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オメルタの掟

 犯人達は県警本部に厳重な警護のもと護送され、取り調べが始まったが一族の者は誰も何も話さなかった。牧野警部補は主犯の麻山浩一が供述を始めるまでは誰も何も話さないだろうと読んでいた。そう、これは『オメルタの掟』なのだ。『血の掟』ともいう。マフィアの掟でもあるが、一族となったものは部外者からの尋問に対して沈黙し組織を守る行動をする『行動規範』のことだ。尋問や拷問を受けても絶対に沈黙することが名誉ある行いであり、この基本原則を破ると一族内で”私刑”となるのだ。ただし、一族のリーダーが話を始めればメンバーはこれに従い沈黙する必要がなくなる。牧野警部補は、麻山仁が死んだときに思い出せなかったが、この時『オメルタの掟』を扱った映画のDVDを兄と丈一郎と三人で兄の下宿で見た時の事をはっきりと思い出した。国や時代は違ってもこの規範は厳正で、破ることは自らの破滅を意味するのだ。


 そこで、担当の刑事に代わり彼が麻山浩一の担当となった。牧野警部補が担当したことで、麻山浩一が供述を始めたことを知った一族の者は最低限の供述を始めた。何せ九人の被疑者の供述なので、所轄の警部格や警部補の刑事を含め多くの刑事が投入され、四十八時間の勾留期間ギリギリまで取り調べを行い、どうにか事件の概要がほぼ把握できるレベルになった。牧野警部補が麻山浩一から事情聴取をする中で、事件中に自殺した麻山仁は浩一の実弟麻山礼二の子供で、彼には二人の兄弟がいるという事だった。そして、驚くことに長男義一は黒須不動産に騙され、借金を作りそれをなじる妻をかっとなって包丁で刺し殺し、懲役九年の判決を受けたが、刑務所で刑期を全うする前に心身喪失状態となり獄死したのだった。義一は優しい男で、子供のいない浩一は義一に一族の長になって欲しいと思っていたらしい。そして、義一には男の子供が一人いて、母親を亡くし父が収監されている間の約束で群馬元町の施設に預けられていたが、父親が獄死したためにまだ施設にいると言うことだった。また、麻山仁にはもう一人弟がいたが幼い頃に他所で養子として迎えられたが、今は行方はわからないとの事だった。名前は麻山(けん)というが、養子の話に浩一は反対していたらしく養子縁組先との交流はなかったようだ。麻山仁があれほど過酷な道を選び、自死になることを覚悟で小屋に残ったのは、愛する兄義一の復讐を果たせなかったことに対する懺悔なのかもしれない。麻山一族には他にもこの黒須不動産に騙され、土地を去ったものもいて、その恨みの深さに事件の背景が隠されていたことは明白だった。他の犯人達の供述からも似たような深い恨みにつながる話が多く出てきて、これほど大掛かりな事件を起こした動機となったようだ。牧野はそれだけではない、麻山一族の性質として、自分たちを害するものに対して協力して牙をむく、古からの体質のようなものも感じていた。そのことで一抹の不安も感じていた。


 四十八時間の勾留期間ギリギリで犯人達は全員検察に送致され、警察から検事にその身柄が移った。ここから先は検察の仕事となる。ちょうどそのタイミングで、自死した麻山仁の兄義一の子供の保護されている施設が判明した。上東市では受け入れ側も及び腰だったので、ちょうど受け入れ態勢が整っていた群馬元町の児童擁護施設で養育されているようだった。早速、牧野警部補は直接事件とは関係がないので、兄牧野巌と丈一郎に依頼して、その施設を訪れて様子を見てもらうとともに叔父である仁の残した詩を渡して欲しいと頼んだ。群馬元町にある施設を訪れ、院長に面会を申し出ると驚かれはしたが、是非会って行って欲しいと言われ早速面会した。その子は十歳と聞いたが、小柄な男の子で目が”クリッ”とした可愛い子で、施設の他の子供達と楽しそうに遊んでいた。施設の人によるとその子は発達障害であることと、母の死は病気として知らされているが、犯人が父でありその父が獄死したことは知らされていなかった。慎重に牧野と丈一郎は麻山仁という叔父さんの詩を持ってきたことを伝えたが、「叔父さんて何?」と言った感じで、その子はほとんど意味を理解していない様子だった。しかし、仁の残した詩を施設の人に読んでもらうと”シクシク”と泣き出すのだった。

