『最後の声』
―どうやら拉致をされたことに間違いはない。
一体誰が何の目的で―??
分からない。何もかも俺には分からない。
分かっているのは、時折奴らの何人かが俺のところへやってきて、 俺の体に何かをするということだけなのだ。
とにかく奴らの打つ注射だけには、気をつけなければならない。
俺はそのせいでいつも意識はぼやけ、今じゃ視界すらはっきりとしない状態なのだ。
聴覚も麻痺しているのか、この部屋には音というものがほとんど存在しない。体の自由もまるで効かなくなる。
そんな案配なものだから、最初俺は、自分が死んでいるのだと、本気で思ったくらいなのだ。
―ここへ連れて来られてから、一体どのくらい月日が経ったことだろう??
最初のうち、俺は1日1日を数えていたのだが、そのうちに昼夜の区別すら分からなくなってしまった。
しかし、ある日おれは、あることに気がついた。 そして、これは俺にとって重要な発見だった。
時折頬に、風のようなものを感じることがあるのだ。 そしてそれは大概いつも、俺の右手方向から吹いてきているのだった。
ちょうど俺の右方向からうっすらと光の差しこんでくることからも分かるように、きっとそこには「窓」があるに違いない。
ああ!風が入ってくるということは、その窓は開いているのだ!
体の自由さえきけば、いつでもその窓から逃げ出すことができるのに!
ところが俺の体ときたら、まるで岩にでもなったみたいに、指一本動かすことができないのだ。もどかしい。 試しに右手の人差し指を動かしてみる。
―だめだ。やはり、まるで動いてはくれない。
一体、俺が何をしたというのだ??俺はごく普通の一介のサラリーマンで、ただひたすら家族のために真面目に働いてきただけだ。 犯罪に巻き込まれる謂われもなければ、拘束される覚えもない。どんなに記憶を辿ってみても、そんな覚えはまるでない。
ここに連れて来られる前の記憶――。実はそれすらもあやふやになってきているんだ。
たしか、俺は馬喰町にある会社から、自宅のある岩本町まで帰宅途中だった。
会社を出て、いつものように潰れかかった煙草屋の角を曲がり、駅に向かう途中、岩松の交差点で信号待ちをしていた――。
それが俺の一番最後の記憶なのだ。 それより以後の記憶は、不思議とぷっつり途絶えている。
しかし、自分が何処にいるのか分からない、 そのことがこんなに俺を不安に陥れるなんて!
季節は?時間は?そもそも連中の目的は一体何なのだ??ここは日本なのか?北朝鮮に拉致された人々もきっと今の俺と同じように辛い思いをしてきたに違いない。
―医者なのか科学者なのか、
とにかく白衣らしきものを着た集団が、時折俺の所へやってくる。
奴らは女以外、いつも無言だ。
女は俺の容態をチェックしているようで、時折笑顔で何かを話しかけてきたりもする。マスクで顔を隠した奴もいる。
おれは奴らの特徴を悉く覚えておく必要があるのだ。もちろん、ここを脱出したら、警察に届けるためだ。―それとも警察はもう動いてくれているのだろうか??
この間なんかおそらく一時間近くおれの体に何かをしていた。 連中の飲ませる薬のせいか、俺の視界は白く濁り、うっすらとしか見えない。だが、きっとおれの体は、新薬か何かの注射痕や、体中を巡る色とりどりのチューブでいっぱいなのだろう。
やめてくれー!!俺は必死になって何度も叫んでみたが、もはやおれの声が出ることは、ただの一度もなかった。
ちきしょう!きっと俺は謎の秘密組織に極秘裏のうちに連れ去られたに違いない!妄想ではない。あの白衣の集団たちのやっていることはおそらく何かの人体実験だ。現に北朝鮮のような事例もあるではないか。
しかしこんなドラマや映画のような世界が、現実に存在していて、今のおれの現実となっているなんて!こんなことが許されていいものか!
(助けてくれ!助けてくれ!)
おれは神様に何度そう祈ったことかしれない。
―妻や娘は、どうしているのだろう??きっとおれの行方が分からず、心配しているはずだ。
娘に会いたい。妻に会いたい。佐知子。美和子。
娘は進学を控えている大事な時期だというのに、おれはまだ死ぬわけにはいかないのだ。
こんな訳の分からないまま、死にたくない。こんな所では死にたくない。俺は死ぬわけにはいかないのだ。
こんなわけのわからないところで、ある日突然、おれの人生が終わるというのか?そんなことがあってなるものか!!
頭がおかしくなりそうだ。
本当におかしくなりそうだ。
苦しい。本当に苦しい。発狂しそうだ。一体、いつまで続くんだ??生きているのか死んでいるのか、それすら確信が持てなくなってきている。
―お願いだから、おれの体よ、言うことを聞いてくれ!そうすればここから逃げ出す算段など、いくらでもあるのだ。 窓から逃げ出せないまでも、助けを呼ぶくらいはできるかもしれない。このことはいつからか俺の唯一の希望になった。でなければとっくに耐えられず発狂していたかもしれない。
―いや、おれの頭は、もうとっくにおかしくなっているのかも知れない。
妻の、娘の声が聞こえるのだ―。
それとも、妻と娘も俺と同じように拉致され、同じ部屋に閉じ込められているとでもいうのか?そんな馬鹿な話があるもんか。それともこれも例の注射の副作用なのだろうか?
おそらくきっと、おれの狂おしい郷愁が生んだ幻聴なのだろう。だから、それほどはっきりと聞こえるわけではない。
ただ、それは時折、開け放たれた窓から入ってくる風と一緒におれの耳に入ってきて、ほんの一瞬間だけ、おれの心を和ませ優しい気持ちにしてくれる―。
―いや、ちょっと待て。今も聞こえる。…聞こえるぞ!今度ははっきり聞こえる!確かに聞こえる!…懐かしい声だ!おれが妻の声を聞き間違えるはずはない!
…おい、美和子!佐和子!おれはここだ!ここにいるぞ!顔を見せてくれ!!どこにいるんだ!美和子!佐和子!俺はここにいるんだ!
助けてくれ!
助けてくれえ!
助けてくれえ………!
「……分かりました。主人の臓器提供に、サイン致します」
(終)