貸別荘での事件とある若者
五月中旬、丈一郎の住む高原の別荘地は昼は気持ちの良い季節だが、夕方から夜にかけてはストーブがまだ必要となるほど冷えてくる日もあった。しかし、高原植物の花が概ね咲き始めていて、暖かな日中には別荘の庭の石楠花の満開を喜び、サラサドウダンが可憐な紫の釣鐘のような花を咲かせているのを楽しく眺め、夜にはまだストーブをつける毎日を送っていた。自宅から植え替えをするために持ってきた南天やレンギョウや紫陽花も土に馴染みつつあるようだった。一方、彼は当初の予定通り、貸別荘の清掃・管理のアルバイトを始めていた。オーナーが経営する五棟の貸別荘は、彼の別荘から車で十分ぐらいの距離にある北軽井沢と区分される別荘地帯で、隣の別荘とは結構密度の高い自然の樹木で仕切られており、山間の別荘の佇まいを醸し出す、なかなかに素敵なロケーションの別荘だった。室内の家具や調度品は山小屋風だったり、おしゃれな木製の物ばかりで、宿泊代はかなり格安でだったので、家族連れや友だち同士で泊まり過ごすにはコスパのとても良い貸別荘だと感じていた。
五月下旬になり丈一郎も貸別荘の清掃・管理の仕事も板についてきており、大分慣れてきた頃に思わぬ事件が起こった。彼がたまたまシフトに入っていない日の出来事で、数日前に清掃を担当し、丁寧にチェックしたはずの別荘のキッチンで、冷蔵庫と電子レンジが壊れていて使えないとのクレームの連絡がオーナーに入ったのだった。オーナーから携帯に連絡があり、丈一郎がチェックを怠ったことを当初疑われるが、
「そんな事はありません。先日、清掃した際に電子レンジと冷蔵庫のチェックをしましたが、特に以上はなかったですよ」と回答した。しかし、オーナーは対応のため現地に向かうとの事だった。そして、一時間ほど経ってオーナーから連絡があった。状況を調べると、宿泊客である若者たちが昨晩の夜中にレンジを利用した後に、ソファを勝手に移動し、その際に電源ケーブルを引っかけて抜けたのが原因だった。
オーナーからは「すいません。疑うような事を言ってしまって」と軽く詫びられたので、
「いいえ、故障ではなくて良かったです。明日は私の担当なのでチェックアウト後の整頓と清掃を念入りにやっておきます」と明るく答えたのだが、トラブルはこれでは終わらなかった。
この日の午後三時頃、同じ貸別荘でさらにトラブルが発生する。昨日に続き連泊で同じ若者グループがこの貸別荘を利用し、野外テント型サウナのロウリュウ機能が暴走し、水蒸気が異常発生したために利用者が軽度の火傷を負うトラブルが発生したとの事で、またもオーナーに連絡が入った。当該サウナ内には一定以上の水の補給は危険なことを注意喚起していたが、利用者が面白がって規定値を超える水の補給をしたのが原因のようだった。この若者グループには東京郊外の某私立大学の法学部学生も含まれていて、中途半端な知識を盾に”業務上の過失”であると言い張り、損害賠償請求を実施すると息巻いた。さもなくば、SNSにこの貸別荘は悪質な経営をしていると投稿する、と恫喝めいた発言を繰り返したそうだ。
「そうなれば評判はガタ落ちして、こんな貸別荘は終わりだな」と、若者たちは口々に喚きだしたのだ。
対応をしていた貸別荘のオーナーは驚いて一応は平謝りするが、若者たちは所定の料金を支払わないと宣言し、さらに示談金を要求してきた。オーナーは一人で対応するのは不利だと考え、誰かに相談しようと思い、すぐに駆けつけてくれそうな丈一郎の顔が浮かび携帯に電話をした。丈一郎は電話で相談を受け、簡単に状況を聞いた段階で、いわゆる“カスタマーハラスメント”ではないかと思い、近所に住む法律に詳しい牧野にすぐに相談する。牧野と電話で短時間に状況確認と現地住所の確認と方針を決めて、丈一郎の別荘で落合い、ビジネスで使っていたジャケットに着替えて現地に向かうことになる。現地に向かう車中で牧野は
「念のため弟に連絡したら、最近カスハラ被害に遭っている旅館や貸別荘のオーナーからの通報が増えているので、もしかしたらそれかもしれない。それで一応、弟も現地に向かうと言っていた」と頼もしい支援もありそうで丈一郎は牧野を「流石!」と褒めたものの、「でもいきなり警察が乗り込むわけにはだろうから、まずは冷静に状況を確認しよう」と対応方針を合意した。
二十分後に早速現地に着くとオーナーが申し訳なさそうな顔で出迎えてくれ、丈一郎は牧野を「私の友人の法律に詳しい牧野さんです」と紹介した。挨拶はそれだけにして若者達の待つリビングに入ると、二人は質の悪そうな人相にげっそりするが、それをおくびにも出さずに、若者たちにわざと低姿勢を装い、