「これは僕のお父さんとお母さんと僕のことだよね」と言い当てたことに、牧野と丈一郎は非常にショックを受けて、牧野は思わずその子を抱きしめた。その子の背中を優しく撫でながら、

「君はいい子だね。そうなんだよ、良いお父さんとお母さんと叔父さんがいたんだね。今度このおじさんがまた会いにきてもいいかい?」と涙を堪えながら言うと、その子は牧野の目を見ながら嬉しそうに「良いよ!」と声に出すのだった。


 施設からの帰りに車の中で牧野は丈一郎に

「俺はあの子を引き取って、面倒を見ようと思う」いきなり宣言するので、丈一郎は思わずハンドルを切り損ねそうになって、

「ええっ、本気か!?」

「ああ、あんな可愛い子を見捨てられるもんか。俺がなんとかする。これが、俺の運命なんだと思う」丈一郎は驚きはしたが、それも良いかもしれないとも思った。牧野は独身だし、暖かい弟との家もあるし、弟と彼が育てればあの子も幸せになれるような気がした。牧野はさらに

「あの子は発達障害などではなく、自ら成長することを拒否しているのだと思う。母が死に、父もこの世にいない事をあの子は知っているのだと思う。その現実から目を背けるために発達障害のように見える行動をとっているのだと思う。あの子の目は父や母を求め、あの子の心は本当に信頼できる人にしか心を開かない」そして、牧野の家につき少し本気で牧野の考えとこれからのことについて話し合った。牧野警部補はともかく、彼の奥さんや子供との関係もあるし、奥さんにも面倒をかけることになるのは必定だった。まずは、施設の責任者に会うことと、弟の牧野警部補に相談することと、その後に丁寧に奥さんに相談することを決めて話を終えた。


 秋が深まる中、冒頭にご紹介したように丈一郎は別荘地を離れ自宅のある某市に帰るが、その後の被害者達にはそれぞれの人生が待っていた。


 麻山一族の恨みを買い事件の発端となった不動産会社の社長と営業部長は、入院先の病院で回復し、二週間後には退院した。退院した二人は会社に出社し何食わぬ顔で仕事を始め、北浅間村の次に狙う地域を探し始めるのだった。そこに米川は戻ることはなく、悪徳不動産という世評を嫌がりその他の社員も一人、二人と欠けていった。


 一方、麻山仁の葬儀は一族の女性達を中心に近隣の人がわずかに訪れ、しめやかに執り行われていたが、そこに事件に巻き込まれ監禁された人質の一人岩中拳が訪れる。実は彼は仁の実の弟で、事件直後に黒須不動産の社長達が傷の手当を受け、看病されている病院をこっそり訪れた後に、そのまま兄仁の葬儀に訪れたのだった。喪主は彼の知らない人で、葬儀場に長兄の義一もその妻もいない事を疑問に感じていたが、誰も知り合いがいないので、どうなっているのか分からず途方に暮れていた。葬儀の会場の集まった人の中で彼を知る人はいないようだったが、芳名帳に書かれた「岩中拳」の記名をみて一人の中年の女性がその素性を理解する。彼女は麻山一族とは多少の縁がある人で、仁の家族の事情をほぼ全て知っており、大変同情していたのだった。彼女は葬儀場で拳に優しく話しかけた

「あなたは仁さんの弟さんの拳さんだよね?」拳は素直に「はい、そうです」と答えた。

「今度の事件の詳しいことは私は知らないけれど、本当にご愁傷様だよね。仁さんの兄さんと奥さんの時もそうだっけど。本当にこの一家はどうしてこんなことになったんだろうね、本当に」と絶句して彼女は泣き出した。拳は「やはり何かがあったんだ」と胸の痛む思いをすることを覚悟しながら、彼女から事情を聞かせてもらえるのでは思い、

「良かったら兄達の話を聞かせてくれませんか?僕は五、六年ほど前に兄たちに会っているんですが、その時は義一兄さんも義姉さんも仁兄さんもみんないたんですが、なぜ誰も居ないんですか?」それを聞いてその女性は目を見開いて、

