06:取引
―――私が望むのは、チセという名の迷い人だ。
皇子の口から告げられた自分の名に、
「―――ええっ!?」
思わず声を上げる。
しんと静まり返っていたホールに響く、千瀬の声。
即座にしまったと口を噤むが、時既に遅し。
一斉に自分に注がれた幾つもの視線に、千瀬は慌てて顔を伏せた。
―――チセ様だわ……
―――どうしてレイナ様ではなくチセ様が……?
ひそひそと、さざ波のように押し寄せる、皇子の言葉を訝しむ声。
……「どうして」だなんて、こっちが知りたい。
内心でそう返す千瀬に、傍らのジゼルが「チセ様」と不安げに声を掛ける。
「――…成る程。彼女が、チセか」
周囲の反応と囁きから、アドルフ達に問うまでもないと判断したのだろう。
一人、納得するように落とされる皇子の呟き。続いて聞こえて来た大理石の床を踏む硬い足音に、千瀬はまずいと顔を顰めた。
「チセ様、いけません。逃げましょう」
近付いてくる足音に、ジゼルが焦りを滲ませた声で告げる。
「逃げるって、でも―――」
四方を人に囲まれたこの状況。逃げる場所などあるのか。
戸惑いながら「どこへ」と問い返すと同時に、カツン、と硬い音が目の前で響く。
「っ!」
はっと顔を上げると、そこには千瀬よりも頭二つ分程背の高い、青年の姿があった。
目に掛かる程長く伸ばされたダークブラウンの前髪から覗く瞳の色は、紫。
この世界の人々の色彩は基本的に白人種に近く、実にカラフルだ。でも、紫色の瞳は初めて見る。
「チセ様……!」
自分を庇うように前に立とうとしたジゼルを、
「ジゼル、大丈夫よ」
慌てて腕を掴んで止める。
相手は何を考えているのか、どんな人物なのか、何も解らない得体の知れない男だ。自分を庇おうとしてくれたジゼルに「侍女の分際で」と腹を立て、ジゼルを傷付けるような男かもしれない。
「でも、チセ様」
「大丈夫」
不安げな眼差しを向けるジゼルにぎこちなく微笑んで見せ、もう一度皇子の顔を見る。
真っ直ぐに自分を見つめる、紫色の瞳。
「―――君が、異世界からの迷い人のチセだね」
静かに紡がれた言葉は、問い掛けではなくただの確認のような口調だった。
ジゼルにも名を呼ばれたし、周囲や王子達の反応からも、人違いです、と言える状況ではない。
小さく息を吸って、
「……はい」
と頷けば、皇子は突然千瀬の前に片膝を折り、跪いた。
――――大国の第一皇子が、一介の「元」寵姫に過ぎない異世界の小娘に跪いた。
その光景に、戸惑いの色を滲ませたざわめきが周囲に広がる。
「……は!?」
ぎょっとして身を引こうとした千瀬の手を皇子はすかさず掴み、自分の方へと引き寄せる。手を引かれ、よろけるように一歩前に踏み出した千瀬の耳元に落とされたのは、
「―――…取引をしよう」
そんな、思い掛けない皇子の言葉だった。
先程までの凛とした良く通る声ではなく、内緒話をするような、低く小さい声。
「……取、引…?」
つられるように小声で問い返せば、目の前の紫色の瞳がすっと眇められた。
「そう、取引だ。―――俺には、君に何としてもドラクーンに来て貰いたい事情がある」
「事情……?」
「君がドラクーンに来てくれるのなら、君を元の世界へ戻す協力は惜しまない」
「……戻れるの?」
元の、世界へ。
自分がいた、地球にある日本へ。
驚きつつ問い返せば、「前例がある」とだけ返される。
「その代わり、俺に一つだけ協力をして貰うことが条件だ」
協力。それは。今言った「事情」とやらに関することなのだろうか。
「――君にとって、悪い話じゃないと思う。……返答を」
手を握る指先にぐっと力が篭められ、千瀬は戸惑う。
――――この皇子に一つだけ協力をすれば、元の世界へ帰ることが出来る……?
「……その話。本当ですか」
「本当だ。我がドラクーン皇国の名と、我が国を守護するドラゴンに懸けて、誓う」
国の名とドラゴンに懸けて。
その言葉にどれ程の重みがあるのかは解らないが、皇子が真剣だということだけはその眼差しと、手を握る力の強さで解る。
「……命を寄越せ、なんて話じゃ」
協力とやらの内容が、ドラゴンの餌にされるだとか、そんなオチだったら元も子も無い。
だが、千瀬の疑う言葉に皇子は「まさか」と即答する。
「君を危険な目に遭わせることも無いと誓う」
「…………」
「――…返答を」
重ねて問われ、千瀬は迷う。
国としての力関係はドラクーン皇国の方が上だということは千瀬にだって解る。
たとえこれが公式の訪問では無いとしても、国の権力を振りかざし、力尽くで自分を連れて行くことも可能だということも。
―――なのに、この皇子はそれをせず、自分に取引を持ちかけて選択権を与えてくれた。
どうせこの国に残っていても、自分の居場所などどこにもない。
そろそろ身の振り方を真剣に考えて、王宮を出て働こうかとも考えていた。
――それなら、元の世界へ戻れるかもしれないという望みに懸けて、この取引に頷くのも悪くない。
ついでに言えば、自分に集中する居心地の悪い視線に気付かないふりをするのも、そろそろ限界だ。
悩んだ末に、千瀬が選んだ答えは、
「――……解りました」
皇子の取引を受け入れるという選択肢だった。