第72話 境界線――救うと決めた理由
夜が明けきる前、レミアの街は薄い霧に包まれていた。
宿の中、ミナは窓辺に立っていた。
昨日の声、怒号、恐怖、拒絶――すべて胸に残っている。
けれど、涙はもう出なかった。
(……わたしは怖い。
でも、それだけじゃ終わらせたくない。)
背後で扉が静かに開く。
カイルだった。
「眠れなかったか?」
ミナは首を横に振った。
「……眠るより、考えたかった。」
カイルは隣に立つ。
沈黙が少し続き、それから彼が言った。
「考えた答えは?」
ミナは深呼吸する。
胸の震えを押さえるのではなく、
受け止めるように。
「――救いたい。」
カイルの視線がわずかに揺れる。
ミナは続けた。
「怖いって言われても。
拒絶されても。
理解されなくても。」
拳を胸元で握る。
「“救いたい”って思った心まで否定されたら……
わたし、わたしじゃなくなる。」
カイルはゆっくり頷いた。
「それが――お前の答えか。」
「……うん。
わたしは……
“理解されたから救う”んじゃなくて……
“救いたいから、救う”。
それだけ。」
その瞬間、カイルの口元に小さな笑みが生まれた。
誇りのある笑み。
「なら、行動だ。」
ミナは顔を上げる。
「行動……?」
「言葉だけなら、誰でも選べる。
行動した者だけが――選んだことになる。」
ミナは息を吸った。
――その時。
宿の外から、叫び声。
「誰か!! 助けてくれ!!!」
ミナとカイルは同時に振り向く。
窓の外――
路地裏から煙と魔力の気配。
ラウルが駆け込み、叫ぶ。
「町外れの作業場だ!
拒絶派が魔物よけの結界を壊した!
中にまだ人が――!」
リアが短く分析。
「魔物が侵入しています。
避難は間に合いません。」
ミナの心が跳ねた。
(……救える。)
カイルが問う。
「行くか。」
ミナは答えた。
迷わず。
震えていても、確かに。
「行く。」
◆町外れの作業場
現場に到達すると、そこは混乱の渦だった。
破壊された結界。
倒れた木材。
怯える人々。
その中心に――魔獣。
鼻息荒く、牙を剥き、今にも襲いかかろうとしている。
泣き叫ぶ子供の声。
「いやだ……誰か……!」
その声が――ミナの背中を押した。
ミナは踏み出す。
「止まって。」
魔獣の動きが、わずかに緩む。
ミナはさらに近づく。
「逃げなくていい。
怖がらなくていい。」
魔獣が唸る――
だが、攻撃しない。
呼吸が重くなる。
体内が熱くなる。
(この力は……支配じゃない。
お願いでも命令でもない。
――寄り添う力。)
ミナは静かに語りかける。
「ここは危ない。
あなたも、傷つきたくない。
戻ろう。森へ。」
風が止まったような静謐。
魔獣は――ゆっくり、頭を下げた。
そして踵を返し、森の方向へ走り去った。
残るのは、沈黙と震える息。
人々がゆっくり近づき――
そのうちひとり、先ほど泣いていた子供が
ミナの服をそっと掴んだ。
小さな声。
「ありがとう……」
ミナの胸が熱くなる。
(救えた……
わたしの意思で。)
しかし。
その静かな余韻を破る声があった。
拒絶派の男が叫ぶ。
「見たか!?
これだ!
力だ!
あいつは魔を従えた!
制御できる存在じゃない!!」
空気が再び揺らぐ。
ミナはその男の声に振り向く。
でも――もう怯えてはいなかった。
「違う。
従わせたんじゃない。」
ミナははっきり告げた。
「わたしは――助けただけ。
それは魔物も、人も、同じ。」
拒絶派は言葉を詰まらせる。
カイル、リア、ラウルが背後に立ち――
空気が変わる。
ミナは最後に言った。
「理解されなくてもいい。
でも――押しつけられる答えで生きたくない。」
その言葉は、叫びではない。
祈りでも、抗いでもない。
──選択。
その瞬間。
街の空気が変わった。
言葉ではない。
視線でもない。
“受け止められた沈黙”。
世界が――ミナの意思をひとつ認めた瞬間だった。
──第73話へ続く