「えっ、あなたは何も知らないの?本当に?」と訪ねるので、拳はすでに何かを察しているらしく、目に悲壮感が漂っていて

「はい、何があったんですか?」と問い返すので、彼女は拳の服の袖を持ち、隣の部屋に連れて行き、周りに人が居ないのを確認し椅子に彼を座らせ、

「私の名前は高田奈緒子たかだなおこ。義一さんと仁さんの家の近所に住んでいて、長くお付き合いがあったので大抵のことは知ってるわ。少し長くなるけど、知っていることを全部話してあげる。覚悟して聞いてね」そして、彼女から語られた長兄の凄まじい事件と獄死の顛末を聞き、彼は大粒の涙を流し嗚咽を漏らしながらも、全部を聞き漏らさないように全神経を集中するように聞き取った。そして、悲し過ぎる話しを丁寧にしてくれた彼女にお礼を言った。

「高田さん、全てを話してくれてありがとうございます。信じられないけど、受け入れます」そして、彼女に別れを告げて震える手で車のハンドルを持ち、北浅間村の彼の旅館に向かった。そして、車中で心の奥底で復讐を誓うのだった。


 事件発生後数週間は北浅間村はマスコミや取材陣が朝から晩まで居座り、人質になった人々の名前は非公開だったので、村中の人に手当たり次第に取材をするので、村中鍋をひっくり返したような大騒ぎであった。実際の事件そのものは牧野警部補をはじめとした県警の総力をあげた捜査で片付いているように見えた。警察は事件そのものの全容解明に全力を尽くしており、マスコミには必要最低限の情報しか出せない状況だったが、県警としても前代未聞の重大事件であり、県警本部長と刑事部長と捜査一課長が記者会見を受けることになった。牧野警部補は取り調べ責任者である事を理由に同席しなかったためマスコミ側も消化不良の状態が続いた。これほどの大事件が最低限の犠牲者で解決したことにマスコミも世間も大きな関心を持ったが、その立役者が現場の警察官たちだったことと、そのリーダーの牧野警部補の存在が大きかった事は知られていた。その牧野警部補への取材も敢行したが警察のガードは驚くほど固く、事件の被害者と加害者、背景や動機と経緯、関与した人たちに関する事がある程度公になるのには二ヶ月ほどの時間がかかった。


 実際の人質となった犠牲者である米川肇と姉にも取材があったが、警察や検察の指示もあり、黙秘を申し合わせていたので、取材する側は他の関係者を当たり、あまり関心や興味を惹くネタが取れずに困っている様子だった。事件後すぐに米川親子は何度も話し合いを行い、米川肇は上東市の不動産会社には戻らない決断をし、今度こそ真っ当に生きていくことを父母や姉に誓い、その夫もその言葉を信じ支援を約束するのだった。差し当たっては、姉と義兄が手配できる範囲での仕事を手伝うこととなった。具体的には村としても『最愛の丘』にある例のドライブインの再開を目指しており、老朽化した設備や建物周辺の清掃・整備をする仕事を米川は手伝うことになった。そして、再開した際にはそのドライブインで飲食のサービス提供をしたり、全体の清掃と整備をすることが役場で承認されたのだった。


 そして、ある民間人の協力も事件解決につながったことも流布されたが、当の丈一郎は面倒なマスコミ対応は御免だとばかりに、さっさと当地を後にして自宅に帰ってしまったので、牧野警部補の兄の牧野巌が取材を受けることもあった。「俺に聞かれても現場にいたわけではないから何も答えられんよ」というネタにならない内容で、マスコミも少しずつ引き潮の海のように引いていった。牧野から状況を毎日のように聞いていた丈一郎は

「牧野、この事件の背景にあるのは重い話だと思わないか?過疎化と言う怪物が潜んでいて、遂に姿を現したように俺は感じるよ。それと気になるのが事件はこれで終わりじゃないよなって感じがするんだ」と話を振ると牧野は

