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デートの朝

作者: 熱田涼
掲載日:2026/10/09

「胸がトキメク」という感情を、私は数年ぶりに経験した。


 今日は、彼と初めてのデートの日だ。

 心臓の音をこんなにうるさいと思ったのは、間違いなく、まだ学生だった6年前以来のことだった。


 いかにも「独り身」であることを証明しているような、殺風景なワンルームのベッドの上。

 この部屋の主である私は、ゆっくりと上半身だけを起き上がらせた。


「…………今日になっちゃった」


 私は呆然としていた。

 

 昨夜は早めに床に就いたのだが、いくら目を瞑れども、一向に眠りに落ちることができなかった。

 遠足の前夜とは少し違う、想い人への期待と不安を抱えた夜。

 否が応にも、明(・)日(・)のことを想像してしまい、常夜灯すら消して真っ暗だったはずの部屋の中でも、私の脳内はまるでディスコのように騒がしく煌めいていた。


 洗面所に移動し、顔を洗う。


 ……デート前にそんなことを考えなければ良いのに、鏡を見ると、どうしても若い頃の自分と比べてしまう。


 リビングに戻り、テーブルの上に化粧水と乳液を出し、ヘアバンドで前髪を上げた。

 小さな鏡で、自分の頬を念入りに見つめる。

 少しでも綺麗に見せたいからかもしれない。

 どのくらい意味があるかは分からないけれど、いつもより多めに化粧水を塗ってしまった。


 しばらくして、クローゼットに移動した。


 ……今日のために取っておいたと言っても過言ではない、お気に入りのレースの下着。

 ベタだけど、ピンクと白の可愛いデザインのもの。


「……よし」


 私は意を決して、それに足を通した。


 

 ◆◇◆ 



「えー、もったいないよ! こんなに可愛いのに」

「…………だって」


 学生時代、私は実に、恋に奥手な人間だったと思う。

 浪人して、なんとかこの大学に入ったという、劣等感もあったかもしれない。

 周りの学生からはなんとなく浮いてしまっている気がしていたし、正直、容姿にも自信がなかった。


「気にしすぎだよー!」

 友達は、いつも明るくケラケラと笑い飛ばしてくれた。


 彼女がいなかったら、私は大学卒業すら危うかったかもしれないと、今でも思っている。

  

 ……そんな私にも、その時代に一度だけ、恋と呼べるかもしれない経験があった。


 同じゼミに所属していた彼は、いつも物静かにしていた私に、

「一緒に映画でも観に行きませんか?」

 と誘ってくれた。


 思い返せば私は、あの日のデートでも勝負下着を履いていた。

 しかも今日と同じ、ピンクと白のレースの下着を。


 正直彼のことは、ゼミに入った時からすごく気になっていた。


 低くて優しい声、真摯な振る舞い、時折見せる真剣な眼差し——


 大好きだった——と思う。

  

 当日、私たちは、ちゃんとデートを楽しんでいた。

 少なくとも、私はそう思っていた。


 その時流行っていたアニメ映画も。

 お昼に食べたオムライスも。

 2人で歩いた、夕焼けに染まる都会の海沿いも。 


 今でも鮮明に思い出せるくらいに、どれもこれも、私の心を躍らせてくれた。

 

 だから——駅に着いた時、私は意を決して、彼に言ってみたのだ。


「あの……また行きませんか? 映画……今度も、ふ、2人で……」


 私らしくなかったと思う。

 私にとって、これこそが人生で一番の冒険だったかもしれない。


 その日、一日中反芻していた今の言葉を発するのを、「駅に着いてしまう」という焦りが、後押ししてくれたのだと思う。


 しかし、そんな私の様子を見た彼は、立ち止まったまま私の方を見ていた。

 

 そして、寂しさとも憐れみともとれるような、えも言われぬ複雑な表情でこう言った。

  

「やっぱり……なんていうか……ちょっと違ったのかもしれません……」


 その日——当然、彼が私の下着を目にすることはなかった。

 

 そしてこれが、学生時代に私が彼と交わした最後の言葉となった。


  

 ◆◇◆



 けど————今日は違う。

 

 なにせ、今日のデートは、今までスマートフォンの画面の中でしかやりとりをしていなかった、同年代の彼の方から誘ってきたのだ。


 しかも「デートをしましょう」という、ストレートな文言で。


 彼は優しかった。

 一緒にゲームをしていても、同じ趣味の話をしていても、ビデオ通話の時も。

 私の見た目じゃなくて、中身を見てくれているのが、聞かなくても伝わってきた。


 惹かれていた。


 たぶん彼も、同じように思ってくれていると思う。


 だけど——怖かった。


 またあの時のように傷つくかもしれない。

「ちょっと違ったかもしれない」なんて、言われてしまうかもしれない。

 こんな私が恋なんてしていいものか、そんなことすら考えていた。


 けれど、私の胸は確かに高鳴っていた。


 苦しい……


 彼のことを思うだけで、胸がキューッと締め付けられる。


 恋する気持ちなんて——

 止めようと思って、止められるものじゃなかった。


 本当に彼と会って良いものだろうか。


 また傷ついてしまうのではないだろうか。

 

 デートの日の数日前。

 頭の中でそんな言葉が渦巻いていた時。

 ふと目に入ったのは、一軒のランジェリーショップだった。


 私は目を疑った。

 

 ショーウィンドウのマネキンが着ていたのは、まるであの時からタイムスリップしてきたような、ピンクと白のレースの下着だった——


 ……あの時と同じだ。


 あの頃大学生だった私は、これを身に着けて、あの人の隣を歩いて……

 振られた——


 ……あの頃の私は間違っていたのだろうか?


 あの頃と同じことをして、また拒絶されるのではないだろうか。


 その下着を眺めているだけなのに、あの時の不安が押し寄せてくるような気がした。


 …………

 

 ……でも、よく考えてみれば。

 

 あの時の私は、ただ好きな人ともう一度会いたかっただけだ。

 それの、何が悪かったんだろう。


 一体、誰が悪かったというのだろう。

 

 ショーウィンドウの中の下着は、まだ私を値踏みしているかのように思えた。


 私は数分間動けなかった。

  

 ————わからない。


 ——————でも。


 一つだけ確かな気持ちがあった。


 私はそれでもやっぱり、彼と2人きりで会いたかった。


 怖くても——

 もしまた、同じ結果になるかもしれなくても——


「それでも、会いたいんだ……」


 うん。


 私は、ショーウィンドウの中のピンクと白を見つめた。

 

「……買おう」

 

 私の足は、自然と、そのランジェリーショップの中へと向かっていた。


 大丈夫。この下着は、私の背中を押してくれる。


 やっぱり私には、そう思えた気がした——



 ◆◇◆



 ——だから今、私はこの下着を身につけている。

 

 そう。大丈夫。


 私は自室のトイレに座っている。


 目の前の足の間には、その白とピンクのランジェリーが、自慢げに存在していた。


 私は軽く呼吸を整える。


「ふぅ…………」


 唇をキュッと閉めると、下着をあげ、ズボンを履き、トイレの水をジャーっと流した。


 個室から出る。


 玄関の方を向く。


 そして——これまた昨日、新しく「靴流通センター」で買った、26cmの茶色のスニーカーを履いた。


 よし————!


 行こう。大好きな彼のもとへ。


 私は大きく息を吸い込んだ。


「國木田将平、36歳。行きます……」

 

 玄関から右足を一歩踏み出す。

 心臓の音は鳴り続けている。

 

 私は、戦場(初デート)へと向かう恋の戦士だ————


 

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