第55話 “ただいま”の温度――優しさの中に沈む影
扉がゆっくり開く。
そこに立っていたのは――
濡れた外套に身を包んだ少女。
栗色の髪。
柔らかな瞳。
昔、ミナが泣いたとき、真っ先に抱きしめてくれた相手。
アリア。
ミナは言葉を失った。
アリアはふわりと微笑む。
「ミナ……久しぶりだね。」
その声は昔と同じ。
温かくて、人を安心させる優しさの音色。
ミナが震える唇で言った。
「……ほんとうに……アリア?」
アリアは頷き、ミナの頬にそっと触れた。
「うん。成長したね。
前より……少し大人になった。」
その瞬間――
ミナの胸の奥が熱くなった。
嬉しい。
安心した。
ここに戻れる気がした。
思わずミナは抱きついた。
「……アリア……!」
アリアは優しく受け止めた。
背中をぽん、と叩きながら。
「大丈夫。
怖かったでしょう?
ひとりじゃなかったのに、ひとりみたいで。
期待されて、責められて……それでも歩いたんだよね。」
ミナは息を震わせた。
(……どうして……全部言えるの……?)
アリアは微笑んだまま言葉を続ける。
「強くなったね。」
その声は確かに褒めている。
でも――
カイルがわずかに表情を固めた。
リアは息を止め、視線が鋭くなる。
ラウルは、じっとアリアを観察していた。
◆優しさの中で揺らぐ境界
アリアはミナの手をとり、室内に入りながら言う。
「ここまで、よく頑張ったね。
私、心配してた。」
ミナは素直に微笑むことができた。
「……ありがとう。
そう言ってくれるの……嬉しい。」
アリアは椅子に座り、膝を揃えてミナを見つめた。
昔と同じ。
でも――
その視線は少しだけ“観察”に似ていた。
「ミナ。
あなたが力を持ってしまったこと……
本当は、嬉しくなかったでしょう?」
ミナは反射的に俯いた。
「……怖かった。
いまも、少し。」
アリアは頷きながら、指先でミナの手を包む。
温かい。
でも――温度が均一すぎる。
「うん。
わかるよ。
責任は重い。
選ばれるっていうのは……幸せとは限らないもの。」
ミナは震えた声で返す。
「……アリアは、怒ってない?
わたしだけ……こんな力を持って……
置いていくみたいで……」
アリアは笑った。
優しく、救いのような笑みで。
「怒る?
そんなことしないよ。
ミナは“選ばれた”んだもの。」
ミナの胸が少し痛む。
(“選ばれた”――またその言葉。)
カイルの眼差しが鋭くなる。
ここで、違和感が形になる。
アリアは柔らかい声のまま、ひと言落とした。
「ねぇミナ。
その力……あなた一人で持つ必要、ある?」
空気が冷たく揺れた。
ミナはゆっくり顔を上げる。
アリアの目はまだ優しい。
でもそこには――**懇願でも嫉妬でもない、“意図”**がある。
アリアはひどく自然な調子で続けた。
「もし怖いなら……
もし迷うなら……
わたしと一緒に――一度、王国へ戻ろう?」
ミナの指がピクリと動いた。
胸の奥で、なにかがざわつく。
アリアの声は甘く、穏やかで、逃げ場を与える。
「あなたはひとりじゃなくていい。
ね?
みんな、ミナのことを……心から歓迎するよ。」
その言葉は救いの形をしていた。
でも――
どこか“誘導”の匂いがした。
ミナは小さく息を吸い、問い返した。
「……“わたしが戻る”ことで、誰が喜ぶの?」
アリアは微笑んだまま答えない。
それが答えだった。
ミナの心が――ゆっくり揺れる。
そのとき。
カイルが静かに間に割って入った。
「悪いが――答えは急ぐな、ミナ。」
アリアの瞳が、わずかに細くなる。
カイルは続ける。
「今の質問は、“ミナへの提案”じゃない。
未来の方向性の誘導だ。
違うか?」
アリアは笑みを崩さず、静かに返した。
「あなたは……邪魔ね。」
ミナの心臓が跳ねる。
空気が変わった。
優しさが、薄い膜のように裂け――
その奥の本音が覗いた。
アリアはミナに向き直り、もう一度柔らかく言う。
「――ミナ。
わたしたちなら、“あなたの未来”を守れる。」
優しい声。
でも、
それは約束ではなく――条件。
ミナは震える息を吐いた。
「……アリア……」
答えはまだ出ない。
でもその瞳に迷いと、わずかな拒絶が混じっていた。
雨音が強くなる。
世界は、返事を待っている。
──第56話へ続く




