使いは驚いた顔をしたが、すぐに取り次いでくれた。居間へと通された明人が待っていると、明蓮は寛いだ格好で出て来た。
「なんと明人、このような時間にどうしたのだ。」と、じっと顔を見て眉を寄せた。「…主、どうした。気が乱れておる…しかも、補充がままならぬようだの。」
明人は、祖父に言った。
「お祖父様、どうしてもお聞きしたいことがあって参りました。我は今、王に付いてここへ参っておりまする。」
明蓮は頷いた。
「知っておる。前もそうであったが、主、我に顔も見せに来ぬと恨んでおったのよ。聞きたいこととは何ぞ。」
明人は、頭を下げた。
「実は、我は前にも一度このように気の補充がままならぬ時があり申した。しかし、あの時は任務に支障はなく、集中しておれば何も考えずに済んだ。なのに此度は…」と、顔を上げて明蓮を見た。「此度は始終頭を離れず、友の軍神にも序列が落ちると言われておるほど任務にも立ち合いにも支障が出る始末。それというのも、前回藤の宴でここへ参った時に、一目見ただけの女のことが、頭を離れないからでございまする。」
明蓮は眉を跳ね上げた。
「…ほんに始終離れぬのか。」
明人は頷いた。
「また、気のせいの勘違いであるのだと思い、忘れようと思うたのです。ですが、前はすんなりと忘れてしまったことが、此度は忘れるどころか日を追ってまして来る。あまりに辛く、これは気のせいではないのかと…同じ気の色を持つお祖父様にお聞きしたいと…。」
明蓮は、息を付いて明人を見た。
「辛いのも道理よ。明人、それはの、我と同じ状態ぞ。我が悠姫に出逢った時、我は上空を飛んで一目見ただけであった。それなのにそれからその姿が目に焼き付いて離れず、それまで妻が居っても屋敷にも帰らず平気であった我が、どんどんと痩せ細ってしもうた。任務も手につかなんだ。まさに今の主と同じ状態。おそらく主は、出逢ったのであろうの。」
明人は、絶望的な顔をした。明蓮はそれを見て怪訝な顔をした。
「どうした?真実であると分かったのに、何がそのように困るのだ。」
明人はうなだれた。
「…お祖父様、その女とは、皇女でありまする。しかも、将維様の妃候補のお一人…庭で迷うておったので、宮の入り口までお連れいたした。最初は暗くてよく見えなかったのですが、入り口に着いてその光で見た時の美しさが、忘れられませぬ。とても、我には手の届かぬかたです。」
明蓮は驚愕して、訊ねた。
「…その皇女の、名は。」
明人は言った。
「はい。槇様の宮の、紗殿。本日も残った五人の中に入られて、こちらへ来られておりまする。」
明蓮は絶句した。槇様は、上から二番目の格の宮の神。その皇女と。それは…とても無理であろう。我らは軍神でしかない…。
明蓮は深くため息を付いた。
「なんと…主は辛い出逢いかたをしてしもうたものよ。我にはどうにも出来ぬ…。」
明人は、何も言わずに祖父に頭を下げると、そこを辞して宮へと戻った。これは、本物だったのだ。そしてオレは、その本物の想いを叶えることが出来ないのだ…!
蒼は、維心の気まぐれに振り回される宮の中を見ながら、気の毒に思っていた。しかし、仕方がない。維心は維月が来る前は、もっとやりたい放題で臣下達は振り回されていたと聞いた。多分、これぐらいなら皆収めかたも知っているのだろう。
蒼が思って回廊を歩いていると、少し先で嘉韻が膝を付いて待っていた。蒼は、そちらへ歩いて行って、嘉韻に話し掛けた。
「嘉韻、どうした?一人とは珍しい。ここではいつも明人と共ではなかったか。」
嘉韻は顔を上げた。
「最近はあまり共に過ごすことはありませぬ。王、実はそのことでお話がございまする。少し、よろしいでしょうか。」
蒼はいつも冷静な嘉韻が、気遣わしげにしているのを見て、頷いた。
「良い。オレの部屋へ行こう。」
嘉韻は頭を下げ、蒼について歩いて行った。
蒼の部屋は、三階にあった。
そこは客間ではなく、与えられた部屋であった。蒼が、ここでは他人ではないのだということがそれで分かる。嘉韻は緊張気味にそこへ足を踏み入れた。
「座るが良い。」蒼は椅子を指した。「ここは、オレが神世に来た時から維心様がくださっているオレの部屋なんだ。楽にしていい。」
嘉韻は頷いて、椅子に座った。蒼も正面の椅子に座り、嘉韻に向かい合った。
「それで、どうしたのだ。最近の明人は、軍でも腕を落としていると聞いておるが、そのことか。」
嘉韻は王が少なからず知っていることを知って、ホッとした。
「はい。王、実は、明人はここで出逢った女を想うておるようでございまする。それゆえ、あのように。」
蒼は眉を寄せた。
「…紅雪の時とは違うと申すか。」
嘉韻は頷いた。
「はい。あの時は任務にも支障なく、なんでもそつなくこなしており申した。それが、今回は何をさせても心ここにあらずで…このままでは序列に影響して参ります。」
蒼はため息を付いた。
「それで、相手は誰ぞ。」
嘉韻は下を向いた。
「実は、将維様の妃候補のお一人、槇様の宮の、紗殿。」
蒼は驚いて眉を跳ね上げた。Aランクの宮じゃないか!
「また…明人は困った相手を見染めてしもうたな。最後の五人に残った皇女ではないか。ま、維心様はもう妃選びは止めだと言って、今宮は大騒ぎなんだがな。」
今度は嘉韻が驚いて蒼を見た。前の宴も開いて、今回の宴にも呼んで、相手はそれなりに期待しているだろうに、簡単に蹴るとは。龍王のワガママとは、いつもこうなのだろうか。
「それは…その、龍王様も思い切ったことをされたものでございます。」
蒼は頷いた。
「ま、選ばない可能性もあったゆえ、別にいいとオレは思う。しかし、臣下はまだ少し皇女達を宮に留めて、王の気が変わるのを待つつもりみたいだがな。何しろ混雑し過ぎで、オレの母上の具合が悪くなってしもうての。維心様はそれが心配でそればっかりに気を取られ、ついには妃の選別どころではないと抱き上げて部屋へ退き上げてしまったのよ。維心様にとって、他は何でも良いのだ。母上さえお元気であればの。」と、ため息を付いた。「…主、明人に真意を確かめよ。今度こそ本当に想うておるのなら、オレも考えてみるゆえ。明人には、桂の件でかなり世話になったしの。出来るだけのことはしてやるゆえに。」
嘉韻は安堵した顔をした。
「は!王よ、それでは、我は明人に訊ねて参りまする。」
蒼は頷いた。そして、足取りも軽く去って行く嘉韻を見て、明人は良い友を持ったな…と嬉しく思ったのだった。




