第63話 さざ波の操舵――噂を泳ぐ者達
市場から帰る途中のことだった。
遠巻きに視線を投げる者たちの間を、
ミナは黙って歩いていた。
(……救ったのに。
それでも、怖がられる。
それが現実。)
でも――
あの少女の命は守れた。
それだけは揺るがない。
ラウルが小さな声で励ます。
「ビビってるやつもいるが……
『助かった』って言ってる連中、ちゃんといたぞ。」
リアが冷静に補足する。
「そしてその声を拾おうとする者が、
すでに動き始めています。」
ミナが顔を上げる。
リアは一枚の紙を差し出した。
それは、路地裏の壁に貼られていたもの。
――『救いの少女ミナは、我らと共に未来へ』
――『恐れるな、導きを選べ』
――『署名・賛同行動については以下へ』
署名欄にはもう数十の名前が並び、
下部には関係団体の印章。
「これって……」
カイルが紙を挟み込み、短く断じる。
「王国寄りの“支持者派閥”。
奴らはミナを 象徴 に仕立て上げようとしてる。」
ミナは思わず震える。
「象徴……?
わたしが……?」
リアが眼鏡を押し上げながら説明する。
「“救世”は人々を惹きつけますが、
同時に 道具 として扱いやすい。
彼らは誘導のための“主語”が欲しいのです。」
ラウルが苦い顔をする。
「つまり、また“選択させるふりして囲い込む”ってわけだな。」
ミナは息を吸い込み――
喉に重みを感じながら、呟いた。
「……選びたくない。
誰かの意図で未来が決まるなんて……。」
カイルは、ミナを守るように隣に立ち、言う。
「安心しろ。
ミナの未来は、ミナだけが決める。
どれだけ世界が急いでもな。」
わずかにミナの表情が和らぐ。
しかし――
その刹那。
シュッ。
空気を切る音と共に、
小さな紙片がミナの足元へ落ちた。
手紙――否、通達。
拾い上げると、
そこには一行だけ書かれていた。
“救済を選べ。恐怖を拒め。”
――レミア教会臨時評議会
リアが目を細める。
「教会側も動きましたね。
“助けるなら仲間になれ”という、直接的な圧力です。」
ラウルが吐き捨てる。
「なんだよ、救済サークルでも作る気か。」
ミナは紙を見つめ――
ゆっくり握りしめた。
破らない。
捨てない。
ただ、握るだけ。
(……どの声も――わたしに“答えを決めさせたい”。)
その瞬間――
背後から。
まるで風に混じるような声。
「答えは焦らなくていいよ、ミナ。」
ぎくりと振り向くと――
そこにはアリアが立っていた。
どこからともなく現れ、
街路の真ん中、ミナを真正面から見つめている。
アリアは微笑む。
優しく、穏やかに。
しかし――その目は曇りがなかった。
「――でも、どれかは選ばないと。」
ミナの喉が固まる。
アリアは周囲の壁に貼られた紙を一枚剥がし、
指先でひらりと振りながら言った。
「“支持”。
悪くないじゃない。
あなたが救った命が証明してくれる。」
その声は誘いではなく――確信だった。
そして目だけが言っていた。
「選んで。王国を。」
カイルがアリアの前に立つ。
「また勝手なストーリーに巻き込む気か。」
アリアは微笑を保ったまま言う。
「違うわ。
ミナにとっての“楽な道”を作ってあげようとしているだけ。」
リアは切り返す。
「選択肢が“楽か苦か”しかない時点で、
選択ではありません。」
アリアの瞳が、ほんの少しだけ冷えた。
「……厄介な子ね。」
ラウルが肩に手を置き、ミナを庇う。
「お断りだ。」
アリアは小さく息をついた。
そして告げる。
「じゃあ――証明してみせて。
あなたが選ぶ未来が、“正しい”って。」
その声は優しさの仮面を被った宣戦布告。
風が吹き抜ける。
アリアは踵を返し――
人混みに溶けていった。
ミナは拳を握る。
(正しいとか、間違いとかじゃない。
でも――
“自分で決めた”と言える未来が欲しい。)
静かに、でも確かに。
ミナは一歩、前へ進んだ。
──第64話へ続く