「ああ、俺もこのところ暗い気持ちになることがある。黒須不動産は被害者という立ち位置だけど、そんな単純な事でないと思うし、確かに麻山一族は恨みを晴らすために事件を起こしたような風潮だな。事件自体は解決に向かっているのに、弟もさっぱりしないようで、良く物思い耽っているから、丈さんに戻ってきてもらって謎解きをしてもらうかなって言ってるよ」

「やだよ、俺の別荘は冬を越せる準備はしていないからね」と丈一郎は答えた。

「それはともかく、丈さん、今回のことを記録に残しておいたらどうだろう」 との牧野の提案には

「ああ、そうだね。長い冬の間に詳しく整理してみるかな」とまんざらでもなさそうだった。


 一方、警察も人質になった人たちのフォローはしていたが、健康状態とPTSD(心的外傷後ストレス障害)の発症の疑いのある人のケアを、医療機関に協力を要請することぐらいで精一杯だった。PTSDは生死に関わるような強い体験をした後に、その体験がフラッシュバックして不安や緊張を感じてしまう病気のことだが、管理事務所に監禁された老人達。米川と姉、そして幼い子供に関しては継続的なフォローが必要であるとの方針だった。牧野警部補はじめ刑事課の数人のメンバーは県警本部長からの指示で、検察に捜査の主体が移った後も事件の全容解明に向けた情報整理に忙殺されていた。警察は本来担当ではない部署のメンバーの協力を得ながらフォローしていたが、岩中拳のフォローを担当したのは村の交通安全担当者であった。特に問題となる発言もなく、安定した状態だったと報告された。


 冬が深まり寒風が吹く日も増えるのに連れ取材攻勢も収まり、今度は長野県警を中心に黒須不動産の詐欺事件の捜査が始まっていた。しかし、詐欺と通常の取引の違いにはかなりセンシティブな部分があり、容易に多くを立証できない様子だった。何と言っても肝心な被害者である麻山一族が例の事件の主犯として拉致・監禁・逮捕の罪で起訴され、裁判を控えているので、十分な実証証拠を得れない状況に陥っていた。それでも麻山一族が収集した情報と資料も参考にしながら調査を進めたが、起訴するには弱く軽い罰則で済むような案件しか見つからなかった。黒須不動産の社長と営業部長の田代の傷も癒えて、顧問弁護士の意見もあり裁判にはならないだろうと鷹を括括っており、十一月の後半には営業を再開する準備に入った。彼らの会社の社員の数人が辞め、米川も戻って来ず、あの先輩アルバイトを急遽社員にするような状況であった。


 黒須不動産は十二月には営業を再開し、田代が毎朝社員にはっぱをかける様子を、遠くから冷淡な表情で見つめる人影があった。その人影こそ岩中拳であった。彼の目には黒須不動産の社長も田代も、事件の要因となった自分たちの悪どい商売を続け、何ら反省することのない姿に映った。彼の心には明確な殺意が宿った。彼は自分が運営する旅館に予約が入っていない”空白の二日間”を復讐を仕掛ける日と決めて、計画を立てた。この二日間は悪魔が差し出した呪いの日だった。


 岩中拳は養子として岩中家に入り、中学・高校は米川と同窓生で成績は優秀だったが、目立つ方ではなく米川ともほとんど交流はなかった。高校卒業後、大学には進学せずめっきり体力の衰えた父の代わりに旅館の仕事を切り盛りしていた。父も母もその姿を頼もしく見ていた。

「あの子を養子にして本当に良かった。本当に良く働いてくれるね」

 そして、数年後にこの事件が突然起きた。事もあろうか、働き者で優しい養子の拳が事件に巻き込まれたのだ。年老いてきた夫婦は事件の解決を心の底から喜んだ。犯人へ恨みよりも養子の安全の方がはるかに大事だった。

「事件の時には本当にびっくりしたけど、無事で良かった」と父は振り返った。

「ところで、あの話は本当ですか?あの事件の時、爆発で死んだ犯人が麻山さんの息子さんで、拳の実のお兄さんだと言うのは?」 と母は心配そうな声で夫に聞くと、

「ああ、あの自殺した犯人は拳のお兄さんだ。麻山礼二さんからあの子は頂いたんだから間違いない」 と答える夫にさらに

「あの子はあの事件のすぐ後に、お兄さんのお葬式に行ったみたいだけど、何の報告もしてくれないから少し心配していたのよ」と心情を伝えるが、心配している息子が次の事件を起こすとは年老いてきた夫婦は露ほども思っていない様子だった。