「私の名前は肥後丈一郎です、この別荘の管理をお手伝いしています。そして、彼はこのような法律問題に詳しい牧野先生です」 これは嘘ではない。彼は多くの企業間取引における法律問題を解決している。
牧野はその紹介に呼応して、まるで弁護士か教授であるかのような威厳のある態度で、双方をリビングの山小屋風の雰囲気の木製テーブルを挟んで、向かい合わせに座るように手で指し示した。そして、若者たちに対して
「この貸別荘のサウナを利用中に火傷をされたとのことですが、詳しくお話しを聞かせて頂けますか?」
実は牧野は司法試験には合格しているが、弁護士にはならずに企業で訴訟を含む法律問題を担当していた百戦錬磨の実践的な専門家なので、経験が醸し出すそれなりの威厳がある。学生たちもスーツ姿の二人に多少たじろいだ様子で、丈一郎達の作戦が少し奏功したように思えたが、相変わらず貸別荘側の瑕疵であることを主張し、自分たちの非は認めず、かなり乱暴な態度で賠償請求のような要求をしてきた。一方でオーナーも味方が増えたと感じたのか、さすがに反論めいたことを言うようになり、双方の主張は平行線をたどる。丈一郎は無論オーナーサイドで話を聞いていたが、牧野は数分後にはなぜか窓から見える位置に移動し、立ったまま話を聞いた。彼はそろそろ到着するはずの弟を含めた警察官の状況を密かに観察していたのだ。丈一郎は彼らとの話を始めるとすぐに、例の熟考ポーズを取った。その時、この若者達が自分たちに向かってくることをイメージしていた。例の未来予想のような頭の中でのイメージだが、ただ、さほどに恐怖は感じてはいなかった。
リーダー格らしい若者が非を認めないオーナーの態度にイラついたような口調で、
「俺たちは言われた通りにサウナを利用してたんだぜ、そしたら急に水蒸気が溢れ出てきて、こいつが火傷をしたんだ。なあ、そうだよな」
火傷をしたという学生は少し俯きながらタオルで顔を押さえながら、
「そう、途中までは水を足して気持ち良くしていたんだけど、急に水蒸気がバアっと出てきて、顔に当たって、もうびっくりして逃げ出したんだ。暑いのなんのって」とリーダーに同調するように被害の状況を話した。牧野は「水はどのぐらい足したんですか?」と尋ねると、オーナーがその質問に被せて「備え付けの柄杓一杯で十分だとご説明しましたが、そのようにしていただけましたか?」とやや詰問口調で質問すると、リーダー格の若者が
「そう言っているだろう。あんたは俺たちが悪いと言っているのか?ふざけんじゃねえぞ!こいつは火傷したんだぞ!責任を取れよ!」と大声で恫喝するので、牧野がますます冷静な態度で
「随分乱暴な口の聴き方をするんですね。落ち着いて話し合いをしませんか?」と話すと、またもオーナーが改めて気付いたように
「確認ですが、そのタオルを外して火傷の状態を見させてもらえますか?酷いようならすぐにでも病院に行ったほうが良いと思いますよ」と言って、火傷をしたと言う若者のタオルを外そうとすると、
「あんた、ふざけんなよ!」とついにリーダー格の青年が立ち上がりソファーの向かいのオーナーを突き飛ばすように強く押した。オーナーはソファから立ち上がって抵抗しようとしたので、リーダー格の若者はさらに腕の力を入れてオーナーをソファーに向けて突き飛ばした。リーダー格の若者は残りの三人に顎で合図をしたので、三人はやや躊躇いがちにオーナーに向かって行こうとした。慌てて仲介に入った丈一郎が邪魔で揉み合いとなり、成り行きで丈一郎の顔面に彼らの一人が拳で殴りかかるという暴力を振るった。牧野は驚いた表情で居間の窓の方にさっさと逃げ、丈一郎の方は両肘で危うくパンチを避けたが、圧力で腰から崩れ転げた。窓側に行った牧野は逃げたわけではなく、窓の外に何かの合図を送り、その合図で牧野の弟牧野刑事と警察官数人が別荘のドアを開け、室内に突然乗り込んできた。ほんの十秒ほどでの出来事だった。だが、それ以上遅れるとひどい暴行事件になる可能性はあったので、絶妙のタイミングだった。
牧野刑事は部屋に入ると
「さあ、そこまでだよ。それ以上暴力を振るうと君たちも大変な事になるから、おとなしくしなさい!」と両手を挙げて、大きな声で若者達の動きを止め、リーダー格の若者の真っ直ぐに前に立った。続けて数人の警察官が別荘のリビングにあっという間に入ってきて部屋の空気が一変した。リーダー格の若者は突然警察が踏み込んできたので驚いたが、それ以上に目の前に立ちはだかった刑事の迫力に立ち竦んだ。その若者は自分は動揺して呼吸が荒くなっているのに、目の前の刑事は全く平然としているのが分かった。彼も腕力には自信があったが、争って勝てる相手ではないことは直感で分かったようだった。すぐに脇にいた警察官が他のメンバーを捕捉しようとすると、若者のうち一人は彼らを掻い潜り貸別荘から逃げようとするが、牧野刑事の指示で警官が別荘の周りを複数人で囲んでおり、暴力を振るった若者たちはすんなり現行犯で全員が逮捕される事になる。牧野は立ちあがろうとしていた丈一郎をソファーに座らせ、
