第68話 第一の訪問者――帝国式礼儀
昼前。
宿の玄関前に、異様な緊張が走った。
鎧でも兵でもない。
しかし――空気だけでわかる存在感。
すれ違った住民たちが思わず距離を取り、声を潜める。
「……帝国の服……?」
「いや、あれは外交官の紋章だ……」
「まさか……本当に来たのか……」
ミナが階段を降りかけたとき、
カイルが手で制した。
「下りるな。
“呼ばれるまで動くな”。」
その声は落ち着いていたが、鋭さがあった。
玄関の扉がノックされる。
コン、コン。
それは威圧ではなく、礼儀そのもの。
宿の主人が緊張しすぎて声が裏返る。
「ど、どなた……でしょう……?」
扉が開いた。
そこに立っていたのは――
深い緋色の礼服を纏った人物。
年齢は三十前後。
青みがかった黒髪、整った所作。
肩章に刻まれた装飾は、帝国高位官職の証。
その人物は深く頭を下げた。
「――帝国主席補佐官、
フェリクス・ラインベルク。」
声には力がある。
しかし押しつけがましくない。
「ひとつお願いがございます。
“ミナ・シュメール殿との謁見”。」
その言葉に宿の空気が震えた。
(……わたし……名前で呼ばれてる……)
階段上から覗いたミナの胸がざわつく。
「殿」――否定も賛美も含まない言葉。
純粋な敬意。
フェリクスの視線がゆっくり階段へ向く。
ミナと目が合った――わけではない。
“探知ではなく、存在を確信して見た”。
「……そこにおられますね。」
ミナの背が伸びる。
視線に押される感覚ではない――試される感覚。
カイルは階下へ降り、ミナの前に立つ。
「用件は。」
フェリクスは答えを曇らせない。
「交渉です。
帝国は、ミナ殿を保護対象ではなく――
交渉相手として扱います。」
リアの目が鋭く光った。
「つまり、同等として取り扱うと?」
フェリクスは頷く。
「はい。
彼女を“力ある存在”として承認し、
本人の意思決定を尊重する方針です。」
ミナの心がわずか震える。
(……わたしの意思……尊重……
そんなふうに言われたの、初めて……)
しかしフェリクスは続ける。
「ただし――
それは同時に、あなたが責任を持つ立場になるということでもある。」
重い言葉。
けれど、逃げ道ではない。
ミナは階段を降りる。
ゆっくり、一段ずつ。
カイルは止めなかった。
フェリクスは一歩前へ進み、右手を胸にあてた。
「初めまして、ミナ・シュメール殿。
ここまで来るのに、きっと多くの選択があったでしょう。」
ミナは深呼吸し、答える。
「……いいえ。
まだ何も選んでません。」
フェリクスは小さく微笑んだ。
「ならば――選ぶ前に、知ってください。
世界には“受け入れる意志”も存在するということを。」
その瞬間、ミナの胸に灯るものがあった。
恐怖ではなく――安堵でもなく。
「……話を聞きます。」
フェリクスは深く頷いた。
「では――正式に伝えましょう。」
視線がミナへ向く。
「帝国はあなたを――
“災禍”ではなく、
――“未来の可能性”として扱う。」
その言葉は、宣戦布告ではなかった。
しかし、確かに――世界の意思のひとつだった。
◆宿の裏で
その光景を、
一人の少女が遠くから見ていた。
白衣、乱れた髪、興奮ぎみの呼吸。
研究者だ。
彼女の唇がゆっくり吊り上がる。
「やっぱり……価値がある。
世界が動いて、帝国が先に触れるほどの存在。」
そして囁く。
「――なら、実験が必要。」
その言葉は風に消えた。
しかし、方向だけは定まっていた。
“ミナのもとへ”。
──第69話へ続く




