デートの朝
「胸がトキメク」という感情を、私は数年ぶりに経験した。
今日は、彼と初めてのデートの日だ。
心臓の音をこんなにうるさいと思ったのは、間違いなく、まだ学生だった6年前以来のことだった。
いかにも「独り身」であることを証明しているような、殺風景なワンルームのベッドの上。
この部屋の主である私は、ゆっくりと上半身だけを起き上がらせた。
「…………今日になっちゃった」
私は呆然としていた。
昨夜は早めに床に就いたのだが、いくら目を瞑れども、一向に眠りに落ちることができなかった。
遠足の前夜とは少し違う、想い人への期待と不安を抱えた夜。
否が応にも、明日のことを想像してしまい、常夜灯すら消して真っ暗だったはずの部屋の中でも、私の脳内はまるでディスコのように騒がしく煌めいていた。
洗面所に移動し、顔を洗う。
……デート前にそんなことを考えなければ良いのに、鏡を見ると、どうしても若い頃の自分と比べてしまう。
リビングに戻り、テーブルの上に化粧水と乳液を出し、ヘアバンドで前髪を上げた。
小さな鏡で、自分の頬を念入りに見つめる。
少しでも綺麗に見せたいからかもしれない。
どのくらい意味があるかは分からないけれど、いつもより多めに化粧水を塗ってしまった。
しばらくして、クローゼットに移動した。
……今日のために取っておいたと言っても過言ではない、お気に入りのレースの下着。
ベタだけど、ピンクと白の可愛いデザインのもの。
「……よし」
私は意を決して、それに足を通した。
◆◇◆
「えー、もったいないよ! こんなに可愛いのに」
「…………だって」
学生時代、私は実に、恋に奥手な人間だったと思う。
浪人して、なんとかこの大学に入ったという、劣等感もあったかもしれない。
周りの学生からはなんとなく浮いてしまっている気がしていたし、正直、容姿にも自信がなかった。
「気にしすぎだよー!」
友達は、いつも明るくケラケラと笑い飛ばしてくれた。
彼女がいなかったら、私は大学卒業すら危うかったかもしれないと、今でも思っている。
……そんな私にも、その時代に一度だけ、恋と呼べるかもしれない経験があった。
同じゼミに所属していた彼は、いつも物静かにしていた私に、
「一緒に映画でも観に行きませんか?」
と誘ってくれた。
思い返せば私は、あの日のデートでも勝負下着を履いていた。
しかも今日と同じ、ピンクと白のレースの下着を。
正直彼のことは、ゼミに入った時からすごく気になっていた。
低くて優しい声、真摯な振る舞い、時折見せる真剣な眼差し——
大好きだった——と思う。
当日、私たちは、ちゃんとデートを楽しんでいた。
少なくとも、私はそう思っていた。
その時流行っていたアニメ映画も。
お昼に食べたオムライスも。
2人で歩いた、夕焼けに染まる都会の海沿いも。
今でも鮮明に思い出せるくらいに、どれもこれも、私の心を躍らせてくれた。
だから——駅に着いた時、私は意を決して、彼に言ってみたのだ。
「あの……また行きませんか? 映画……今度も、ふ、2人で……」
私らしくなかったと思う。
私にとって、これこそが人生で一番の冒険だったかもしれない。
その日、一日中反芻していた今の言葉を発するのを、「駅に着いてしまう」という焦りが、後押ししてくれたのだと思う。
しかし、そんな私の様子を見た彼は、立ち止まったまま私の方を見ていた。
そして、寂しさとも憐れみともとれるような、えも言われぬ複雑な表情でこう言った。
「やっぱり……なんていうか……ちょっと違ったのかもしれません……」
その日——当然、彼が私の下着を目にすることはなかった。
そしてこれが、学生時代に私が彼と交わした最後の言葉となった。
◆◇◆
けど————今日は違う。
なにせ、今日のデートは、今までスマートフォンの画面の中でしかやりとりをしていなかった、同年代の彼の方から誘ってきたのだ。
しかも「デートをしましょう」という、ストレートな文言で。
彼は優しかった。
一緒にゲームをしていても、同じ趣味の話をしていても、ビデオ通話の時も。
私の見た目じゃなくて、中身を見てくれているのが、聞かなくても伝わってきた。
惹かれていた。
たぶん彼も、同じように思ってくれていると思う。
だけど——怖かった。
またあの時のように傷つくかもしれない。
「ちょっと違ったかもしれない」なんて、言われてしまうかもしれない。
こんな私が恋なんてしていいものか、そんなことすら考えていた。
けれど、私の胸は確かに高鳴っていた。
苦しい……
彼のことを思うだけで、胸がキューッと締め付けられる。
恋する気持ちなんて——
止めようと思って、止められるものじゃなかった。
本当に彼と会って良いものだろうか。
また傷ついてしまうのではないだろうか。
デートの日の数日前。
頭の中でそんな言葉が渦巻いていた時。
ふと目に入ったのは、一軒のランジェリーショップだった。
私は目を疑った。
ショーウィンドウのマネキンが着ていたのは、まるであの時からタイムスリップしてきたような、ピンクと白のレースの下着だった——
……あの時と同じだ。
あの頃大学生だった私は、これを身に着けて、あの人の隣を歩いて……
振られた——
……あの頃の私は間違っていたのだろうか?
あの頃と同じことをして、また拒絶されるのではないだろうか。
その下着を眺めているだけなのに、あの時の不安が押し寄せてくるような気がした。
…………
……でも、よく考えてみれば。
あの時の私は、ただ好きな人ともう一度会いたかっただけだ。
それの、何が悪かったんだろう。
一体、誰が悪かったというのだろう。
ショーウィンドウの中の下着は、まだ私を値踏みしているかのように思えた。
私は数分間動けなかった。
————わからない。
——————でも。
一つだけ確かな気持ちがあった。
私はそれでもやっぱり、彼と2人きりで会いたかった。
怖くても——
もしまた、同じ結果になるかもしれなくても——
「それでも、会いたいんだ……」
うん。
私は、ショーウィンドウの中のピンクと白を見つめた。
「……買おう」
私の足は、自然と、そのランジェリーショップの中へと向かっていた。
大丈夫。この下着は、私の背中を押してくれる。
やっぱり私には、そう思えた気がした——
◆◇◆
——だから今、私はこの下着を身につけている。
そう。大丈夫。
私は自室のトイレに座っている。
目の前の足の間には、その白とピンクのランジェリーが、自慢げに存在していた。
私は軽く呼吸を整える。
「ふぅ…………」
唇をキュッと閉めると、下着をあげ、ズボンを履き、トイレの水をジャーっと流した。
個室から出る。
玄関の方を向く。
そして——これまた昨日、新しく「靴流通センター」で買った、26cmの茶色のスニーカーを履いた。
よし————!
行こう。大好きな彼のもとへ。
私は大きく息を吸い込んだ。
「國木田将平、36歳。行きます……」
玄関から右足を一歩踏み出す。
心臓の音は鳴り続けている。
私は、戦場へと向かう恋の戦士だ————