 岩中拳は事件後数回上東市に出かけた。一度目は事件発生の翌々日に不動産屋の社長と田代が入院している病院を訪ねていた。その日に兄仁の葬儀が行われそこに参列し、全ての事情を理解した。

 そして十二月中旬年の瀬が迫り、冬が深まり最低気温が零度を下回り出した頃、お客の予約が少ない日が続くある日に、拳が父母に「何日か旅行に行きたい」と言い出した。父母は日頃の彼の働きに感謝しているので、

「ああ、良いよ。ところでどこに行くんだい」と聞くと、長野に行ってくると言うので、

「前に言っていた善光寺だね」と確認するとそうだと言うので、お小遣いとして五万円を包んで渡してあげた。拳はにっこり笑って、翌日自分の四輪駆動車で出かけて行った。 タイヤは雪用タイヤに履き替えており、軽やかに走り去ったように傍目には見えた。

「あの子にも息抜きが必要だよね」と夫婦はかえってホッとして見送ったのだった。


 しかし、粉雪が舞う中、長野へ向かう山道を走る車中の彼の顔は、のんびり旅行に行く人の顔つきでは無かった。雪道に緊張しているにしては険しすぎる修羅のような表情でハンドルを握り、山道を急いでいるようだった。朝早く出たので、午前九時ごろには長野への中間点である上東市に着いた。彼は市街地にあるチェーン店のうどん屋に入り、遅い朝食のつもりなのだろう、暖かいうどんを啜った。彼にとっては当分ありつけない暖かで、普通に美味しい食事となった。そのうどんを食べ終わった後に、一旦車に戻りリュックの中身を確認した後、車をそのまま駐車場に置いたままにして歩き始めた。靴は白いスノーブーツで上着は水色のダウンジャケット、頭には黒い毛糸の帽子を被り、迷うことなくある一点を目指すように雪道を歩いて行った。


 そして、あろうことか、拉致監禁事件で人質になり、その後悪質な詐欺行為で捜査されていた黒須不動産の前に立つと、躊躇することなくオフィスに入り、フロアの一番奥の営業部長の席まで進んで行った。驚いて顔をあげた田代の胸を大きめの果物ナイフのような刃物で刺したのだった。なんら声を出さずに、死刑執行人のような冷徹さで行動したのだ。周りにいた社員はあまりのことに腰を抜かしたようになり、田代を救うどころかその場から逃げようとした。拳はその場で喚く田代の頬と肩を無惨に切りつけ、血飛沫が飛び散った。田代は喚きながらうつ伏せになった。彼はそれを見てすぐに今度は社長室の扉を乱暴に開けて、奥の机に座っていた社長に向かって走り寄り、社長が「何だお前!」と叫ぶのを無視して、机の上に飛び込むようにして刃物で社長の腹を刺した。社長は刺されたショックと痛みで机の横にひっくり返ったが、彼は机から飛び降り、うつ伏せになった社長の背中にもう一度刃物を刺した。この時も全くの無言だ。微かに息が乱れ、息を吐く音を彼自身は感じていたが、周りの社員達は余りに恐ろしいものを目にしたために、目を見開きじっと佇んでいた。


 わずか一、二分の出来事で、社長室の中から社長の呻き声を聞いて、やっと事の重大さに気づいた一人の社員が一一〇番にダイヤルして、社長と営業部長が何者かに刺されたことを通報した。拳は社長が血を流しながら腹を抑えてのたうちまわるのを確認するように暫く社長室にいたが、その後社長室を出て、営業部長に顔を向けて、これも床で呻いているのを確認してからオフィスを出て行こうとした。手には刃物を持っているので、社員は全く抵抗することなく彼がオフィスを出るのを見守った。拳は血のついた刃物をリュックに入れて背負い、やはり血飛沫を受け赤くなった水色のダウンジャケットのポケットに手を入れて、歩いて数分の距離にある朝食をとったうどん屋に向かった。十数分後、パトカーと救急車が続いて到着した時には、拳は四輪駆動車に乗って、長野方面に走り去っていた。