「大丈夫か?」と心配して尋ねると、丈一郎は
「危うく殴られるところだったけど、咄嗟にガードしたからね。井上尚弥と戦う相手選手ほどではないけどね」と強がりを言った。
現行犯の若者達は手錠はかけられず、おとなしく三台のパトカーのそばで警察官に腕を掴まれて、首を項垂れていた。警察官の一人が無線で本部に連絡をしている様子で、それを聞き終わると牧野刑事が若者四人に対して、「暴行の現行犯と複数件の恐喝の疑いで逮捕する。詳しくは署で聞かせてもらう」と告げて、最後のパトカーが到着し、後部座席には刑事とリーダー格の青年が乗り込んでサイレンを鳴らしながら走り去った。牧野刑事と警官一人が残り貸別荘のオーナーと牧野と丈一郎から経緯と被害状況の聞き取りをした。大きな警察組織ではないので、警官も相手が牧野刑事の兄とその友人だという事は知っていて、会釈をしてから聞き取りに入った。まず、オーナーが経緯と被害内容を説明し、牧野と丈一郎がそれを補足した。暴行を受けた丈一郎に成り行きを確認し、怪我のないことを確認した。大方の聞き取りが終わると牧野刑事が、
「後で被害に関することで他に分かったことがありましたらご連絡ください。もしかしたら、設備や器具に不具合がある可能性がありますので」とオーナーに話し、牧野と丈一郎からも経緯と被害内容を確認するように、普段よりやや硬い感じで話を聞かれた。捜査中なので当たり前だが。その後、牧野刑事は帰り際にそっと
「丈さん、またまた、大変でしたね。お怪我は本当にないですよね?」と丈一郎に聞いた。丈一郎は軽く両手を広げて、
「全然大丈夫だよ。でも彼らには他にも余罪があるようだね」と指摘され、牧野刑事は
「これから署に戻って彼らの言い分と他の被害状況を整理しますけど、他でも同じようなことをやっているようです。村の若者なので困ったものです」とため息まじりに嘆きながらパトカーに乗って警察署に向かって走り去った。牧野刑事は丈一郎を最近は「丈さん」と呼ぶようになっていた。丈一郎は何故か主犯格の青年とはまたどこかで会うような気がしていた。例の顎の下に手をやりながら熟考モードに入ると、暗い嵐のような喧噪の中と、明るく白い雰囲気の中と全く違うイメージが交錯していた。良いことなのか、そうでないのか良く分らないが、どこかで再会する予感がしていた。
逮捕後警察が良く調べてみると、やはりこのグループは他の地域でも貸別荘やキャンプ場のコッテージに泊まり、どんちゃん騒ぎをしたあげくに、食器が汚れていて腹を壊したとか、包丁のメンテ状況が悪く手を怪我したとか、風呂で熱湯が出て火傷をしたとか、シーツが汚れていたとかの文句を付けて、それらをSNSに投稿すると言って脅す”カスハラ”の常習犯で、慰謝料と称して僅かだが金銭も受け取っていた事が分かった。今回は丈一郎と牧野たちが助っ人に来たおかげで、オーナーが金銭を出さなかったので、暴力沙汰になったようだった。
そして、すぐ翌日に貸別荘のオーナーは丈一郎の別荘を訪れ、
「肥後さん、昨日は本当にありがとうございました。警察にお知り合いがいたんですね。あの刑事さんと弁護士さんのお陰で助かりました」と、段ボールに入れた幾つものキャベツと珍しい野菜と果物を持ってきてくれた。
「いやあ、そんなに気を使って頂かなくても良いのに。それと、あなたが弁護士と言っている牧野は弁護士ではないんです」
「ええっ、そうなんですか!」
「はい、彼は司法試験には合格したのですが、弁護士にはならずに一般企業の法務部で仕事をしていたんです。私が牧野を先生と言ったのはいわばハッタリです。そして、あの刑事はその牧野の弟でこちらは県警の歴とした刑事なんです」オーナーは少し驚いた表情で、
「あはは、そうなんですか!それにしてもあの手際の良さにはびっくりしました」そこで、丈一郎は手の内をさらに明かし、
「後で牧野刑事に聞いたのですが、この近隣で旅館やキャンプ場や貸別荘を狙って、同様のクレームをつけお金を巻き上げるようなことを繰り返していたようで、牧野刑事はきっとその犯人たちだと思い、すぐにあのような体制を取ってくれたそうです。実は我々は貸別荘に行く前に牧野刑事にも牧野が連絡していたんですよ」と知っている情報をオーナーに伝えた。
「へえ、そうなんだ!警察なんて当てにならないと思っていたけど、頼りになる刑事もいるのですね」と言われて、丈一郎はなんだか嬉しい気持ちになった。彼もまた牧野剛をもう他人ではないと思っており、頼りになる弟のように思っていた。