 救急隊員は現地に到着し、社長と営業部長の手当を始めたが、刃物は果物ナイフ程度の大きさだったらしく、しかも刺した後にさらに突き刺したりしていないため、内臓の損傷は酷くないようで、止血により命は取り留められると判断していた。田代の頬の傷は深く口の中まで達するような傷だったが、現場で救急隊員が救急処置をする間に出血はおさまりつつあり、その後すぐに救急患者を受け入れる病院が見つかり、そこへ搬送された。救急車には元アルバイトの社員二人が同乗したが、皆あまり関わりたくないのか遠慮して譲り合うようなシーンがあった。警察は事件の状況を残った数人の社員から聞き取りをして、犯人の背格好や服装を確認し、歩いて逃走したことをベースに近辺の緊急配備をした。捜査員が不動産会社から雪の中に血痕が転々と残されているのを発見した時には、犯人が逃走し三十分以上が経過しており、うどん屋にたどり着いた時には事件発生から一時間近くが経過していた。


 その頃、拳は長野に向かい車を走らせており、現場からは三十キロメートルほど離れたところまで移動していた。病院に運ばれた二人は重症ではあったが傷口を縫合でき命を取り留め、また病院で看病を受けることになる。すでに犯罪者となった岩中拳は長野市の中心街を突っ切りある大きなお寺に向かっていたのだった。そこは善光寺だった。善光寺は言わずと知れた一度でもお参りをすると極楽往生が約束されると信じられていたことから、江戸時代より「遠くとも一度は参れ善光寺」「一生に一度は善光寺詣り」などと言われてきた宗教的な聖地だった。 本尊は日本最古と伝わる一光三尊阿弥陀如来で、絶対秘仏である。岩中拳は血に汚れた手を手水ちょうずで清め、仏様に自分がした事を告げると共に、兄たちの不幸を嘆き、自分は本当に悪い事をしたのでしょうかと尋ねる。仏は何も言わないが、拳にはわかっていた。彼がした最も罪深いことは、彼を愛し、慈しみ、信頼してくれている養父母を裏切ったことだ。彼のした事を知れば彼らは嘆き悲しむだろう。下手したらそれが原因で死んでしまうかも知れない。その思いに彼は本堂の脇で泣き崩れてしまう。


 彼はよろよろと歩きながら本能的に人に見られないような建物の影で、彼にとっては幸いにも参拝者のあまり通らないところだったので、どれほどの時間をそこで泣き腫らしたのかもわからない程にそこにいた。すでに日が傾き始め頃に、参拝者から本堂のそばで若い男が倒れているとの通報を受け、パトカーが現地に到着し遠慮気味に警察官が数人彼を囲んだ。

「どうされましたか?」と一人が尋ねるとその男の水色の服には血の飛び散ったようなシミがあり、警察官は指名手配中の犯人だと思い、

「あなたが上東市で人を切りつけた犯人ですね?」と少々間の抜けた質問をすると、彼はまだ泣き顔ながらはっきりと、

「はい、そうです」と答えた。全く逃げるそぶりもなく、抵抗する事もなく彼は手錠をかけられて大人しく連行された。免許証で確認すると岩中拳と言う北浅間村の住人であったため、すぐに群馬県警に連絡するが、彼が十一月に起きた拉致監禁事件の被害者だと判明した。


 少し以前の話になるが、拳は今から六年ほど前、まだ高校生だった頃に生まれ故郷である上東市を訪れていたのだった。夏休み期間中に故郷を題材にした文章を書く宿題が出ており、思い立ってバスに乗っての一泊旅行で上東市を尋ねたのだった。彼は幼い頃に北浅間村の旅館を経営する岩中家に養子で迎えられ、故郷である上東市を離れていたのだが、生まれ故郷の記憶は鮮明だった。上東市の中心部からバスで十分ほどの実家を探し出すのはさほど難しいことではなかった。上東市の一番大きな駅から覚えていたバス停がある路線にのり、最寄りのバス停で降りて、家までの道のりは数分だったので間違えることなく実家にたどり着いた。家の門は懐かしい麻山の表札がかかっており、暫く躊躇したが思い切ってチャイムを鳴らした。インターフォン越しに「どなた様ですか?」と言う聞き慣れない女性の声がしたが、


「岩中拳と言います。麻山義一さんはいらっしゃいますか?」と尋ねると、少し戸惑った様子だったが「少しお待ちください」とインターフォンが切れた。拳が門で一、二分ほど待つと玄関のドアを開けて、懐かしい兄が現れた。長兄の義一だった。そして、すぐに次兄の仁も現れた。三人はお互いにすぐにわかり合い、二人の兄は弟の拳の方に走るように近づき、長兄義一が

「拳、よく来たな!久しぶりだな。お前、大きくなったな」と言って拳の肩を抱いた。次兄の仁は拳の頬を両手で挟み、

「お前、俺よりも大きくなったけど、顔は変わらないな」と嬉しそうに声をあげた。拳も兄たちの歓迎ぶりに感激し、思わず涙ぐんだ。その様子をインターフォンに出た若い女性が、驚きつつも嬉しそうに見つめていた。義一の妻であった。その日彼は兄たちと懐かしい実家で本当に楽しい夜を過ごした。父と母はすでにこの世にはいなかったが、彼は実の兄弟とその妻に囲まれ、心の底から家族団欒かぞくだんらんを楽しんだ。兄たちからは今の暮らしぶりを聞かれ、養子で入った家の養父母が優しくしてくれていることや高校での生活を語った。翌日、家に帰る拳を二人の兄は車で北浅間村まで送ってくれた。流石に彼の家である旅館を訪ねるのは躊躇ったが、何か困ったことがあれば連絡するように彼に伝えて、抱き合って別れを告げたのだった。


 また、岩中拳は実は貸別荘でのカスハラ事件を起こした三人とは高校の同窓生で、米川とは中学・高校の同級生でもあった。彼は学年で一、二位を争うほど成績が良かったので、大学進学するものと思われていたが、養子である引け目と父の体調不良を考え、しばらく実家の手伝いをしていた。彼の実家の仕事は旅館経営で、地元では大きな旅館の一つで、「北浅間旅館」と言う名前だった。米川とは同じクラスになった事もなく、あまり話したこともなかったので、お互いに意識する間柄ではなかった。彼らに狙われたのは別の旅館だったが、人ごとではなく腹立たしい出来事で、犯人が自分の知っている同級生だったことを知った時には大変驚いた。そして、あの悲惨な事件の週に問題の不動産屋の社長以下数人がよりによって彼の旅館に滞在したのだった。その中に同級生の米川がいた事にも驚いたし、彼らは宿泊中に自分の父にも無用なリノベーションの営業をしかけ、父が信じかけていた事にも驚愕したのだが、父に信頼されている自分が拒否すれば断れると思って説明会に参加し、不幸にも事件に巻き込まれてしまった。


 そして、説明会当日に犯人の中に実の兄の仁がいたのを目撃した時には、思わず声を出しそうになった。犯人達は黒須不動産のメンバー以外にはあま余り関心が無いようで、拳の存在にも気づかないようだった。拳も以前はかけていなかった茶色の縁の眼鏡を掛けていたので兄の仁にも分からなかったのかもしれない。そして目の前でその兄の壮烈な死に方に遭遇した。これほどの偶然があるのだろうか?これほどの不幸があるのだろうか?そして、拳もまた麻山一族と血がつながっているがゆえに、『オメルタの掟』に従うしかなかったのだろう。


 仁にとって長兄義一は優しい頼れる人であり、拳にとっての長兄義一は尊敬する親のような存在であり、仁は一番心を許せる兄弟だったのだ。拳は事件後こっそり仁の葬式に参列し、兄達の知り合いの女性から全てを聞いてから旅館に帰ったのだが、近隣の人達はこの村で起きた事件の話で持ちきりになり、旅館を訪れる報道陣の客の話を総合すると、事の発端はあの悪徳詐欺不動産である事が見えて来て、彼の長兄もその犠牲者であり、次兄の仁が自ら爆死し、彼の父さえも彼らは騙そうとしていたのだ。拳にとっては到底許せることではなく、養父母の愛を思うと心が痛むが、必ず復讐をすることを誓う気持ちには誰しも理解はできるだろう。そして、この事件が起きたのだった。


 長野県警に応援を頼まれた牧野警部補は岩中の家族を訪れ、彼の犯行の事実を老父母に伝えると、「絶対に何かの間違いだ」と彼らは信じなかったが、彼が長野の善光寺に旅行に行ったことが確認でき、免許証と本人が岩中拳だと名乗っていることでやっと信じた様子だった。そして、牧野警部補はこの老父母から彼が実は養子で、元は麻山一族で死んだ仁の弟だと知る。拳が別荘管理事務所の事件後すぐに、麻山仁の葬式に行ったようだとの証言も得られた。そこで、彼は事実を知り、復讐のために犯行に及んだのだろうと牧野は確信した。応援のため長野県警に向かう若い警官が運転するパトカーの中で、牧野は暗い気持ちで己の甘さを悔いる。麻山仁の葬式に自分も行っていれば拳の存在に気づいたのに。そして、なぜ全員の身元をきちんと調べなかったのかと。それをしていれば事件は防げていたかもしれないと。別荘管理事務所の大事件が解決したと思い油断したのかと思い、自分を責めた。


 牧野剛はその日は長野に泊まり、翌日長野県警での仕事を終えて善光寺に向かった。私用に近い事情ではあったが、どうしても行っておかねばならないと思いその荘厳な寺を訪れた。岩中拳が潜んでいた場所の黄色と黒の規制線はすでに外されており、牧野はそこに佇んだ。そこには麻山拳の”涙と思念”がまだ残っているような気配がして、思わず彼は身震いした。そして、本堂に時間をかけてお参りをした。こんな不幸な事を二度と起こさないように精進することを誓い、死んだ麻山仁と麻山義一とその妻の安らかな眠りを祈ったのだった。


 その日、家に帰った剛は兄と妻に事件の顛末を丁寧に伝えた。無論、公表されていることとされるであろうことを中心にだが、これほどの不幸な偶然を予想できなかった自分の不甲斐なさを嘆いた時には、兄も妻も心から慰めた。

「剛よ、お前も俺も神ではない。神様や仏様でも祈るしかできない。ましてや俺たちには最善を尽くすことしかできないよ。お前は本当に良い刑事になったと思うし、これからもっと良い刑事であり、良い夫で良い父になるよ」と言われ、牧野剛は声に出さずに涙を流した。

 その後、麻山一族の長である麻山浩一は牧野と接見中に、岩中拳こと元の名を麻山拳が黒須不動産を襲い社長と田代を刃物で刺した事件を知る。浩一は最初は岩中拳も麻山拳も誰だかわからない様子だったが、彼の実弟麻山礼二の三男だと知って驚き、そしてあの事件の人質の中に拳がいた事を知り、長兄の義一と次兄の仁の復讐だと供述していることを聞いて愕然としていた。

「何という事だ!礼二の一番下の子の拳にまでこんな事をさせてしまったのか!俺があいつらを一人で仕留めていれば、他の者は罪を犯さずに済んだものを・・俺が老いたせいで・・」と叫び、彼も泣き崩れた。牧野警部補は

「あんたが暴力には暴力で応えるような指導をしていたからじゃないのか?」と言いたかったが、あまりの絶叫ぶりに拘置所の担当官が驚いて部屋に入って来たので、言えずに心の中にそっと仕舞った。


 翌日、牧野警部補は丈一郎に直接この顛末を詳しく電話で伝えた。すると丈一郎は、

「それだ!・・私も何かが引っかかっていたんだ、胸の奥の方に。剛くんの早く戻ってこいと言う要請を、本気で受け止めておけば良かったんだ。痛恨の極みだ!ああ、申し訳ない」と嘆き、声を振り絞った。牧野警部補は、

「丈さん、あなたのせいではないですよ。警察の甘さだと思います。というか、私の油断だと思います」

「剛くん、これは麻山一族の『オメルタの掟』を、麻山仁も岩中拳も忠実に守り、実行したのだよ。彼らに脈々と流れる、「血の掟」なんだよ」

 牧野警部補は、その指摘に言いようのない恐怖を感じ、「これで終わりにしないといけない!」と強く心の奥底で誓った。

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